『祭』
《ナターリアの世界》
あたいは昨夜のせいで痛む全身をいたわりながら、ビビアンちゃんとアンジェちゃんの熱心な対談をぼんやりと見学している。
「金属の体しか持たないニーナのことも考えるなら、魔物という形で産むしかない」
「人間はどうすればいいの?」
「後回し。魔物に対する方法を応用できるなら早く済むけど、そうじゃないなら……きついねぇ……」
「となると、この街の魔物率がとんでもないことになるなあ。暴動、起きたりしないよね?」
「それは問題ない。けど、よそからどう見られるかが怖いなあ。あくまで人間主体の領地だから魔物がいても許されているんだけど……魔物の方が多くなったらどうなるか……」
彼女たちの会話に、あたいはついていけません。
ただ、ドリーちゃんをずっと匿い続けてきた身としては、よその人間からの魔物に対する目は怖いです。ピクト領は悪、なんて言い出されたらどうしたらいいんでしょう。不安ですな。
あたいは心の中に去来した暗い霧を振り払うべく、べたべたと触れ合いながら話し合いを続ける2人に声をかけます。
「あのー、一旦お風呂に行きませんか? なんというか、目のやり場に困るお姿ですので……」
2人ははっとした様子でお互いの体を見て、拭う。
やりっぱなしは不潔で困ります。人としての倫理観まで捨てたわけではなかったようで、安心しましたよ。あんな格好で過ごしていたら、間違いなく品性を疑われますから……。
〜〜〜〜〜
《ナターリアの世界》
あたいたちはお風呂場に入り、ビビアンちゃんが沸かしたお湯に入ります。
相変わらずビビアンちゃんの水魔法は凄いですね。広いお風呂場が一瞬で準備完了して、湯気がもくもくと立ち上がり……。
しかし、当のビビアンちゃんの表情は晴れません。まだ頭の中にさっきの疑問が残っているようです。
「何処かにあるはずなんだ。解決策が」
「もしかして、あたいたちの間に子供を作るっていう研究の話ですか?」
「そうだ。ぼくは仕事が忙しいから、まだ欲しくないけど……作れるようにする意味はあると思うから」
あたいは特に詳しくもない研究の話に突っ込んでしまいます。
だって、その研究を一番に推しているのは、あたいですからね。
あたいはドリーちゃんを産んだ母親ですが、お腹を痛めて産んだ経験がありません。ですので、体を傷つけてまで未来を残そうと頑張っている世の中の母親に対して失礼なのではないかと思ってしまったのです。
……ニコルさんはそんな事を気にする必要はないと言ってくれましたが、これはあたいの問題です。
みんながあたいのことをドリーちゃんの「姉」と呼ぶのは、やっぱり産み方の問題だと思うのです。
あたいは母親になりたい。母親を名乗れるようになりたい。母親になって……天国にいるお父さんとお母さんのために、孫を作りたい。血脈をあたいで途切れさせずに繋いでいきたい。
あたいはビビアンちゃんを揺さぶり、進捗を聞き出します。
専門的な用語はわかりませんでしたが、どうやらあまりよろしくないようです。
「まったくの無から新しい技術を作るのは、本当に骨が折れる」
ビビアンちゃんは肋の浮いた体を清めながら、誰へともなくぼやいています。
「普通の夫婦を強制的に妊娠させる魔道具から先に作るべきかなぁ。それとも魔物の生殖を補助する魔道具か?」
「協力してくれる人がいないでしょ。赤子を差し出すなんて、普通の親は断固拒否するよ」
「それだよなぁ」
2人は当たり前のように向かい合って座り、お互いの体を洗い始めます。
あたいはひとつ疑問に思ったことがあって、無学な身の上ながら2人に問いかけます。
「協力者、いないんですか?」
「そりゃ、自分の子供に関わる話だからねぇ。万が一命を落としたら大問題だ」
「母体だって無事で済むとは限らない。やっぱりネズミか何かでやるのが一番だよ。……でも魔力がなあ」
