甘味『アンジェの1日』
《アンジェの世界》
オレはかつてフニフニだった残滓と、それを取り囲む研究者たちを見つめながら、必死に知識の海と向き合っている。
今までよくわからないままこの力を行使してきたけれど、これからはそうと言っていられない。具体的な被害が出てしまった以上、周りがオレを放っておけないんだ。
表向きは、同じことが起きないようにするために。本当は、同じ力を手に入れるために。
そりゃそうだよね。だってすごいもん、これ。可能なら自分で使ってみたいよね。みんなも。
世界の全てを知ることができて、死者の思考を再現して会話することだってできちゃう。素晴らしい魔法だと思う。魔法って言っていいのかわかんないけど。
「海洋生物……深海……火山……ぐぎ、ぐぎぎ……」
オレは慢性的な頭痛に悩まされながら、知識の海に潜り続けている。フニフニと、そして知識の海を理解するために。
お父さんとお母さんに別れを告げ、立派に生きていくと決めたけれど……それはそれとして、死者を復活させる方法があるなら、それを突き止めたい。
だって寂しいから。あと、ニコルが死んでもまた会える方法でもあるから。
オレはきっと死なない。何があっても再生して、死ぬことはない。あの暗闇で無限の苦痛を受けることになったとしても、ニコルが生きている限り、オレという存在が消え去ることはない。ニコルのために、オレは何がなんでももがき続けるからだ。
でもニコルはいつか死ぬ。人間で、心臓と脳に依存していて、寿命もある。英雄だって死ぬ時は死ぬって物語にも書いてある。
……やだよ、そんなの。オレは認めない。認めたくない。永遠にニコルと一緒にいたい。
そういうわけで、オレはオレなりに必死になっている。未来のニコルを救うため、今をがむしゃらに努力しているんだ。
知識の海。ここになら、答えはあるはず。絶対の死さえ超越する力が、眠っているはず……。
「アンジェ様。そろそろ何か掴めましたか?」
筋肉もりもりの魔物の専門家が、わざとらしい笑顔でオレに催促してくる。
普通のアウスは死ぬと消えてしまうから、標本がない。だから部下が新しいやつを生捕りにしてくるまでは暇らしい。そのせいで、時間があればこうやってオレをつついてくるのだ。
先日の戦いでこいつに興味を持たれてしまったのが運の尽きかなあ……。未だに名前すら知らないけど、面と向かって聞くのは怖いなあ……。
オレは知識の海から浮上して、慣れない愛想笑いをする。
「難しいですね。現実でも、海で泳ぐことは簡単ですが、海が何かを知るには……もっと繊細な研究が必要ですから」
例えるなら、オレは解放された私有地で泳いでいただけだ。海が何でできているのか、どうやってできたのか、知っているわけではない。
だが魔物の専門家はオレを疑い、苛立ちの滲んだ目つきで言葉を重ねる。
「もっと何か、こう、あるでしょう。何年も使ってきたなら、少しくらい勝手がわかってもいいはず」
オレが隠し事をしていると思っているらしい。意図的に情報を制限してるんじゃないかと疑っている。
オレは敵じゃないのに、敵のように思われている。同じ領地のために働く身なのに、どうしてそんな目で見るんだ。
「お言葉ですが、オレはまだ知識の海を得てから1年も経っていません」
そう、あの事件からまだ1年も経っていないのだ。
あれが起きたのは今年の春。今は同じ年の冬。たったそれだけしか時が過ぎていない。
オレは何度も死にかけて、ニコルはぐんぐん強くなって。色々あったのに、まだ同じ年。静かな村で暮らしていた頃と比べたら、信じられない気分だ。
魔物の専門家は言葉に詰まり、毛むくじゃらの腕を掻きむしる。
「ひとつの魔法を磨き上げるのに、最低3年はかかるもんだ。お前さんは初歩の魔法さえ覚えたてだから、もっと……」
「魔法に触れなければ、魔力がいくらあっても使い方がわかりませんからね」
「ああ、そうか。魔力の使い方からか。……まあ、あれだ。頑張れよ。……あと、急かして悪かった」
彼は丁寧な口調を作るのをやめ、すっぴんの態度でオレに謝罪する。
