6.患者、完全なる死
らせん階段をほぼひとまわりくだったところで、一階の廊下に行き当たった。
二階と比べて随分と窮屈な印象を受けるのは、天井が上階よりもやや低く造られているからだろう。とはいえ一般的な住宅と比べたら充分すぎるほどで、空間の寸法は桁違いに大きい。
まずはじめに目を奪われたのは足下を埋め尽くす花の模様で、これは木を組み合わせて描かれたもののようだった。タイルのような煌めきはないけれど、これはこれで美しい。
視線を上げて廊下を左右見渡すと、手前の壁面に金のプレートがあった。診察室、と流れるような文字で彫り込まれている。輝き方からして、まだ新しいのかもしれないと思う。そもそも屋敷自体、築かれてからさほど月日を経ていないような真新しさだけれど。
しかし細部に至るまで趣向が凝らされたこの場所は、曲線に対して異常な執念を持って建てられたような、はっきり言ってしまえば病的な印象を私に与えていた。
曲線の種類にもよるのかもしれない。
ここにあるのは、洗練された優雅なラインではない。粘液が滴り落ちるときのような、どこか表情豊かでねっとりとしたしつこさのあるラインなのだ。それが室内を埋め尽くしている様は、異様としか言いようがない。
にもかかわらず目的の食堂にはドアさえなく、石壁をくり抜いた四角い出入り口がひとつ設けられているだけという質素さだったので、私は疑問に再び首をひねることとなった。
どういうことだろう。
「腹減った」
シュウが慣れた様子ですたすたと入って行ったので、私は出入り口手前の壁際まで寄って行き、体を斜めにしてそろりと室内を覗き込んだ。
中央に木製のテーブル―― 恐らく工業製品でなく一枚板を丸太に乗せただけの―― があり、木彫りの椅子に腰を下ろした人達が六人ほどそこで食事をとっている。加賀見さんと栞さん以外には、見知らぬ男三人に、外国人と思しき女性がひとりいた。
中央を陣取っている加賀見さんの背後に回り込み、シュウは不服そうな態度でその肩に腕を乗せる。
「随分のんびり食いやがるじゃねえか」
「年寄りなものでね。迂闊に嚥下できぬのだよ。念入りに咀嚼せねば喉につかえる。げほげほ」
「こんな時ばっかりジジイぶってんじゃねえよ」
モデルと編集長というには、ふたりは妙に親密な気がする。別に、変な意味ではないけれど。
テーブルの中央には籐のカゴがあり、スライスされたフランスパンが無造作に詰め込まれていた。それを囲むようにして大皿にサラダやスクランブルエッグが盛られている。各々が自分の皿に取り分けて頂くようだ。
「新入りさんかい? 夕べは気付かなかったけど、泊まっていたんだね」
角の席に座っていた壮年の男性が私に気付き声をかけて来た。
白髪混じりの髪は耳の上付近が特に顕著だ。彼は自らを志津木学と名乗った。聞けば妻と幼い娘の三人暮らしで、印刷所の工員を生業としているらしい。
「私は茶の部屋に泊まっているよ。よろしく」
「……こちらこそ」
ふっくらとした頬に、柔和そうな声、小さな瞳。頭の片隅で、父を思い出した。
彼の右隣に腰を下ろすと、左側に座っていた若い男がおもむろに私の顔を覗き込んだ。
「君、かわいいね。俺は長谷悠弥、十九歳大学生。今日から緑の部屋に泊まる予定。ユーヤでいいよ」
「予定、ですか」
「うん。さっき着いて、鍵を貰ったところ」
ユーヤさんの鍵には『緑』の漢字を象ったキーホルダーが下がっていた。
彼の髪は赤茶色で、ツンツンと逆立てられた髪型がイガグリを彷彿とさせる。それをさらに刺々しいイメージに仕立て上げているのが唇の端に三つ並んだ小さなピアスだ。苦手なタイプだな、と思った。
「おや、先程までソフィさんを口説いていたのは誰でしたっけ。言葉が通じないからって早速鞍替えですか。随分切り替えが早いんですね」
呆れた口調で横やりを入れたのは、向かいでパンを千切っている眼鏡の男性。
二十代半ばだろうか、爽やかなブルーのクレリックシャツを身に着け、長めの髪は淡い栗色で、透き通るような清潔感があった。
どことなくお兄ちゃんにイメージが被る。