アンジェちゃんは実験が行われている部屋に立ち入ることができるため、ビビアンちゃんと同じ悩みを共有できるのでしょう。もちもちした腕を組んで、首を捻っています。
「ネズミと人じゃ遠すぎる。体の構造も、魔力の量も質も……。でも大型の魔物じゃ実験なんて……」
「できることを安全にやればいいじゃないすか」
どうしても人間で実験しなきゃいけないようですけど、だったらできる範囲だけでもやってみればよいのではないでしょうか。
あたいにとっては、2人がどうして袋小路にいるような顔をしているのか分かりません。
「健康診断して何か調べるとか、へその緒や胎盤を譲ってもらうとか、色々あるんじゃないすか?」
「へその緒」
「胎盤」
2人は洗う手を止め、突然真顔になります。
明らかに部屋の空気が変わりました。怖い。あたいは一体何を指摘してしまったのでしょうか。
「そうか。まずはそこから始めるか。へその緒の魔力が母親や子供の魔力とどう違うのか、調べてみるべきだろう。盲点だった」
「胎盤は胎児の成長に大きく寄与する器官だ。解析すれば、母親からの魔力の受け渡しがどのように行われているのか、それが胎児の魔力にどう影響しているのか、わかるかもしれない」
「それだ。そしたら人間が悪魔になる過程もわかるやもしれない。すごいぞ。となると、魔道具も……」
2人は体を洗うのもそっちのけで熱を帯びた議論を再開してしまいました。
……あたいの発言がそんなに効いたんでしょうか。天才たちの考えることは、本当にわかりません。ちょっとしたきっかけで台風のように思考を回転させ始めのですから、とてもついていけません。
仕方がないので、2人の体はあたいが隅々まで洗ってあげました。
アンジェちゃんは体温が高くて、つるつるもちもちのお子様です。対してビビアンちゃんは体温が低く、すべすべほっそりって感じです。
こんな体から汚れが出るなんて、とても信じられない雰囲気です。それでも洗わないと臭くなってしまうのですから、不思議ですねえ。
「ナターリア。ありがとう。さっきの助言のおかげで、活路が見えた」
あたいにはよくわからないことで喜ばれても、あんまり共有できなくて微妙な気分です。
アンジェちゃんもあたいの方を見て、ニヤけながらも感謝の意を伝えてくれます。
「ナターリアって、妙に間がいいよね。天運とでも言うべきものを持ってるような気がする」
「まさか。あたいは不運ですよ。踏んだり蹴ったりな人生です」
「主観ではそうだろうけど、客観では……まあ、そのうちわかるよ」
アンジェちゃんは長いまつ毛をさらりと揺らして、穏やかに目を伏せます。
……この子も大概不運な身の上ですけど、頑張ってこの街まで旅してきて、地位や信頼を得ています。あたいも負けてはいられませんね。年長者として、恥のないようにしなければ。
あたいたちは湯船に浸かり、ついでにまた互いの体をつつき合い、のぼせかけた辺りで日常へと戻りました。
何もかもを許しあえる関係って、楽しいなあ。
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《ビビアンの世界》
ぼくとアンジェは朝食を食べて、すぐさま工房へと足を運ぶ。
時間が惜しい。すぐにでも医療従事者を集めて今までの資料の提供と体験談の聞き取り、何より協力してくれる妊婦を探さなければ。
ぼくは使用人のラインに概要を説明しながら、工房の内部にある関連資料をかき集める。
ラインはナターリアの発想ではなく、何故かぼくの方に驚いている。
「『悪魔はへその緒を忌避する』という俗説が遠い地にあると聞きます。実際、旅人……特に悪魔祓いは持ち歩いていることが多いとのことです。群青卿は恐れないのですか?」
「知らん。そんなもんの何が怖いってんだ」
ぼくが医療知識を覚えなおしていると、工房の点呼を代わりに終わらせたアンジェがてちてちと歩いてくる。
