第11話『胸を貫く熱』
アンジェはニコルが観察したシュンカの様子と、自分で調べた知識を元にして、共にシュンカを打倒しようと決意する。
このまま放置しておくとマーズ村が危ない。そして何より、故郷を滅ぼした魔王軍に一矢報いたい。
奴らの置き土産であるシュンカがいつまでもアース村の辺りに陣取っているのは、極めて不愉快だ。
「全ての敵を間違いなく殺すためには、入念な準備が必要だ……」
アンジェは虚な目で知識の海に潜り、殲滅するための作戦を立てる。
まずは下調べだ。戦場となるこの周辺の地形を把握して、地の利を得るべきだ。
アンジェに依頼されたニコルは、龍の翼を生やし、何度も垂直に飛び上がって、様子を伝える。
「大500くらいまで、森。その先に崖」
飛び上がり、地上に降り、アンジェに伝え、修正し、別の地点まで歩き、また飛ぶ。
「傾斜は……大500の地点が頂点」
「もっと高いところから見ないと駄目かな……」
回数を重ねるにつれ、ニコルは触手で翼を掻きむしり、露骨に不機嫌そうになっていったが、文句は口にしなかった。
……悪魔になり、日光に弱い体質は消え去ったが、それでも日差しに近づくのは好きではないようだ。
アンジェは自分の理解力の無さを申し訳なく思いながら、それでもシュンカを狩り尽くすため、協力を頼む。
「ごめん、ニコル。何度も飛ばせて」
「いいよ、気にしないで。一度に覚えきれない私が悪いの」
「……オレを抱えて飛ぶのは、嫌?」
「……私、まだ飛ぶの下手だし」
頭上に何も無い場所を選んでいるのだが、それでも何が起きるかわからないため、不安を感じているようだ。ニコルは暗い声で拒んでくる。
アンジェが直接空から見ることができれば、あっさり地形を把握できるはずなのだが……そううまくはいかないようだ。
そうしているうちに、シュンカの行動範囲は、基本的にドウを中心として『大球100』以内だとわかった。
これはシュンカの体格や数の割に極めて狭く、何処かに個体数が減るたびにシュンカを補充する機構、あるいは専門の種シュンカが存在すると推測できる。
ちなみに、この『球』はこの国で用いられている物の長さの単位だ。単位が球である前提なら、大100のように省略されることも多々ある。
……そうして何日かが経過したとき、ようやくアンジェの脳内に地図が出来上がる。
アンジェは土の魔法で石板を作り、地図を描いてニコルに渡す。
極端で無い限り、高低差は記入していない。人が通る道も曖昧だ。方位もわからない。アンジェの知識にある地図とは比べ物にならないほど劣る出来栄えの、今ここでしか役に立たない地図。
アンジェはもはや涙すら落ちないほど落ち込み、どんよりとした声で謝罪する。
「ごめんなさい」
「……何が悪いのか、わからないけど」
反省しているつもりなら詳しく理由を言ってみろ、という事だろうか。
アンジェは震え上がりながら、脳内の濾過を取り外して必死に答える。
「ニコルは頑張ったのに、この地域の住民に見せたら笑われるような……何も載ってない、詳しい情報が何も得られない、泥団子のような地図を描いてしまいました」
「アンジェ!?」
「オレには絵心がありません。読解力も空間認識能力もありません。悪いところは他にも……」
「そういう意味で言ったんじゃ……。私には完璧に見えるから、平気」
ニコル以外には、どうだと言うのか。
心が弱りきったアンジェは、何を言われても、悪い意味に受け取ってしまう。
悪い方に、悪い方に、転んでいく。
「(ニコルはそんなことを言う人じゃない。嫌味なんか言わないし、誰にだって優しい。でもニコルは、オレをフって……)」
……アース村が襲われた時が、どん底だろうと思っていた。あれ以上悪くはならないだろうと思い込んでいた。
だが失恋で心の中にできた穴は何処までも深く、底が見えない。何処までも何処までも、真っ逆さまに落ちていく。
「(愛してくれよ、ニコル。君がオレを愛さないなら、オレは一体何を糧に生きていけばいいんだ)」
アンジェは今、最悪の気分を更新し続けている。
〜〜〜〜〜
