2.ストリング
例えば真四角の部屋の中、お兄ちゃんはその隅で、対角を眺めるように斜めを向いて立っているような人だった。
簡単に言えば、彼の背後は単なる真っ平らな壁ではなかったということだ。角を斜めに塞いでいるのだから、そこには幾ばくかの空間が存在する。そして彼はその空間に、私では窺い知れぬ何かを隠し持っていた。
彼ほどミステリアスで常人離れした人間を、私は他に知らない。
例を挙げるなら―― 彼は計算が異常に速かった。理解度も高かったのだと思う。小学五年生の頃、リーマン予想がどうの、と話していたのを耳にしたことがある。それが元で神童などと呼ばれ、メディアが取材にやってくることもあったし、事実、研究施設からもお呼びがかかっていた。
『絶対音感』も彼の特殊な能力の筆頭と言える。いっぺんに鳴らした複数の音を正確に言い当てることが出来たし、一度聞いただけの曲をすらすらと演奏してしまうこともあった。記憶力も優れていたのだろう。にもかかわらずお兄ちゃんに音楽や数学を好んでいる様子はなくて、むしろ絵画のほうに没頭していたようだった。
あれは確かお兄ちゃんが中学三年生のころ。私は小学校六年生で、ふらりと沖永邸を訪問した日のことだった。
彼はおじさまと共に、リビングで木枠に布地を張る作業をしていた。
「何をしてるの?」
「カンバスを作ってるんだよ。これに絵を描くんだ」
「へえ。でもこういうの、大竹でも売ってたよ」
大竹、というのは小学校に隣接した小さな文房具店だ。駄菓子や漫画本も売っていて、その頃は百貨店よりも魅力的な店舗だと思っていた。新しい消しゴムが入荷した日には、こぞって買いに走ったものだ。
「そう。市販のやつのほうがピシッと張ってあるし、便利なんだけどなあ。今時わざわざ自分で組み立てるなんてさあ」
おじさまは苦々しい顔でお兄ちゃんをちらと見る。彼はもくもくと木枠の端に布地を留めていく。
「これこの通り、我が家の世継ぎは頑固でね」
「父さん、宇宙の始まりは弦だった、なんて言うだろ。それによると、僕達の住む三次元空間は一枚の膜として考えられるらしいんだ。膜を作り出すところから世界の構築が始まるんだよ」
「弦?」
「そう。スーパー・ストリング・セオリー、超ひも理論っていうらしい。物質の究極の要素は、粒子でなくひもなんだってさ」
「ひもって……あの、ひも?」
「そう。とてつもなく小さいけどね。閉じたものや開いたものがあって、それらは皆、震動しているんだ。閉じたひもだけは膜からはなれることが出来るらしいんだけど」
弦。前日テレビのニュースで見たハープの映像を思い浮かべたけれど、それと宇宙とはどうしたって一直線には繋がらない。私はとりあえず、物質はすべてひもで出来ているのだ、とだけ思うことにした。
お兄ちゃんはしばしば、こんなふうに訳の分からない理屈や理論を並べ、滔々と雄弁をふるった。それは大抵、部屋に積み上げられている難しい書物から得た知識らしく、おじさまも舌を巻いてしまうほどだった。
「ねえお兄ちゃん、今度、私を描いて」
出来上がったカンバスを前に、私は心躍らせながら自分の顔を指差した。
これまで、彼が手がけた作品は国内外を問わずコンテストにおいて優秀な成績を収めている。初期のピカソにタッチが似ている、なんて評価が新聞に載っていたこともあって、その繊細な筆遣いと緻密なデッサン、そして類い稀なる色彩感覚には美術の先生も文句のつけようがないと嘆いていた。
ピカソといえば今時小学生でも知っている。『ゲルニカ』を教科書で見た時は衝撃を受けたものだった。だから私は、お兄ちゃんがあんなふうに爆発した作風になってしまう前に自分を描いてもらわなければと少し焦ってもいたのだ。