「へその緒は人体について詳しくない民でもはっきりとわかる生命の証だ。ある意味、子供と共に産まれてくるもうひとつの存在とも言えるからね」
「そういう見方もあるんですね……」
「故に、持っていると母の愛により難病を妨げる効果があるとか、人を脅かす悪魔にとって忌むべきものであるとか、そういう根拠のない話があちこちに発生しているんだ。人体……特に生死に関連する部位に神秘性を見出すのは、よくある話だね。へその緒もまた然りだ」
アンジェの知識の海も、それらの迷信が偽りであると太鼓判を押しているようだ。
でもアンジェは、それらの知識に興味を示している様子でもある。でなければ、こんなに愉快そうに語ったりはしない。
「そういった民間伝承の中には、無根拠なものは勿論だけど、経験則を伝えるためのものもあるんだ」
「経験……? へその緒が嫌いな悪魔がいるということですか?」
「違うよ。そんなに直接的じゃない」
アンジェはラインに向けて得意そうな顔を向け、誇らしげに語る。
「へその緒を大切に持ち歩く人は、親や思い出を大切にする人だ。真面目と言い換えてもいい」
「それと悪魔に、何の関係が?」
「親の愛を受けて育ち、干からびた肉の紐を大切にするほどの孝行者。旅をするにしても支度をちゃんとするだろうし、旅立ちを見守ってくれる人だっているだろう。生還率が高そうだと思わない?」
いかにも悲劇の前触れのような状況だけど、実際にはアンジェが語ったような男性の方が生き残りやすいのだろう。少なくとも、自分の明日すら定かではない盗賊や、昔のぼくみたいな逃亡者よりは……。
「つまりは、親や信頼できる人の言いつけを聞きたまえ、という教訓を含んでいるわけだね」
「……なんというか、言語化しにくいんですけど、それでいいのかって指摘したくなりますね」
へその緒に守られるはずの真面目な青年筆頭であるライン。その彼の口から出た不満げな感想に、アンジェは肩をすくめる。
「武器ではなくお守りを握ったまま死ぬことを『腑抜けの死』と呼んで嫌う悪魔祓いもいるらしい。お守りに殺される場合もあるってことだ」
「それはそれで、容赦ないですね」
「世界には色々な伝承がある。それらに対する色々な考察や感想もある。……オレは」
何かを言いかけて、アンジェは口を閉じ、微笑む。
「実験には関係ないことだ。これ以上はやめよう」
アンジェが何を考えたのか、ぼくにはなんとなくわかる。同調なんかしなくても、アンジェを理解しようと努力してきたから、わかる。
アンジェは世界の全てが知りたいんだ。知識の海だけじゃなくて、自分の目で見て、自分の手で触れて、体験として文字通り『身につけたい』んだ。
「(たぶんニコルの影響だろう。……いいなあ)」
ぼくはアンジェに向けて、この場を借りて強く宣言する。
「ぼくは世界を変える」
ぼくが大声を出すのが珍しいからか、工房の技師や職員の視線が一斉にこちらに向く。
それでいい。ぼくを偉大な存在だと信じてくれるみんなに、これを聞かせたい。
「ぼくの魔道具を中心とした世界に、これから変えてやる。価値観も倫理観も貞操感も……何もかもを塗り替えて、生きやすい世界に変えてやる!」
「群青卿の理想の世界とは、なんでしょう?」
ラインの問いかけに、ぼくは迷うことなく答える。
「あらゆる存在が社会の一員になれる世界だ。魔物だろうと悪魔だろうと、人間の中の爪弾き者だろうと、復讐に狂った悪魔祓いだろうと……知ったことか。役に立て。それぞれ思いおもいの形で、世界の役に立ってもらう。世界の力に変えてやる」
「おお……」
「目立ちたくないなら、影に隠れたまま金と功績をくれてやる。目立ちたいなら、商会の名で大いに宣伝してやろう。今の世の中が嫌いなら、画期的な魔道具を流行らせてみろ。世界はきっとお前に染まる。世の中が好きなら、良さを全面に活かした活動をしろ。こうありたいという理想を魔道具にぶつけて、世界に示して見せろ」