……悪い人じゃないんだよね。ただ興味や専門分野への自信が先走って、相手への配慮を忘れやすいだけで。
「大丈夫です。オレはつよいので」
「……強いか。いいことだな。……あっ。ですね」
「タメ口でいいですよ」
「ありがたい」
魔物の専門家は入室してきた部下に声をかけられ、席を外す。
近隣のアウスの調査報告だろう。まあ、簡単に見つかるとは思っていない。アウスは水と見分けがつきにくい。捜索は困難だろう。
そして、オレはまた一人になる。
知識の海に潜るのは疲れた。皆が自分のやるべきことに夢中になっているので、話し相手もいない。
仕方がないから、オレはこの1年のことを振り返ることにする。
「(ビビアンとナターリア。あの2人との付き合いもまだ半年くらいか……)」
ビビアンとは春に。ナターリアとは夏に出会った。
ビビアンはぐんぐん偉くなった。有り余る魔力、冴え渡る知能、ノーグ由来の技術力、そして何よりニーナに好かれるという幸運。それらを有効に利用して、あっという間に人を魅了して支持を得た。この街以外ではまだまだ新参者扱いらしいが、名物貴族となるのは時間の問題だろう。
対照的に、ナターリアは全てを失った。長年続いてきた実家の宿屋を失い、両親と死別し、財産も思い出も人間関係も放棄して故郷から逃げ出した。得たものはニコルとビビアンだけ。
だからオレは、ナターリアとニコルを引き離す気になれない。ナターリアと友達でいたいから。あの人を苦しめたくないから。
甘いのかな。甘いのかもしれない。ニコルはオレのものなのに、赤の他人に付け入る隙を与えている。こんなの、優しさとは違うと思う。
でもニコルは、ナターリアと話している時、とても気楽そうだ。だったらオレは、ニコルのためにナターリアを肯定したい。
「アンジェちゃん」
声がしたので振り向くと、そこにはエイドリアンがいた。
いつのまに研究室に入っていたのやら。相変わらずむすっとした顔で、鼻と鼻がくっつくほど近くから見つめている。
「うひゃん!」
オレはぎょっとして飛び跳ね、逃げようとして壁に肘をぶつける。
痛い。めっちゃ痛い。痺れて動けない。涙が出てきた。情けない。
……ニコルに見られてなくてよかった。
エイドリアンは眉毛をくいっと持ち上げる。驚いているのだろう。
あんまり顔が変わらないんだよね、この子。悪魔だから……とかは、たぶん関係ない。長い間地下に引きこもっていたから、表情を作るのが苦手なのかも。
「ドリーはおばけじゃないよ」
そう言ってエイドリアンはオレの背中をさする。
優しい。でも、なんだかみじめな気分になるからやめてほしい。オレは子供じゃない。慰めが必要なほど弱くない。こんなのへっちゃらだから。もう少ししたら立つから。
オレはまだ感覚が鈍っている肘を労わりながら、ゆっくりと元の位置に戻る。
「ドリーちゃん。どうしたの?」
「おべんきょうしてきた。ドリーはさいてんしてほしいとおもってるよ」
エイドリアンは答案用紙を差し出して、家庭教師であるオレに向けて自慢げに見せてくる。
またしても全問正解だ。花丸をつけてあげよう。
「よーし。合ってるかどうか、一緒に確かめよう」
紙が目に入った瞬間に採点は済んでいる。でもエイドリアンの復習と意欲の底上げのために、目の前でひとつひとつ丸をつけてあげる。
「この問題、難しかったでしょ?」
「かんたんだったよ。ひっさん、おぼえたもん」
「よしよし。お、途中式も完璧だ」
「がんばった」
「偉いね。満点をあげよう」
そうして、オレは何ひとつケチの付け所のない答案を彼女に返す。
エイドリアンは上機嫌だ。顔は変わらないが、鼻息が荒いからわかる。感情はしっかり豊かなのだ。
「ドリーはもっとすごいのをようきゅうするよ」
「じゃあ次は面積やっちゃおうか」
「めんせき? たのしい?」
「お部屋の広さがわかるぞ」
「ん? ……わーい」
エイドリアンは控えめに喜んでみせる。つまらないと思ってるんだろう。わかりやすい奴だな、本当に。
でもオレのために喜ぶフリをするあたり、できた子だ。将来は大物になるだろう。