「捺南を表現するのは世界一難しいよ」
ソファに腰を据えたお兄ちゃんは、困り顔でティーカップを口元に運ぶ。おばさまがいれてくれる紅茶にはいつも輪切りのレモンが浮かんでいて、匂いを吸い込むだけで口の中が酸っぱくなった。我が家のお茶といえば弔事の度に頂く煎茶が定番だったので、金縁のティーカップに注がれた香り立つ液体は、お菓子よりも高級な嗜好品のように感じられたものだった。
「えー、どうして」
「どうしてって、変わるからだよ。捺南はいつも同じじゃないだろ」
「それはお兄ちゃんだってそうでしょ」
テレビの横に掛けられている、彼の自画像を指し示す。それは一年ほど前に彼が油絵の具で描いたもので、うまく言い表せないけれどちょっと不思議な色彩が特徴的だった。
県の展覧会では見事最優秀賞に輝き、その時の審査員はこぞって彼をゴーギャンの再来だと評した。当のお兄ちゃんはというと『塗り方がのっぺりしてるってことじゃないかな』などと他人事のように言って笑っていたけれど。
その言葉の通り、私が覚えている限り彼は一貫して自分の功績を鼻にかけるような真似はしなかった。もしかしたら興味が無かったのかもしれない。後付けの評価など、他人の解釈などどうでもいいようだった。
表現すること、表現を追求することこそが、彼にとって重要な意味を持っていたのだと私は思う。
「同じじゃないよ。捺南はもっと……変化が劇的なんだよ」
「そんなことないもん」
お兄ちゃんが珍しく渋るので、私はむっとしてしまった。
その頃の私は両親や祖父母、そして彼に甘やかされて育ったお陰か、奔放でやんちゃな性格だった。いや、内弁慶だったのだ。家族にも愛されている実感があったし、彼にも大切にされていた。多少の我が侭を言ったところで、自分が見捨てられるはずはないと信じていたのだ。
「捺南には別のものを用意するから、もう少しだけ待ってもらえないかな」
「別?」
「うん。捺南にだけ特別に見せたいものがあるんだ」
その日の出来事は、比較的明瞭に覚えている。申し分けなさそうに頭を撫でてくれた、彼の掌の感触も。なぜならそのあと、私の体には本当に劇的な変化が起こったからだ。
自宅に戻って、お風呂に入ろうとした時に気付いた。下着に付着した血液に。初潮だった。
恥ずかしくて父と弟の顔が見られなかった。食卓にいてもうつむいていたから、母が炊いてくれた赤飯の味も、自分じゃない誰かが咀嚼しているようで、味なんて感じられなかった。
そして私はその日を境に、あまりお兄ちゃんの家へは行かなくなった。
正確に言えば、行けなくなったのだ。自分が彼と違う生き物なのだということがはっきりとわかってしまったから。誰よりも彼のことを知っているなんて、愚かな思い込みだったのだと気付いてしまったから。
私は女だった。お兄ちゃんとは違う生き物だった。
その事実を認めようとすると、あの優しい微笑みが遠ざかっていくような錯覚を覚えて怖かった。引き止めたくて、けれど方法なんて知らなくて、考えれば考えるほど胸の奥がぎゅっと狭まって苦しくて。
毎日、訳も分からぬままため息ばかりを教科書に挟んでいたあの頃。
「ん……」
眠い。
霧中を彷徨っているような、不安定な平衡感覚。ベッドの上でどうにか体を起こすと、背中がシーツにへばりついて糸を引いているのかと思うような怠さだった。
「え」
目を擦りながら、室内を見渡してそれきり絶句した。見覚えのないインテリアが並ぶ、四角い空間。壁紙は真っ白で、木の幹のような細かい模様が刻まれている。
自分の部屋ではない。もちろん保健室でも友達の家でもない。恐る恐る立ち上がり、格子がはめ込まれた窓の向こうを眺めると、眼下には見渡す限りの深い森が広がっていた。
どこ、ここ。