7 それは知っている感情ですから!
(っ、冷たい……!!)
反射的に息を止めてしまうが、確かに深さはそれほどでもない。とはいえ、いきなり深くなっている場所があるかもしれないので、慎重に一歩ずつ踏み出した。
(急いで近付くと、マフラーを遠くに流してしまいます。ゆっくり……湖底が段差になっていないか、足の先でちゃんと確かめて……)
そうしてマフラーに辿り着き、震える指先で手を伸ばす。
「!」
「お嬢さん!」
バランスを崩し、倒れ込んでしまいそうになるも、ぐっと踏ん張って持ち直した。
「だ……大丈夫です! セーフです!」
「ど、どうか早くお戻りくだされ!!」
シャーロットは頷き、水を吸って重くなったマフラーを確保する。来た道をそろそろと戻り、ほとりの方まで来ると、老人が慌てて引っ張ってくれた。
「あなたは、なんという無茶を……!!」
「ほ、本当ですね!? 冬の湖を甘く見てはいけませんでした! 寒いです!」
「こちらへ! 魔術で火を焚きますゆえ!」
老人がそう言うのと同時に、地面に魔法陣が現れる。そこからゆらりと火が上がり、シャーロットはその傍に屈み込んだ。ドレスを濡らさずに済んだお陰で、火の傍にいれば寒さは和らぐ。
「マフラーが無事かのご確認を。どこも傷んでいないと良いのですが……」
心配になりながら、雫の滴るマフラーを広げてみた。けれども老人は、困った顔でシャーロットを見ている。
「お嬢さん。まずは、あなたにお怪我がないかが先です」
「!」
その言葉に、心配を掛けてしまったのだと思い知る。
「……驚かせてしまってごめんなさい。大丈夫です、どこも痛くありません!」
「それなら、ひとまず安心いたしましたが……。何故、見ず知らずの年寄りのために、このようなことを……?」
尋ねられて、シャーロットは答えた。
「おじいさんは、亡くなられた奥さまにいまも恋をしていらっしゃるのでしょう?」
「……それが、一体どのような……」
「実は私もつい先ほど、好きな人が出来たばかりでして」
「!」
オズヴァルトの顔を思い出し、シャーロットはとろりと微笑んだ。
「いまの私にあるものは、どうやらこの恋だけなのです」
なにしろ記憶がひとつもない。
なんにも持たず、神力も空っぽになってしまったシャーロットには、これが唯一の大切なものなのだ。
「恋しい人から贈られたもの。それを落としてしまったと想像すれば、胸が裂けそうに痛みました。胸がきゅうっとなって、泣きそうで」
寝室に残して来た青い外套は、シャーロットにとって大切なものだ。
すぐに返さなくてはならないと分かっていても、絶対に汚したくなどなかった。
老人にとって、このマフラーがそうなのだとすれば、他人事だと思えなかったのである。
「ですが、何も出来ずに泣くよりは、取り戻すためのお手伝いをしたいでしょう?」
「……」
「もっとも私の場合、おじいさんとは違って失恋しているのですけれど!! ……あら? ですが失恋って、考えてみれば……」
ぐるぐる考え始めたシャーロットを見て、老人が困ったように笑う。
「……まったく、なんということを……」
その表情は、どこか泣きそうであるようにも見えた。
「危険なことをなさったあなたを、年長者としてはお諫めせねばなりませぬ。しかし、それ以上にいまは、心よりのお礼を申し上げたく」
「わあ! お、お顔をあげてくださいませ!」
「ありがとうございました。――この御恩はいずれ、必ずや」
深々と頭を下げた老人に、シャーロットはぶんぶんと首を横に振る。
「お気になさらず……あ、で、ですが! もしよろしければ、あの」
「いかがなさいましたかな? どうぞ、なんなりと」
「あの! 実はこのお屋敷にいらっしゃる、オズヴァルトさまという方のことについてお聞きしたく……! オズヴァルトさま、ご存知ですか?」
「む」
そう言うと、老人は驚いたような顔をする。
「もちろん存じ上げております、この屋敷の主たるお方ですからな。お役に立てるかは自信がありませんが、私めで分かることであれば」
「よろしいのですか!? とはいえこれはもう、大変に大変に大変に、はしたない質問かもしれないのですが!!」
「……はしたない……」
「差し支えなければで結構ですので、あの!」
シャーロットはもじもじと俯きつつ、思い切って老人に尋ねてみた。
「……オズヴァルトさまのフルネーム、教えてください……っ!!」
「……はしたない……?」
こうしてシャーロットは、恋する相手のフルネームという、大変に重要な情報を入手したのである。
***
シャーロットがすっかり温まり、屋敷に戻っていったあと、老人はそれを見送った。
彼女が取り戻してくれたマフラーは、まだ少し濡れた状態だ。
それを見ていると、昔のことがありありと脳裏に浮かんでくる。
若かりし頃、亡き妻が嫁いで来たとある冬に、初めてふたりで街へと出向いたのだ。
初めて見る街の光景に、妻はきらきらと目を輝かせていた。
そして彼女は、「誰かに贈り物をするなんて初めてなの」とはにかみながら、青いマフラーを巻いてくれたのである。
老人は、妻の形見であるそのマフラーを見下ろして、ひとつ溜め息をついた。
(……まったく、本当に無茶をするお嬢さんだ)
湖に入った少女の背中を思い出し、改めて肝が冷える。怪我は無いと笑っていたものの、無事でよかった。
(しかし、『恋をしている』とはな。……これだから人生とは、何が起こるか分からない)
そのとき、庭の向こうから男の声がした。
どうやら見つかってしまったようなので、やれやれと肩を竦めてから火の陣を消す。
現れた赤髪の男は、老人を見てほっと息をつくのだ。
「ああ、こちらにいらっしゃったのですか! またそのように、庭師のふりをなさって……」
「小うるさいのが来たな。そう毎回探しに来んでも、すぐに戻ると言っているだろう」
「大切な御身です、そのような訳には参りません。なにとぞご理解を」
「わかっとるわい」
週に一度の楽しみも、これで終わった。
老人は杖を握り直しつつ、ふと思い立って、傍らの男に尋ねる。
「のう。お前、『私のためにこの湖に足を浸けろ』と命じれば、迷わずに入るか?」
すると男は、すぐさま青褪めながら湖を見遣った。
「こ……この季節にですか?」
「駄目だ駄目だ。その確認をする時点で、すでに迷いが出ているじゃないか」
「それは……」
男はばつが悪そうな顔をするが、これは正常な反応だろう。何年も仕えている主人のためでも、やりたくないことはあるはずだ。
(ましてや、出会ったばかりの小汚い年寄りのために、あんなことが出来る人間など少ない)
機嫌がいいのを察してか、男が怪訝そうに尋ねてくる。
「どうなさったので?」
「なあに、久しぶりに友人が出来たものでな。やはり、外には定期的に出るべきだと感じたまでよ」
「ご友人……もしや、庭木の話でも?」
「ふふん。聞いて驚け、恋の話じゃ」
「はっ!?」
老人は小さく笑うと、屋敷の方を視線だけで見上げる。
廊下の窓越しに、ひとりの少女の姿が見えた。
彼女はこちらに気付き、笑って手を振ってくる。それに丁寧な一礼を返して、老人は歩き始めるのだった。
***