第1話『少年と少女の世界』
最初の悲劇は、小さな村で起こった。
季節は春。穏やかな風が冬の寒さを洗い流し、新たな芽吹きが始まる頃。
場所はミストルティア王国東部、アース村。
温帯に属する、人間にとって過ごしやすい地域。山や川に囲まれた、人口120人程度の、この国ではよくある農村。
そこで暮らしていた人々が……たった1日で姿を消した。
災害によるものではない。病によるものでもない。
人ならざる悪の化身。命あるもの全ての敵。魔物たちの王……魔王の手による、虐殺であった。
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事件前日の話をしよう。
物語の焦点はアース村で暮らしていた少年にある。
彼は今、川のほとりで木漏れ日を受けながら、澄んだ水と戯れている。
遊んでいるわけではない。仕事をしているのだ。
この辺りでは珍しい真っ黒な髪に、同じく闇のように濃い黒の瞳。絵画と見紛うほど整った容姿に、すべすべした肌。都に出しても恥ずかしくない美少年だ。
その特徴的な姿から、村人たちには『炭の小僧』と呼ばれている。
「今日の川は激しいな……」
周囲からは賢い少年だ、神童だと持ち上げられ、あまり子供扱いをされていない。子供らしい無邪気さに欠けているのだ。
今浮かべている物憂げな表情にも、その性格の一端が表れている。
「はあ……」
彼は後に訪れる惨劇を予感することもなく、いつも通り川で洗濯を終えたところだ。
発育不良ぎみの虚弱な子供だが、家族を支える立派な働き手である。
「よっこいしょ……っと」
彼は変声期前の少年らしい高い声で呟きつつ、長い棒の両端についた桶を揺らさないよう、一歩ずつ慎重に歩く。
桶の片方には衣類が、もう片方には汲んだばかりの水が入っている。衣類を落とせば洗い直し。水を落とせば汲み直しだ。
「重いなあ……。力仕事は体が完成されてる大人がやってほしいものだ」
肩に食い込む棒の重みに、少年は思わず愚痴をこぼす。恒例行事である。
繰り返すうちに多少慣れたとて、体力的につらいものはつらい。肉体に負荷がかかるたび、自然と眉間にシワが寄る。
彼は思うように動かない自分の体を恨めしく思いつつ、それでも少しずつ前に進んでいく。
「オレは強い。オレは強い。これくらい、どうってことないぞ……」
そうして自宅の前にたどり着いた時。
少年は母親と、その隣で立ち話をする女性の姿に気がつく。
あの丸っこい容姿は……幼馴染のニコルの母親だ。
「あら、こんにちはアンジェ坊や」
のんびりとした声で挨拶をしてきたので、少年はごく軽く会釈をする。
「……どうも」
「相変わらず人見知りねえ。そんなんじゃ立派な大人になれないわよ」
「……そうですか」
穏やかな口調での容赦ない発言は、この村の住民全てに共通する特徴だ。
誰もが「あの家の息子」ではなく「この村の子供」という認識で、よく言えば気安く、悪く言えば無遠慮に接してくる。
特別おかしな話でもない。狭い世間における身内の会話など、この村に限らずそのようなものである。少なくとも、幼馴染のニコルはそう言っていた。
だが繊細なアンジェ少年は、そのような会話を面倒に思っている。人付き合いが苦手なのだ。
「(立派な大人ってなんなんだよ……)」
彼は最低限の意思疎通を済ませ、そそくさと自分がしていた仕事に戻る。
幼馴染の母親もまた、それ以上引き留めることはなく、自分の家に戻っていく。
結局のところ、彼女も性格が悪いわけではないのである。ただ少しだけ無神経なだけで。
閉鎖的だが、平和で、普通の日常だ。
アンジェは物干し竿に衣服をかけ、水を瓶に移し、一息つく。
次の仕事は、両親とともに畑の雑草取りだ。昼までには終わらせたいが、体力が無いので休憩を挟まなければならない。
「……喉が渇いた」
飲み水になるほど清く澄んだ川の水を、さっそく自分のために活用していると、少女が家に入ってきて声をかけてくる。
「おはよう、アンジェ」
真っ白な髪と青い瞳が目立つ彼女は、当然のようにアンジェ少年のすぐ隣に腰かけ、ニマニマと微笑んでみせる。
その姿は、寝物語に登場する精霊や女神のようである。淡い夢の中から気まぐれに舞い降りてきたかのような、柔らかい優しさがある。
しかし、彼女は美しいだけの偶像ではなく、人間的な内面の魅力も持ち合わせていることを、少年は知っている。長く深い付き合いがあるからだ。
アンジェは少し照れ臭そうにしながら、珍しく相手の目をしっかりと見て、明るく言葉を返す。
「おはよう、ニコル」
「ふふふ……。アンジェは今日も可愛いね……」
名を呼ばれた少女は、まるで木漏れ日のように穏やかな笑顔を少年に向ける。
