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4.はつこい

 

「人間にとっての可視光線はたかだか三百八十ナノメートルから七百八十ナノメートルまでの、ごくわずかな部分でしかないらしいんだ」

「カシコウセン?」

「そう。目に入って色の感覚を引き起こす電磁波のことだよ。短いほうから菫藍青緑黄橙赤になってるんだ。ちなみにナノメートルは十億分の一メートルの長さのこと」

「えっ、そんなに小さいの?」

「うん」


 つまり僕らには目に見えないもののほうが多いんじゃないのかな、と零した彼は悟りきったというより諦めたみたいだった。また、自分に言い聞かせているようでもあったし、ともすれば世を憂いているようにも見えた。

 そしてそれは決してサン=テグジュペリが言うところの目に見えないもの、という意味ではなかった。

 お兄ちゃんはそれをもっと具体的に把握していて―― いや、把握するための答えをずっと追い求めていたように思う。これは、単なる憶測に過ぎないけれど。


「可視領域は生き物によって異なるんだ。ミツバチのそれは短波長側に寄っていて、ヒトには見えない紫外線を見ることが出来るらしい。彼らにとって白い花は鮮やかな青緑色に感じられるんだってさ」

「ふうん。蜜を集めるのに便利ってこと?」

「花粉の状態を見極めるためだとかっていう説もあるよ」


 初潮を迎えてから約一年、気楽に遊びに行けなくなったとは言え、斜向いに住む私達はそれでも普通の兄弟よりずっと仲が良くて、関係は良好だった。


「何故ヒトにとって、この領域が可視なんだろう。捺南はそれを疑問に思わない?」


 お兄ちゃんは自分だけの価値観を持っていた。それは誰かに干渉されたり簡単に変化したりするようなものではなかったから、私は彼のそんな性格にとても高潔な印象を抱いていた。


「よくわかんないや。でも、面白いね」

「そうかな。どうやったら捺南にもうまく伝えられるだろう、って試行錯誤してはいるんだけどね。まだ完成は遠いなあ」

「何か作ってるの?」

「うん、捺南に見せたいものがあるって前に言っただろ」

「え、まだ作ってる最中なの? 腐っちゃわない? ケーキとか、生ものじゃないね、それ」

「捺南らしい発想だね。でも、残念ながらハズレ。パソコンの中に入ってるから腐るものじゃないよ」


 お兄ちゃんは複雑そうに口の端で笑う。

 彼は高校に、私は中学に、それぞれ入学したばかりの頃のこと。この日私達は駅前で出会って帰路を共にしていた。特に待ち合わせているわけではなかったけれど、何故か毎日のように改札をくぐったところで出くわす。

 桜の花がすっかり終わり、柔らかな日差しと輝くような新緑の季節だった。

 高校生になった彼は細身の体ながら肩幅もしっかりしてきて、以前にも増して私の知らないことを沢山話してくれた。私はそんな彼の変化を目の当たりにするたび、胸の奥がざわざわした。


「そうだ、これからうちにおいで。確かケーキもあったと思う。母さんも最近はちっとも捺南が遊びに来てくれないって嘆いてるし」

「え、あ、うん」

「それとも今度にする? 宿題があるならみてあげようか。ひとりのほうが集中できるかな」

「ううん、そんなこと」


 嫌だなんてことはない。むしろ嬉しい。なのに何故か躊躇してしまう。ずっと見つめていたいのに、見つめ返されると耐えきれず背を向けたくなる。私はまだ、このとまどいの意味を知らなかった。


「じゃあ決まりだ」


 その日、数ヶ月ぶりに沖永家の門をくぐった。上がり端は懐かしい香りに包まれていて、鼻の奥がツンとした。おばさまのレモンティーの匂いだ。

 そうしてスリッパに足を入れたときだった。廊下を先に行っていたお兄ちゃんが階段の前で険しい顔をして立ち止まったのは。その目は嫌悪のような色に満たされ、じっとリビングの方角を凝視している。


「捺南、先に僕の部屋まで上がっていてもらえるかな」

「えっ」

「急いで」


 ただならぬ雰囲気を察し、彼の横をすり抜けて階段を駆け上った。リビングには、おばさまとスーツ姿の男がひとり、向かい合わせて椅子に座っている。視界の隅で流すように捉え、見なかったふりをした。何故だかとても緊張した。

