第19話『青い少女の偏愛』
《ビビアンの世界》
ぼくは昔、水だった。
比喩じゃない。液体だったんだ。地下を流れて、流されて、たまに穴や窪みに溜まって、また何処かに染み出して移動していく、そんな存在だった。
まあ、川や湖にある本物の水ではなかったんだと思う。ただの水に意思も思考もありはしない。ぼくみたいに餌を食べたりしないし、お昼寝もしない。
本当の正体は、液状の魔物とか、たぶんそんな感じだろう。それっぽいのがいるらしいし。いまいち実感がないけど。
ただ、それも昔の話だ。今のぼくじゃない。
ある時、気がついたらぼくは世界に生まれていた。
人間の体を持って、目で物を見て、耳で声を聞いていた。
肌があって、手足があって、顔もあって、はっきりとした姿があった。
自分が自分だと、最初はわからなかった。思い通りに動く変な色のものがあると思った。それが自分だと気がつくまでに、ずいぶん時間がかかった。
訳もわからないまま地面にぺたりと座っていると、目の前に男の人がやってきて、唐突に叫んだ。
「ああ、ティー。またこの世に生まれてきてくれたんだね。成功だ。ぼくはついにやったんだ!」
端的に言えば、狂人だった。
ぼさぼさの髪。焦点の定まらない目。こけた頬。よだれを垂らした口。かさかさに乾いた唇。伸びっぱなしの髭。どこからどう見ても、まともな人ではなかった。
その時のぼくは、なんとも思ってなかったんだけどね。はじめての五感に戸惑いながら、ただぼーっとしていた。
男はぼくの体を抱きしめて、長い間泣き続けた。
疲れるまで泣いていた。その時のぼくでもちょっと同情しちゃうくらい泣いていた。
つらいことがあったんだなって、思った。ぼくは水だからつらいことを経験したことがなかったはずなのに、何故かそう思った。
男はぼくに抱きついたまま、押し倒してきた。
口付けをしようとした。たぶんだけど、その先にある行為もしようとした。
今ならその意味がわかるけど、その時のぼくは何にも知らなかったから、無抵抗だった。
唇を触れ合わせる寸前で、男は離れた。
何かに気がついて、確認しようとした。
頭を持ち上げて、目をパチクリさせて、ぼんやりとこう言った。
「お前、ティルナじゃないのか?」
聞き覚えがなかったから、ぼくは何も反応できなかった。
……それからしばらく、男は暴れ狂った。
「あの野郎、騙しやがったな」とか「こんなはずじゃなかった」とか「悪魔なんかクソ喰らえ」とか、色々なことを喚いていた。
たまにぼくの方にも罵詈雑言が飛んできた。例えば「ティーをどこにやった」とか「魔物のくせに」とか「なんでこんなに似てるのに」とか。
ぼくはその男を見て、可哀想だと思った。事情はわからないけど、落ち着かせてあげようと思った。
逃げようと思わなかったのは……なんでだろうね。人間なんて魔物にとっては餌みたいなものなのに、あの時のぼくはどうして襲おうとしなかったんだろう。
とにかく、ぼくの中にある何かが、この男の人を慰めてあげたいと、そう囁いたんだ。気まぐれだったのかもしれない。
それでぼくは、唯一知っている愛情表現を男に返した。
別に大したことはしていない。ただそっと抱き締めただけだ。男がしたことを、やり返しただけだ。
ぼくの腕の中に収まると、男は嘘みたいに冷静になって、暴力も暴言も振るわなくなった。忘れていたものを思い出したような、本当の自分を取り戻したような、そんな感じだった。
狂気がなりを潜めて、一人の人間がそこに現れた。
男はぼくの肩を掴んで、顔を見て、言った。
「君は本当に、ティルナじゃないんだね?」
ティルナが何かはわからないけど、とりあえずぼくは俯いた。
体の奥底にある何かがその名前に反応した気がしたけど、漁っても出てこなさそうだから諦めた。
「ぼくはノーグ。職人で、旅人だ。君の名前は?」
ぼくは名前という単語の意味がよくわからなかったから、また首を横に振った。
ノーグという男はシラミだらけの頭を掻いて、ぼやいた。
「名前がないのか。今生まれたってことかなぁ。仕草は人間なんだけど……。ぼくが名付けていいのか?」
その男が何を言っているのかさっぱりわからなかったけど、不思議と嫌な気持ちはしなかったから、賛成しておいた。
ノーグはぼくに『ビビアン』と名付けた。