「うるせえっ、伊倉には関係ないだろ。いいよな、おまえには彼女がいて」
「呼び捨てにしないで下さい。初対面なのに」
「けっ、好青年ぶってんじゃねえ」
吐き捨てて、ユーヤさんは鼻柱に皺を寄せる。その手元を、パンの切れ端を持ったままの伊倉さんが指差した。
「そこ、さりげなくひもを結ばないように」
「ちっ、見えていやがったか」
「ここは可視だらけですからね、ズルをしたってすぐにわかります。君、ぼけっとしていると勝手に繋げられますよ」
「え?」
何を? 意味がわからずうろたえてしまう。まただ、『可視』って。
ユーヤさんはテーブルの上数センチの場所で何かをつまみ上げるような仕草をしている。しかし、何がその指の間に挟まっているのか、わからない。見えない。
「協会の許可なくひもを操作するのは規定に反しますよ。シザーに裁かれても知りませんからね。最悪、天涯孤独の身になるってことを覚えておいたほうがいい」
「うるせえ。単なる真似事だよ。俺は結ぶ力まではねえの、単なる可視だからな」
「その割にしっかり握っていらっしゃいましたが」
「あららら? 伊倉ちゃんだって触ったことくらいあるだろ? ひも」
ひも? シザー? 一体何のことだろう。
「いちいちおちょくらないでください。そんなだから、女性に縁がないんじゃないですか」
涼しげな顔で彼を一瞥する伊倉さん。その横で加賀見さんが眉をひそめた。
「おなごなどつまらんではないか。あんな、ふにゃふにゃした生き物」
空気が読めていないのか、言ってテーブルに頬杖をつく。
「蹂躙するなら男に限るぞ」
朝からそんな単語を耳にするのは避けたかった気がする。脱力した私の斜め前で、伊倉さんが遠慮がちに尋ねた。
「あの、もしかして加賀見さん、ソッチの人ですか」
「そっちとはどっちだ。私はここにいるぞ」
「うわっ、天然かよ。じゃあそこのガキ、もしかして」
「違うっつうの。オレは女が好きなんだよ!」
「毎度釣れぬな、シュウは。この際乗り換えるか。ああ君、伊倉―― 昌生くんだったか。なかなかわたしの好みだ」
「いえ、すみませんが僕は地元で彼女が待ってますので……」
眼鏡の向こうで虚ろな目をして、伊倉さんはさりげなく加賀見さんとの間を設けた。
クク、と愉快そうにシュウは左の口角を上げる。
「フラれ続きだな、ジジイ」
「ふん、つまらぬ。たまにはおまえに妬いてもらおうと思ったのに」
白けた雰囲気の中、ただひとり黙々と食事を続ける女性がいた。不自然だな、と思いながら遠巻きに眺める。
肩の上で程よくカールした、たっぷりと光を含むブロンドヘア。彫りの深い顔面に収められた宝玉のような碧眼が、彼女の出自を物語っている。もしや、日本語がわからないのだろうか。
「これ、捺南ちゃんの分。あとで部屋に持って行こうと思って取り分けておいたんだけど」
そう言って栞さんが差し出してくれた皿には、サラダと生ハム、スクランブルエッグにウィンナー、恐らく朝食として提供されていたもののひととおりが盛られていた。ようやく、自分が空腹だったことを思い出した。
「あ……ありがとうございます」
「へえ、君、捺南ちゃんっていうのか」
すかさずユーヤさんが話題を拾った。名乗っても大丈夫だろうか。彼もグルだったりしたら――――。
いや、ここにいればいずれは知れる。逆に、あまり警戒している様子を悟られないほうがいい。
「……はい。香月捺南と言います。シュウと―― そちらの小泉厨くんと同級生です」
「ふうん。付き合ってんの?」
「いえ、別に」
「そっか。彼氏はいないの?」
「……はい」
そんなもの、いない。一緒になろう、と約束をした人はいたけれど。
「なあなあ、どこに住んでんの? メアド教えて」
「あ、そういえばソフィさんは捺南ちゃんたちと同じ歳じゃなかったかしら」
栞さんが思い出したように言う。故意に会話を遮ったわけではなかろうが、助かった、と思ってしまった。
「そこの彼女、フランス人なのよ」
青い目の女性を指差して、困り顔になる。
