3.リール協会
現在時刻/七時五十分
現在地/不明
頭を両手で抱え、かろうじてベッドの端に腰を下ろす。朝の日差しは窓から斜めにベッドへと向かい、格子の形をくっきりと落としていた。当たり前のことだけれど、もう一度そこへ横になろうという気は起きない。
……どうしてこんなことになってしまったのだろう。
昨日の夕方までの記憶ならある。
放課後、シュウに連れられて『メンズ・ゼロ』の編集部を訪れた。そこで胡散臭いフリルブラウスの男と巨乳のライターに会って、部屋を出ようとしたところまでは覚えている。バッグがない。ということは当然、携帯電話もない。
部屋から出てみようか。いや、けれどもし誘拐されたのだとしたら、むやみに動かないほうがいいに決まっている。見つかれば連れ戻されるだろうし、最悪、二度と逃げ出せないよう酷い目に遭わされるかもしれない。
想像すればするほど腰が引ける。
そんな気弱な私の横を、数十分という無駄な時間が通り過ぎていった。
「おや、目が覚めたか」
ドアから顔だけを突っ込んだ状態でそう尋ねたのは、ブルジョワ編集長―― 加賀見さんだった。驚きのあまり肩が跳ね上がる。すると彼の背後をすり抜けるようにして焦った様子の巨乳ライター・滝口さんが姿を現した。
この人たちがここにいるということはつまり、私を攫ったのは彼らということか。
「ごめんなさいね、何の説明もなく突然入院させちゃって。驚いたでしょう」
「にゅ、入院?」
「ええ。あなたは協会の施設に入ったのよ」
施設? キョウカイとは一体どういうことだろう。
入院するなら病院と相場が決まっているはずだ。いや、今はそんなことを疑問に思うより先に、言うべき台詞がある。
「あなたたち、何なんですか。私、悪いところなんてないです」
健康診断なら高校入学と同時に受けている。結果、健康そのものだった。虫歯以外は。
「い、家に帰して下さい」
なんとかそこまで言い切ると、見覚えのある少年が室内に姿を見せた。彼はポケットに手を突っ込んだまま、飄々とした態度で部屋を突っ切る。
「シュウ!」
安堵してしまった。クラス内にいたら見知らぬ人も同然の彼なのに、この状況では身近に感じてしまうから不思議だ。
シュウは窓枠に軽く腰掛ける。
「ここは某県のとある樹海内にある、リール協会日本支部の施設。俺達はそこの会員。治療が済むまでおまえは家には帰せない」
「じゅ、樹海って――」
いや、そうじゃない。
「協会って、治療ってなに」
「ちなみにおまえの荷物は編集部に忘れた。以上」
「そんな、それじゃ何も」
わからない。それどころかますます混乱しただけだ。困り果てた私の横に、滝口さんがそっと腰を下ろす。
「大丈夫、悪いようにはしないわ。安心して」
簡単に言わないでほしい。
すると首だけを覗かせていた加賀見さんがようやく室内に入って来、後ろ手にドアを閉めた。彼は大きな瞳でやはりじろじろと私を観察している。これで安心しろと言われてもどだい無理な話だ。
「君は『みかん』と言われてどんな色を想像するかね。いや、りんごでもレモンでもいい。思い浮かべてみたまえ」
加賀見さんは胸元のフリルを指先で弄りながら、唐突に問う。咄嗟には答えが出せなかった。
「個人差はあるが、それは往々にして実物より鮮やかな色みであると言う。そこには心理的な効果が働いているからだな」
「編集長、またそこから始めるんですか……」
「黙っていたまえ滝口くん、何事にも前置きは必要なのだよ」
窓辺で苦々しい顔になったシュウは、耳の穴に小指を突っ込んだ。
「私は色ほど面白い現象はないと常々思っている。環境や個人によって全く異なるうえに、時には脳を騙したりもするからな。例えば負の残像というのを君は知っているかね」
なめらかな口調で得意げに言うので、思わず「はい」と答えてしまった。
まずい。黙っていれば良かった。後悔の念が頭をもたげた瞬間、加賀見さんはふむと満足そうに頷いた。
「言ってみたまえ」促され、恐る恐る口を開く。
「あ、えっと……ある色をじっと見つめてから視点を移すと、そこに補色の残像が現れる、とかって」