書き上がった地図を参考にして、アンジェたちは更に具体的な作戦を詰めていく。
標高は高くないが、ここは木々に囲まれた山中だ。土地勘が無ければ迷い、敵を見失ってしまう。それを考慮した上で、完全な策を練らなければならない。
また、シュンカの様子をよく観察して、理解を深めなければならない。
アンジェの知識は概ね正しいが、全てがわかるわけではない。この土地特有の生態もあるかもしれない。
また、ニコルと情報の共有もしておかなければならない。そのためには、シュンカを見ながら解説をするのが一番だろう。
アンジェはひたすら喋り、ニコルは何も言わずに黙って首を縦に振る。
「ああやって体毛に魔力を流して、色を変えているんだよ」
「シュンカは寝ないんだ。基本的に3体組のうち1体が交代で休んでいるけど、眠ることはないんだ」
「あのシュンカ、ちょっと小さいね。というか、ここにいるシュンカは平均より小柄な個体が多いね。知識によると……」
「あれは毛づくろいだね。シュンカの毛は刃物でもあるから、ああやって刃を研いで手入れしてるんだよ」
「犬じゃないよ。むしろシュンカは犬食べる方だよ」
アンジェは知識の海を潜りながら、手に入れた情報を片っ端から喋り続ける。
心に空いた穴を忘れたい。知識で埋まられるなら埋めてしまいたい。そんな弱さが、彼女にそうさせている。
そうしているうちに、アンジェは知識を元に、ある仮説を立てる。
シュンカは近くにいる獣を魔物に変える事で繁殖しているという説だ。
「シュンカがどうやって増えているのかは知識にも載っていなかった。でも一般的な魔物の生殖方法は載っていたから、推測はできる」
調べてみたところ、魔物の発生原因は何種類かあった。そのうち、今回の場合に当てはまる可能性があるのは2種類。
ひとつは、自然発生。魔力の突然変異で魔物と化してしまう現象だ。
だがこれは狙って起こせるものではなく、シュンカだけを意図的に増やすことは不可能だ。
もうひとつは、性質が近い生物に己の魔力を分け与えることで変化させ、同種を増やす方法。
狼に似たシュンカの場合、小型の獣なら手軽に変異させられるだろう。
「野生動物が紛れ込んだら、そいつに魔力を注がれてシュンカが増える」
「じゃあ、狩りもしなきゃだね」
「うん。念のために、この辺りで使われている罠を調べておこう。たまたま来た人が引っかからないような外見にしないと」
そこで、狩猟罠を模した魔法をぎっしり並べることにした。
知識の中から最初に選んだのは、構造自体は簡単なトラバサミだ。土の魔法を組み込むことで、起動と同時に地面を沼のように溶かし、獲物の足を引きずり込むように工夫する。
だが、これだけでは力不足だ。傷つけて沼にはめる程度では、抜け出されることもある。相手は魔物なのだ。魔物には魔物用の罠を作らなくては。
「信頼できない。獲物はちゃんと殺さないと」
そこで、念には念を入れて、シュンカでも足がもげるほどの恐ろしい威力にしておいた。
足を奪ってしまえば、万が一シュンカの行動範囲を読み誤っていたとしても、村人に被害が出なくなる。
試しにイタチを生きたまま投げ入れてみると、轟音と共に血飛沫を巻き上げ、周囲の地面ごと跡形もなく消し飛んだ。
シュンカが相手ではまだ足りないくらいだが、罠を作り慣れていないアンジェではこのくらいが限界だ。
「普通に飛び越えられてしまう。もう何列か追加しようかな」
「アンジェ……」
ニコルがガタガタと怯えている。
そういえば、ニコルは狩猟をしたことがあまり無かったはずだ。害獣とはいえ、動物が死ぬのは刺激が強すぎたのだろう。
それとも、うっかり自分で踏む場面を想像してしまったのだろうか。
「大丈夫だよ。これは保険だから」
「……保険のために、そこまでするんだね」
「当然だよ。可哀想だなんて言っていられない。魔物は確実に殺さなきゃ」
罠を使わずに済むなら、それが最良だろう。だが、敵は手強い。これくらい準備してもまだ足りない可能性があるくらいだ。
……だが、ニコルの心情を考慮して、滅多なことは言わないでおく。