ティルナに娘が生まれたら、そう呼ぶ予定だったそうだ。
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《ビビアンの世界》
ぼくは洞窟の中でノーグの世話になった。
ぼくは未熟だった。水の魔法は自分の指のようによく操れたけど、他は全然ダメ。
水分が多い洞窟にいれば負けることはなかった。ぼくこそが頂点だった。でも外は水が少ないからそうもいかなくて、足止めを食らったわけだ。
ノーグと共に生きるためには、一刻も早く成長する必要があった。
それに、ぼくははだかんぼだった。そのまま外に出たらまずいことになるらしい。魔物はともかく、人間は服というものが必要なんだそうだ。
ノーグがそう言ったから、ぼくはそれに従って、洞窟の中で過ごすことにした。
声の出し方を教わって、社会勉強をして、魔法を教わって。そうやってぼくは少しずつ、育っていった。おつむが立派になっても、体の大きさはちっとも変わらなかったけどね。
「人間の言葉を知ってるんだな」
ある時、食事時にノーグはそう言った。
ぼくは彼が持ってきた果物をむしゃむしゃ食べながら、首を縦に振って肯定した。
ノーグは少し剃った髭を撫でながら、ぼくの顔をまじまじと見た。
「それだよ。人間がするような身振りを、ビビアンも自然にこなしている。やっぱりビビアンの中にはティルナがいて、無意識に彼女の生前を模倣しているんだろう」
そう言われても、実感はなかった。
ぼくは相変わらず、自分が人間だという意識に欠けていた。ノーグ以外の人間に会ったことがなかったからかもしれない。他人という概念さえ薄いのだから、自分が何者かなんてわかるはずがない。
それでもティルナという女性の名前に感じるところがあって、ぼくは笑顔を作る練習をしながら、ノーグに精一杯の気持ちを伝えた。
「ぼくはぁ、ビビアン。ティルナじゃぁ、ないよぉ」
今思えば、それはぼくが人間になった瞬間だったのかもしれない。
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《ビビアンの世界》
1年くらい経って、ぼくは不恰好だけど服を着て、たどたどしいけど言葉を話して、拙いけれど髪型も作れるようになった。
ぼくは大人向けの、だけど大人が着ても問題だらけの、奇天烈な服を着せられた。
水面を姿見にしてウキウキとはしゃぐぼくを見て、ノーグは申し訳なさそうな顔をしていた。
「子供用の服を作れれば良かったんだが、魔道具となると高くついてな……。これはこれとして完成されてるから、仕立て直しもできないし……」
ティルナって人のために自分で作った服を、ぼくにくれたらしい。
ノーグは魔道具職人で、雑貨や家具も作ることができた。衣装は専門外だったけど、苦労して機能だけは完璧なものを仕立てたらしい。
その時は知らなかったけど、魔法の布、それも体内の魔力を完全に抑え込む程の強力なものは高価だ。
ティルナって人がどんな病気だったのかはわからないけど、きっと幸せ者だ。だってノーグに愛してもらえたんだから。こんなにも想ってもらえたんだから。
「ありがとう、ノーグぅ」
大切なものを譲ってくれたことが嬉しくて、ぼくは飛び跳ねて喜んだ。
贈り物はたくさん貰ってきたけど、これが一番嬉しかった。水の体を包み込んで、人間の形にしてもらえた。ノーグと同じになれた。そんな気がしたから。
そんなぼくを見て、ノーグは照れ臭そうに切り出した。
「ビビアン。これくらい歳が離れていると、名前で呼ぶ方が不自然だと思うんだ」
それからノーグは、言い訳らしいことを長々と……ぼくが飽きて髪をいじりはじめるくらい長々と喋った後に、たぶん勇気を振り絞りながら、提案した。
「だからぼくのことを、パパと呼んでくれないか?」
ノーグじゃダメなのか、と思った。ティルナという人もノーグのことをそう呼んでいたんじゃないのか。そんな疑問が湧き水のように滲み出てきた。
だけどぼくは、それを了承した。父親がどういうものなのか教えられて知っていたし、距離感が今より更に近くなることを望んでいたからだ。
「わかった。ノーグはぼくのパパなんだねぇ」
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《ビビアンの世界》