ノーグのような愛の形が受け入れられるように。魔物を産んだ程度で排斥されることがないように。
アンジェが生きやすい世の中になるように。ニーナが堂々と貴族を続けられるように。
ぼくは。
ぼくは……多様性のある世界が好きだ。
「その頂点に立つぼくこそが、ピクト領の希望だ。どんな形にもなれる柔軟性と、知識の海の断片。ふたつを併せ持った、未来の可能性そのものだ!」
「おおおおっ!!」
技師たちは燃えている。ぼくが謳う新しい世界に、確かな魅力を感じているのだ。
彼らは貴族からの信頼があるとはいえ、それ故に周りから浮き、一般的な人間社会からはみ出しつつあるのだ。研究一筋で寡黙な者が大多数であり、周辺住民とも話さない者が多い。
中には魔物の血が混ざっている者たちもいる。彼らの中には、迫害を受けて藁にも縋る思いで移住してきて、その魔力を役立ている者も。
……ちょっと演説じみた雰囲気を纏ってしまった。単なる意思表示でしかないのに。
このままだとなんだか妙な方向に熱狂しかねないので、ぼくは軽く冷や水をかけて場を収める。
「というわけで、身を粉にして働きたまえ、雑草諸君よ。ぼくの手で搾り取って、金と力に変えてやるよ」
「はいっ!!」
種類さまざまな雑草たちは、水路ひしめく工房を歩いて行き、それぞれの持ち場に戻る。
……健気で力強い、ぼくの戦力たち。彼らがいるからこそ、ぼくは商会と工房の二足の草鞋を履いていられるのだ。
ぼくは胡乱な顔をしているラインと、感激して涙ぐんでいるアンジェに向けて、上司として次の命令を下す。
「アンジェは知識の海で出産に関する逸話を探し、本にしてまとめること。書き上がった本は規定通り書庫に置け。読める文字で頼むぞ」
「了解」
「ラインはいつも通り、ぼくの身の回りの補佐だ」
「はい」
ぼくは先ほどの皆の様子を思い返して、漠然とした不安を覚えつつも、立ち止まることなく前へ進み続ける。
ぼくの理想。世界の変革。それを成し遂げるためには、努力を止めるわけにはいかないのだ。
見ていてくれ、ノーグ。ぼくは必ず残してみせる。ぼくとノーグの名を、世界の歴史に。
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《エイドリアンの世界》
ドリーは今、ニコルさんや軍のみんなと一緒に剣を振っています。
ほんとの剣は危ないから、ドリーは持っちゃダメみたいです。だから、ビビアンちゃんの匂いがする木のおもちゃで我慢です。
変な魔力がしてる木の剣を、ドリーはなんとなくぶんぶん振ってみます。
軽いです。金属の剣も軽そうだけど、こっちはもっと軽いです。とんでいっちゃいそうです。
アルミニウスのおじさんは、ドリーを見てびっくりしています。
「な、なんだお前……。異様な剣圧がするぞ」
「けんあつ?」
「風が起きてるってことだ。ほら、的がガタガタ鳴ってやがる」
おじさんが指差した方を見ると、なんかごちゃごちゃしたものが置いてあります。
あれって、狙っていいのかな。たぶん、いいんだと思う。でもドリーは『じょうしき』がダメだから、ちゃんと質問します。
「あれ、つかっていい? けんで、ぽんってして、いいよね?」
「ああ。そのためにあるもんだ」
おじさんがいいよって言ってくれたので、ドリーはコツンってしてみます。
ごちゃごちゃは、バラバラになって飛んでいってしまいました。
おじさんとニコルさんはおめめを丸くしてます。お姉ちゃんもびっくりするとたまにそんな顔になるよ。ドリー知ってる。
「な、なんだ、ありゃ。強すぎる」
「私たちほどじゃないとはいえ、ちょっと見た目からは想像もつきませんね。……やっぱり暴力とは何かをちゃんと教えないといけませんね」