「(オレたちの村を襲った魔物なんか、どれだけ惨たらしく殺したって良心が痛まない。でもニコルは優しいから、そういう血生臭いことは嫌なんだろう)」
アンジェは下準備が終わった戦場をもう一度見回って確認しながら、最後の説明に移る。
「オレは無力だ。だから、ニコルにほとんどを任せることになると思う。……自分が情けないよ」
「準備をほぼ全部任せちゃったんだから、私にも働かせてよ」
今から実行するのは、ニコルの働きにほぼ全てがかかっている、危険な作戦だ。こんなものしか思いつかない自分が腹立たしい。ニコルに苦労を強いる自分が情けない。
「(ニコルはもう、オレの恋人じゃないのに……巻き込んで、操って、命を張らせようとしている)」
アンジェは戦いを前に、既に死人のような顔つきになっている。
〜〜〜〜〜
《ニコルの世界》
アンジェとの話し合いを終えて、いざ作戦開始だ。
私は翼を大きめに作って、ドウさんのいるところに降り立つ。
シュンカたちはこれを見張っている。壊されたままにしておくように、命令されている。
でもアンジェが言うには、賢くはないらしい。強そうな見た目、命令に忠実な姿勢、敵から身を隠す習性によって、誰もが騙されているけど、実は柔軟な判断がまるでできない感情的な犬……とか言っていた。
「あっ……もう来た」
茂みからシュンカが出てきた。常に見張っているだけあって、仕事が早い。
「ゴルル……!」
さっそく私に噛み付いてくる。
一口で飲み込まれそうなほど大きな口。地面にヒビが入るくらい力強い脚。人間だった頃の私じゃ、一歩も逃げられなかったと思う。
私は姿勢を低くして、翼を腕のように使って、地面を滑るような動きで横に逃げる。
私は頭の中で、英雄譚の賢者さまみたいな服装のアンジェを想像しながら、彼女が予想した弱点が正しいかどうか確認する。
シュンカの弱点その1。空への警戒が薄い。
アンジェの推測では、人間を見たら攻撃、四つ足の獣を見たら捕獲するように命令されているらしい。鳥とか虫とかには興味がないんだって。
「(二本足の生き物はシュンカに変えられないってことかな……?)」
お手のような動作で周りを薙ぎ払うシュンカの目の前で、私は龍の翼を力強く羽ばたかせて、高く舞い上がる。
シュンカは吠えながら私を見上げている。低音を発する喉の奥から、強い敵意を感じる。
あんなにおっかない魔物と睨み合いだなんて、背筋が凍りそうだ。
そのうち2体、3体とシュンカが増えていって、このまま睨み合いを続けるのは嫌だなあなんて思い始めて……。
そんなこんなで、3体が揃った直後。
シュンカたちは首を傾げる。
「……えっ」
顔を見合わせて困惑しながら、諦めて帰っていく。
いや、違う。諦めたんじゃない。もうこっちを見てない。見える範囲にいるはずなのに、見てない。完全に鳥だと思ってる。
「人間だと思ったけど見間違いだったね」とか「変な鳥がいるんだなあ」とか言い出しそうな雰囲気が漂ってる。
「嘘でしょ……お馬鹿すぎる……」
人型をしていても、空を飛んだら鳥だと思って見逃すらしい。
もし私の身が危なくなっても、飛べば逃げられる。良かった。ちょっと安心だ。
私は大球100の彼方にいるアンジェに向けて伝言用の色石を投げて、空を飛ぶのが有効だったことを伝える。
もしかすると、空から攻撃し続ければ安全かもしれないけど……その場合は散り散りに逃げるように命令されているかもしれないらしいから、やめておく。
「弱点一個めは、アンジェの予想通り……。次だね」
シュンカの弱点その2。敵がいたら全員来ちゃう。
縄張りに敵がいたら、遠くで隠れているシュンカまで馬鹿正直に突進するみたい。
これはアンジェが何匹もネズミを投げ込んで試していたし、私に対する今の対応を見ても間違いない。今いるシュンカは全員出てきている。
それにしても……アンジェが範囲の外にいる動物も忌避剤で追い立てたり殺したりしたせいで、山の中がしーんと静まり返ってるんだけど……。やっぱりアンジェの作戦はやり過ぎだったんじゃ……。
……いや、それは一旦忘れよう。罠を野生動物で無駄に消費しないためだから、仕方ない犠牲だ。動物はすぐに増えるし、いつかは元の山に戻るよ。……そう信じることにしよう。
