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『弟子』

 《アンジェの世界》


 大規模な宴が終わり、正式な式典も終わり、エイドリアンによる事後調査も完了し、何日か経って。


 オレは今、屋敷の書庫で写本の作業をしている。

 自分でやっているわけではない。字が綺麗な学生を雇い、ずらりと並べた机に向かわせ、写字をしてもらっているのだ。

 オレがやるべきことは、内容に間違いがないかどうか添削する作業と……あとは、自分の知識を本にする仕事だ。


 目立つ高台の上で、オレは山積みになった本を速読しながら、知識の海と照らし合わせて内容を深める。


「ふむ。ここはこういう書き方をしているのか。確かに読み手に教える上ではこの方が都合がいい。先人に倣おうか」


 オレは自分の文章に自信が無いので、先に世に出た本を参考にして推敲しているのだ。

 一度読んだことがある本ばかりだが、知識の海と照らし合わせて読み直すことで内容への理解が深まる。ひとりで執筆している都合上、内容の間違いに気がつきにくいという弱点を、これで解消できる。


 オレが自然魔道具に関する本を書き上げると、学生が文字のびっしり詰まった紙束を持ってやってくる。

 オレの作業がひと段落するまで待っていたのだろうか。律儀な子だ。


 彼は緊張した様子でオレに分厚い紙束を手渡すと、頭を下げて席に戻ろうとする。


「あ、そこで待って。今読むから」


 オレは知識の海にある原本と照らし合わせつつ、ぱらぱらと紙をめくっていく。

 綺麗な字だけど、書き方に不慣れな雰囲気が滲み出ている。推測するに、この子は新入りのようだから、初めて書き上げた本といったところか。


「きみ、今回が初めてだね?」

「え、は、はい。僕のことを……」

「知らない。でも、推測できる要素は山ほどある」


 顔つきとか、手についた染みとか、紙で手の指を切った痕とか……そういう外見的特徴だけでも、彼が不慣れだと察することはできる。


「きみの処女作……しっかり読ませてもらったよ」

「ありがとうございま……え? えっと、もう読み終わったんですか?」

「大した量じゃないからね。字も綺麗だし、突っかかりなく読めたよ。丁寧な仕事、ありがとうね」


 そう言いつつ、オレは魔道具でいくつかの文字を消し、自分の字で書き直す。


 装丁はまだだし、挿絵も魔道具でやるから何も描かれていないけれど、これは紛れもなく、彼にとって初めての自作本だ。丁重に駄目出ししてやるとしよう。


「さて。今後のために聞くといい。きみの場合、専門用語の類で書き間違いが目立つ傾向にあって……」

「は、はあ……」


 オレは次の学生が来るまでの間、その子にくどくどと指導し続けた。

 彼は真剣な顔で聞いてくれていたけど……鬱陶しいと思われてないといいなあ。


 〜〜〜〜〜


 《アンジェの世界》


 夜遅くなり、解散の時刻となる。

 オレは備え付けの時計を見て、閉館を宣言する。


「お、時間だね。今日はこれまでにしようか」


 ここに通う者は経済的に厳しい立場にある苦学生が多い。昼は学業に励み、夕方以降はこうして賃金を稼いでいるのだ。

 そんな彼らのために、オレたちの屋敷では夕食をご馳走することにしている。

 貴族向けの料理の余りで作った、まかないメシ。あまり上等なものではないが、味も鮮度も抜群だ。


 それに、毎日の食費が浮くなら、その分自分の勉強や趣味に割く金が増えるだろう。勉強だけでいっぱいいっぱいの、視野が狭い人間になってほしくない。金を蓄えて、若い時分にしかできない体験もしてほしいものだ。


 オレは使用人が運んできた皿のひとつを手に取り、片付けられた高台の席に座る。


 今日の献立は馬鈴薯とひよこ豆の煮込み料理か。よく見ると肉の切れ端らしきものも垣間見える。おそらくは豚肉だろう。貴族向けのものには、もっと大きな塊が転がっていたのだろう。


