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5.病室

 

 瞼を開くと、ぼんやりした視界にべっこう飴のような色が映り込んだ。数秒ぼうっと眺めた挙げ句、ようやくそれがシュウの髪なのだと気付いた。光を含み透けるそれはお兄ちゃんの黒髪とは明らかに別物で、褪せたわけではないだろうに、失われた色を思うと何故だか少し悲しかった。

 お兄ちゃんの艶のある黒髪が懐かしい。もっとためらわずに触れておけば良かった。こんなふうに、思い出のなかでしか触れられない、遠いものになってしまう前に。

 やりきれなくてひとつ吐息する。と、シュウはベッド横の椅子に腰掛けて雑誌を捲りながら、視軸だけで私を捉えた。


「おう、大丈夫か。気分は?」


 私はまたも気を失っていたらしい。


「ジジイと栞さんは、飯を食いに食堂に行ってる。もう戻ると思うけど」

「食堂?」

「ああ。ここは病室の他に食堂がついてて、そこに毎回集まって食うんだ。情報交換にもなるしな」


 大あくびをしながら、ぱたんと雑誌を閉じる。最新号の『メンズ・ゼロ』、表紙はもちろん彼自身だ。

 室内に私達以外の人間はいない、ということは正真正銘ふたりきりだ。クラスメイトが見たら何と言うだろう。今度こそ仲を疑われるだろうか。

 見慣れない真っ白な空間の中、学ランの黒さが対比するように際立っていた。

―― そうだ。

 あのとき、お兄ちゃんの家にいた人達も黒いスーツを着ていたような気がする。リール、可視、という言葉も確かその時に初めて聞いたのだ。


「……ねえ、リールって何? ここ、本当になんなの」


 先程より幾分、体調はいいような気がする。徹夜の翌朝、仮眠をとったあとの感覚に少し似ていた。

 ベッド脇の時計は九時七分を示している。奇妙な曲線が彫り込まれた、振り子付きの木製置き時計だ。アンティークだろうか、やけに重厚感がある。


「まだ言えねえ。聞いたところで、理解するまでにはそれなりの時間がかかると思うし。俺もしばらく混乱した覚えがあるから」

「……私、どうなっちゃうの。家には帰れるの」

「もちろん回復すれば帰れるさ。あまり警戒すんな、って言われても無理か。当然だよな。おまえ、可視じゃないもんな」

「だから可視って何なの、もうはっきり教えて」


 焦りが増幅しきっていた私は、目の前でのんびりかまえている彼が少々憎らしく思えてきた。


「オレ、うまく説明できるかわかんねえけど」

「それでもいいから!」


 情報は多いほうがいい。ここから自力で逃げ出すことも可能になるかもしれないからだ。


「ううん……じゃあさわりだけな。リールっつうのはつまり、人と人を繋ぐために必要不可欠なもの、だ」

「……は……?」

「ほら、現実離れしてて理解できねえだろ。ジジイの前置きは長えけど、あれはあれでところどころ必要なんだよなあ」


 難しい顔で右頬をさすり、何やらじっと考え込むシュウ。私はふと、彼との初対面を思い起こし不思議な気持ちになった。

 そう、あれは高校の入学式の日。


『ねえカヅキさん、知ってる?』


 教室で最初に声をかけてきたのは前の席の女の子だった。

 私の名字は香る月と書いてコウヅキという。読み方としては少々珍しいらしく、初対面で正しく呼ばれないことにはもう慣れている。

 彼女は落ち着かない様子でそわそわと、教室の右端の席を気にしていた。思わずそちらを振り向いてしまった私は名前を訂正するタイミングを逃してしまい、その後しばらく‘カヅキちゃん’というあだ名で呼ばれる羽目になったのだけれど。


「あのひと、あの、本物の小泉厨なんだって」


 彼女が示した先には、憮然とした態度の男子がひとり。その明るい金髪はまっさきに人目を引くけれど、それだけが理由ならこれほど皆、魅入ったりはしないだろうと思う。彼の顔立ちは日本人離れして麗しく、秀でて見事だった。居心地悪そうに何度も組み直している両足も、すらりとして理想的な長さだ。