「長谷くんと同じく今朝早くこちらに着いたから、部屋へ上がる前に食事をとってもらってるんだけど……生憎、誰も言葉がわからなくて」
伊倉さんが不思議そうな顔で尋ねた。
「どうしてまたそんな遠方から? 協会施設ならフランスにもあるでしょうに」
「ええ。それがね、彼女、フランス本部のお偉いさんのお嬢さんなのよ。日本に留学したいんですって。でも言葉も何もわからないらしくて」
「英語もですか」
「体が弱かったとかで、学校へはほとんど通っていないらしいの。だから彼女に分かるのは母国語だけ。ご両親も心配なさって、とりあえず下見がわりにここで一週間だけ預かることになったのよ」
「権力者には敵わんな。まあ、長いものには巻かれてなんぼだが」
冷めた目をした加賀見さんを前に、志津木さんは狼狽をあらわにする。
「ほ、本人がいる前でそんな」
「心配しなくても、彼女は日本語も全く解さんよ」
自分が注目を浴びていることに気付いてか、ソフィさんは皆を見渡して微笑んだ。可憐で線の細い、儚げな笑顔だった。
会話の内容を理解していないことを知っていても、やはり気まずい。
「あの」
カトラリーケースからフォークを一本取り出しながら、私は栞さんを見上げた。シュウもスクランブルエッグをかきこんでいるし、毒が盛られていることはないだろう。
「皆さん、全員が患者さんなんですか」
「もちろん、ソフィ以外はね。あとはメイドと、ドクターがひとりずつ奥にいるわ。ええと、だから今この施設にいるのは、総勢十名ってことになるかしら」
いや、と加賀見さんがパンを口に含んだまま湿り気のない声で言う。
「二階にまだあとひとりいる。とびっきりの変わり者で、畠とか言ったかな。人見知りが激しい中学生でね、部屋から一歩も外に出て来ないのだよ。畠なだけに傍迷惑というか」
シュウは呆れ返った顔で「寒っ」と身震いをした。
ああ、あの人影だ、と私は先程のことを思い出しながら頭をひとつ振った。二階で感じた不可解な視線。あのときこちらを窺っていたのは『畠』と断定して間違いないだろう。
頭の中でメンバーを数え直してみる。
壮年の志津木さん、大学生のユーヤさん、眼鏡の伊倉さん、フランス人のソフィさん、変わり者の畠さん、そしてブルジョワ加賀見さんと巨乳の栞さん、シュウ、私、まだ見ぬメイドにドクター。
と、いうことは合計十一名の計算になる。
「ところで皆、可視か? リーラーはいるのか」
加賀見さんはカフェオレをすすりながら問う。カップを持つ手の小指がピンと立っていた。
「僕は単なる可視ですよ」
右手を挙げて答えたのは伊倉さんだった。
「俺は右だけ可視」
「私は可視のリーラーです」
ユーヤさん、志津木さんが続けざまに答える。眺めていることしか出来なかった。皆、まるで当たり前の―― そう、夕べのテレビ番組の内容を話題にしているかのように軽い口調だった。
「そうか。ソフィくんも確か、可視のリーラーだったな。となるとこの中で不可視なのは香月くんと滝口くんだけか」
「はい」
頷きながら、栞さんは私に気遣わしそうな視線を送ってくる。戸惑っている様子が伝わったのだろう。
こうして私は、いかにも排他的な屋敷で彼らと生活を共にすることとなったのだった。
私達は出会えば挨拶を交わし、昼と夜には同じ食卓を囲み、空いた時間は歓談をし、非常に和やかに一日を過ごした。
だから、酷い目に遭わされるかもしれない、という最悪の想像は就寝する頃すっかり消え失せていたのだ。
そんな私の油断をえぐり取るような事件が起きたのは、翌朝のこと。
「―――― ソフィさん!」
扉を連打する音と、叫ぶ声に目を覚ました。
パジャマのまま廊下を覗き見ると、紫の部屋の前で、シュウと栞さんが強張った顔をしてうろたえていた。
「どうしたんですか」
「あ、おはよう捺南ちゃん。ごめんね、起こしちゃった?」
「いえ。何かあったんですか」
「ソフィ、チャイムを鳴らしても反応がないのよ。ご両親からの電話にも出ていなかったみたいだし」
そういえば、昨日昼食の後から姿を見ていない。
ドアノブをガチガチと上下に揺らしながら、シュウは舌打ちをした。
