『新たなる運命』
《アンジェの世界》
今日のオレは浮き足立っている。
いや、厳密には今日だけではない。昨日も一昨日もふわふわと夢見心地だった。明日も同じように、笑みが止まらないだろう。
こんな気分がいつから続いているのか。振り返って思い出すまでもない。前の春からだ。ちゃんと覚えている。
オレは写本しに来た学生たちを監督しながら、鼻歌混じりに本を読む。
物語を好むオレだが、実用的な本も同じだけ読むようにしている。家事も魔法も数学も。
だって、みんなの役に立つオレでいたいから。みんなの未来を守れる人になりたいから。
「ふんふふーんふんふふーん……」
「あのー、先生」
前の席に座っているハイエルフの学生が、根を上げた様子で挙手をする。
読み取れない文章があったのだろうか。それとも、腹痛だろうか。
いずれにせよ、他の職員ではなくオレに声をかけたということは、それなりの用事だということだ。
オレは目立つ壇上からゆっくりと降り、体をいたわりながら歩く。
「どうしたの?」
彼は視線をオレに移した後、少し気まずそうに口を開く。
「みんな、話したいことがあるので……業務の後で、お時間……よろしいですか?」
彼は緊張で耳を畳み、それとなく周囲を窺うような素振りをしている。
確かに、周りにいる人々も何か言いたそうにもじもじしている。中には顔を上げて硬直する青年や、固唾を飲んで見守る少女もいる。
どうやら、彼だけの問題ではないようだ。
「(あらかじめ示し合わせていた? なら、開始前に伝えてくれればよかったのに)」
オレは非効率的な彼のやり方に憤慨しつつ、それを顔に出さないように気をつける。
人は合理性だけでできているわけではない。感情や気分という不確定要素がある以上、常に正しい選択をするのは不可能だ。
オレだって、今に至るまでにずいぶん不条理な選択をしてきたし。
「もしかして、長くなりそう?」
オレが尋ねると、彼は首を縦に振る。
これ以上話していたくないという雰囲気を感じる。もしかして、嫌われてしまったのだろうか。鼻歌がうるさかったとか?
「場所はここでいい?」
「はい」
「じゃあ、待ってるね」
オレはそれだけ伝えて、踵を返す。
幸いにも、添削してほしい学生は来ていない。あるいは、オレたちのやりとりを見て空気を読んだのだろうか。
「(たぶん深刻な問題だな。そんな予感がする)」
オレはいつも以上に慎重な足取りで席に戻る。
最近は色々大変な境遇なのだから、あまり不安にさせないでほしいものだ。
〜〜〜〜〜
《アンジェの世界》
今日の写本が終わり、食事を配給し、オレは彼の隣に座る。
ハイエルフの青年。既に恋人がいるという彼は、今いる学生のまとめ役のような立場だ。
特に役職を定めてあるわけではないが、学生たちの交流の中で、自然とそうなったらしい。
生まれた時からハイエロファントにいる彼は、新しい時代の代表とも言える存在だろう。オレより偉くなるかもしれないと思うと、なんとなく緊張する。
食事を持ったオレが隣に座ると、彼は巨大な虫でも現れたかのように、びくりと大きく震える。
やましいことでもあるのだろうか。彼に限って、そんなことは無いと思いたいが。
「今、いいかな?」
毎朝鏡を見て練習している可愛らしい笑顔を作ってから声をかけると、彼は眼鏡を持ち上げ、学生たちの様子を確認してから答える。
「はい。……すみません」
謝るようなことがあったのだろうか。写本に関わる重大な問題だろうか。それとも、もっと大規模な……学生間の対立か?