 飢えた学生たちが幸せそうに頬を緩め、一心不乱に匙を動かすのを見て、オレは腹ではない部分が満たされていくのを感じる。


「(彼らの年齢を考えると、これでも足りないくらいだ。しかし、この活動はそれほど利益が出ているわけではないからなあ。このくらいが妥当だろう)」


 料理人の仕事量を増やし、我々が財布の紐を緩めれば、彼らの腹を十分に満たせるようになるだろう。

 しかし、それでは甘い。甘すぎる。彼らは決して恵まれすぎてはならないのだ。生み出す価値と釣り合いの取れない施しを受けさせてはいけない。そんなことをしたら、価値観が歪んでしまう。


「(足りない分は、自分の努力で勝ち取りたまえよ。なんでも人から与えられると思っちゃいけないよ)」


 欲望こそが進歩を生むと、誰かが言った。ならば彼らの食欲も、きっと彼らの進化を促すだろう。


 そんなことを考えながらほんのりぬるい残り汁を啜っていると、オレの元にひとりの学生がやってくる。


「あ、あの……アンジェ様……」


 気弱そうなその少女は、ところどころほつれた服をぎゅっと握りしめながら、オレに尋ねる。


「わちきは貧民の出でありんすが、何故主様はわちきたちにこれほどよくしてくださるのでありんしょう」

「利益があるからだけど?」

「アンジェ様の目的はそれだけではないようざんす。こんな卑しい身をお使いになられるのは……」


 卑屈な彼女のもとに、同じ制服を着た少女がやってきて、何やら弁明を始める。


「ああ、すみません。この子、よその国から来たんですよ」

「へえ! 気になる気になる! 何処から!?」

「ヤマト連邦のコックリ国でありんす……」


 ほう。ドイルさんの連邦か。モズメのところとは断じて言わないぞ。


 オレは食器を使用人に片付けてもらいながら、続きを促す。


「おお! あそこからってことは、結構な異文化体験をしていることになるね。こっちは全然違う雰囲気でしょ?」

「ええ、まあ……お察しの通りでござりんす」


 少女はヤマト製らしい髪飾りをいじりながら、俯きがちにオレの方を見ている。


「ヤマトはおなごの立場が低うござんして、モズメ様のような方のおかげで、近頃になってようやくお上に声が通るようになった次第でありんす」

「あー。だから、距離が近いオレに戸惑ってるのか」


 確かに、オレは地位の割に平民との距離が近い。こうして直接話し合い、食卓を共にすることさえできてしまう。

 何故かと改めて問われると、ちょっと困る。自分がどうしてこんなことをしているのか、あまり考えたことがなかったからだ。


 ……もしかすると、オレが平民上がりだからかもしれない。ど田舎の閉鎖的な村から他人に価値を見出されることでここまで這い上がった経験が、オレの行動原理になっているのだ。


「確かに、写本はある程度地位のある家の子がやるのが一般的だ。この国ではないけど、隣のミストルティアではそんな風潮があるね。大切な本を預けるには信頼関係が必要だし、そういうのは教育がちゃんとしてる貴族に限られるのかな……」