ニコル。幼馴染の少女。アンジェの物語が紡がれるとすれば、欠かせない役だ。
透き通るように白い肌と、光を受けて輝く白い髪。
氷のように涼しげで、それでいて美しい青い瞳。
その良い意味で目立つ容姿と生まれた季節からとって『雪ん子』の愛称で親しまれている。
誰もが魅了される、アース村が誇る自慢の村娘だ。
ニコルは病弱な体を労わるように動かして、部屋の奥まで歩いてくる。
「今日は日差しが弱くて助かるよ。いつも曇ってくれればいいのにね」
彼女は日光を浴びすぎると肌が痛くなる体質を生まれつき抱えている。おかげで野良仕事ができず、裁縫や小物の修繕を任される毎日だ。
生きるのが精一杯な小さな村で、農作業も狩りもできないというのは……生物として非常に不利である。それでもニコルが生き残っているのは、美しく、優しく、そして……わきまえているからだろう。
また、ニコルはもうひとつ厄介な病を抱えている。骨格に不釣り合いな大きさの胸だ。異様に重く巨大なそれは、間違いなく彼女の生活に苦痛を与えている。
ニコルは背中を壁につけ、負担がかからない楽な姿勢を取りながら世間話を始める。
「アンジェもたいへんだよね。毎日重いの持たされてさあ」
「いつものことだし、平気。ニコルの方が心配だよ」
アンジェは肩と腕の痛みを堪え、少しだけ強がってみせる。
幼馴染であるニコルの前で、先程のひとりごとのような弱音を吐きたくない。つまりところ、背伸びである。
ニコルはアンジェの気遣いを察したのか、ふにゃふにゃと力のない笑顔を浮かべる。
「ふふふ……えらいなあ、アンジェ。ふへへ……」
「笑い方が怖いよ、ニコル……」
「そうかなあ。じゅるり」
ニコルはよだれを垂らしながら距離を詰め、アンジェの頬に触れようとする。
腰を低くして四つ足で這い、目をギラギラと輝かせている。その美貌からは想像もつかない、ケダモノのような身振りである。幼い子供に対する接し方ではない。
ところが、親愛は理解できても、発育の関係で性には疎いのがアンジェという少年だ。
「狼ごっこ? もうそういう歳じゃないんだけど」
「……むっ。いいでしょ、ちょっとくらい。お腹すりすりしちゃうぞ」
「やめてよ。昨日もやったじゃん」
ニコルの中で渦巻くドロドロとした感情を理解できず、すっと立ち上がってニコルの捕食行動から逃れ、アンジェは畑仕事に向かう。
「……えーと、ごめんニコル。そろそろ行かないと。お父さんを待たせてるから」
「えー……もう行っちゃうの?」
「いつでも会えるじゃん。どうせ隣同士なんだから。今度はオレから会いに行くよ」
年頃の少女の好意を無下にするほど薄情でもないので、彼は振り向いてはにかむ。
ニコルは決して、悪い人ではない。べたべたと引っ付いてくるのも、理由があるのだろう。であれば、あまり強く拒絶するのも気が引ける。
アンジェは彼女の行動の意味を知らずとも、人としての礼節を幼いなりに考えているのだ。神童と呼ばれる所以である。
ニコルも自分の態度が過ぎたことを反省したのか、アンジェを笑顔で送り出す。
「わかった。またおしゃべりしようね」
一応、ニコルにもニコルの仕事があるのである。定期的にサボってここに通い詰めているだけで。
微笑むアンジェを見送った後、彼女もまた立ち上がり、帰宅して裁縫の続きに戻る。
よくある日常。微笑ましい、温かな世界。
こんな日々が穏やかに続いていく……はずだった。
〜〜〜〜〜
その日、魔王は唐突に村を襲った。
配下の魔物と悪魔を連れて、上空から降り立ち、村を取り囲んだ。
おそらくは、事前に偵察していたのだろう。あっさりと100を超える人間を制圧してみせた。
魔王は……大雑把な輪郭だけは、人間に似ていた。
頭と、胴と、四肢。遠目で見れば、大柄な男性に見えるだろう。
だがそれらを構成する中身は、吐き気を催すほど異質であった。
縄のようにねじれた髪。ひび割れた眼球。身の毛もよだつ牙。不自然に蠢く腕。刃物さえおもちゃに見える爪。大木のような脚。
そして、鋼のような角。御伽噺に出てくる龍のような翼。
まるでこの世の悪を寄せ集めて、人の形に組み上げたような……そんな外見だ。
勝ち目はない。この先に待ち受けるものは、死だ。村の誰もがそれを理解した。
あの異形の存在が、人間に対して配慮などするわけがない。人間など、奴にとっては口をきく獣に過ぎないのだ。
当然、人道という概念もまた、魔王には無い。
魔王は無数の触腕が重なってできた腕を持ち上げ、群衆の先頭にいる男を指差す。
「全てをここに集めろ。殻を剥いて、並べて待て」
敵意と、悪意と、どす黒い愉悦を含んだ声。それが太い喉から発せられると、村人たちは震えながら農具を持って立ち向かう。