「今までは悪魔なんて排斥すればよかったが、これからは手綱を握らねえといけねえわけだからな。ニーナ様もビビアンの嬢ちゃんも、ずいぶん難儀な道を行くもんだぜ」
わかんないけど、ドリーはよくないことをしちゃったのかな。
ドリーは木の剣を置いて、ぺこってして、頭を下げます。
「ごめんなさい。ドリー、めいわくかけました」
「え? ああ、いいのいいの。気にしないで」
ニコルさんはドリーが置いた剣を、またにぎにぎさせてくれます。
「ドリーちゃんが強いのは、悪いことじゃない。だけど、悪いことに使ったら悪くなっちゃうから、気をつけてね」
「わるいこと……」
ドリーは何が良くて何がダメなのか、よくわかりません。虫さんを食べるのは良くないって言われて、壁さんになるのもダメで……。
「わるいことって、なあに?」
ドリーはおバカだから、ちゃんとわかってる人に聞くことにします。
ニコルさんもアンジェちゃんもビビアンちゃんも、ドリーよりずっと頭がいいです。おねえちゃんはわかんないけど、たぶんドリーよりいっぱい知ってます。
ニコルさんとおじさんは、何かカッコいい笑顔になって、ドリーをなでなでします。
「いいよ。ドリーちゃんが悪いことしちゃう前に、ちゃんと教えてあげるからね」
「俺が駄目だって言ったら、すぐにやめるんだぞ。いいな?」
「わかった。ドリーはいうことをきくよ」
ドリーはすぐに返事をしました。
ドリー、みんなのために……がんばるよ。
学校に行ったり、お勉強したり、友達を作ったり、みんなと出会ったりして、いろいろやるよ。
だから、お願い。
ドリーのこと、大事にしてね。
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《アンジェの世界》
夜。オレたちの屋敷の大広間にて。
今日はオレとニコルの誕生祝いをすることになっている。
冬の寒さが濃く残る時期だが、オレたちはちょうどこの頃に生まれたのだ。
年は違えど、時期は同じ。ならば、一緒にやってしまおうというのが魂胆だ。
使用人たちの手で豪華に飾られた部屋の中、ナターリアは用意された席に座り、羨ましそうに頬杖をついている。
「あたいは夏生まれっすからねぇ。皆さんに祝ってもらえるのは、まだまだ先ですね」
「ぼくも春だったはずだから、まだ先だねぇ。ま、別にいいけど」
「ドリーはあきだよ。わくわくしながらまつね」
皆が雑談に耽る中、一際大きな席に座っているオレたちの前に、何人かの貴族が現れる。
ニーナ様と、ドムジ様。その後ろにいるのは、主任技師のクリプトンか。
辺境伯であり、最も地位の高いニーナが、まず真っ先に口を開く。
「このたびは生誕祭にご招待いただき、まことにありがとうございます。ニコル様、アンジェ様ご両名の、より一層の成長と活躍に期待しておりますわ」
「身に余る光栄でございます、ニーナ様。このアンジェ、今後も当領地のために尽くす所存でございます。本日いただいた祝賀のお言葉を糧とし、更なる飛躍に努めましょう」
オレが丁寧に挨拶をすると、ドムジ様が慣れない様子で声をかけてくる。
「『灰かぶりの叡智』と名高いアンジェ・アクシア・アース殿。此度はお招きくださり、光栄に思います」
慣れないなあ、この呼び名。
オレは爵位を得たから、今の名は『アンジェ・アクシア・アース』だ。アース家の爵位持ちのアンジェという意味だ。
アース家はオレとニコルによる命名だ。アース村の遺志を継ぐ者として、どうしてもこの名を推したかった。ビビアンもナターリアも賛成してくれて、本当に嬉しかったよ。
オレは生地をふんだんに使った女の子らしい礼服を優雅に着こなして、挨拶を返す。
「こちらこそ、ドムジ様と同じ時を過ごせることを、たいへん嬉しく思います。どうぞごゆっくりお楽しみくださいませ」
「ありがとう。……未来のピクトを担う英雄よ」
形式的でない賛辞。つまり最後の一言こそ、ドムジの心から出た敬意だ。