まるきりお兄ちゃんの受け売りだ。他の人の話ならすぐに忘れてしまうだろうが、他ならぬお兄ちゃんが教えてくれたことだからきちんと記憶していた。
加賀見さんは目を丸くしたあと、愉快そうに口角を上げた。
「ああ。君はなかなかに話が通じるな。残像についてはかのゲーテも『色彩論』の中に自らの体験を記している。これほど有名な事象を知らないなどという輩とは、交流する気もおきないからな。ではそもそも色とは何か? 我々がそれを感知する過程としてはまず、網膜の中にある三種の錐体が興奮して光を受容し―― ああ、これは昨日話したか」
どうやら彼の機嫌を損ねはしなかったようだ。密かに胸を撫で下ろす。
「さて残像というのは、網膜の水平細胞から大脳皮質の視覚野までに至る過程での、興奮と抑制の作用により引き起こされている現象らしい」
てめえの話は長いんだよ、とシュウが怠そうにぼやいた。加賀見さんは腕組みをして咳払いをひとつ零す。
「そこの少年と違って君には説明が不要かもしれないな。では次へ移るとしよう」
私は大きく頷いた。きっと、この話の先に知るべき答えがあるのだろう。
と、彼はズボンのポケットから手帳らしきものを取り出してこちらに差し出す。
「これはどう見えるかね?」
広げられたページには、雑誌の切り抜きらしき十センチ四方の紙切れが一枚挟み込まれていた。手帳自体は真っ白だ。予定らしきものは書かれていない。
切り抜きには、黒く塗りつぶされた四角が縦六つ横六つ、規則正しく並んでいる。それらを、碁盤の目のように白い直線が隔てている。直線が交わる箇所に、ちらちらと黒い斑点のようなものが見え隠れする。
「これ……」
見覚えがある。
「錯視、ですね」
「そうだ。これはハーマングリッドと呼ばれるもので、白の格子部分に実際にはないはずの影が見えるのだよ」
「ジジイ、怠ィ」
「うるさいぞガキ。この場合、隙間に影が見えるのは黒と白の色の境目に縁辺対比が起こっているからなのだが」
「ジジイ、腹減った」
「だまれガキうるさい。えー、あー、……貴様っ、何を話しているか分からなくなったではないか!」
「そりゃ老人性のなんたらだろ。ほら、とっとと締めくくれよ、この色彩ヲタク」
「おまえの所為で締めくくれぬのだ阿呆めッ!」
加賀見さんは語気を荒げたあと咳払いをひとつ吐き出して、シュウに背を向けた。
「不本意ながら結論へ移行しよう。要するに私達は目と脳の合成作用でモノを認識しているのだな。外的・内面的要因が働き、『真実を真実として映さない』ことが当然の作用だったりもする」
頷くと、視線が追いつかずくらりとした。
「君は、今認識している世界が、目に飛び込んでくる以前の世界と同じだ、と自信を持って言えるか」
認識している世界が、目に飛び込む以前と同じ?
それは―――― 違う。違って当然だ。目に飛び込んだ時点では正しくても、認識するまでに間違いは起こりうる。間違い、とすることすら間違えているのかもしれないとさえ思う。
残像も、ハーマングリッドにおいて現れる影も、私の脳がそう見せているだけで実際には存在しないものだ。
いや、『ある』のか『ない』のかという境界がそもそもとても淡く曖昧なものなのだということを、私は知っていたはずだ。
脈打つ生命を死と呼んだあのとき、彼の肉体からは確かに消失したものがあった。視覚では捉えられない、けれどだれもがそれと知っているような、とても重要な何かが。
やけに陽の光が眩しい気がして、目を細める。視界にチカチカまたたく粒が映り込み、両の側頭部がキュウッと痛んだ。
「香月さん?」
異変に気付いた滝口さんが、私の背に触れる。
「す、みません」
駄目だ。油断したらどこへ連れて行かれるかわからない。ひどい目に遭うかもしれない。
ああ、なのに何故こんなにも気分が悪いのだろう。そうだ。同じようなことをお兄ちゃんの口から聞いたから。だから思い出してしまう。引き戻されてしまう。あのころの自分に。
『特別に見せたいものがあるんだ』
私は、それをこの目で確かめたかった。お兄ちゃんが見せてくれると言ったから。私だけに見せてくれると言ったから。
見たかった。みたかったのに。
そして、私は再び思い出に手を引かれ深淵へと飲み込まれていった。