20.彼の瞳の奥底に
あれから一週間、私たちは近くの総合病院に場所を移し、ふたたびひとつの部屋で顔を合わせていた。
不思議な気分だ。彼らとは古い知り合いというわけでもないのに、揃った場の空気を懐かしいと感じるなんて。
ユーヤさんと翠川先生、そして伊倉さんは一時状態が危ぶまれたものの、大事に至ることはなかった。
最も深刻だったのは予想に反してシュウで、彼はなんと食堂での乱闘時、既に肋骨を一本折っていたらしい。その状態で皆を助けに行ったのだから凄い。すっかり見直してしまった。
そして―― ほぼ無傷で済んだ志津木さんと加賀見さん、草木さんと私は別の協会施設で保護と言う名の抑留を余儀なくされていたのだけれど、先刻帰宅の許しが出たので、そのまま入院している四人のお見舞いに寄ったというわけだ。
栞さんはというと、……やはり助からなかった。
加賀見さんの話によれば彼女は二階部分から焼死体として発見されたとのことだった。焼け跡からは、ソフィの眼球と思しきものの残骸も見つかったそうだ。
因果応報を思う一方でやはり、死しか道はなかったのかと疑問に思う気持ちは消えない。生きて償うべきだった、とかいういかにもな正論は横に置いておいて、はっきり言えばただ生きていてほしかったと思う。
……生きていてほしかった。生きる術がまだ残されているなら、捨てないでほしかった。
『死』は最後の最後に選択肢が無くなってから『受け入れる』ものなのだと、私はそう、思っていたいだけなのかもしれないけれど。
そんなふうに死んでいった、お兄ちゃんのためにも。
「要するに香月にとって、この世界は全部が繋げられるもの―― ひもだったってことなのか」
シュウは納得がいかないとでも言いたげに首を傾げる。
ミクロの物質を繋げる力が自分の声に宿っている、そんな突拍子も無い話、私だって未だに信じられない。
「平たく言えばそうなるな。我ら普通のリーラーが結べる『ひも』と超ひも理論でいう『ひも』はもちろん異なるが」
「はあ。で、スーパーストロング総理だっけ、何なんだそれ」
「スーパー・ストリング・セオリー。別名超ひも理論は、物質の究極を点ではなく弦……ひもとする解釈なのだ」
「解釈って、要するに想像……考え方ってことだろ。実際のところは違うだろうに」
まだ得心には至らない様子だ。
「実際、はあまり意味をなさないのだろう。恐らく、彼女がどう捉えているか、が問題なのだ。現実にそうだったではないか」
加賀見さんは言ってリンゴをくるりと剥いた。なだらかな曲線を描く真っ赤な皮は、絨毯のように均一な幅で長々と垂れ下がる。随分と慣れた手つきだ。
対して私は、会話に加われないほど必死でリンゴと格闘していた。
どうしたらあんなふうに長く美しく剥けるのだろう。記憶が正しければ、包丁を持ったのは中学三年生の家庭科、調理実習以来だ。
何故こんなに面倒なものをお見舞いの品に選んでしまったのだろう。今になってじわじわと悔やまれる。値は張れどハウスみかんにすべきだった。
「その理論で言うと、ひもは―― ああ、わかりにくいから理論のほうは『弦』と呼ぼう。で、弦はだな、震えることによって様々なものに変化する、とされているのだな」
「変化だと?」
「ああ。彼女の声には恐らく、そこに作用する力があるのだろう」
「はあ。いまいちわかんねえけど、香月にとっては両方が『ひも』で、操れるものだった、ってことだろ」
そうだ、と加賀見さんは得意げに言う。リンゴの皮がぷつっと切れる。
「弦を震わせて―― 物質を変化させる。さらに、そこにリーラーとしての‘繋ぐ’力が加わって彼女はあらゆるものを合成できる、というのが私の仮説だ」