「……こいずみ、って誰」

「知らないの? 有名読モなんだよ」

「ドクモ」


 毒性のある水中植物だろうか。しかしそれが一体、彼とどんな関係にあるというのだろう。

 まり藻のような生物を思い浮かべていると、彼女は呆れた様子で頬杖をついた。


「読者モデル、プロじゃなくてアマチュアのモデルさんのことだよ。メンズゼロっていう雑誌にね、ほとんど毎号登場してるんだ。あ、でもね、高校入学を機にちゃんとした契約をしたみたい」

「ふうん」

「カッコイイよね。私、同じクラスになれて良かったあ」


 生徒の大半が彼女と同様に興奮していた。この程度のことで喜ぶなんて、と呆れてしまった。

 事態を一歩引いて見ていたのは私と、他ならぬ本人―――― シュウだけだったように思う。

 彼は周囲の熱狂ぶりを厭うようにまず翌日から五日間連続での欠席を決め込み、さらに週が明けて月曜日、大遅刻の末に早退という大技をやってのけ皆をあぜんとさせたのだった。理由はもちろん仕事だ。

 そしりを招くかと思いきやクラスメイト達は意外にも寛大だった。それどころか凄いとか立派だとか褒め讃える者までいて、私は仰天してしまった。

  要するに皆、高校生になって浮かれている一般人とは違い、身を粉にして働く様に感心していたようなのだけれど……。

 学生の本分は勉強だろうに、そう思っていたのは私だけではないはずだ。お兄ちゃんだって、きっと、そう言うに違いない。

 確かにシュウは、忙しく働いている割に鞄の隅が破れていたり、ぼろぼろの合格お守りを未だにぶら下げていたり、「金がない」と昼食を抜いていたりしたから、好感を持つ人間が多いことには頷けたけれど。


 そんな彼を、皆が『シュウ』と呼ぶのは何も親しいからではない。

 もちろん勝手に親近感を覚えたわけでも、図々しいからというわけでもない。ほとんど言葉を交わしたことのない私ですらそう呼ぶのには、ちょっとしたわけがある。


「次、小泉が朗読して」


 英語の授業中、担当教師がそう言って彼を指名したことがあった。


「小泉?」


 例のごとく居眠りの真っ最中だったシュウはさっぱり気付く気配がなかった。周囲の人間のほうがよほど肝を冷やしていたと思う。


「小泉、こいずみ、 ―――― シュウ!」

「あ?」

「あ、じゃないだろう。何度も小泉と呼んだんだ。きちんと返事を」

「ああ、はい、……最近名字で呼ばれること、あんまなくて、忘れてました」

「自分の名字を忘れる奴がいるか!」

「すんません」


 彼の『厨』という名は私の名字と同じで、読みにくく覚えにくい。それで、春先にメンズゼロと専属契約を交わした際『シュウ』というカタカナ表記の芸名、それも名字を取った名前だけを用いることになったようだった。

 とはいえまだ数ヶ月という短い期間だし、それまでは『小泉厨』として活動していたわけだから、言い訳としては大いに苦しい。

 しかし彼はその言葉通り『小泉くん』と呼ばれたときには無反応であることが多かった。


―― と、私が知っているシュウの情報なんてその程度のもので、他の女子のように「今日は登校してる、ラッキー」などという浮かれた感情は持てなかったし、単純に表せば‘近寄り難い’のひとことに尽きた。