冷や汗をかくオレと目を合わせないまま、彼は言葉を選んでいる。
「先生は……長い時を生きる悪魔だと聞いています。俺は12でここまで成長して、それからずっと止まったままなんですけど……」
「うん。割と人間寄りだね。君は体質支援を受けていなかったはずだ」
悪魔の成長はそれぞれだ。そのため、オレは飛び級制度の整備や訪問教育への助力で必死に穴埋めをしてきた。
彼が悩んでいるのは、この場にいる学生の年齢層の広さだろうか。彼は今年で19だが、下を見ると随分幅がある。更には彼より年上の者もいる。何かと苦労が多いことだろう。
食事の手を止めて黙って見守る仲間たち。彼らに囲まれながら、ハイエルフの青年は声を絞り出す。
「先生は……今年で何歳ですか?」
「それが聞きたかったの?」
「年齢は見た目ではわかりませんので……。いや、これが本題ってわけでもないんですけど……」
「まあ、オレの年齢はわからないだろうね」
70を超えていたはずだ。オレは微笑ましい世間話のような気楽さで、そんなことを答える。
学生たちと個人的な話をする機会は少ない。オレがこの国における名士として扱われていることも、立場上大っぴらにできない秘密を抱えすぎていることも、会話の妨げになっている。
だからこそ、せめて公開できる範囲のことは公にしていかなければ。人としてあるべき交流を保ち、社会から浮かないために。
彼は驚愕しつつもどことなく安堵した様子で、目を丸くする。
「やはりこの国を統べる方々は、我々とは人生の規模が違いますね」
「大袈裟だよ。というか、君だって議員になればこの国を運営できるんだよ。オレだけが特別だと思わないことだ」
全てを失ってから、全てを手に入れたナターリアのように。彼もオレたちより偉くなれるはずだ。
そんな期待を込めた目で見つめると、彼はそっと目を逸らし、前の席にいるツノの生えた少年を見つめ、更に視線を横にずらす。
「では、その……本題ですけど……」
まるで少年の耳に入れたくないかのような口調で、彼は質問する。
「先生は、少し前から……体型が、変わったように見受けられますけど……」
ああ、そういうことか。気になるのも指摘しにくいのも、よくわかる。
オレは学生たちの意味ありげな視線の正体に気がつき、思わず笑ってしまう。
「へへへ……。なんだ。道理で変だと思った」
「先生! そこんとこ、どうなんです!?」
別の女学生が、もう待ちきれないと言いたげに詰め寄ってくる。
みんな気になっていたのだろう。当然だ。説明しないオレが悪かったのだ。
オレは安堵と意外性で涙が出るほど笑いながら、濁すことなく答える。
「そうだよ。みんなの想像通り、妊娠してるよ」
オレはニコルとの愛の結晶がいるお腹を、優しく撫でる。
例の薬で授かったのだ。説明が遅くなって申し訳ないね。
〜〜〜〜〜
《アンジェの世界》
オレは好奇心旺盛な学生たちに囲まれ、腹を撫でられている。
体型を隠すためのゆったりした服の内側には、赤子を育てるために大きく膨らんだ腹部。皮が伸びた影響で血管が浮き始めており、そこを見た学生は痛そうな顔をしている。
「ほひゃあ……。わちきも将来はこうなるのでありんしょう。恐ろしや、恐ろしや。されど両の目で見て、学ばなければなりんせん。嗚呼、なんとむごい……」
「まだまだこれからだよ」
顔を覆っているヤマト出身の学生に向けて、オレは優しく解説する。
「逆算すると、デキたのは去年の冬だ。春になって、体の不調と魔力の異常に気がついて、妊娠が発覚。産まれるのは今年の秋になるね」
「じゃあ、まだ大きくなんの!?」
猫のような耳とヒゲを生やした少女が、くりくりとした目を更に大きく見開く。
「そうとも。オレは小柄だから、苦労するだろうね。みんなも魔力による自己修復をしっかり復習して、備えておくように」
オレが教育関係者らしい発言をしてみると、猫混じりの少女は尻尾をふりふりと揺らしながら、肉球のある手を挙げる。
「アンジェせんせーって、誰と交尾したの?」
その瞬間、部屋の空気が消滅したかのような錯覚がオレを襲う。
皆が一斉に押し黙ると、こうも迫力が出るものなのか。一切無音だというのに、部屋中から得体の知れない圧を感じる。このままだと70年ぶりに集団嫌いを再発しそうだ。