オレはエイドリアンが去った後の扉を見つめ、また知識の海に戻ろうとする。
しかし、そんなオレの行動を次の来客が阻む。
「アンジェ様。突然の来訪、お詫び申し上げますわ」
ニーナだ。しかし、お付きの人がひとりもいない。お忍びだろうか。
そもそも先触れも何もなかったはずだ。もしかすると、気まぐれというやつかもしれない。本当に困った人だ。
ざわめく研究者たちを尻目に、オレはうやうやしく膝を突き、頭を下げる。
「お詫びなどとんでもない。このアンジェに御用でしたら、いつでもお呼びたてくださればよろしいのですよ。如何なる時でも参上いたします」
「ニコル様との密会中でも?」
オレは思わず苦汁を濃縮して塩を加えたものを飲み干すような顔つきになりつつ、はぐらかす。
「ニーナ様はお人が悪う存じます」
「うふふ。わたくしはあなた方と対等な友人関係を築きたいのですよ。……わたくしの私室で茶会をしませんか?」
呼ばれたからには、行かないという選択肢は無い。これからも仕事があるんだけど……まあ、どうせ進展がなかったところだ。気分転換に付き合おう。
「喜んでお受けいたします」
「では、参りましょうか」
ニーナは何故かオレに手を差し出している。繋ごうとしているのか。
親愛を表現しているつもりだろうか。……だが、それをするには身長差が開きすぎている。
ニーナは人間離れした長身であり、オレは子供らしいちんちくりんだ。手を伸ばしても届かない。繋いで歩くには無理がある。
オレは視線でニーナに察してもらい、手をぶらぶらとさせながら廊下を歩くことにする。
〜〜〜〜〜
《アンジェの世界》
ニーナが出した茶は、最高級品であった。
この国において評価が極めて高い、貴族の中の貴族だけが飲める逸品。その名も『夜空』。
複数の茶葉を精密に計量し、封入。温度・湿度共に完璧な状態で保管し、輸送。そのような完全かつ慎重な手段で運ばれてくるのは、ごく少量の青い茶だけ。
しかし、飲んだ者は誰もが至福を体感する。全ての茶葉が過去になるほど、心を奪われてしまうのだという。
巷では『茶葉の終着点』とも呼ばれているらしい。他の茶を差し置いて終わりを名乗るなど、まったく罪深い存在だ。
「どんな宝石よりも価値が高いとされるこの茶葉を、オレのために?」
緊張のあまり一人称が戻ってしまったオレに、ニーナは優しく笑いかける。
「半分はそうです。もう半分は、わたくしのため」
見ると、ニーナの側にも茶が淹れられている。
濃い藍色の茶だ。その名の如く夜空を連想させる色であり、特殊な茶葉を混合させたこの銘柄だからこその楽しみと言える。
……かつてのニーナは茶を飲めなかったはずだ。そう思い、オレは今の彼女の状態を推測して、確認を取る。
「飲む機能が備わったのは喜ばしいことですが、安全性は確実でしょうか?」
「問題ありませんよ。最初の味は、既にビビアン様と楽しみました」
ニーナは回想し、感動を反芻しているのか、目を潤ませながら茶を見下ろしている。
「お料理を食べ、問題がないことを確かめていただきましたから。すっかり安全です」
「それは良かった」
オレもまた、ニーナに心から同意する。
ビビアンが許可を出したなら、平気だろう。取り越し苦労だったのだ。
ニーナはくすくすと口元に手を当てて笑い、上品な声で世間話を始める。
「今回、このお茶をあなた様と楽しもうと思い立ったのは……アンジェ様、あなたに大切なお願いがあるからです」
「なるほど。ビビアンでも家族でもなく、オレに」
それなら、呼ばれた理由は納得できる。
オレとニーナは特に仲良しというわけでない。もっと仲を深めたいという意思はあるんだけど、この人のことはまだちょっと苦手なのだ。
ニーナ側から一歩近づいてきてくれたのは、本当に助かる。お願いとやらが何かは気になるところだが、前向きに検討させてもらおう。
ニーナは姿勢を正し、緊張と威厳で張り詰めた声を発する。
「実はわたくし、ビビアン様と結婚したく……」
「反対です」
「ですよね……」