象牙色の床には、窓枠に抜き取られた台形の光。明け方と比べ、真上に位置する太陽からは少しの赤みを帯びたそれが照射されている。
「弦からひもを生成する力があるってことか」
「そうともとれるな。とはいえ、これは私の勝手な解釈だがね」
「ジジイの説教は大半がそんなじゃねえか」
「ふん。それを言ったらひも理論だって完成しているわけではないし、そもそもこの世界などまやかしそのものではないか」
「まやかし?」
訝しむシュウの前でひと呼吸置いた加賀見さんは、
「目に見えるものも見えないものも、自分というフィルターを介する以上万事が想像でしかない、という意味だ」
やけに悟ったような台詞を放つと、カットボードの上に裸のリンゴを置いた。シュウはベッドの上であぐらをかいて、難しい顔でううんと唸る。私にも、加賀見さんの話は分かるようで分からなかった。
病室に、さくっ、リンゴを切り分けるみずみずしい音が響く。口の中が甘酸っぱくなった。
「しかしあのインディゴブルーには驚いたな。あんなに美しいものが生成できるとは、真に畏れ入った」
ふたつめのリンゴを手に取りながら、加賀見さんが感心したように言う。
最も驚いているのは私自身だ。
物質を変化させたり繋げたり出来る、などという説明を受けるのはもう四度目だけれど、未だに信じられない。それが本当なら、人間離れしすぎていて怖いくらいなのだ。シザーであることを知って食堂を破壊したというシュウの気持ちも、若干理解出来たような気がする。
そう言いたかったけれど口を開く余裕などなかった。
「あのな、美しいとか感じてる状況じゃなかっただろうがよ。あの非常事態で」
シュウは呆れた声で言って、リンゴをひときれ摘み食う。「うん、うまい」
「ああ、どうせならパーキンスモーブも構造式を教えておくべきだったな」
「おい偏屈ジジイ、また聞いてねえフリか」
「繋げるにしても、構造を理解していなければ繋げないだろうからな。これもまた、私の仮説ではあるが」
「つうか今、無視する理由がわかんねえよ。メリットねえだろ」
「そうだ香月くん、今からでも教えるからちょっと生成してくれないか。是非この目で拝みたい」
「聞けコラ。おまえ小学生か」
加賀見さんは強気も強気、牽強付会の話題すら挟もうとはしない。私もそろそろ黙ってはいられず、一旦包丁を動かす手をとめた。
「無理ですよ、だってあれっきりですもん。この通り、今は普通に喋ってますし」
「我々可視の力と同じだろう。見ようと思わなければ見えない。合成しようと思わなければ合成できない。それだけのことだ」
「いえ、別に私、あのときだって合成したいと思ったわけじゃ」
「何とかしようとは思ったのだろう」
それはそうなのだけれど……本当にそういうものなのだろうか。いまいち納得できない。
「モーブもぜひ、ささっと作ってくれたまえよ」
「そんな、絵の具じゃあるまいし」
さりげなくフォローをしてくれた志津木さんの背後、隣り合わせたベッドに横たわる伊倉さんとユーヤさんは黙したままだ。彼らには特に含むところがあるようだから、仕方ないのかもしれないけれど。
すると察したのか、草木さんが紙のトレーを持って二人に声を掛けた。
「食べませんか。甘いですよ」
メイドらしい、流石の気遣いだ。彼女は現在、職場が消失してしまったために失業中だったりする。この後、どのように新たな職を得るのかは、ひとまず本部任せなのだとか。
その呼びかけに応じたのは予想に反して伊倉さんで、
「ありがとう、頂きます」
驚くほど穏やかに答えてそれを受け取ったのだった。表情はどこか安らかで、しかし明るいとは言いがたい。
対しユーヤさんはあからさまに不機嫌な顔をして、鬱陶しいとでも言わんばかりに寝返りを打って壁に体を向けてしまった。