ぼくとパパは旅を始めた。
目的も何もない、放浪の毎日。街道沿いに街から街へ。獣を狩って、魔物を倒して、街へ、街へ。
商売でお金を稼ぎ、得たお金で魔道具の材料や日用品を買い、たまには浮いた金で劇場へ足を伸ばし、また次の街へ。
ぼくはずいぶん魔法が得意になった。水魔法以外はさっぱりだけど、水だけなら誰にも負けない自負があった。
一度川の氾濫を鎮めて驚かれたこともあった。人助けはなかなか気持ちが良かったなぁ。
パパも魔道具職人として有名になった。下級貴族の人たちからも依頼が来るようになったけど、しがらみが増えるからってパパは断っていた。
パパが褒められるとぼくも嬉しかった。でも褒められすぎると、嬉しいことばかりじゃなくなるらしい。だからぼくは、納得がいかなかったけど、パパの言葉を飲み込んだ。
パパはぼくのことを第一に考えてくれていた。「あんまり目立たないでくれ。パパも目立たないようにするから」って、そう言っていた。
だからしばらくして、ぼくもひっそりこっそり魔法を使うようになった。他人の家に忍び込む技とか、詠唱無しで魔法を紡ぐ技術も身につけた。
気ままな旅。大好きなパパと2人で、面白いものを作って、色んな人に会って、毎日毎日違うことをして楽しんで、明日は何をしようかって笑いながら過ごして……。
「笑い人形ってなんだよぅ!?」
「子供をあやせるじゃないか。ほーら」
「ぼくは子供じゃない!」
「赤ん坊には好評だったぞ? お前と同じ1歳児だ」
「赤ちゃんでもないっ!!」
パパにからかわれて、ぼくは文句を言って、それでも最後は笑いあって……。
生まれてきてよかったって、人間になれてよかったって、心から思った。
パパの娘になれて、心の底から幸せだった。
幸せだったんだ。
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《ビビアンの世界》
ぼくが生まれてから2年が経った頃のことだ。
ある日、ぼくは体調を崩した。
強い魔物と遭遇して、パパが手負いになった日のことだった。
ぼくは全身がドロドロに溶けそうなほど痛んだ。内側にいる何かに引き裂かれて、死んでしまいそうだった。ひどく体がだるく、重かった。
「パパ……いたいよぉ……さむいのに、あついよぉ」
ぼくは水溜りのように木陰で寝転がって、パパの看病を受けていた。
パパはぼくが着ていた魔道具の服に魔力を込めて、地面に頭を擦り付けた。
土下座だった。パパからの謝罪だった。
「お前はぼくの魔法で生きているんだ。定期的に魔力を注がないと、崩れて消えてしまう」
今更になって、そんなことを言い出した。
そして全ての過去を、ひた隠しにしていた正体を、パパは洗いざらい打ち明けた。
大きな商店の跡取りとして生まれたこと。
ティルナという貴族の女性と結婚したこと。
ティルナが魔力の異常によって起こる病に罹患したこと。
手を尽くしたけど、ティルナは死んだこと。
『エコー』という悪魔と出会い、ティルナを復活させる方法を教えてもらったこと。
代償に家と財産を手放してしまったこと。
そして、悪魔が教えた方法は真っ赤な嘘で、何も知らない魔物のぼくが生まれてしまったこと。
ぼくのことを、今では娘として大切に思っているけど、出会ったばかりの頃はティルナを奪った仇のように憎んでいたこと。
「お前は何も知らなかったから、失う辛さを理解してから、殺そうと思った」
「パパはぼくを殺したいの?」
「本当に最初の頃だけだ。すぐに愛着が湧いて、娘として育てようと……」
「……死んじゃうんだ、ぼく」
「すまない。父親失格だな、ぼくは」
パパは……ノーグはそう言って、手をかざして、ぼくとぼくの服に魔力を注いだ。
大きな手。硬い手。器用で、よく動く手。
ぼくの体調不良はすぐに解消された。つまり、ぼくの生死は、ノーグが握っているということだ。
……今は殺す気が無いのは、本当らしい。だって、その手の魔力を弱めれば、それで終わるんだから。
「ごめん。ごめんよ。お前はぼくがいないと、生きていけない体なんだ。ぼくの事を嫌いになったかもしれないけれど、それでも……」
ノーグはそれからも「これじゃ結婚相手も見つからない」とか「ぼくが死んだら巻き添えにしてしまう」とか「ぼくから逃げることさえできないなんて」とかそんなことを泣きじゃくりながら言っていた。