「シュンカはみんなで来て、みんなで帰ったね。これもよし……」
シュンカの弱点その3。数で押してこない。
私は何体もシュンカと戦ったけど、同時に出てきたのは3体までだった。それより減ったら、範囲の何処かに隠れている4体目が、野生の獣を変化させて補充する仕組みだ。
シュンカは与えられた仕事をこなすだけ。3体までという命令が与えられているから、何があっても3体まで。どんなに追い詰められても、急に5体6体と増やしてくることはない。頭が硬いね。
新しい個体を生み出している奴が何処にいるかは、範囲の外からではわからなかった。たぶん洞窟とかにいるんだと思う。それっぽい場所があるらしいし。
次は、シュンカの弱点その4。
……もういいや。多いし。日が暮れちゃう。
「村のためにも、さっさと戦わないとね」
とりあえず今の3体を倒して、隠れシュンカを探そう。
楽に勝てるならその方がいい。戦うのは慣れてないし、しくじったらアンジェも困る。
「武器がたくさんある体がいいかな」
私は腕と爪を龍のそれに変えて、頭にも龍の角を生やす。理由は尖ってて硬いから。
扱いきれる気がしないけど、悪魔の尖った尻尾も生やす。細いのに頑丈だから、邪魔にはならないはず。雑に使おう。
「行こう……」
私は手前の奴の頭に急降下して、蹴りを浴びせる。最近は触手を生み出す応用で体重も操れるようになったから、しっかり重くして、威力を確保する。
「ゴギュ!?」
足が当たった瞬間、シュンカの頭のてっぺんがへこんで、下顎が地面にぶつかって粉々になって、赤黒い血が噴き出て、まるで大きな果物を潰したような跡が残る。
「まずは1体」
次に、近くにいる奴のお腹に潜り込んで、すれ違いながら龍の爪を振る。
アンジェに教えてもらった通り、お腹には刃物みたいな毛は生えていない。シュンカの弱点その9くらいがそれだったはず。
シュンカの皮は硬いけど、龍の爪ほどじゃない。筋肉どころか骨までサクッと裂けるくらい、龍の体は凄いのだ。
シュンカの腹に5本の線が入って、内臓がどろりと落ちる。即死はしなかったけど、これでいいか。
魔物にも中身はあるんだと思うと、悪いことをしているみたいだ。良い気分じゃない。
でも村に手を出したから殺す。
「これで2体」
最後に残った奴の尻尾を掴む。
そのままだと毛でズタズタにされるから、尻尾を伸ばして、自分の手に巻いてみた。これなら怪我せずにいけそうだ。
私は脚を軸にして回転しながらシュンカを振り上げて、空中で振り回す。
ぐるり、ぐるり。暴風が森を荒らし、駆け回る。
周りにあった木が、シュンカの体毛で削れながらバタバタと倒れていく。
シュンカは足を必死に振りながら太い悲鳴をあげている。動物を痛めつけているようで、物凄く嫌な気分だけど……犬扱いするには危険すぎるし大きすぎる。
こんなの人里じゃ飼えないよ。都会の家も体当たりされたら壊れちゃうだろうし。そもそも餌が人間と他の犬だし。
私は十分に回転が乗ったところで、勢いよく地面に叩きつける。
「『魔手・零落』!」
しかし、シュンカは頑丈な脚で受け身を取る。
戦い方があまりにも適当すぎた。私はなんとなくで戦ってるから、こういう失敗もよくある。魔物の倒し方を勉強しないといけないかな。
私がちらりと周囲の様子を窺うと、先ほどの攻防の間に、内臓をやられた奴が自分で自分を食い尽くして自害していた。
倒さないようにすれば次が送られてくるのを防げると思ったんだけど、そうはいかないみたい。
……それにしても、群れのために自分の内臓を食ってまで命を差し出すなんて……。そんな判断を下せてしまうことが、ただただ恐ろしい。
「(死んだせいで、補充されてしまう。早めに有利な状況に持ち込まないと……)」
私は回転を浴びたせいで目を回しているシュンカに龍の吐息を浴びせる。
ほとんどの龍は灼熱の吐息を吐き出すらしいけど、私の吐息は冷たい。何故かはわからないけど。
「(凍れ)」
吐き出す息は白く、眩しく、冬の雪崩のように容赦がない。たちまち前方が吹雪で覆われ、凍りついていく。