しばし気まずい沈黙が降りてくる。と、三つめのリンゴを切り分けた加賀見さんが
「長谷」
彼を呼んで丸椅子から重い腰を上げた。
「受け取れ。さもなくば香月くんが剥いた芸術的なリンゴを口にする羽目になるぞ」
随分遠回しに批判してくれたものだと思う。指摘されずとも自覚はしているので、せめてこのタイミングで引き合いに出すのは勘弁してもらいたかった。
「……そっちでいい」
「腹を壊すかもしれんぞ。なにしろ酷い出来なのだ。ゲルニカの前に転がしても違和感がない程度に」
「放っておいてくれよ、もう」
「放ってはおけぬ。なぜなら、本人には直接言えなかろう。食えぬ、だなんて」
言っているではないか。
追い討ちをかけるようにシュウがくっと喉の奥で笑うと、それを咎めるように、草木さんが彼の肩をしたたか打った。気遣ってくれたのだとは思うけれど、虚しい。
いっそ始めから、出来ませんと断るべきだった。
ため息をついて、半分だけ皮を取り除いた(剥いたとは言い難い)リンゴを草木さんに託そうとしたときだった。
「―――― 申し訳なかった」
きっぱりと言って、加賀見さんが長谷さんに深々とこうべを垂れたのは。
「妹君のことに関して私の対応が後手に回ったことを詫びたい。申し訳なかった」
私は志津木さんと思わず目を合わせた。あの火事のときに聞いた話だろう。
「な、んだよ、今更。謝るくらいなら、とっとと辞めてくれよ副会長」
むっとした様子でユーヤさんは半身を起こす。しかし加賀見さんは、さらに深く体を折って場の全員に詫びた。
「すまない。皆を危険な目に遭わせたことも、申し訳なかったと思っている。だが今、役職を辞することはできない。私にはまだ、為すべきことがあるのだ」
為すべきこと―― あのときにもそんなことを言っていたけれど、一体何なのだろう。
「都合良すぎるだろ、それ。甘い汁が吸いたいだけなんじゃねえの? 思う通りに、あんな屋敷なんておっ建ててさ」
「……私は、救い出さねばならないのだ」
「ジジイ!」
やめろ、とでも言いたげにシュウが口を挟んだけれど、加賀見さんは台詞を途切れさせたままにはしなかった。
「朱夏を……本部から奪還するまでは、立場を退くことはできないのだ」
「シュカ?」
「朱夏はリール協会日本支部の、現会長―― そして、私の妹でもある」
どういうことですか、とすかさず聞いたのは志津木さん。一連の行動からして、彼は疑問を疑問のままにしておくことをよしとしない性格のようだ。
「幽閉されているのだ。フランス本部に」
幽閉―――― 何故。
それに、兄ならともかく妹が会長だったなんて不自然だ。翠川先生と草木さんが気まずそうにしているところを見ると、二人は事情を知っているとみて間違いないだろう。
すると故意に話題を取り上げるようにしてシュウが口を挟んだ。
「そうだジジイ、香月に教えてやって欲しいことがある。おき―― ええと、オキナガタスク、だっけ」
突然お兄ちゃんの名前が出たので、どきりと心臓が冷えた。加賀見さんも虚を突かれた様子で顔を上げる。
「沖永佑? ああ、君の幼なじみの、か」
「は、はい」
「彼がどうした」
核心を問われ、私はもはや、これまでと同じく黙ってやり過ごすわけにはいかなかった。
お兄ちゃんが協会と接触していたこと、その日にあったこと、見聞きしたこと―― 私は抱いていた疑問をそこに全て吐き出しきった。
しかし焦ったせいか、時系列もバラバラならまとまりにも欠く内容で、きちんと伝えきれたかどうかはすこぶる怪しい。我ながら感心してしまうほど支離滅裂だった。
嫌な脂汗を拭うと、加賀見さんがおもむろに唸った。
「そうか……彼は君に、あのことを明かす前に亡くなったのだな?」
あのこと?