ひどい人だと思う。意気地なしで、ろくでなしで、それなのに半端な良心だけは持ち合わせている。
知らない方が幸せだった気がする。それでも彼は、言わずにはいられなかったんだ。
「逃げたりなんか、しないよぉ……」
ぼくはノーグの手に縋り、無理をして微笑んだ。
きっとこの笑顔さえ、ノーグにとっては対等なものじゃないんだろう。そう思いながら。
「う……うう、うううう……」
その日ぼくは、どうにもならない自分を自覚して、ひとりで泣いた。大泣きした。
雨が降ってきたから、雨音に紛れて、更に泣いた。
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《ビビアンの世界》
また1年が経った。
ぼくたちはひとつの土地に定住することができなかった。
悪魔に金銭や物品を渡したせいでノーグの実家から嫌われているし、儀式のためにティルナの死体を奪ったから貴族からも白い目で見られている。
ノーグが目立つなと言ったのは、そういう理由だったんだ。ティルナのために負った、経歴の傷があったんだ。
ぼくたちは当てもない旅を続けていた。時に馬車に乗り、時には険しい山を越え、道なき道を進み、人の世界を点々としていた。
そのうち都会にいられなくなって、生活が貧しくなっていった。名前を変えたり、人相を変えたり、手を尽くしたけど、結局手間が増えただけだった。
ティルナという女性は、よっぽど実家の貴族に愛されていたらしい。彼らの手勢は何処まで逃げても追ってきた。ノーグを捕らえ、愛娘の死体の在処を聞き出そうと迫ってきた。
彼らはぼくのことも捕まえようとしてきた。見た目がそっくりらしいから、血縁だと……ティルナの娘だと思ったんだろう。
ぼくにとって、ティルナは母親なんかじゃない、見ず知らずの女性でしかないのに。
ある襲撃者はこう言った。
「お貴族さんから、たんまり前払いされたからね」
あれはただの雇われだった。たぶん人里を追い出された賊だ。不衛生な格好で、大した作戦もなく、ぼくたちに襲いかかってきた。
ぼくは水の魔法で川に引きずりこんで撃退して……そのあと奴がどうなったのかは知らない。
ある襲撃者はこう言った。
「お嬢様の姿で、その男に寄り添うんじゃない!」
あれはティルナを知っている男だった。ずいぶん長い旅をしてきたのか、髪も服も薄汚れていたけど、元はそれなりに裕福だったはずだ。金で雇った傭兵を何人も従えて、取り囲んできた。足元に水溜りを作って同時討ちさせて、なんとか切り抜けた。
仕方がなかった。殺さなければ、死体になっていたのはノーグの方だ。
それでも……身なりの整った人間を殺すのは、本物の怪物になってしまったみたいで、とても辛かった。
襲撃されるたびに、こんな戦いは二度とやりたくないと思って、それでもしばらく時が経つとまた襲ってきて……。
そのうちぼくたちは、何年か街に滞在して、ティルナに縁があるかないかにかかわらず貴族が近づいたら逃げる生活を送るようになった。
権力者が怖くなった。魔物よりも、人間の方が恐ろしかった。
死線をいくつもいくつもくぐり抜けて、ノーグの体には傷跡が増えた。顔にシワも増えた。
それなのにぼくは、生まれたあの時と何も変わらない姿のままだった。弱くて儚い子供のままだった。
……一方で、ぼくの内面は、確実に変わっていた。あんまり喜ばしくない方向に、狂っていった。
その頃になると、ぼくは時々、体の中にいるティルナの残滓が疼くのを感じるようになっていた。
愛してほしい。抱きしめてほしい。支え合って生きていきたい。
その想いが家族への信愛なのか、それとも女としての疼きなのか。積み重ねてきた人生が薄いぼくには、判別がつかなかった。
「違う。お前はぼくじゃない。死人が口を出すな」
ぼくはティルナが嫌いだった。
〜〜〜〜〜
《ビビアンの世界》
また1年が経った。
ぼくは渡り歩いた各地で調べものをして、魔物についての知識を得ていた。
自分がどういう魔物なのかはわからないままだったけど、全ての魔物に共通する生態は把握できた。
魔物は魔力でできている。魔物が言語を覚え、詠唱できるようになると、悪魔と呼ばれるようになる。