シュンカは私の呼吸音で危機を察知したのか、でたらめな方向に飛び上がって避ける。……凄まじい跳躍力だ。
私の視界は細かい氷と白い冷気で埋め尽くされ、シュンカの姿を見失う。
「しまった」
私はすぐに赤い狼を探して……すぐには見つからなくて、焦る。
失策だ。擬態能力を持つシュンカに、隙を与えてしまった。
「(最初に遭遇した時も、擬態のせいで不意打ちされた。二度も同じ手でやられたくない)」
いつ飛び出してくるだろう。もう少しかかると思うけど、警戒しなければ。
刹那、横から重い衝撃を受ける。
「んぶっ!?」
右腕と右翼に鈍い痛みを感じる。食らった時、翼の骨に亀裂が入ったような音がした。危険だ。
私は受けた衝撃でそのまま流されるように倒れ、転がりながら追撃を避ける。
あのシュンカは一瞬で体毛を緑に変えて、鼻をひくつかせながら体当たりしてきた。視界が悪い中、臭いを頼りにこちらの位置を当ててきたのだ。
……毛の色を変えるのに、もう少し時間がかかると思い込んでいた。勘違いして、食らってしまった。
「(ああ、もう!)」
アンジェはそんな事言ってなかったけど、ちょっと考えてみればわかることだ。
最初の襲撃。アンジェを殺そうとした1体。あれは赤色をしていた。直前まで、私の目を逃れるために擬態していたはずなのに。
体色の変化は一瞬で完了する。瞬きひとつする間に現れ、そして消える。
「(……私なら、気づけるはずだった)」
こういう馬鹿みたいな見落としをしているから、いつまで経っても私は自分を好きになれないんだ。
私は毛で裂かれた腕とヒビが入った翼の骨を大急ぎで治しながら、大きく距離を取る。
大した傷のない腕は、すぐに上げられるようになった。
問題は翼だ。元の人体に存在しなかった部分で、しかもこれまであまり使ってこなかったからか、治すのにだいぶ時間がかかる。
「(まずい。翼を治さないと逃げられない!)」
私は失った戦闘能力を補うため、髪の毛の間に忍ばせておいた蔦の触手を出す。
触手は治るのが早いけど、脆いからやられやすい。しかも周囲を確認するための目玉がついているから、たった一瞬でも失うと、視界を失う焦りで命取りになる。できれば使いたくなかった。
さっきから触手の目によって、後ろからシュンカの増援が迫ってきているのが見えている。
そうか、そっちか。そっちに増やしてくる奴がいるのか。
「(ようやく本分を果たせそう……)」
対シュンカの作戦はこうだ。
シュンカを倒し続けて、何処で補充されているのか特定する。
わかったら、色石の符号でアンジェに伝える。
私が囮になって、3体を倒さずに引きつける。
手薄になった補充役と、アンジェが一騎討ちする。
……つまり、次はアンジェに伝えるのが役目だ。
今の私はアンジェがいる方に色石を投げられない。ここから投げても届かない。飛ばなければならない。
だが飛べない。近くに高台もない。そのうえ囲まれている。翼が治るまで、迎え撃つしかない。
……窮地だ。
「ぬあああああっ!!」
私は恥を捨てて、無様に叫んで威嚇する。
触手を振り回して、まだ残っている龍の冷気をかき消しながら、がむしゃらに攻撃する。
間合いこそが肝要だと、マーズ村の元商人さんは言っていた。だったら腕より長いものを持たないシュンカには、対処できないはず。
「近寄るなあああぁぁっ!!」
シュンカを振り回して木を倒したことで、それなりに空間の余裕が生まれている。速度を落とさず、振り続けられる。
風を切りながら不規則に飛び回る触手を見て、シュンカたちは尻込みしているようだ。
このまま時間を稼げれば、それでいい。翼が治れば逃げられる。
だけど、長くは続かなかった。
シュンカの1体が素早く振り向いて、後ろ足で地面を蹴って、土をかけてきた。
そんなものを受けたところで、痛くも痒くもない。はずなのに、臆病な私はその場を離れてしまった。
さっき引き裂かれた痛みが、私にそうさせた。シュンカから退きたいという弱い心が、ただの土で噴出してしまったのだ。
「(逃げたい逃げたい逃げたい……!!)」
シュンカは死を覚悟した目で、触手の内側に突撃してくる。