思わせぶりな言葉にかぶりつく勢いで、シュウが身を乗り出す。
「何か知ってるのか、ジジイ」
「知ってるも何も、三年前、彼の自宅に赴いたのは私だ」
「えっ」
ではあのとき沖永の家のリビングにいたのは、私が見かけた、黒いスーツの男は……加賀見さんだったのか。
「最初にも言っただろう、君はあのときの少女だな、と」
「そ、そういえば……」
すっかり忘れていた。
「なあジジイ、それ、副会長が自ら出向くような案件だったのかよ」
「まあな。一時期は上層部が騒然となったものだ。未知の能力を秘めたリーラーの少女がいる、事実であれば即刻保護せねばと」
「少女? それ、どういう意味ですか」
お兄ちゃんは『少女』ではなかった。とすれば……加賀見さんが訪ねて来たのは彼ではなかった?
口の中がからからに乾いている。思考がまとまらない。
「聞いての通り、君のことだ、香月捺南くん」
「わ、わたし? どうして」
「君は無自覚ながらも強い力を持つリーラーだった。ただし不可視であり、ひもにも触れられないときた。我々にとっては仲間と捉えるべきか全く別の種類として捉えるべきか、意見が割れてね」
彼は残業帰りのサラリーマンのように蓄積した疲労を吐きだして、ドアに背をもたれかける。無理もない。つい昨日まで、本部の役員からねちっこい事情聴取を受けていたのだから。
「ひとまず日常の様子を詳細にうかがうために、君を見張らせたのだ。その動きに真っ先に気付いたのが、沖永佑くんだった。君が怪しい人間に狙われているとでも思ったのだろう。登下校時にぴったりとガードをし始めてね」
覚えがある。三年前だけではない、お兄ちゃんは高校へ進学してからも最寄り駅で私を待っていてくれた。あれは私を護るためだったのか。
「そこで、我々は君のご両親に事情を説明しに行ったのだよ」
「りょ、両親にも会ったんですか」
「ああ。現在こちらで保護していることも伝えてある。心配ない」
そうですか、と言って胸を撫で下ろした。心配されているだなんてうぬぼれはしないけれど、それでも少し安心してしまった。
「じゃあ、どうしてあの日お兄ちゃんの家で、死ぬ、とかって」
「……沖永佑を説得しに寄ったのだ。あれは半分が脅しのようなもので、近い未来に起こりうる可能性、だったのだがね」
シュウが眉間に皺を寄せて、はあ、と零す。
脅しって一体。私の頭の中は混乱を極めていた。
「それでお兄ちゃんは私と引き離される心配をしていたってことですか。でもどうして。お兄ちゃんは可視だったんですよね。協会のことも知ってただろうし、様子を見るだけならお兄ちゃんに頼めば良かったわけで、私たちが離れる必要なんて少しもなかったんじゃ」
おかしい。何もかもがおかしい。
「……沖永佑のパソコンはまだ自宅にあるのか」
「え?」
「何かを作っていたと言ったな。そのデータは、まだ残っているのか」
「知りません、けど」
「ならば確かめに行くべきだ。君は……君は全てを知る必要がある」
言って加賀見さんは左斜め後ろを振り返る。
「滝口くん、至急手配を――――」
しかしそこには、空虚を埋めるように細かな塵が漂うばかりだった。
***
こうして一週間後、退院した四人を含む私たち八人は揃って沖永家の門を叩いた。
八人、というのはもちろん畠さんを除いた人数だ。今回のことで人間不信に磨きがかかった彼を密室から引きはがすには、きっと北風も、太陽も、相当の難局を強いられることになる。
「邪魔するぞ」
まるで自宅のように、加賀見さんは沖永の家の玄関をくぐる。
大人数での移動はいい。考えずとも足が動く。だから私はまるで隊列の一部になり、順番が回って来たからそこに足を踏み入れた、みたいな感覚で、ひとりならば跨ぎきれなかっただろう敷居を難なく越えることが出来たのだった。