 二階に上がり彼の部屋のドアノブに手を掛けたところで、突如階下から怒声が昇ってきた。


「何度言ったら分かってもらえるんだ。僕達に違いなんてない!」


 珍しく冷静さを欠いた彼の、取り乱した口調。私は手すりの間から下を覗き見た。階段と、キッチンの入り口にかけられたのれんだけが目に入る。角度的に、彼らの姿までは確認できなかった。


「我々はね、なにも君たちを引き離そうとしているわけじゃ」

「母さん、どうしてこんなやつを家に上げたんだ」

「ご、ごめんね佑、でもね」

「あんな結果、絶対に間違えてる。僕と捺南は同じだ。それを証明してみせる」

「時間がないんだよ、佑くん。リールに負担がかかれば、肉体にも影響が」

「そんなことを言って脅したって僕達は絶対に離れない。僕はこうして今も健康じゃないか。それがなによりの証拠だ!」


 顔をしかめて聞き耳を立てる。温厚な彼がこれほど怒りをあらわにするなんてただ事ではない。危機感がまとわりついてきて、足元から寒くなった。


「―――― はリールを……可視では……死ぬ――――」


 男性の声は先程よりもぐっとひそめられ、とぎれとぎれにしか拾えない。しかしその瞬間、私の恐怖はついにピークに達したのだった。

 『死』、それは誰に対して投げられた言葉なのか。私はお兄ちゃんの部屋へ逃げ込み場を閉ざした。

 そこは以前と変わらず、画材とパソコンの周辺機器で溢れ返っていた。綺麗とはいい難いけれど、本人にとっては機能的な配置なのだと思う。

 パソコンの前には厚みのある本が塔のように積み上げられていた。色とりどりの付箋が何枚も乱雑に飛び出している。ゲーテ、と書かれた本も何冊かあった。


「ごめん、遅くなって」


 お兄ちゃんが部屋にやってきたのは数分後のこと。声の方向を振り返ろうとして、しかしそれはかなわなかった。

 二本の腕が私を背中から包み込むようにして閉じ込めていたから。


「……捺南」


 淡い色で囁かれて、目前の景色がくらりと歪んだ。不規則に乱れる鼓動。鼻につくお兄ちゃんの匂い。生々しい体温。


「お、お兄ちゃ」


 どうしよう。

 家族以外の異性に抱き締められるなんて、思い付く限りこれが初めての経験だった。


「僕達に違いなんてない。離れる必要なんてない。ないんだ……」


 思い詰めたような、かぼそく掠れた声。

 違いがないと言われても、肯定なんて出来るはずもなかった。なぜなら私は女で彼は男だ。これほど明確な区別が、深い隔たりが他にあるだろうか。

 いや、もしかしたら彼は私を女として見ていないから、同じだなんて言えるのかも――。


「……ちがうよ。お兄ちゃんと私は、ちがう」

「そんなことない! そんなこと、絶対に」


 彼は否定の言葉を繰り返すことでしきりに焦燥を拭っているようだった。


「特別な人間なんて、この世にいるはずがない。そうだろう、捺南」


 それを聞いた途端、私は弾けてしまった。


 ―――― お兄ちゃんにとって、私は特別じゃなかったの? 特別に見せたいものがあるって言っていたくせに。もう忘れたの? それだけのことだったの?


 彼の腕を振り払って、床の上に降ろしておいた鞄を雑に掴み、一目散に逃げ出す。「捺南!」呼び止める声。振り返らなかった。

 階段を駆け下り、ローファーをひっかけ、つんのめるようにして沖永邸を飛び出す。自宅まではたかが数メートルの距離なのに息が切れた。こらえた涙が喉の奥で詰まって、悲鳴のような呼吸音がせわしなく漏れる。

 ようやく辿り着いた自分の部屋には朱色の夕日が鋭角に射し込み、ベッドの上で波立つように光っていた。それ自体が発光しているのかと思うほど、眩しく鮮やかに。

 そこまで耐えていた涙がようやく瞳から離れる刹那、液体の表面も同じ色の煌めきを放った。

 思えば、恋に気付いたのはこの燃えるような赤を目撃した瞬間だった。

 

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