凄まじい速度で触手は唸り、シュンカの目を奪い、下顎を揺らし、脚を折り、毛を削いで、胴体に当たり……勢いが落ちて、威力がなくなる。
触手が機能停止してしまった。足を止めて、強気に殴っていれば……もう少し温存できたかもしれないのに。
「(あ、ああ、まずい……!)」
呼び出されたばかりの新しいシュンカが向かってきている。ボロボロになった触手では止められない。
「(逃げなきゃ……!)」
私は地面を蹴って逃げようとして、倒木に躓く。
触手の目に頼りすぎた。この戦場がどうなっているのか、よくわかっていない。
私は情けなくごろごろと転がりながら、体勢を立て直そうとする。
治りかけた翼が、また傷ついた。触手も折れた。立ち回りが下手くそなせいで、自滅した。
自分の中の闘志がみるみる削ぎ落とされていく。戦いたくない。逃げたい。
でも、周りは触れたら即死する罠だらけだ。飛ぶことが出来なければ、逃げ場なんてない。
「助けて、アンジェ……。アンジェぇぇぇぇ!!」
私は絶叫する。自分の半身の名前を、人生の半分を担う大切な人の名前を、力一杯呼ぶ。
いつのまにか溢れていた涙が、頬を濡らしていく。
シュンカはすぐ後ろだ。怒りで全身の筋肉を隆起させながら追ってきている。
今も新しいシュンカがこちらに向かっている。正面に見えている。このままだと挟み撃ちにされる。
……調子に乗っていた。
この前は運良く切り抜けられただけだった。……いや、違う。シュンカが湧く地点から遠かったから、休み休み戦えたのが勝因だ。今更気づいたよ。
アンジェ、ごめんね。私なら勝てると思って、この作戦を立てたんだよね。
私を信じてくれていたのに、裏切っちゃった。私はシュンカの群れを捌けるくらい、強くはなかった。
無理しないでね。こんなに大勢のシュンカに挑まなくてもいいんだからね。どうか、アンジェだけは……これから先も、生きていて。
「うわあああああ!!」
私は擬態をしていない、目もついていない触手を生やし、振り回す。
シュンカは周りの木を盾にして、軽傷で済ませて向かってくる。
噛みついてくる。
避ける。
牙が掠って、指が飛ぶ。
「いぎっ!?」
龍の爪でシュンカの口が裂けたが、割に合わない。
頭を狙ってきた2体目を、屈んで避ける。
龍の角と奴の毛が擦れ、ほんの少し火花が散る。
後ろ足の鋭い爪が、無事だった左翼を擦って削る。
「ひい、ひい……!」
待ち構えていた3体目が、突進してくる。
私は死に物狂いで走って、木の後ろに回る。
木のそばで回転して、長い尻尾を当ててくる。
尻尾がかすった衝撃で、頭が揺れる。
「ああ! うわあああ!」
逃げなきゃ。逃げて、逃げて、逃げて逃げて逃げて逃げて……!!
このままじゃ、私……!
「間に合った」
後ろから、アンジェの声がした。
弾かれたように振り向くと、アンジェがそこに立っていた。
いつか見た火の矢で、シュンカを3体まとめて貫いていた。
「あ……」
アンジェはあっさりと脅威を退け、私を守ってくれていた。
一撃で全員倒して、私を……。
「行ってくる」
どうしてここにいるんだろう。なんで助けてくれたんだろう。
あんなに辛そうにしていたのに、今も死にそうな目をしているのに、どうして戦えるんだろう。私を助けに来てくれるんだろう。
「おつかれ、ニコル。助かったよ」
優しい言葉が、今は何より、私の脳に染み渡る。
「……は」
私はぼんやりと地面にへたり込んで、戦いの中で積み重なった落ち葉を握りしめる。
悟ってしまった。今の出来事こそ、私たちの未来そのものだ。
私が間違っていた。どれだけ突き放してもアンジェは私を助けに来るし、私にとってもアンジェが人生で1番の人だ。
私は愛を甘く見ていた。自分の性愛の卑しさと、アンジェの友愛の清廉さを。
死地にまで飛び込んでくるなら、私がどうやっても引き離すなんて無理じゃないか。あんなことをされたら、惚れ直してしまうじゃないか。
「アンジェ……。しゅき……。ぐすっ。大好き……」
奥地へと進んでいくアンジェの背中を、穴が空くほど見つめながら、私は疲労で気を失った。