第13話『目の先に心』
《ニコルの世界》
次の朝。
アンジェが起き出す気配がしたので、私は慌てて脱いだ服を着て、汚した周囲を触手で片付けて、何事もなかったかのように装う。
アンジェが起きる前までにはやめて、片付けをしなきゃいけないと思っていたのに……。案外すぐには止まれないものだ。
「(昨日からずっとだったもんなあ。臭いとかしてないかなあ。バレたらどうしよう)」
日差しに照らされながら、身も心もケダモノに染まり切って、本能に身を任せる感覚。人としてダメだけど、ダメだからこそ良い。太陽が嫌いだったけど、少し見直したかも。
またやりたい。欲を満たせば満たすほど、むしろ渇いていく。
「(私、もうすっかり変質者だね……)」
元から性欲はちょっと……だいぶ……かなり強かったけど、悪魔になってから、変態を通り越して狂人になってしまった気がする。
倫理観、と言うのだろうか。元から薄かったそれが跡形もなく消し飛んでしまいそうだ。
アンジェにバレたら死ぬしかない。こんなのに貞操を狙われてるとわかったら、間違いなく縁を切られてしまう。
……それでも自制できないのが私なんだけどね。
アンジェはさっきまでの私の痴態を露知らず、花畑の妖精さんみたいな笑顔を私に向ける。
「おはよ……」
寝起きでふわふわしている。表情も声も仕草も、何もかもがふんわりもやもやだ。
庇護欲と独占欲が私の内側から湧いて出てくる。つまり、可愛いということだ。
これは贔屓目じゃない。今のアンジェは私が出会ったあらゆる生物の中で一番可愛い。あくまで客観的な視点で可愛いと言ってるんだ。わかるかね、私の良心よ。
「(全力で襲っても仕方ない……。だって可愛いんだから……。いや、ダメだ。アンジェが嫌がる)」
私は唇をもぞもぞ動かしながら、意識を強く保って平常心を心掛ける。
アンジェに愛してないと告げた私に、好かれる資格はない。私は頼りになる近所のお姉さんだ。年上の幼馴染だ。
「おはよう、アンジェ」
「朝起きて最初に見るのがニコルの顔って、なんだかすごく気分が良いね」
なにその健気な発言……。アース村可愛い大会の優勝者ですか?
可愛いちゃんほんとアンジェ。違う、アンジェちゃんほんと可愛い。
もはや狙ってやってるんじゃないかってくらい可愛い。いつもより100割増しで可愛い。アンジェの周りにある世界全てが可愛さを帯びている。おかげさまで空気がおいしいよ。
「どうしたの、ニコル?」
アンジェは可愛い顔を可愛らしく傾けて可愛らしい目で可愛く覗き込んで可愛く可愛いをしている。
「(もしかして、自分の可愛さを理解したのかな)」
顔の角度を気にしている。口の開き方も手の位置も体の線も何もかも意識して工夫している。いつもより若干ぎこちないし、目線がちらちら体を向いている。
いつもアンジェを見ている私じゃなければ見逃してしまう程の小さな変化だ。太陽の光まで利用しているっぽい。お顔が明るい。朝日できめ細かい肌がよく映える。
本気すぎる。本気で作った可愛いだ、これ。限界。
「(アンジェは可愛く見られたいってこと?)」
私はアンジェの努力を全力で味わいつつ、口から垂れるよだれを拭う。
「ぐへへ……アンジェはやっぱり可愛いなあ」
平常心はついに決壊し、心の声が漏れてしまう。
かろうじて襲いかからずに済んだのは、私の中のケダモノが少しだけ満たされた後だったからだろう。
私は呆気に取られるアンジェから目を逸らし、彼女を汚してしまう前にくるりと後ろを向く。
……あんまり休めなかったなあ。
〜〜〜〜〜
《ニコルの世界》
今、私とアンジェはマーズ村に帰る途中だ。
倒したシュンカの死体から、証拠として体の一部を剥ぎ取れるだけ剥ぎ取って、一応残党を探し回りながら旅路を歩く。
今は人が通る道をちゃんとなぞっている。アンジェは無断で出てきたみたいだし、何日もかかっちゃったから捜索隊が来ているかもしれない。
まあシュンカがいるかもしれない危険なところに、わざわざ来てくれるとは思えないけど……一応ね。
「今日のニコルは花の匂いがするね」
アンジェは私の腰に頬を擦り寄せて深呼吸をしている。
やめて、アンジェ。私もアンジェの頭に顔を突っ込んで深呼吸したいのをずっとずっと我慢してるんだから。アンジェもちょっとくらい耐えて。お願い。
「もしかして、ニコルの触手って……擬態じゃなくて本物の植物にも変えられるのかな?」
アンジェはそう言いながら、偵察用の蔦をいじくっている。
触手がいつ千切れてもいいように、基本的に触覚は感じないように作ってあるけど……そんな触り方しないでほしい。指でなぞらないで。いたぶらないで。見ているだけでキュンキュンする。
今日のアンジェはおかしい。あからさまに私を誘惑している。
……アンジェも顔、真っ赤なんだけど。自分が恥ずかしいことをしてるってわかってるでしょ?