「鍵も閉まってる。ひもも……見えねえけど、いないとは断言できねえ。万が一風呂場ででも倒れてたらヤバいぜ。キー解除には最低でも三十分はかかるからな」
「どうかなさいましたか」
慌てた様子で駆けつけて来たのは、メイドの草木さんだ。事情を説明すると、彼女は一気に青ざめて階下に消えた。
伊倉さんとユーヤさん、そして志津木さんもそれぞれ部屋から姿を現す。ソフィさんの反応がないことを打ち明けると、彼らは心配そうに顔を見合わせた。
「ドア、やぶっちまうか。モタモタしてたらまずいんじゃねえの」
「だよな、オレもそう思ってた」
シュウとユーヤさんがそんなことを言い出したので、焦った栞さんが止めに入った。
「待って。まだ中に彼女がいると決まったわけじゃないのよ。落ち着いて」
「ひとまず周辺を手分けして探しながらキーの解除を待つというのはどうでしょう」
提案したのは志津木さんだった。
「だな。ここにいてボケッとしているよりはマシだ」
言い終わるより早く、彼らは階段の方角へと走り出す。私と栞さんも、すぐさま後を追った。
建物内をぐるりと見回った後、庭へと捜索の場を広げたけれど、一向にソフィさんは見つからない。
立ち木の足元で、知らん顔をして鮮やかな赤紫の花が揺れる。あれは何という花だっただろう。初夏によく、見かける花だ。
ふと、昨日、昼食後に皆で庭を散策した時のことを思い出した。
『コレナニ?』
彼女は最初にその言葉を覚え、熱心に身の周りのものについて尋ねていた。次第に解答に熱がこもった加賀見さんがまた色についての演説を始めてしまって、皆、呆れてため息をついたのだ。
その後、彼女は紫の鍵を受け取り、部屋に戻った。皆の話を総合すると、それ以降、姿が確認されていないということだった。
食事はあの通り自由にとるスタイルだから、てっきり行き違いになったのだと思っていたけれど――。
十分ほど辺りを探しまわったところで、やはり部屋にいるのでは、と誰からともなく言い出し、私は様子見のために、伊倉さんと屋敷内へ引き返したのだった。
「ソフィ、ソフィ!」
先程と同じようにして室内に呼び掛けたけれど、依然無反応だ。
「どうしよう。まだなんでしょうか、解錠」
「最低でもあと十五分はかかるそうです。もういっそ、破りましょう」
言うなり、彼はドアに向かって肩から体当たりをする。
衝突音とともに、壁全体が軋むような音が回廊にこだました。
「俺にもやらせろ!」
階段を駆け上がってきたユーヤさんが、そのままの勢いで扉へ突っ込む。
二、三度繰り返すうちに板のたわみは大きくなり、五度目の体当たりで、それは内側に押し込まれるようにして封印を解いたのだった。
「う、わっ」
まろぶようにして室内に踏み込んだユーヤさんが声を上げる。続いてシュウと伊倉さんがぎくりと立ち止まり低く呻いた。
彼らの背の間から、透き通るような象牙色が垣間見える。それは陶器のようでいて、やけになめらかな曲線を描いていた。
その正体を確認しようとして室内を覗き込み、瞬間的にのけ反った。
「なん、だよこれ……」
シュウは茫然としながらも、憤った声で呟く。あまりにも異様な光景を前にして、私は言葉を失っていた。
紫の部屋で目の当たりにしたもの。それは、鮮血にまみれた家具とそして、人ではなくヒトだったモノだった。
だらりと足を投げ出して、突き当たりの壁にもたれる弛緩した肉体。その顔面は無惨にも生前の面影を一切留めぬほど執拗に潰されていた。
まるでザクロのように。
「……ソフィ、なのか……?」
体の右側に力なく下がった腕の先、掌の中できらりと光るものがあった。よく見れば『紫』と書かれたキーホルダーがそこに下がっている。部屋の鍵だ。
室内にたまっていた生温かい死臭が、流れ出して来る。口元を掌で押さえ、悪心に耐えながら顔を背けた。
―――― 生と死。
お兄ちゃんのそれがどこからどこまでだったのか、今でもわからない。しかし今、彼女は、明らかに生の領域から大きく逸脱していた。
完全なる死が、そこにあった。