前言撤回。見損なったぞ、ニーナ。どんなに良い茶を出されても、それで籠絡されるオレではないぞ。
……しかし、オレはビビアンの縁談に口を挟めるような立場ではない。彼女は子爵で、オレはその子飼いの悪魔だ。今の発言は、オレの一意見でしかない。
「もっとも、オレが反対したところで、おふたりが強く望まれるなら拒否できません。……何故オレの意見が必要なんですか?」
「実は、ビビアン様からも反対されていて……。それで、どうしようかと思いまして……」
「ええ……?」
「ビビアン様にお詳しいアンジェ様ならば、何か秘訣をご存じではないかと……」
諦めるという選択肢は無いらしい。押しが強いな、このお嬢様は。
それにしても、袋小路で悩んだ末とはいえ、恋敵に擦り寄るのは悪手じゃないか? ビビアンがオレを好いているのは知っているはずだろうに。
「(この人、過去にビビアンを襲った過去があるんだよな……。危ない性格だ。どう答えたものかな……)」
オレは沈黙をごまかすかめ、とりあえずお茶に口をつける。
子供の舌では感じ取れないほど深い味わいが、頬の内側をゆっくりと満たし、鼻へと伸びていき、味覚の全てを包み込んでいく。
茶は所詮植物を煎じた汁に過ぎないはずだが、本当にそうなのか疑いたくなるほど情報量の多い味わいが込められている。流石は最高級の茶葉だ。
「(これ以上のお茶を飲むことは、今後の人生で二度とありえない。そう思ってしまうほど、この茶の魅力は犯罪的だ)」
知識の海にも似た深みのある味に仰天しながらも、オレはそれを提供したニーナを思いやる。
彼女は本気だ。本気でビビアンを娶りたいと考えているのだ。ならば、こちらも少しは知恵を貸そう。茶の代金くらいは働かねばなるまい。
「辺境伯。いや、ニーナ様。たいへん申し訳ございませんが、少し厳しい発言をさせていただきます」
「は、はい」
ニーナはオレより遥かに高い背をピンと伸ばして、まるで塔のようにそびえ立っている。
どことなく威圧感さえ覚える風貌だが、その頂点にある表情はぎこちない。
「ビビアンと仲をお深めになりたいのであれば、ビビアンに誠意と愛情と、感謝と……それから、ある程度の包容力と……頼り甲斐と……」
「え、ええと……他には?」
「他に? いや、そういう話じゃ……。あー、もう、いいや。普通に話していいですか?」
あまりにもニーナの態度が抜けているので、敬う素振りを作ることが馬鹿らしくなってきた。
普段通りで良いだろう。ニーナはそれで許してくれる人だ。人払いもしてくれているし、何をしても無礼にはなるまい。
こくりと頷いたニーナに向けて、オレはずばりと言ってのける。
「とにかく、ビビアンに好いて欲しいなら、ビビアンをまず誘ってください。オレじゃなくて、ビビアン。わかりますよね?」
「それは……恥ずかしくてできません……」
「はあああぁぁっ!?」
ニーナの口から出たあまりにも情けない発言に、オレは椅子から転げ落ちそうになる。
……あれだけ妙な発言と行動を繰り返しておいて、今更恥も外聞も無いだろうに。
「しゃんとせい! 恋はひと匙の勇気から始まるんだよ!」
「えっと、では……わたくしは、どうすれば……」
「口調か。その口調が悪いんだな!? そのせいでお淑やかもどきに変異してしまったんだな!?」
オレは机を手のひらでパンと叩いて、この地で最も偉い辺境伯を相手に怒鳴り散らす。
「昔のあんたを思い出せよ! 意味のわからない発言で理不尽を体現していたあの頃を!」
「そ、それは機能の限界で仕方なく……。素面であれを再現するのは、流石に恥ずかしすぎますわ!」
「やれ! やれったらやれっ!」
ビビアンと仲が良かった頃のニーナを再現すれば、ビビアンの態度は軟化し、ニーナの積極性は花開くことだろう。
「(あれ? 結局オレ、ニーナの味方してる)」
ビビアンの結婚に口出しできないと言いつつ、ビビアンとニーナの結婚には賛成しているのか、自分は。
……まあ、財と時間と体を捧げてきたニーナが報われないのは、見てて悲しくなってくるし……これでいいのかな?