「やっぱり、そうでありんすね……」

「でも、きみの字は艶かしさがあって美人だよ。何も問題はない。優秀な人がいるなら、平民だろうとオレは使うよ」


 オレが彼女の本を思い出して素直に褒めると、ヤマトから来た少女は林檎のように顔を赤く染める。

 字は自分の魂の切れ端。だからこそ、生き様をはっきりと表す。彼女の魂は美しい。オレが保証するよ。


 オレは彼女の隣に立ち、ほんのりそばかすのある顔を見上げる。


「オレのために……そして、この街のために……これからもよろしく頼むよ。この街の未来を担う若人よ」

「は、はい!」


 彼女は社会に出たばかりの若者のように、張り切った顔で拳を握る。

 まだ学生だけど、これは将来有望だ。


 〜〜〜〜〜


 《アンジェの世界》


 屋敷周辺は、夜になると魔道具の街灯が輝く。しかし街までずっと光の道が敷かれているわけではない。裏路地や過疎地域など、暗いところはしっかり暗い。


 オレは責任を持って学生たちを家に帰すべく、魔導車の専用便で毎回送迎している。

 まあ、運転するのは使用人なんだけどね。オレじゃ手も足も全然足りないし。


「はいはい、乗って乗って」


 オレは巨大な鉄の塊に学生たちを押し込め、自分は最前列の席に座る。

 いつもは屋敷の前でお別れなんだけど、今日は街で用事があるからオレも乗っていく。もう少しだけ一緒にいられるね。


 本を読みながら後ろに耳を傾けてみると、学生たちは仲良く会話しているようだ。

 写本している間はしゃべれないからね。友達同士で誘い合ってここに参加していても、振り返りや世間話ができるのはこの時間くらいのものだ。


「アンジェ様って、本当にもっと話しかけても良い方なんですか? 物凄く高い地位にあると聞きますし、今回お会いして理知的な方だとわかりましたし……。我々ごときが私用で話しかけるのは、無礼にあたるのでは?」