ただし例外もある。ぼくの種族は、言語を理解できても魔物らしい。
魔物、及び悪魔の繁殖方法は、いくつかある。
自然発生は例外的で意図的に起こせないから、置いておくとして……。
ひとつは、性質が近い生き物に魔力を与えて、無理矢理変異させる方法。魔力でできているからこそ、こういうことができる。これが一番手っ取り早い。
でもこれでできるものは、本当の意味での子供じゃない。子分とか、分身とか、家畜とか、そういう存在だ。
もうひとつの繁殖方法は、元の生き物と同じ方法を取ること。つまり受精だ。
魔物や悪魔がこの方法を選ぶことは何故かほとんど無いみたいだけど、ぼくにはわかる。ぼくの場合は、これで子供を作れる。
ぼくは水だったけど、今は人間が主体だ。だからたぶん、人間と同じ方法で子供を作れる。
……気になって、人間の繁殖方法をノーグに教わった。
真っ直ぐ聞くのはなんだかよくない気がしたから、珍しく酔っ払った時に。
「下半身に従うと、覚悟の有無を問わず、情け容赦なくデキる」
「作ったこと、あるのぉ?」
「結果は出なかったけど、弾みで作ろうとはした。ぼくは馬鹿だったよ。けだものだった。野生動物のように、森で……」
ノーグはいつも以上に理論的な口調で赤裸々な話をして、こう言った。
「命を作る行為には、責任が伴う。生み出した命を守る責任。伴侶の人生を奪う責任。自分の行き先を決める責任。だからこそ、己の感情や欲望に流されて子供を作ってはならない」
ぼくを生み出した責任を感じていたからこそ、ぼくにもそれを理解してほしかったんだと思う。
いずれにせよ、ぼくはその言葉に従うことにした。
お酒が入ったノーグは、潰れて寝た。
ティルナのことは、結局聞けなかった。
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《ビビアンの世界》
旅を始めてから、何年も経った。
ぼくもノーグも、自分が何歳なのか数えていなかった。最初のうちは覚えていたけど、曖昧になってしまった。
ただ、ノーグの短く刈った髪を見て、白髪が増えてきたなあと思ったのは、よく覚えている。
体と心を酷使すると、人間は一気に老ける。それはノーグも例外ではなかった。ぼくと出会ってからまだ5年と少しくらいしか経っていないはずなのに、見た目はその何倍も衰えていた。
ぼくは変わらないままの自分の姿を見るたびに、激しい自己嫌悪に襲われた。
ぼくたちは仲の良い親子のまま、旅を続けていた。
村から村へ。深い森を抜け、橋のない川を越え、大きな魔物を倒し、小動物も殺し、だましだまし飢えを凌いで、また村から村へ。
人間による襲撃はほとんどなくなったけど、代わりに魔物に遭遇することが多くなった。人の手が入っていない森や山を通過することが多くなったからだ。
ぼくたちは荒野を横断し、草木をかき分け、いくつか国を越えて、先へ、先へ……。
そうしているうちに、ぼくたちは理想の土地にたどり着いた。
マーズ村。農地が豊かで、村人もほどほどに多い。景色は人の手が程よく入っていて、美しい。立ち並ぶ家々が、しっかりとした基盤のある村だと伝えてくれる。
旅人がよく訪れるからお金も物も手に入る。生活の規模が大きいから魔道具の需要もある。ノーグの技術があれば、役割を担って食っていける。
それでいて貴族は見向きもしない。ノーグの実家の威光もまったく届かない。
最高の村だった。ただひとつの欠点を除けば。
「この村は英雄の村だ。魔物は敵、悪魔は仇だ」
ノーグは少ししわがれてきた声でそう言って、ぼくの肩に手をかけて覚悟を問いかけた。
「魔物の力は使うな。魔法もなるべく控えろ。ただの子供として、村に溶け込むんだ」
ぼくは元々、魔物に仲間意識を持っていない。昔は液体だったし、その頃にはすっかり人間になっていたから。だから、子供と仲良くすることに疑問を抱くことはなかった。
それに、ノーグはこの村のことをすっかり気に入ったみたいだった。
腰を落ち着けることができて、追手に狙われる心配もなくて、多くの人に頼られて……。
ノーグはきっと、旅することに疲れていたんだと思う。楽しかったけど、それ以上につらいこともたくさんあったから。体力もそろそろ厳しくなっていたみたいだし。
だからぼくは、ノーグの言うことに従った。