ともあれ、最終的にはビビアンが決めることだ。今は当たり障りのない支持に留めておこう。
〜〜〜〜〜
《アンジェの世界》
ニーナとのお茶会が終わる頃には、すっかり夕方になっていた。
とはいえ、1日が過ぎるのは、案外ゆっくりだ。あれだけ仕事をして、あれだけ話し合って、まだ時間が余っている。
「ナターリアのところにでも行くか」
夕食の前に、オレは今日まだ会っていない同居人のことを思い浮かべる。
ナターリア。治りかけの病人であり、美貌を腐らせている穀潰し。彼女は長い1日をどうやって過ごしているのだろうか。
……きっと退屈で埋め尽くされているのだろう。
オレは上品な階段を降り、趣のある廊下を歩き、ナターリアがいる病室の扉を叩く。
「ナターリア。いる?」
「いますよー」
能天気な返事が聞こえる。どこまでも自分の歩調で生きている彼女は、実にエイドリアンの親族らしい。
オレは屋敷の中では比較的質素な部類の扉を開け、部屋の隅で本を読んでいる彼女に声をかける。
「様子を見に来たよ」
「おやおや……。あたいで良ければ、愚痴でも聞きますよ」
どうやら研究疲れでここに逃げ込んできたと思われているようだ。そんなにくたびれた顔をしているのだろうか。
オレは水魔法で鏡を作り、自分の表情を見る。
……よくよく見ると、確かに顔色が悪い。頬が垂れ下がっているような気もする。
悪魔は魔力でできた生物。魔力が足りていれば、常に健康体だ。だというのに、疲労で体が弱って見えるのは、オレが人間として生きているせいか?
オレはナターリアがいる寝床のそばに寄り、彼女にもたれかかる。
「ナターリアはいいなあ。毎日のんびりできて」
「アンジェちゃんも少しは楽をしていいんですよ?」
ナターリアは本から目を離し、オレの頭に手を置いてぐりぐりと撫で回す。
最近になってようやく手足が自由になったナターリアは、心なしか愛情表現が過剰気味だ。
「偉い人や才能ある人が頑張るから、街が豊かになっている。それはあたいにもわかります。だけど無理をし過ぎるのは良くないですよ。長生きしてコツコツ取り組む人こそ素晴らしいのです」
「それ、誰の受け売り?」
「この前読んだ本です。あと、あたいの周りの人」
道理で覚えのある言い回しだと思った。薄っぺらい説教をしやがって。
オレは内心呆れつつ、ナターリアの腹を裏拳でどつく。
「知識の海を持つオレに本の内容を言い聞かせるとは、ずいぶん間抜けなことをするじゃないの」
「ぐふっ……。でも、あたいもそう思いますよ。他の人だって、アンジェちゃんが楽に生きても文句なんか言わないはずです」
そうだろうか。能力のある者が怠けていたら、みんなのためにならないと思うのだが……。
オレは自らの頬をもちもちと揉みながら、深く考え込む。
するとナターリアはオレを抱きしめながら、寝床に倒れ込む。
釣られて傾く視界に驚き、オレは思わず小さな悲鳴をあげる。
「ひゃん」
「そうやって考え込んだりしないで、たまにはこうして頭を休めてください」
ナターリアの細身の体が、オレの体重をしっかりと受け止めている。決して太くはない腕で、全てを包み込まれてしまっている。
こうしていると、自分がちっぽけな子供であることを再認識させられてしまう。たったひとりの女性の中に収まってしまう程度の存在でしかないのだ。
頭に広がる海は途方もない広さだというのに、肉の体のなんと無力なことか。
オレが黙ってナターリアの体温を感じていると、耳元で寝息が聞こえ始める。
……こんな中途半端な時間に眠るつもりか。来客をもてなしもせずに。
「もう……」
オレは呆れて腕を解こうとするものの、ナターリアはもぞもぞと身をよじり、更に強く腕の中に仕舞い込もうとする。
「へへ……。大丈夫……起きてますって……」
今にも落ちてしまいそうなたどたどしい声で、ナターリアは大切そうにオレに寄り添う。まるでぬいぐるみと共に寝る幼児のようだ。
しばらくすると声は止み、布の擦れる音だけが部屋に響くようになる。