「嫌だ。何をされるか、わかったもんじゃない!」
「村から出て行け。谷底に帰れ!」
こうして反抗したところで、魔王どころか、その周囲に立つ取り巻きの悪魔にすら敵わないだろう。
それでも、無抵抗で恭順したところで……未来があるとは思えなかった。ささやかでも、無意味でも、戦って終わりたかったのだ。
女子供を背にして歯向かう男たち。それを見て魔王は……おそらくは、笑みなのだろう。邪悪なそれを口元に浮かべて、配下たちに指示を下す。
「下ごしらえだ」
そして、悲鳴が村を割った。
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曇天。
おそらくは、魔王の軍勢によるものだろう。風に流されることなく、闇のような黒雲が渦を巻いている。
そんな空模様の下に、100人近い村人が整列している。
既に戦う意志は尽きている。死体のような目で悪魔たちに怯え、青ざめ、残り少ない命を家族や友人との会話に捧げている。
それもそのはずだ。並んでいる100人の中に……本物の死体が混ざっているのだから。
魔王に抵抗した者たちの扱いは、畑を守る案山子より劣悪だ。木の杭に縛られ、いたぶられ、誰もが死を懇願して果てていった。
それを見せつけられて、誰が逆らう気力を保てるというのか。
「始めろ」
魔王の手先であろうネズミたちが一斉に動き、村人たちの肩に飛び乗り、あらかじめ決められていたであろう質問を投げかける。
「年齢は?」
「家族構成は?」
「普段の食事は?」
「睡眠時間は?」
「性接触は?」
「持病は?」
「投薬は?」
質問の内容は、村に派遣される医師のようだ。だがその意図は、決して人間に利するものではないのであろう。
人々は震える声で、時折考え込んで時間を稼ぎながら、質問に答えていく。この先に待ち受ける地獄のような拷問を覚悟しつつ、気休めばかりの抵抗を続けている。
……アンジェとニコルもまた、その渦中にいる。
「死ぬのかな、オレ」
アンジェは磔にされて死んだ両親を横目で見ながら、隣の少女にそう尋ねる。
絶望に満ちた声。暗闇の底にいるかのような顔色。
ニコルは衣服を失った体を両腕で隠しながら、愛する彼を少しでも楽にするべく、歪んだ笑顔で答える。
「もしかしたら、領主様を脅すための捕虜とか、人質とか、そういうのになるかも……しれないし……」
口ではそう言いながらも、その可能性は限りなく低いと、彼女はそう思っているのだろう。
この村に価値などない。領主の財や誇りと天秤にかけられるほど貴重な人材など、ここにはいない。
何より、魔王は村人を拘束していない。……ここにある命を、この場で使い捨てるつもりなのだろう。
ニコルは咽び泣く母親の背中をさすりながら、今にも消えそうなほどか細い声で告げる。
「アンジェ。お願いがあるの。アンジェにはまだ早いと思ってたけど、今だから……言わせて」
「なに?」
俯いたままのアンジェにそっと近づき、ニコルは泣きそうな笑みを浮かべる。
「口付けをして。私と結ばれてほしいの」
すぐそばに迫った、死という後押し。
皮肉にも、それが彼女にひと欠片の勇気を与えた。
アンジェはゆっくりと、顔を上げる。
死の気配に包まれた村が見える。生まれ育った故郷が死んでいくのがわかる。
あの地獄から目を背けたい。そう思いつつ、アンジェは縋るようにニコルと目を合わせる。
精一杯作ったであろう、いつも通りの笑顔がそこにある。恐ろしいだろうに。震えているというのに。
アンジェは無言で体を寄せる。
親愛による口付けは、いくらか経験がある。それがこの上なく重く、それでいて心地よい感情を含む行為だと、頭と体で理解している。
だからこそ、彼女の気持ちを素直に受け止める。切なる願いを、優しく聞き入れる。
「うまくできるか、わからないけど……」
アンジェの言葉に、ニコルは嬉しそうに一筋の涙を落とし、ゆっくりと唇を近づける。
一瞬。たった一瞬、世界の音が止む。ふたりだけの世界が広がる。ふたりの他に誰も、何も、なくなる。
……ふたりは、目を閉じる。
視界は全て、闇の中。なのに眩しい。胸の内から溢れ出る幸せに、包み込まれてしまう。
……呼吸が、戻ってくる。
離れても尚、繋がっている気がする。
「好きだよ、アンジェ」
水面のように潤んだ目で、ニコルはそっと告げる。
アンジェの答えは、とうの昔に決まっている。
「オレもだよ、ニコル。ニコルがオレの一番だ。いつだって、今だって……」
そして、アンジェは再び愛の世界に……
戻ることが、できるはずもなく。
「お前の番だぞ」
金属のような体を持った、無慈悲な悪魔が……声をかけた。