魔物を殺すお話に目を輝かせて、子供たちと一緒に聞き入った。家事も覚えた。村の儀式にも参加した。
村の大人たちからは女の子らしくしなさいって言われけど、男手ひとつで育てられて、しかも旅していた期間が長かったから、あんまり厳しくされなかった。仕方がない子だなあって、思われたのかもしれない。
そのくらいの認識の方が、ありがたかった。何処に行っても水魔法の天才扱いだったから、変人だと言われるのは新鮮で、楽だった。
そのうちぼくにとっても、マーズ村は大切な場所になった。
悪戯すると喜んでくれる友達ができた。明るくて、元気で、たまにぼくを気遣ってくれるジーポント。賢くて、勉強熱心で、ちょっと怖がりだけど、本当はちゃんと勇気を秘めているミカエル。
2人とも大好きだった。ずっとずっと、彼らと遊んでいたい。自然とそう思えるくらいに、仲良しになれた。
同じ人とずっと一緒にいられる。明日も会える。来年も再来年も、毎日会える。それだけで安心できた。
尊敬できる人もできた。
ノーグの話に目を輝かせる、白い女の人。隣村に住んでいるニコルだ。
生まれつき太陽が苦手で、しかも貧弱で、すぐに貧血で倒れてしまうのに、貪欲に勉強してどんどん成長していた。
「欲張りだから」って言ってたけど、ぼくはそんなあの人を凄いと思った。初めてノーグ以外の他人を目上の人だと思えた。
ぼくはもう、寂しくなくなった。一緒にいたいって思える人たちができて、心が満たされていく心地がした。
ああ、流れ着いた。ここが旅の終わりなんだ。ぼくはそう思って、新しい毎日を満喫した。
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《ビビアンの世界》
村に来てから何年も経過した。
ぼくはもうすっかり村の子供になった。人間として生きることに慣れてきた。
水魔法の応用と、時間に余裕ができたノーグの協力で、体を成長させることもできるようになった。人間の子供ほど急激には大きくなれないけど、ほんの少しずつ身長を伸ばせるようになった。
ジーポントやミカエルと一緒に大きくなれる。ノーグと一緒に老けていける。それがとても嬉しかった。
そんな時、見慣れない子供に出会った。
ぼくより小さい後ろ姿。夜の闇より黒い髪。血と泥に塗れた服。
その子は訳がわからないことをつらつらと語っていた。道や家がどうのこうのと、まるで幼い子供が人形遊びをする時みたいな丸っこくて可愛らしい声で、ぺちゃくちゃと喋り続けていた。
あんな子は初めて見た。色々な街を旅してきたし、物を売る中でおつかいに来た子供の相手もしてきた。だからわかる。あれは異常だ。
ぼくは友達と一緒に話しかけようとした。正体を確かめたいけど、一人だと心細かった。
だけど迷っているうちに、その子はこっちを振り向いて、ぼくに目を向けてしまった。
負の感情に満ちた目。畏怖、悲観、危惧、諦念。
どれだけ心が砕ければ、あんな顔になるんだろう。どれだけ辛い目に遭えば、あんな子に育つんだろう。
この世全てに希望を抱いているはずの、幼い子供。それが、自分の周りには敵しかいないと、心底そう思い込んでいるような、深い深い絶望を……。
倒れていく黒い少女を見て、ぼくは何故か既視感を覚えた。
何処かで見た記憶があった。あの子ほど幼くはなかったけど、何処かで、似たような顔を見たような。
近くにいた門番さんに抱えられて去っていく少女を見て、ぼくは気がついた。
あの子は最初に会った頃のノーグに似ているんだ。いろんな事を知っていて、誰か一人のことしか見ていなくて、世界中にいる敵を恐れていた、そんなノーグに似ているんだ。
ぼくは作り物の心臓が高鳴るのを感じた。頬が熱くなって沸騰しそうだった。
あの子と友達になりたいと思った。なれるはずだと思った。
ぼくがこぼしてしまったものを、あの子が持っている気がしたんだ。
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《ビビアンの世界》
ぼくは村中を色々と調べ回って、アンジェについての噂話を仕入れた。
すごく頭が良いらしいとか、逆にそんなに頭は良くないらしいとか、ニコルの妹だとか、ニコルの隠し子だとか。