……どうやら彼は、オレのことを相当高く評価してくれているらしい。やはり、既に成功している先人からのお墨付きは嬉しいものだ。
オレがうきうき気分で隠しきれない笑顔を浮かべていると、最後にビビアンの師匠であるクリプトンが前に立つ。
彼はもう老齢で、杖無しでは歩くことさえ難しい。それでもここに来てくれたのは、ビビアンとの結婚の話を聞いたからか。
クリプトンは、丁寧なことにオレとニコルに一回ずつ頭を下げ、学者とは思えないほど威厳のある声を、しわがれた喉から発する。
「無礼のない挨拶が難しいことを、ここに謝罪する」
杖をついたままであることを詫びているのだ。
体の不自由な者が、心まで窮屈に生きねばならない道理はない。オレはすぐさま、貴族らしい言い回しで返す。
「齢にあらがい杖で立つそのお姿に、敬意を表します」
「ありがとう」
万感の意が篭った言葉であった。
クリプトンはナターリアたちと雑談をしているビビアンをチラリと視界の端に収め、済んでのところで涙を堪える。
「ビビアンを……群青卿を、よろしく頼む」
「はい。彼女の全てを、我々が守ります」
「ニーナのことも、気にかけてやってくれ。……彼女の深奥に、傷ができることがないように」
言うまでもないことだ。
オレは何一つ憂いのない笑顔を作り、クリプトンを安心させようと努力する。
「彼女は今の我々には収まりきらない器の持ち主でした。アース家が成長し、彼女の気高さに劣ることのない品格を身につけることを誓いましょう」
「ああ。いつの日か是非、晴れ姿を見たいものだ」
クリプトンは最後にまたお辞儀をして、杖がある割に弱さを感じさせない姿勢で、用意された席に腰を下ろす。
彼にとってのビビアンは、孫のようなものなのだろうか。
オレは彼の人生をよく知らない。だからこそ、彼の内面を想像することさえ難しい。
ただひとつわかることは、彼が本心からビビアンの身を案じているということだけだ。
「ねえ、ニコル。みんなと話さなくてよかったの?」
オレはさっきから黙りっぱなしのニコルに向けて尋ねる。
一応、オレに合わせて挨拶はしていたので、オレが代表として彼女の意思を示した形になっている。つまり無礼には当たらないのだが、それでも不安だ。
オレがニコルの体調を慮っていると、ニコルは悪戯っぽい笑みを浮かべて、くすくすと笑う。
「アンジェ。私はアンジェの成長を噛み締めていたんだよ」
「うまく挨拶できたから?」
「そう。邪魔しちゃ悪いかなって思っちゃうくらい、カッコよかったよ」
そういえば、昔のオレは他人と目を合わせることさえ難しい人柄だった。
今は目上が相手でさえ、物怖じせずに言葉を交わすことができる。目線も合わせられるし、お世辞を選ぶことだってできる。
「ニコルとの旅があったからだ」
オレは迷いなくそう答える。
「狭い村の中だけじゃ、こんな対人能力は身に付かなかった。大人の前で恐怖するオレのままだった。ニコルのおかげで、ニコルがカッコいいと思ったオレがいるんだよ」
オレが心からの感謝を述べると、ニコルは幸福を噛み締めるような表情で一言だけ呟く。
「よかった」
ニコルはきっと、心のどこかでまだ自罰していたのだろう。
オレを安全な地に閉じ込めておくべきだった。あるいは、自分に心を向けさせるべきではなかった。そんな自虐的で、悲しい妄想。
ニコルの自分を卑下する姿勢は、英雄となったことで急速に緩和されている。オレが旅の中で成長しているのだとすれば、ニコルもまた例外ではないのだ。
「えへへ」
オレは最高の恋人の手をそっと握り、美しく優雅で華やかな会場を一望する。
見知った顔ぶれ。その誰もが、オレたちを心から祝ってくれている。
……ニコルの言う通り、よかった。
これで、まったく、よかったのだ。
次回から最後の節に入ります。
よろしくお願いします。