「(そういえばオレ、昔は人ごみが苦手だったな)」
オレは凍りついた室内を溶かすべく、柔らかい口調で喋り始める。
「ふふん。知りたい?」
「知りたい知りたい! 先生って、女の人が好きなんだよね? 誰としたの? なんで子供できたの?」
「おい、タマシャ。突っ込みすぎだ」
タマシャと呼ばれた猫の少女は、ハイエルフの青年によって首の後ろを掴まれ、退場させられる。普段からあの素振りで、慣れたものなのだろう。
あの性格でありながら、書写の試験に合格できるほど達筆で、しかもオレの記憶に残るほどの問題行動を起こさなかったのだから、人は仕事と日常でずいぶん変わるものなんだなあ。
……人ではなく、悪魔か。まあ、今の時代では似たようなものだ。
オレは彼女の二面性に感心さえ覚えつつ、期待している学生たちのために解説に戻る。
「オレとニコルの子だ。ニコルは知ってるよね?」
「あ、あの『白き剣士』ですよね!? 魔王を打ち倒した、大英雄のひとりです!」
「正解!」
学生たちの目がきらりと光り、興奮で部屋に熱気が戻る。
白き剣士の名前は強い。現代を生きる英雄であり、今なお無敗を誇っている最強の剣士なのだから、子供だって知っている。
オレは大好きなニコルの名声が高まっている事実にドキドキと胸を震わせ、饒舌に喋る。
「ニコルは素敵なんだ。オレの体を気遣って、役を変わろうと何度も提案してくれた。でも、オレの意志は固かった。だからオレは、あれこれ手を回して……たくさん誘惑して……熱い夜を、何度も繰り返して……ようやくひとり、実ってくれたんだ」
「……あの。経緯は、言わない方が良いのでは?」
苦学生の中では新参寄りの少年が、喋り出したオレに待ったをかける。
恥ずかしいから、ではなく……オレの立場を考えての発言だろう。たぶんそうだ。
確かに、薬に関してはまだ噂を流す程度しか許されていない。オレの命を使った人体実験の最中なのだから、まだ一般の手に渡るような事態は避けたいのだ。
「確かに……喋りすぎるのは良くないね。まあ、ちゃんとした子供だから、心配しなくていいよ」
オレがそう言うと、空気が弛緩する。特に真面目そうな数人は目に見えて脱力している。
「恋した結果で、よかったですな」
「うん。何も言わないし、触れてほしくないのかなって思って……うう、よかったぁ。よかったよぉ……」
男に組み伏せられてできた望まれない子供だと思っていたのだろうか。普通、子供は男と交わらないとできないものだから。
やはり、ちゃんと事情を話すべきだった。反省して修正しよう。
「他に聞きたいことはあるかな?」
「はい! 子供の名前、決めましたか!?」
個性豊かな学生たちに、オレはひとつずつ丁寧に答えていった。
〜〜〜〜〜
《アンジェの世界》
全員の帰宅を見送った後。
オレは屋敷の段差に足を取られないように気をつけつつ、使用人の手を借りて慎重に屋敷を歩く。
身重の体では、ろくに動けない。転んだら子供が死ぬ。転ばなくても、はずみで死ぬ。
それなのに子宮から内臓を圧迫し、そのうち体内を蹴り飛ばしてくるようになるというのだから、産まれる前からわがまま放題だ。
しかし、そんな迷惑でさえ愛おしい。早く子供の顔を見たい。
これが母性というものか。オレもようやく親になれるんだな……。感慨深い。
「一階に部屋を移そうかな」
そのうち段差の昇り降りが危険になるだろうから、今のうちに検討しておかなければなるまい。
いや、今後のことを考えると、オレに限らず妊婦になった者に専用の部屋を割り当てる仕組みを作った方が便利かな。ビビアンやニコルも、その時が来たら一階に住むことになるだろうから。
階段を上がり切ったところで、オレの呟きに対して使用人が答える。
「一階には我々使用人の寝室がございますから、緊急時にすぐ駆けつけることができます」
「なら、前向きに検討するべきか」
オレはビビアンとニーナに話すべき内容を頭の中でまとめつつ、自室に戻る。
使用人の出番はここまで。後はニコルの仕事だ。
そう、ニコル。平和になった世の中で暇を持て余している彼女は、オレにべったり寄り添う毎日なのだ。
ニコルは早足でオレに歩み寄り、触手でオレの体を支える。