所詮は噂だからか、好き放題言われていた。共通していたのは、黒くて小さくて幼いという、容姿に関することくらいだ。
昔のジーポントとミカエルくらい幼い子。それなのにノーグみたいな話し方をする子。泣くのを堪えながら生きている子。
有り体に言うと、ぼくが求めていた人だった。噂をひとつ仕入れるたびに、ひとりでに頬が緩んだ。何が何でもあの子が欲しいと、心から思った。
そんな中で、アース村が大変だとか、そんな話も耳にした。魔王が来たというのは、流石に話が膨らみ過ぎだと思ったけど、でも何か大変なことが起きているのはわかった。
子供の耳に入らないように隠されているみたいだったけど、ぼくには関係なかった。忍び込んだり聞き耳を立てたり、鍵開けをしたり、水になって隠れたりするのは得意だったから。
それに、ノーグが出かける準備をしながらぼくに教えてくれた。ノーグはぼくを信頼しているから、隠し事なんかしないのだ。
彼によると、どうやらシュンカという魔物が出たらしい。ぼくもその名前には聞き覚えがあった。伝説に名を残す強大な魔物だ。
「今のビビアンは強い。でもシュンカはもっと強い。『フウカ』を覚えているだろう?」
「うん」
フウカはシュンカより小さい狼の魔物だ。魔力が少ないから非力だし、体格も狼よりひと回り大きいくらいだ。特徴的な体毛も針くらいの太さしかない。
そのうえあんまり魔力を他の生き物に分け与えられないから、繁殖能力が低い。出くわしたとしても、だいたいは野生の狼が変異して生まれる、自然発生の個体だ。擬態なんかしてこないし、知能もない。
それでも自然の中で生きる修行者や狩人たちからは『狼煙』と呼ばれて恐れられている。火のように赤くて綺麗だけど、触れてはならない危険な生き物だ。
旅の中でぼくも対峙したことがあるけど、簡単に手足を食いちぎられて死にかけた。
動きが速いし、地形を変えても駆け抜けてくるし、水なんかいくら当てても怯まない。ノーグがいなかったら、そのまま食い尽くされていたと思う。
あれでさえ伝説ではシュンカの前座扱いだなんて、冗談としか思えなかった。
でも、ノーグは大丈夫だと言った。ぼくもその言葉をあっさりと信じた。
ノーグは強い。歳のせいで長くは動けないし、咄嗟に反応するのが難しくなっているけど、それでもマーズ村の誰よりも強い。シュンカと対面しても生きて帰ってくるはずだ。
「わかった。ぼくはみんなと仲良くしてるね」
そう言って、ぼくはノーグを見送った。
それが最後の会話になるなんて……思いもしなかった。
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《ビビアンの世界》
ノーグが死んだ。シュンカに殺された。擬態に気がつかなくて、不意打ちされたらしい。
視力が弱っていたんだ。物を見る時、よく目を細めていた。魔道具職人は長い間火と睨めっこして、土埃の中で格闘しているから、目をやられやすいんだ。
ぼくは村人に当たり散らした。叫んで、暴れて、物を壊した。怪我人も出た。殴り返されそうになった。
門番の人がやってきて、ぼくを落ち着かせた。子供を守るのが大人の役目とか言ってた。
……だったらノーグを守れよ。ぼくの大切なパパなんだぞ。なんで守らなかった。あの場に何人いたと思ってるんだ。
なんで、ぼくは戦わなかったんだ。なんで、ぼくはここにいるんだ。なんで、ぼくは生きてるんだ。
なんで、なんで、なんで。
……ぼくはしばらく寝込んだあと、シュンカを殺すための準備を始めた。
時間はもう残されていない。ノーグが死んだなら、ぼくの命は残り僅かだ。魔法を維持してくれる人がいないから。
でも、すぐに挑むわけにはいかない。絶対に負けられないから。戦いから離れて久しいから。
ぼくはノーグが作った魔道具を片っ端から集めて、魔力を体の中に取り込んだ。ノーグが魔道具職人で助かった。おかげで余命がだいぶ延びた。
魔法を復習して、ちゃんと使えることを確かめた。水ばっかりだけど、衰えてはいなかった。むしろ魔力が豊富な分、昔より強いかもしれないくらいだった。
そうやって、ぼくは全てを捨てる覚悟で、力を研ぎ澄ませていった。
儚いけれど、今の自分こそ全盛期だ。そう思えるくらい、強くなった。
そしてついに旅立とうとした矢先、アンジェとニコルが帰ってきた。