……仕方のない人だ。夕食の時間になったら、オレが起こしてあげなければなるまい。
「いい人なんだけどなあ。どうしてこうもだらしないんだろう」
オレはこうなるまいと気を引き締めつつも、彼女の助言通りに脳を休めることにする。
ナターリアでさえ気がつくほど疲れた顔をしていては、皆に心配をかけてしまう。休憩で皆の心労を防げるなら、それが一番だ。
オレは目を閉じて、背中の柔らかい感触にのみ意識を預けることにする。
〜〜〜〜〜
《アンジェの世界》
夕食に寝坊したオレは、ビビアンと共に遅い食事を摂っている。
ナターリアは全然起きる気配がなかったので置いてきた。悪いけどひとりで食べてもらおう。
付き添いの使用人や料理人たちは、いつも通りそばに控えているものの、どことなく怒っているようにも見える。仕事をまとめて済ませられなかったからだろう。申し訳ない。
「ねえ、アンジェ」
目の前のビビアンはオレより遥かに慣れた手つきで料理を食べながら、合間合間に話しかけてくる。
「明日、ぼくの仕事に付き合ってほしい。予定があるなら、別にいいけど」
今のビビアンの仕事は、捕虜にしたガシャンドクロから魔王軍の内情を聞き出すことだったはず。
ビビアンは極めて優秀な技術者だから、本当は他にやってほしい仕事が山ほどあるってニーナ様がぼやいていた。それでもこの仕事を任せているのは、ビビアンしかガシャンドクロと会話ができないかららしい。
オレはビビアンの誘いに乗る前に、詳細を聞くことにする。
「ビビアンは普段、ガシャンドクロとかいう悪魔と何をしてるの?」
「盤上遊戯」
「……意外だ」
オレはガシャンドクロの姿を思い浮かべつつ、ビビアンが嗜んでいた盤上遊戯を思い出して、脳内に並べる。
脳みそに腐った油が詰まっていそうなあの悪魔に、盤上遊戯ができるとは思えない。しかし、ビビアンが言うなら真実なのだろう。なんということだ。
ビビアンは一度食事の手を止め、オレとの話に集中し始める。
「あいつは盤上遊戯が好きでね。毎回毎回相手をしてやっている。勝負一回につき思い出話ひとつ。それがぼくとあいつの間にある取り決めだ」
「へえ……」
てっきり技術の錐を尽くした拷問をしているのかと思ったが、そうではないらしい。
現実はむしろ正反対。人道と配慮に満ちた、優しいやりとりだ。
まあ、それで情報を抜き取れているのなら、アンジェという一個人の立場から言うべきことは何もあるまい。
「(オレの故郷を襲った奴のひとりだから、もう少し痛めつけてほしかったけど……)」
「それはやめておけ。今、いいところなんだ」
同調でオレの思考を読んだのか、ビビアンは不敵に微笑みつつ、皿に残った野菜を残さず平らげる。
「(たぶんもう少しで、魔王のことを聞き出せる。だから来てほしいんだ)」
「行くよ」
ビビアンの意図を理解した直後、オレはつい反射的に承諾してしまう。
魔王。アース村を滅ぼした、諸悪の根源。奴を倒す方法があるのなら、是非とも知りたい。知識の海に載っていない弱点があるなら、知らなくてはならない。
「魔王の存在を、オレは許せない。だから……」
「ひひひ。カッとならないように、大人しくしていてくれよ?」
ビビアンはちっとも貴族らしくない悪戯っ子の笑みを浮かべつつ、同調でオレに信頼感を送ってくる。
……ビビアンを裏切るような真似はしないよ。
〜〜〜〜〜
《アンジェの世界》
窓の黒さを見て、オレは1日の終わりを感じる。
屋敷の中は仄暗く、魔道具による人工の光が照らすのみだ。人の文明は、太陽が無いとこんなにも薄暗いのか。そんな思索に耽ってしまうほど、暗い屋敷は物悲しい。
「(寂しいな……)」
オレは心の中でうずくまっている感情を、丁寧に読み解く。
オレは心の傷から目を逸らすため、両親のことを考えずにいた。今にして思えば、愚行だったと思う。ちゃんと弔うことも、受け止めて思い出にすることも、出来ていなかったのだから。
あんな過ちは二度としたくない。だからオレは、自分の中の悪感情を、大切に、優しく、受け止める。