 だからまさかこんなことになるとは――――。

 すると、ぐう、違う場所から茶々が入った。慌てて腹部を押さえながら横目でチラとシュウを確認する。


「腹減ったな、オレも。夕べから何も食ってねえ」


 やはり聞こえていたらしい。恥ずかしさで半笑いをした私に、同じく半笑いで右手を差し伸べてくれる。


「立てるか? 食堂、行こうぜ」


 うん、と答えて自力で立ち上がった。

 まだ、彼のことも信用出来ないような気がした。


「あ、これ、鍵。ちゃんとかけておけよ。オートロックじゃねえから」


 学ランの胸ポケットから取り出されたのは、アンティークじみた金色のキー。

 鍵穴に差し込む部分は細い六角柱で、通常そこにあるはずの凹凸は見受けられない。かわりに、ICチップに似た回路のようなものがひとつ埋め込まれていた。古きを演出しているくせに最新式だなんて、酷くちぐはぐだなと思った。

 棒の反対側には漢字を型抜きにした透明のプレートが下がっている。明朝体の『白』という文字だ。キーホルダーなのだろうが、キーよりも遥かに大きくて妙にかさばる。


「個室、ってことは私以外にも患者がいるの?」

「ああ。先に二人が入院してて、今日、また新たに二人が加わる予定」

「そんなに……」

「リールは定期的に診ないと体に変調をきたすから」


 やはり『リール協会』というのは危険と隣り合わせの組織なのか。

 そういえば父や母、弟は今頃どうしているだろう。いつまでたっても帰宅しない娘を気掛かりに思っているだろうか。警察に捜索願は出しただろうか。そこまで考えたところで、思わず嘲笑がこぼれた。

―― 深くは考えない、か。過去、あれだけ家出だの自殺未遂だのを繰り返した私のことなんて。

 編集部で言ったことだって口からでまかせだった。お母さんが心配するから、なんて。

 そうして廊下に出た途端、今までとは明らかに趣の異なる空間に躍り出た。


 植物の蔓や小鳥の模様が反転を繰り返しながら続く、具象柄の壁紙。それはオリーブグリーンを中心とした彩度の低い色調で、どこか厳かな印象を見る者に与えていた。

 柄の所々に施された金の縁取りが、大窓から射し込む光をきらきらと微細に反射させている。その輝きがこの上なく上品に見えるのは、壁紙とは言え紙ではなく、丁寧に織り上げられた織物ゆえだ。


 「なにこれ、凄い……」


 思わずほうっと息が漏れた。この場所は廊下というよりむしろ回廊と言ったほうが相応しい。

 身長の何倍もの高さのある天井は舟底をひっくり返したようなアーチ状で、やはり縁には金の細工が施されている。床には色とりどりの細かいタイルが敷き詰められ、丸い花のような形をいくつも描いていた。

 まるで宮殿か博物館だ。見物料がとれる。


「これはあえて全部手作業で作らせたんだと。加賀見が偉そうに言ってたぜ。あいつ、ああ見えて日本支部の副会長だからな」

「副会長?」

「一応な。分かりやすい職権乱用だろ。しかも経費使いすぎ」


 支部、ということは本部もあるのだろうか。

 天井から廊下へと視線を落とすと、左右の壁に等間隔でドアが五つずつ並んでいるのが確認できた。つまりこの場には、部屋が十、存在しているのだ。

 私の部屋のすぐ横の壁は大窓になっていて、その上には見事なステンドグラスがはめ込まれていた。思わず見上げてしまった。

 薔薇の花だろうか、花弁は中央に向かうにつれ、赤紫から青への見事なグラデーションカラーになっている。それが太陽光を透過して、床にカラフルな模様を映し出していた。

 ドアノブの鍵穴に、恐る恐るキーを差し込んでみる。回転させるべきだろうか。右に? 左に?