「お疲れさま。楽にしていいよ」
「ふう。しんどかった……」
オレは背もたれに体重を預け、ため息をつく。
「肉体より精神が先に疲れるね。常に胎児を守り続ける毎日って、想像以上に気が気じゃない」
オレの正直な愚痴に対して、ニコルはくすくすと笑みをこぼす。
「アンジェは自分の命を軽く見積もる癖があるから、いい薬になると思う」
「うーむ。この子ができてから、些細な怪我にも気をつけるようになったから、その通りかもしれないね」
オレは幾度となく死を経験し、そのたびに蘇ってきた。そして、今回も出産の折に死ぬ可能性が非常に高い。
オレだけが不利益を被るなら、構わない。何度だって死んでやる。だけど、オレの死と子供の死が同期しているなら……話は別だ。
何としてでも生きなければならない。今のオレにとって、子供はニコルの次に大切なものだ。
オレは今も栄養と魔力を吸い上げている胎児に語りかける。
「女性同士の子供は、遺伝の都合で必ず娘になる。きっと美人になるだろうなあ。オレとニコルの子供だからな」
「私は美人じゃなくてもいいけど、日光に弱くないといいな。胸も大きすぎない方が生きやすいし……髪も黒い方が好きかも」
今だからこそできる、未来の話。推測でさえない、親としての願望。これを語り合う時間が、なんとも楽しくて仕方がない。
確定しているのは、体の性別が女性であることと、高い魔力を持って生まれてくること。それだけだ。
髪の色も目の色も体つきも、何もかもが不明瞭。あるいは病を抱えて生まれてくるかもしれない。
だとしても、へっちゃらだ。生まれた時は半分オレで、半分ニコル。そしてきっと、育てば2人を超えてくれるのだから。
「ところで、ニコル。名前は考えてある? オレは産んでからにしようと思ってるけど……」
学生から質問されたことを思い出して、オレはなんとなく尋ねる。
オレは娘の姿を見てから、それにちなんだ名前に決めるつもりだが、ニコルには既に考えがあるかもしれない。そう思ったのだ。
ニコルは雪解け水のような澄んだ瞳を娘に向けて、夜を照らす月のような優しい顔で微笑む。
「もし似合う子に生まれてくれたら……付けたい名前があるの」
ニコルは照れ臭そうに頬を染め、発表する。
「『アンジェリコ』」
「……照れ臭いなあ」
オレとニコルの名前を合わせたのか。
ただ、オレは反対だ。この子には親の良い部分だけを引き継いで、大人になったら独自の道を歩んでほしい。その時、親に似た名前は枷になってしまう可能性がある。
「良い名前だけど、この子はオレじゃないし、ニコルでもない。オレたちの名が呪いにならないようにしてあげたいな」
「そうかな? いかにも家族って感じで、良いと思ったんだけど……思春期になったら鬱陶しいと思うのかな? 親の道具みたいだって思われちゃうかな?」
「それは……どうだろうね」
ニコルの回答はオレの意図と少しずれている。でも指摘する必要はあるまい。ニコルの言葉も正解かもしれないのだ。
全ては未来に決まること。故に、気にするだけ気にして、手を尽くして足も尽くして、後は天命に任せるのみだ。
オレは時計を見上げて、のんびりと過ぎる時間を楽しむ。
「折角だから、たくさん考えてあげよう。迷ったら、みんなの意見を聞けばいい」
「そうだね。ニーナ様に貴族の名付け方を聞いてみたいかも。ナターリアはどんな名前が好きなのかな。なんだかワクワクするね」
オレたちはそう遠くない先の話で盛り上がり、ゆっくりと夜を明かす。
〜〜〜〜〜
《誰でもない世界》
魔王が堕ち、英雄が昇る。
人が減り、悪魔が増える。
いつの何処で何が起ころうとも、世界は続く。
星の肌で起きた異変を、気にかけることもなく。
ただひとつ、無限の空に憂いがあるとするならば。
それはなお、魔力の底に限りがないことだろう。
魔力で生きる悪魔が増えれば、世界という箱も魔力で満ちる。赤子でもわかる道理である。
魔力は不可思議。曖昧で、不安定で、何者にも名付けられない力。
それで栄えた文明の、なんと揺らぎやすいことか。正にも負にも、容易に振れる。
新しい国が興り、古い国が滅び。
それでも、この世界は続く。
容赦なく、続く。