「寂しい時は……ニコルだな」
オレは頬の火照りを感じつつ、足早に廊下を進む。
自分に嘘はつかない。会いたいなら、会いに行けばいい。少しくらい我儘になっても、許してくれる。ナターリアの言を参考にしようじゃないか。
オレはニコルがいるはずの部屋に飛び込み、その愛すべき名前を呼ぶ。
「ニコル!」
オレが声を張り上げた直後、信じられないほど柔らかいものがオレの頭部を包み込む。
ふかふかの布団よりも安心できる、人肌の温もり。夜泣きする赤子でさえ拒まない、究極の安息。
これは……女性的なニコルの体だ。間違いない。
待っていたのだろうか。それとも、オレが扉を開けた瞬間に飛びついてきたのか。
「アンジェ」
ニコルは有無を言わさずオレの手足を拘束し、胸に埋めたまま寝床へと引っ張っていく。
息が苦しい。けれど、ニコルに包まれていると思うと……このまま窒息しても良いかもしれないとさえ考えてしまう。
「(う、うわあ……にこるの、からだ……こんなにちかくに……)」
興奮と共に息が荒くなっていく。荒くなった息を白い肌が押し返し、口元が蒸れていく。
オレの状態を知ってか知らずか、ニコルはオレを胸から引き剥がし、寝床へ投げる。
乱暴な動作だ。背中から体の芯へ、衝突の衝撃が抜けていく。
「ぐえっ」
オレは寝床から上体を起こし、ニコルを見上げる。
今日のニコルはいつにも増して暴力的だ。何かあったのだろうか。
オレがおそるおそる目を合わせると、ニコルが目の据わった恐ろしい表情でこちらを覗いているのがわかる。
精神的な疲労と、それを払拭したいという渇望。そして何より、オレを見て膨れ上がった欲望。それらが混ざり合って、ニコルの内部を埋め尽くしている。
「に、にこる……?」
「ごめんね。今日は激しくさせて」
「いいけど、なんで?」
「アンジェは知らない人が亡くなった。それだけ」
なるほど。このところ襲撃は来ていないので、軍人ではなく、仲良くしていた街の人だろう。ニコルは顔が広いから、アンジェの知らないところで悲しみを抱えてくることもあるだろう。
ニコルの宣言と共に、四肢に触手が巻きつく。
抵抗を封じるため……。まさか、オレでさえ逃げ出したくなるほど、たっぷりいじめるつもりなのか。
ニコルになら何をされてもいいけれど、それはそれとして、怖いものは怖い。一体どうなってしまうんだオレは。
「えっと、ニコル様。オレ、まだお風呂に入ってないんですよ」
「いらない。アンジェの匂いに包まれたいから」
ニコルはオレの服を素早く脱がし、布に顔を埋めて深呼吸する。
「すうううううぅぅぅっ……」
「ど、どう……?」
「ふーっ。…………すうううううううぅぅぅっっ……」
お気に召したようで何よりだ。
それにしても、そんなに素晴らしい体臭なのだろうか。自分では理解し難いが。
オレは自分で脇を広げて、鼻をこそこそと動かしてみる。
「……くんくん」
甘ったるい匂いがする。糖度の高い果実を集めて絞ったような、いい香りだ。
……どう考えても人間の体臭ではない。
「やっぱり甘いんだ……オレ」
たまにそう言われてはいたが、いざ自分で確認してみると奇妙な気分だ。
オレの呟きを聞きつけてか、ニコルは血走った目をオレの前に突き合わせ、低い声で宣言する。
「いただきます」
「えっ」
直後、視界がぐらりと揺れる。ニコルの怪力で、体を持ち上げられたのだ。
足に圧迫感。触手で掴まれているのだろう。両足が持ち上がっており、ほとんど宙吊りにされている。
「きゃあっ!」
オレの悲鳴を無視して、ニコルはオレの下着を脱がし始める。
……容赦のない手つきだ。オレのことを性的な目で見ているからこそだろう。
ニコルはオレを……こんな幼いオレを……襲ってくれるんだ。魅力を感じてくれているんだ。価値があると思っているんだ。誘惑されているんだ。悩殺されているんだ。
ああ。
ニコルがオレを味わっている。一心不乱に。
これからもっと、ひどいことをされてしまうのだろう。欲望のままに。
ああ。
幸せだ。