 まごついていると、ピッ、という短い電子音が聞こえ、ノブは固定され動かなくなった。施錠が完了したようだ。

 振り返ると、前方の壁にかけられた額縁が目に止まった。白い画面を背景にして、大胆に泳ぐなめらかな黒い線描。画面、向かって左上には鱗ともざくろともとれる模様が密集して描かれている。あれは――。

 シュウは、私の興味がどこに注がれているのか気付くと、ああ、と休めのポーズをとった。


「ビアズリーの『サロメ』か。あれも結構な美術品らしいぜ」

「サロメ……オスカー・ワイルドの本の挿絵ってことだよね」

「ああ、そう。ジジイがそう言ってた。おまえ、よく知ってるな」


 ではあの、膝を曲げている人物がサロメで、その手に掲げられているものがヨハナーンの首なのだろう。


「インテリアの大半はアールヌーボーを模倣してるんだと。リール協会の発足がそのころのヨーロッパだったとかで、伝統なんだ。ま、ここはジジイの趣味もあって、他の建築様式もごちゃまぜでやりすぎ感があるけどさ」


 アールヌーボー ―― フランス語で『新しい芸術』の意だ。十九世紀末に花開いた装飾様式で、当時流行していたジャポニズムの影響を受け、植物などの流動的な曲線が多分に用いられているらしい。

 私がそれを聞いたのは、やはりお兄ちゃんの口からだった。

 しかし、くるくると曲線を描くデザインはとても西洋的で、日本の影響を受けていると聞いても即納得、というわけにはいかなかった。日本といえば碁盤の目のような、直線的なイメージがあったからだ。そう、例えば、京都の町並みのような。

 そう反論すると、彼は一例として枯山水の写真を示した。白い玉砂利の庭に描かれた、波のような模様を。しかしそれは非常に楚々とした表現で、立体でありながら、まるで平面に置き換えることを前提として形作られたかのように思えた。

 アールヌーボーに見られるどこか病的なまでの曲線とは、まるきり別物だ。

 日本の曲線は、枠の中にあってこそ本来の美しさが発揮されるものなのかもしれない。枠とはつまり庭であり窓枠であり紙であり、大きく捉えるなら、この島国自体のことだ。

 それは海を渡り彼方の地で根付いたのだろう。まるで種子であったかのように、彼らはそうして芽吹き独自の進化を遂げた。

 だから私は西洋風の曲線を目にすると、あるはずもない生命をそこに感じてしまう。


「俺達は曲線の中にいると、ようやく安心できるんだ」


 そう言って束の間、シュウは仔細ありげな表情を浮かべていた。


「……行こうぜ」

「あ、うん」


 部屋番号を覚えておこうと、再びドアを振り返る。数字らしきものは確認できなかった。めぼしいものと言えば、扉の左に直接埋め込まれた白いタイルくらいだ。

 疑問に感じながら、視線を右に振る。

 と、隣の部屋には鮮やかな緋色のそれがついていて、またその隣の部屋は艶を帯びた橙色だった。

 なるほどこの施設では、番号の代わりに色で部屋を識別しているのだ。キーから下がる『白』のプレートの意味がようやくわかった。


「変わってるよな。今時オートロックじゃねえなんて」

「何か理由でもあるの?」

「インキーが発生しないからなんだと。ジジイ、出先でよくやるんだよ。ま、これも職権乱用の一部だな」

「……部屋の中に鍵を置き忘れたまま鍵がかかっちゃう、ってやつ?」

「そう。部屋に鍵がかかっている状態を想像してみろよ。内側に人がいるか、もしくは外側に持ち出してある状態だろ」


 そういうことか。


「だからスペアキーもない。特殊な鍵だからそう簡単に作れない、ってのもあるけど」

「なくしたらどうするの」

「そのときは電子制御を解除するんだ。ホストのコンピューターから。ちょっと時間はかかるけどな」

「ふうん」

「ちなみに色で部屋分けをしてるのは、ジジイが番号を覚えるのが面倒だかららしい。あいつ最悪だよな」


 大理石の螺旋階段を下り始めると、背後でかちゃりと小さな音が上がった。ドアの蝶番が軋む音だ。

 振り返ると、橙色の部屋の扉が数センチほど開いていて、直後慌てたように勢い良く閉じたのだった。


―― 見られていた。


 ……気味が悪い。


 自らの体を両手で匿うように抱き締めながら、私は階下へと急いだのだった。

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