7.不完全な死
私達は一旦食堂に集合し、遺体の状態を確かめに行った医者とメイドが戻るのをそこで待っていた。
「大丈夫か、香月」
重苦しい沈黙を破り、シュウは気遣わしそうに問う。返事をしようとしたけれど、喉の奥が詰まってできなかった。吐き気がする。
紫の部屋で目にしてしまったおぞましい光景が、脳裏に焼き付いて消えない。
鮮やかな光沢を放つ、おびただしい量の血液。それは潰された顔面において所々黒々とした塊になっていた。
つい昨日まで生き生きとしていた彼女が、単なる物体と化して放置されていたのだ。あんな状況を目の当たりにして、通常の精神状態を保てるはずがない。
「無理するなよ。吐きたかったら吐いてもいい」
そう言ってくれる彼を前に、私はただうつむいた。気を遣われている、ということが何故かとても悲しかった。いっそ放っておいてくれたらいいのに、と勝手なことを思った。
大丈夫? と尋ねられることが苦痛だったあの頃を―――― お兄ちゃんを亡くしたばかりのころを思い出してしまう。
泣いてばかりでは彼が浮かばれない、と言われると余計に泣きたくなった。元気出して、と声をかけてくる人に対しては、なんて思慮がないのだろうと憤った。
何故皆、やたらと他人の不幸に介入しようとするのだろう。私は別に救われようだなんて思ってはいなかった。誰かに助けて欲しいだなんて望んだこともなかった。
私はただ、放っておいて欲しかったのだ。
結果、中学は徐々に不登校となり、自殺も何度か試み、時を置かずして家出もした。
行き先は大抵ファミリーレストランやインターネットカフェで、布団で眠ることはほとんどなかったように思う。人で溢れ返る都会の隅で孤立した時を過ごすのは、気分的にとても楽だった。
皆が別物で、分離していて、言い換えればそれは、ある意味皆同じだからだ。
しかし家出にはそれ相応のものが必要だ。私は金銭が尽きると家に戻り、そのたびに母の財布をくすねて逃げた。それは始めこそ騒がれたものの、ふたつきが過ぎる頃には当たり前になっていた。とはいえ、私がつかみ出していたのは百円や二百円の小銭ではない。万の単位だったのだ。いつまでも許される暴挙ではなかった。
無心に戻っても財布の在処が分からないことが増えた。やがてそれらは金庫に厳重に保管され、最終的には手出しが出来なくなってしまった。
無性に腹立たしかったことを覚えている。それは私が望んでいた『誰もが自分に干渉しない世界』だったはずなのに。
放っておいて欲しかったのか、気持ちを汲んで欲しかったのか、……すっかりわからなくなった。考えてみてもわからなかった。わかるはずもなかった。わかりたく、なかったのかもしれない。
そこで、全ての悪足掻きに終止符を打った。
自分の気持ちにも、周囲のおせっかいにも、抗うことをやめてしまった。もう、何がどうなってもいいと思った。本当の意味で自暴自棄の心境に到達したのは、このときだったのかもしれない。
だから情けない話、家出をやめたのも高校受験をしようと思ったのも、決して前向きな気持ちからではなかったのだ。
単純に、諦めただけ。感情に蓋をしただけだった。
本当は、彼の両親が脳死を死として受け入れたことはもちろん、原因となった事故も到底納得のいく話ではなかった。
お兄ちゃんはあの日、信号無視の乗用車にはねられたそうだ。駅を出て、ひとつめの交差点での出来事だった。
実を言うと、それ以来私は未だその場所を訪れてはいない。駅へ向かうときにも、無意識のうちに迂回してしまう。彼が最後にその目に映したものを、見たくはなかったから。
しかし思い起こしてみれば、あの交差点はとても見通しが良かった。視界を遮るようなものはないし、信号だって確認しやすい位置にある。加害者の女性は見落としたと証言したらしいけれど、どうにも腑に落ちなかった。
葬儀が済んでからしばらく経って、おばさまに訪ねてきてほしいと頼まれたけれど、答えは濁したままだ。彼の部屋を訪れて、彼がいないことを再確認する勇気はなかった。
それに、あそこに詰まっているのは彼の一部であって、内部を構築するための材料だったのだと思う。遺品と称して、そこから何かを取り出すこと―――― それは亡くなった直後に摘出された臓器を思い起こさせ、ひどく抵抗を覚えた。
内部を取り出すのは、死を認めたことと同じ。私にはできない。
そんな気持ちにも蓋をしたままで、つまり私は今も現実を受け入れられないでいる。
「死後硬直の完成具合から見て、死亡推定時刻は0時から二時の間だろうと思う」
遺体の状態を確認していた医師がメイドを引き連れて食堂へ戻ってきたのは、昼近くになってからのこと。
彼の名は翠川、この施設に常駐しているドクターで、加賀見さんとは小学校時代からの旧友らしい。しかしドクターとはいえ、彼が施すのは通常の医療行為ではないとのことだった。
「原因は首を絞められたことによる窒息死、つまりは絞殺だね。にもかかわらず念入りに顔を潰したのは、恐らく彼女の眼球がないことを隠すためだろうと思う」
捲り上げていた白衣の袖を直しながらそう言う。加賀見さんが、眉をひそめて振り返った。
「眼球だと? ないのか」
「うん。左右ともにくり抜かれてる。しかもどこにも見当たらない。持ち去られたと考えるのが妥当じゃないかな」
場がわずかにざわめく。
眼球を抜いて、持ち去った?
「僕はリールの専門家であって、法医学に精通しているわけじゃないから断言は出来ない。こんな事態、ここでは……初めてのことだし」
加賀見さんは唇を撫でた。
「眼球を持ち去ったのは犯人、なのか?」
「もともとそれが目的だったんじゃないかな。恐怖を与えることだけが目的なら、持ち去らずに捨て置くだろうし」
「何故……」
「さあ、そこまでは。でも、単純に命を奪うことが目的なら、目には触れないと思う。快楽殺人の一種か、眼球に異常な執着があるのか―― 僕にはこれが精一杯の見解だよ」
翠川医師は申し訳なさそうに口角を上げる。私は彼らの会話を聞きながら、密かに息を飲んでいた。
―――― 眼球を取り出して持ち去る。
お兄ちゃんの肉体に施されたことを彷彿させる。そう、彼は臓器と共に眼球も提供したのだ。
状況も方法も違うけれど、眼球を摘出した、という一点においては共通している。そう思うのは考えすぎだろうか。
眼球を奪われ殺されたソフィ。
脳死と判定されたのち、眼球を提供した彼。
ふたりの共通点はそれだけに留まらない。リール協会だ。ソフィはもちろんのこと、彼だって関係者と接触していた。そして私は、その時まさに『死ぬ』という単語を耳にしている。
冷静な自分と恐怖に怯える自分が体内でせめぎあう。気のせいだ。考えすぎなのだ。けれど疑う気持ちは晴れない。あれは本当に事故だったのだろうか。
もしや。
もしや彼は、何者かに殺された?