「へーきへーき。世界一賢いお人形さんって感じで、話してるとむしろ安心するかも」

「人形!?」

「うん。私たちが大きくなって、子供ができて、孫ができて、お婆ちゃんになっても……ずっと見守っててくれる、お人形」


 なるほど。そういう受け取り方をされているのか。

 しかし、未来のオレがこの街にいるままとは限らない。状況が落ち着いたら、またニコルと共に旅してみたいのだ。


 昔はあてのない旅だったが、今なら帰る場所がちゃんとあるから、観光旅行の気分で旅ができるはずだ。きっと楽しい時間になるだろう。

 ……反面、この街のみんなを見守ることができなくなるのは気がかりだけど。


 オレは皆の方を振り向き、最大限の可愛らしい笑顔を作って、手を振る。


「ね? 最高に可愛いでしょ?」

「確かに……か、かわいい、ですね?」

「わちきももっとお話ししてみたく思いなんす。今はちょいと、心地よい話題が浮かぶことさえありんせんけども……」


 どうやら、先ほどの2名も苦学生の会に馴染むことができたようだ。きっかけを作ることができて、オレとしても鼻高々である。


 ……さて。

 その後学生たちの会話を盗み聞きすることで、彼らの間で流行っている菓子や遊戯について情報を仕入れることができた。

 知識の海にはまだ載っていない、局所的な流行り。このような生きた知識は、今のオレにとって最も新鮮で尊ぶべきものだ。


「(街で生きる人の気配を感じることができる。今という時代の、ナマの知識。それに直で触れている感覚こそ、命の実感だ)」


 オレはほくそ笑みつつ、帰りがけに菓子店に立ち寄ることを決心する。金ならいくらでもあるので、ほかに人がいないようなら買い占めてやろうか。


 そんなオレの企みをよそに、魔導車は目的地で停止し、街の中央にある明るい広場で皆をおろす。


「また来てね」

「はい!」


 散り散りに去っていく学生たちの背中を、オレは見送る。全員帰る方向が違うのだ。


 70年で、この街には沢山の学校ができた。彼らの年代では3校か。数学や地理などを学ぶ普通学校と、魔法を主に学ぶ魔法学校と、身体作りや集団行動を学ぶ軍学校がある。

 増えた学校のほとんどは、ニコルたちの意見を受けて、オレが発起人となって設立したものだ。

 出資はビビアン率いるノーグ商会。軍学校は国王のニーナ公認でもあり、国から補助されている。


 ちなみに、それぞれの校長や責任者は、オレではない。有力な学者に背負わせた。オレはあくまで、言い出しっぺに過ぎない。

 そうでないと、こうして直接貧しい学生への支援なんかできないし。

 ……つまり、オレはずるをしている。楽な身分でいたいから、荷物を他人に押し付けている。

 でも、これでいいはずだ。荷物を苦労と思わない人たちに背負わせているつもりだから。


「みんな帰ったかな」


 オレは辺りを見回して人がいないことを確認し、頼まれた用事に取り掛かる。

 中央広場周辺にある、魔道具の確認。それが今回、ビビアンからオレに任された仕事だ。

 オレはオレでこうやって仕事を押し付けられているのだから、お互い様ってことだな。はあ。


 オレは茂みに隠されたそれを見つけて、魔力の流れを確認する。


「よし。外から見える分には、問題なし」


 これは魔力による悪影響を抑える魔道具だ。具体的には、人間が嫌悪感を覚える魔物特有の魔力から、臭みを消す効果がある。

 これがあるおかげで、人間と悪魔は共存できているのだ。


「確かアース村とマーズ村の間にあった……『ドウさん』を参考に作ったんだっけ」


 あれは魔物の侵入や誕生を防ぐ機能があった。結界を張り、その範囲内での魔物の狼藉を防ぐことができていた。

 確かに、応用すれば魔物の魔力にだけ作用する魔道具ができそうだ。ビビアンの頭の柔らかさが発揮された発明と言えるだろう。


 オレは機器を使いつつ検査を行い、異常がないことを確認する。


「よし。これで明日も、街は安泰だ」


 この魔道具を検査できる人材は少ない。オレとビビアンは修理まで完全だ。ナターリアとエイドリアンも異常が起きていたら察することができるだろう。ビビアンの工房にも何人かいる。それ以外じゃ無理だ。


 ビビアンの技術力に、街が追いついていない。少し危うさを感じるけど、今更街の方針を変えることはできない。

 ……学校の生徒たちから、これを任せられる人材が現れてくれるといいな。


「疲れた。帰ろ」


 オレは通信機で自前の飛行機械を呼び出して、空を飛んで帰宅する。

 飛行機械は軽いものしか運べないけど、オレは軽いからこうやって移動できる。危ないし子供が真似したら取り返しがつかないから、明るいうちは自重してるけど……。


「ふんふんふふーん」


 おでこに当たる夜風が涼しい。そういえば、そろそろ冬の花が咲く時期だ。もう少しすれば、贈り物の花が空を飛び交う光景を見ることになるだろう。あれは美しい。


 空の交通網、昔はずいぶん荒れていたなあ。機械の衝突で荷物がダメになったこともある。大きさや重さに制限をかけて、機械の性能も進歩させて、去年ようやく無事故を達成できた。

 騒音や突風の問題も解決できたから、次は人を乗せられるくらい大型に……。夢が広がるなあ。


「そのうち、みんなが空を飛ぶ世界になったりして」


 まだ遠い未来の話だ。でも、きっといつかは辿り着ける。

 それまで、オレは生き続ける。みんなが死んでいくのを寂しいと思う時はあるけど……歴史を繋ぐ証人になれるなら、仕方ない代償だ。


 オレは足元に広がる街を眺めて、千年後の未来に想いを馳せる。

 どうかそれまで、世界が平和でありますように。


 〜〜〜〜〜


 《アンジェの世界》


 屋敷に戻ると、エイドリアンがオレの部屋にいた。

 使用人に来客の話は聞いてたけど、堂々と部屋に上がられると、ちょっと戸惑うな……。最近は偉くなったからか、無許可でそんなことされなくなったし。


 エイドリアンは伸びた背丈を存分に生かして、寝床を占有している。


「お邪魔してるよ」

「未だに慣れないなあ、その姿」


 何処に出しても恥ずかしくない綺麗な女の人が寝転んでいると、エイドリアンではない何かに見えてしまう。まだ子供の印象が抜けないんだよなあ。記憶力がお婆ちゃんになりつつあるのかもしれない。