「アンジェ。あんまりベタベタされると、困る」
私は必死で目を逸らしながら、素直にそう伝える。
困っているのは本当だ。アンジェが身長の都合か、やたらと腰の位置を触ってくるから、変な気分になってしまう。具体的には、何もかも投げ出してアンジェをお嫁さんにしたくなっちゃう。
あれ? 私がお嫁さんになるんじゃなくて? こういう場合どうなるんだろう。どっちでもいいしどっちにもなりたいけど、周りからはどう見えるんだろう。
「(アンジェは完璧で誠実な旦那さんを見つけて幸せになるべきなんだから、私が束縛しちゃだめだよ)」
私は服の下に巻きつけた触手で全身をきつく縛り上げて、気合いを入れ直す。
アンジェは幼馴染。アンジェは妹。アンジェは親友でアンジェは幼女。手を出したら人間失格。よし。
「どうしたのニコル? フラフラしてるけど」
私の異変を察知して、アンジェはここぞとばかりに攻めかかってくる。
心配しているのではない。アンジェは得意げに目を細めて妖艶な笑みを浮かべている。
人を惑わす小悪魔め。ここは年長者として、きつくお灸を据えてやらねばなるまい。
「にゃんでもにゃいでちゅ」
気がついたら口の端がとろけていた。
流石に今の反応は気持ち悪いぞ、私。アンジェもちょっと引いてるよ。
運が良いのか悪いのか、私たちは村人と出くわすことなく、そんな調子でマーズ村までたどり着いた。
夕焼けに照らされた村の門を見て、私は……郷愁に似た何かを感じて、ふと我に帰る。
「(そうだ。こんなことをしている場合じゃない)」
私、また本能に飲まれちゃったな……。
気を引き締めよう。人間らしさを取り戻さないと。
〜〜〜〜〜
マーズ村に近づくにつれて、アンジェたちは少しずつ冷静になり、口数が少なくなっていった。
シュンカの襲来を受けて、マーズ村は今なお混乱の最中にあるはずだ。村の働き手が一人亡くなり、重傷者も出ている。
そんな彼らの目の前で、いちゃいちゃして楽しむことは出来ない。
気落ちするアンジェの隣で、ニコルは後悔が滲んだ声でぼそりと呟く。
「連れて帰れなかったなあ……」
「誰を?」
「シュンカの犠牲になった人」
ニコルは村の外を見張っている男を見つけ、花を開いて血塗れの布を取り出す。
上等なものでは無い。マーズ村にはよくある、植物を織ってできた簡単な上着だ。
だがニコルは、まるで宝物のように丁寧にそれを扱う。
殺された元商人はシュンカによって徹底的に破壊されてしまっていた。骨ひとつ残さず食い尽くされ、赤い染みだけしか現場には残っていなかった。
ニコルは僅かに遺された衣服の切れ端を触手の花の中に詰め込み、彼の死地に杭を立て、その場を後にしたのだ。
……彼は今でも、あの山道の中だ。
見張りの男はニコルの姿を認め、目を見開いて駆け寄る。
「ニコル!? 無事だったのか!」
男は信じられないものを見たような顔で、武器を持ったままニコルの周囲を歩き回る。
簡素であり、鋭いわけでもない槍だが、穂先をニコルに向けないように配慮している。男の優しさが見てとれる仕草だ。
しかし、彼は視界に入っていなかったアンジェを膝で軽く蹴ってしまう。不注意である。
「いてっ」
アンジェの声を聞き、男は反射的に謝る。
「あっ、ごめんよアンジェちゃん。……あれ!?」
「はい。ここにいます。……勝手なことをして、ごめんなさい」
その男は、アンジェを連れて村を案内した彼であった。宿の前までアンジェを送り届け、その後も待っていたはずだ。
つまるところ……アンジェが勝手に抜け出したことで、彼は責任を取らされたはずだ。
アンジェは彼に対して不誠実な行動をとったことを申し訳なく思いながら、頭を下げる。
未だに名前さえ知らないが、この村では最も世話になった相手だ。そんな彼の顔に泥を塗ることになってしまい、アンジェは何やらマーズ村そのものを敵に回したような気持ちになる。
