エピローグ
沖永家の小さな門を出ようとすると、玄関ポーチの中ほどでフリル付きの日傘を開きながら加賀見さんが言った。
「飛行機雲だ」
その傘を迷惑そうに避け、シュウが空を見上げる。目を、眩しそうに細めながら。
「本当だ」
明日は雨かしら、と掌を翳すおばさまは一転の曇りもない笑顔だった。志津木さんは最後に玄関ドアを閉め、結露したみたいに濡れた額を拭う。遅れて天を仰いだ私は一年前、うつろに眺めたコバルトブルーを想う。そこに溶けた、真っ白な彼の残骸とともに。
煙になったら、人はどこへ行くのだろう。大気に混じり合い、新たな命を育むのだろうか。ならばそれは、生命の営みから逸脱したことにはならないのかもしれない。
そう思ったら、悲しみは穏やかな気持ちへと変わった。
私が何を思っているのか察したのだろう、加賀見さんは飛行機雲の消えかけたあたりを指し示して問うた。
「香月くん、あの青を何と呼ぶか知っているか」
「色の名前ですか?」
「そうだ。深い青に雲の白が重なって、浅くなっている部分の」
「あのへん、ですか」
「ああ、多分そのあたりだ」
指差し確認をしてみたものの、本当に同じ場所を見ているかどうかは怪しい。そもそも、同じ世界が見えているかどうかなんて確かめようがないから、多少の誤差などあって然るべきなのかもしれないけれど。
「青、ですよね。み、水色?」
「今時、水彩絵の具にももっとマシな色名がついているぞ」
「……すみません、色の名前には詳しくなくて」
「ならば教えてやろう」
また始まったよ、と呆れ顔の翠川先生はシュウと目を見合わせて苦笑い。他人の迷惑を顧みず、加賀見さんは愉快そうに日傘を回転させる。
「あれは、花の名前」
「花……」
「ああ。‘フォーゲットミーノット’、勿忘草の色だ」
フォーゲットミーノット ――――。
仰ぐ空に、過ぎ去る初夏の余韻は見つからない。
炎天下の中ちいさくなっていく彼らを見送ると、背中から私の名を呼ぶ声がした。
振り返れば、みっつの人影。父、母、そして弟。
一年前と比べ身丈の比率に変化はあれど、それでも新鮮には思えなくて、ただ、ひたすらに懐かしい光景だった。
躊躇いながらも、ただいまと言った。
小風が遠くの鳴蝉を掻き消して過ぎる。世界は、今日も光に彩られていた。
*完*