シュンカたちの死体と共に。
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《ビビアンの世界》
アンジェとニコルにちょっかいを出すことにした。
2人は魔王に襲われたことがある。シュンカとも遭遇したことがあるらしい。だから、情報を得られるはずだ。
アンジェの方は「自分でシュンカを倒した」なんて戯言を言い放ったらしいから不安だったけど、信用できるかどうかは、実際に会ってから判断することにした。
頭は良いみたいだし、話は通じるはずだ。一度は仲良くなろうとしたんだし。そう思って、ニコルの留守中に、何も知らない友達を連れて会いに行ってみた。
……実際に会ったアンジェはミカエルより臆病で、凄く敏感に反応してくれるから、本当に面白かった。ノーグが死んだ悲しみを少しは忘れることができた。
からかいすぎて友達とニコルから怒られたけど、それもぼくにとっては心地よかった。こんなやりとりをするのもこれで最後なんだと思うと、むしろ笑顔になれた。
でもぼくが倒すべきシュンカは、もう残っていなかった。アンジェとニコルが全員倒してしまっていた。
「ずどーん! 敷き詰められた魔法の罠が、狼の足を縫い止める!」
「アンジェすげー!」
嘘のような冒険譚は、全て真実だった。
2人はただものじゃなかった。特にアンジェはぼくの予想より遥かに強かった。まるで英雄みたい……というよりも、英雄そのものだった。物語みたいな威力の魔法で、シュンカを薙ぎ倒していた。
それに、そもそもぼくじゃシュンカには勝てなかったはずだ。戦利品を剥いでいるところだけ見たけど、あんなものを倒せるわけがない。伝説で語られているほどじゃなかったけど、いくらなんでも大きすぎた。フウカとは別種扱いにされているのも納得だった。
ぼくは生きる目的さえも失って、枯れ果てた。
もう何もかもどうでもよかった。ぼくの流れを導いてくれる人がいなくなったんだから、人間として生きていく意味が見当たらなかった。
ぼくは死ぬことにした。
一人で死のうと思ったけど、長老の家に預けられることになったから、なかなか一人になれなかった。
特に厄介なのは、村長の奥さんだ。一日中家にいてぼくの面倒を見てきた。
「ビビアンちゃん。辛かったら胸を貸すよ」
そんなことを言いながら世話を焼いてきた。普通の服を着せて、普通の物を食べさせて、夜になったら寝かしつけてくれた。
良い人だと思った。子供好きで、苦労を苦労と思ってなくて、たまに言葉が過ぎるけど、それも悪気はないんだと思えた。
でも、あの人のために生きる気にはなれなかった。魔法を維持する力も無いし、徐々に衰弱していくぼくの看病を続けさせるのは気が重かった。
ジーポントとミカエルも厄介だ。外に出ればこの2人がぼくに纏わりついてきた。
ぼくはあの2人が大好きだ。大きくなっても一緒にいたいくらいには好きだ。結婚する雰囲気ではないけど、友達としては最上級だ。
2人にぼくを止められる力は無いし、目を離すことも多い。でも友達の目の前で死ぬのは嫌だ。悲しむ顔なんて見たくなかった。
みんなの目を盗んで逃げるのも手だ。でも勝手に消えたらみんな探しに来てしまう。この世にいないぼくを捜索して野山を見て回ることになってしまう。
特にジーポントとミカエルは、大人になってもまだ探していそうだ。草むらをかき分けている彼らの姿がありありと浮かぶくらいだ。
だから、あれこれ考えて、村長たちの前で死ぬことにした。ノーグが眠っている場所の近くで死のうと思った。
友達がついてきてしまったのは誤算だったけど、もう作戦変更するだけの時間はなかった。
こうして、ぼくは崖から飛び降りた。
何故か運良く残っていたノーグの血を吸い取って、命を削って魔法を放ち、英雄たちの手を振り払って。
大切にしてくれてありがとう。
騙していてごめんなさい。
さようなら。お元気で。
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《???の世界》
わたくしの街に、死に損ないの魔物が流れ着いたそうです。
水っぽい子供で、手足が無いとのこと。
行かなくては。手を差し伸べて、生かさなければ。
全て取り込んで力に変える。それがこの街の貴族ですから。