「(嫌われたくない。既に嫌われてしまったかもしれないけれど)」
男はしばらく呆気に取られた後、意外にも、2人に向けて微笑む。
「そっか。無事でよかった」
「怒らないんですか?」
「それは後で、たっぷりね。今は……無事で嬉しい」
作り笑顔ではない。何ひとつ偽りのない、心からの安堵が垣間見える。
アンジェは彼の姿を見て、ゆっくりと息を吐く。
胸の内に溜まった膿が、少しだけ出ていったような心地だ。
〜〜〜〜〜
マーズ村は魔物の脅威から解放され、瞬く間にお祭り騒ぎに……とはならなかった。
より一層の混乱に陥り、誰も彼もが右往左往し、事の真偽を確かめようとし、ニコルを次から次へと質問責めにし始めた。
ただでさえ魔王の襲来と村人の死で動揺していたところに、突然のアンジェの失踪。もはや諦めかけていたニコルの帰還。大量のシュンカの耳。聞きたいことは山ほどあった。
「宿の穴は魔物の仕業じゃなかったのか!?」
「村の戦士団が束になっても勝てない相手を、どうやって倒したって言うんだ……?」
「ドウを直した? あのよくわからん物を? そんな技術をどこで身につけたんだ?」
「昨日、山から凄まじい音が聞こえてきたんだが、あれは君たちの仕業か?」
「亡くなったあの人の子が友達になりたいって言っててねえ……後で会ってくれないかい?」
「アンジェちゃんは魔法使いだったのか。この村にも何人かいるけど……いや、この話はやめよう」
ニコルは村人ひとりひとりに対して真摯に応対しているが、人に囲まれて窮屈そうだ。助言しよう。
「みんなを集めて、経緯を説明しよう。この調子じゃいつまでかかるかわからないし」
村全体に向けて伝えるべきことは、それに相応しい場を用意して、あらかじめ話す内容を整理して、当事者の口から語られるべきである。そうすれば、一度話すだけで全体に共有される。
アンジェはそのような内容を簡潔に伝え、ニコルを納得させる。
「そっか。じゃあ、村長さんにお願いしてくるね」
ニコルはすっと挙手をして、ざわざわと騒がしい人々を瞬時に鎮め、村長の元へと向かう。
……ひとり取り残されるわけにはいかない。
「オレも行く……!」
アンジェも人混みの中ではぐれないよう、ニコルにぴったりと寄り添いながらついて行くことにする。
彼女は拒むことなく、無言でアンジェの手をそっと握り、視線で人を追い払う。
ニコルの何気ない動作で、まるで使用人のように人が動き、空間が生まれ、道ができる。
ニコルは堂々とその道の真ん中を突っ切り、アンジェは下を向いたまま彼女に引っ張られていく。
何人かの背中越しに、話し合う声が聞こえてくる。
先ほどまで2人のそばにいた、話好きらしい妙齢の婦人たちが、困惑した様子で噂話を始めたようだ。
「賢いとは聞いてたけど、凄いわね……あの黒い子」
「そうかしら? 宿を壊した暴れん坊だって聞いたけど」
広まっている。マーズ村に、自分のことが。
恐ろしい。陰でどんな噂が立っているのか、考えるだけで血の気が失せる。
アンジェが顔を上げると、道の左右からこちらを見下ろしている大人たちと目が合う。
右を見れば青年と、左を見れば老人と、目が合う。
困惑。好奇。憐憫。次から次へと、それぞれ中身の違う、視線、視線、視線……。
「(目立ちたくない。でも……この村にいると、絶対に目立ってしまう)」
故郷の人々が相手でもろくに会話ができなかったというのに、見知らぬ老若男女が相手ではどうしようもない。
ニコルがそばにいなければ、きっとまた気絶していたことだろう。
「(せめてニコルから離れたくない)」
アンジェは人の海をかき分けて道を作るニコルの背中を尊敬の眼差しで見つめながら、村の中心部へと向かった。