 オレは使用人に着替えさせてもらいながら、相変わらず仏頂面のエイドリアンと会話する。


「何か用事?」

「別に。ただ、ちょっと寂しくなって」


 表情が乏しい割に人懐っこいんだよなあ、この子。あんまり泣いたり笑ったりしないけど、心はちゃんと動いてくれている。


 寝巻きになったオレは、エイドリアンの上に乗る。

 体が硬い。細身なのに、外見からじゃ想像もつかないほど筋肉が詰まっている。見事だ。


「じゃあ、今日は一緒に寝る?」

「子供扱いしないでほしいよ。……でも、そうする」


 オレの教え子第1号は、お腹の上のオレを慎重に抱きしめる。

 土いじりと武器の扱いに慣れた、硬く素朴な手。その岩肌のような皮膚がオレを傷つけないよう、慎重にオレを愛でてくれている。


 母なる大地のように強く、優しい。

 本当に、いい子に育ったものだ。


 オレはエイドリアンの腹筋に頬をぴたりとつけて、世間話を始める。


「最近はどう? 困ってることはある?」

「仕事は順調だよ。というか、何かあったらとっくに言ってる」


 エイドリアンは真面目だが特に感慨の無さそうな顔で、天井の一点を見つめている。


「お姉ちゃんの信者の人たちは、みんな優しくて……でも、たまにちょっと怖くて。魔王の隣を押しつけられたとか、都会から追い出されたとか、言ってる人を見たことある」

「森の中で、魔力の少ない人が集まって暮らしていたら、そう思ってしまう人も出てくるだろうね」


 ハイエロファントの最初の世代は、魔王と戦う術を探す志願者たちだった。

 魔力量が少なく、体力もない。それでも魔王を倒したい。そんな悪魔祓いや一般人たちを集め、緑化した荒野に住ませたのだ。

 耳の魔道具を装着した人間の集団で、空気中の魔力の流れを遮断し、魔王に流れ込む力を少しでも削る。そのために彼らはいる。


 しかし、それから何十年も時が経ち、彼らの子供や孫が生まれると、初代とは異なる考えを持つようになった。

 隣にある素晴らしい都会……ピクト領インバースの街への憧れだ。

 ビビアンのおかげで豊かに発展していく街。しかしハイエロファントの者たちは、その中に加わることができない。

 出入りは自由であり、学校にも通えるが、移住には厳しい制限がかかる。ハイエロファントの人口が減ってしまうと、魔王に対する牽制の役目を果たせなくなってしまうからだ。


「(ニコルも都会に憧れていた。気持ちは痛いほどよくわかる)」


 彼らの都会に対する羨望は、そのうち積もり積もった不満となり、ニーナを筆頭とする支配者たちに向くだろう。ハイエロファントに縛り付ける鎖を打ち砕こうと、内乱を起こすかもしれない。


 彼らが反体制勢力とならないように、ナターリアとエイドリアンが管理しなければならない。もちろん、オレたちも心血を注いでハイエロファントの地位向上に努める。環境や賃金に不満が出ないように、産業を確立したり、移民を増やしたり、ニーナを直接訪問させたり……。

 それでもエイドリアンの周りには、未だに不満を口にする者が絶えないようだ。


 エイドリアンは相変わらず退屈そうな顔で、オレの頭頂部を撫でてくる。


「難しいことはわからない。でも、あたしにもわかることはあるよ。誰かが魔王を倒さないといけない。その誰かのために、支える誰かも必要なんだ」


 エイドリアンなりに、ハイエロファントの必要性は理解しているようだ。


 それにしても、魔王と直接対決する役目を買って出たのは、どのような心境によるものだったのか。オレでさえわからない。

 ……生半可な覚悟ではなかったことだけは確かだ。


「今までずっと、みんなはあたしを支えてくれた。だから、アンジェちゃんに聞きたい。魔王を倒したら、どうすればいいの?」


 純粋な瞳が、じっとオレを見つめる。

 オレはニーナたちとの話し合いであらかじめ決められていた内容を、エイドリアンに伝える。


「もうしばらく魔王の谷の経過を見守って……何も起きないようなら、ハイエロファントは当初の役割を失う。魔道具の着用義務はなくなり、移住も自由になるだろう」

「『都会に行きたい』って思った人は、ちゃんと行けるようになる?」

「もちろん。ただ、その……これは個人的な意見なんだけど……」


 オレは都会という言葉の響きと、ハイエロファントで見た素晴らしい王宮と……そして、遥か遠い日々を思い返し、呟く。


「田舎も案外、悪くないよ。それが生まれ故郷なら、尚更だ」


 故郷は心の奥深くを形作るもの。一度手放せば二度と戻らない。

 ナターリアもビビアンもニーナも、みんなあの地のことを気にかけている。ならば、ハイエロファントの人たちには、早まったことをしてほしくないものだ。


 あそこもまた、この国だ。ぜひみんなの手で豊かにしてほしい。オレはそう願っている。


「故郷。みんなにとって、あそこは故郷……」


 エイドリアンはオレの耳を撫で、軽くつまむ。


「……考えたこと、なかった」


 彼女にとっての故郷は、サターンではないだろう。あの街を自由に出歩くことは、ついに叶わなかったのだから。

 おそらく彼女の胸にあるのは、宿の地下の暗い地下室。あそこが彼女の原風景なのだ。

 ひとりぼっちの暗闇。それがエイドリアンの故郷。


 エイドリアンはオレの体を持ち、上半身に近い位置へと移動させる。

 無表情の顔が近い。静かな威圧感が、オレの心臓を揺さぶる。


「故郷が同じだと、やっぱり仲良くなる?」

「オレとニコルのこと? あんまり参考にしない方がいいよ。極端な例だから」

「でも……ハイエロファントにも、そういう人たちがいるよね?」

「恋人同士の幼馴染は……いるだろうね」


 似たような境遇の人物は、探せばいるだろう。オレは妙な魔法こそ持っているものの、生まれ育ちは普通の範疇でしかない。


 オレはエイドリアンの胸に頭を乗せ、目を閉じる。

 鼓動が伝わってくる。血が通っている証だ。今のエイドリアンは、もうナターリアの鉢植えではない。


 もしかして。

 エイドリアンが今、欲している言葉は……。


「大丈夫。エイドリアンはもう、自由だ」


 エイドリアンは目を見開いて、オレを凝視する。

 どうやら、オレの推測は当たったようだ。


 ナターリアは配下に慕われ、尋常ではない求心力を得ている。一方で、エイドリアンはハイエロファントが持つ役割を体現し、全てを捧げている。

 魔王を倒すという役割。それが終わった今、エイドリアンの立場はどうなるのか。オレたちのところに戻ることは許されるのか。ハイエロファントの人たちを導く必要があるのだろうか。先ほどまでの会話は、そんな彼女の不安に由来するものだった。


 わかってしまえば簡単だ。オレがやるべきは、エイドリアンの目の前を照らすことだけだ。


「魔王を倒しても、エイドリアンの価値がなくなったりはしない。ハイエロファントでやるべきことは、まだまだあるはずだ」

「じゃあ、森で暮らした方がいい?」

「屋敷に戻ってきても歓迎するよ。エイドリアンがいてくれたら、オレは嬉しい」

「う、うーん……?」

「周りがあれこれ口を出してくるだろうけど……少しは我儘を言ってもいいんだよ」


 オレはエイドリアンの整った顔を見て、微笑む。


「君はもう、立派な大人になったんだ。見た目だけじゃない。魔王を倒した実績もある。何処に行っても、何をしても、きっと味方になってくれる人がいるよ」

「友達も、できる?」

「エイドリアン次第かな。仲良くなりたい人と、今度こそ正しく仲良しになるといい」


 エイドリアンはもう、人との付き合い方を知っている。前線で周囲を気遣いながら指揮をする姿を、オレは何度も見ている。

 彼女は大人だ。少なくとも、大人に混じっても遅れは取らない。オレが保証する。


 命が長い悪魔にとって、子供と大人の線引きは曖昧だ。だからこそ、オレがこうして認めてあげないと。


 エイドリアンは少しだけ強くオレを抱きしめて、ゆっくりと目を閉じる。


「ありがとう。まずは近くの人から、ちょっとずつ話しかけてみるよ。それからでいいよね?」

「それでいい。無理はしないでね」


 オレたちは抱き合ったまま、ゆっくりと眠りに落ちていく。

 沈むような安堵の中、温かい心で満たされていく。


 閉じかけた意識の隅で、エイドリアンの声がする。


「……あたしは、どんな人を好きになるんだろう」


 夢見るような声。希望と共に明日の朝を待つような能天気さが、そこにある。


「男の人かな。女の人かな。綺麗な人かな。面白い人かな。どれでもなかったりして」


 その声もまた、眠気の中に溶けていく。


「お姉ちゃんに優しい人がいいな」


 大切な教え子の温もりに包まれながら、オレは最初の寝息を立てる。


挿絵(By みてみん)

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