事前に話が出来ていたのか、通されたのはリビングというワンクッションもなく、お兄ちゃんの部屋だった。
とはいえ、全員が七畳間に収まりきれるはずはない。そのため私とシュウ、加賀見さん、翠川先生、そして加賀見さんの強い希望により伊倉さんが部屋に残り、あとのメンバーは一階へと引き返す羽目になってしまった。
穏やかな顔で全員分のレモンティーを配ってくれたおばさまは、最後にひとつ、彼の学習机にカップを置く。懐かしい匂いと酷い違和感が同時に漂った。
あの頃のまま、時を忘れた光景――――。
これまで自分だけが置いていかれた、取り残されたと思っていたけれど、それはおばさまもこの部屋も同じだったのだと、気づかされた思いだった。
景色が融解するように潤む。それを零さずに済んだのは、周りの目を気にした結果だった。
「ふむ、予想通りで予想外だ」
お兄ちゃんの椅子に我が物顔で腰掛けて、パソコンとにらみ合っていた加賀見さんが両手を挙げる。
マザーグースを彷彿とさせる奇妙な物言いに、紙一枚挟む間もなく文句をつけたのはシュウだ。
「どっちなんだよ」
「どっちもだ。データにプロテクトがかけられている。これでは開くことができん」
「プロテクト?」
「ああ。数字でもアルファベットでも良い。これを開封するためには四桁のパスワードが必要らしい。君達、本人から何か聞いていないか」
呼びかけられて、おばさまは咄嗟に私を見たけれど、視線を合わせる勇気はまだなかった。
「……いえ。私も主人も、そもそもそんなものを作っていることすら知りませんでしたし」
「そうか。ならば致し方あるまい」
「四桁ねぇ……それ、誕生日とかは?」
翠川先生の問いに加賀見さんは悟ったような顔で笑う。
「もう試した。全滅だ」
「香月さんの誕生日は? それ、彼女に見せるために作ったんじゃ」
「いや、違った」
「じゃあそれを、い」
「入れ替えて、などと有り体なことをこれ以上言うな玄冬」
「何故わかったんだ」
「おまえは医者と言うより患者向きだ」
「どういう意味だい」
「顔を見ただけで全てがわかる」
「おまえらいい加減にしろっつうの」
掛け合いに鉈を入れたのはシュウだった。相も変わらず絶妙のタイミングだ。
「このデータを最後に弄ったのは事故当日みたいだな。おい香月、オキナガに最後に逢ったのはおまえだよな」
「うん、そうだけど」
「何か言い残したこととかなかったか」
言い残す、って自分の最期を悟っていたわけじゃああるまいし。舌の上に乗り掛けた反論を飲み込みつつ、しぶしぶ記憶をたぐり寄せる。あの朝――――
『将来、僕と一緒になってもらえないかな』
お兄ちゃんは、唐突にそれを切り出した。どうしても今、言っておきたかった、と。思い当たるとしたらこの台詞しかないけれど、言い残した、とは考えにくい。
しかし、少々疑問には感じる。
どうしてあのタイミングで? 内容からすれば、もっと改まって伝えても良さそうなことだ。
何か理由でもあったのだろうか。焦って伝えなければならないような―― 逆に言えば、急いで伝えたくなるような。
「……約束なら、した」
「何の」
「将来、一緒になろうって。死ぬまでずっと一緒にいようって。突然言い出すからびっくりしたけど、私、うん、って答えて……。これって何か、別の意味があったのかな」
伊倉さんがあからさまに視線を泳がせたのがわかった。おばさまがわずかに俯いたことも。
「ふうん……、もしかして沖永、数字に強くなかったか」
「うん、数学は得意だったみたいだけど」
私の記憶に頼る限り、彼は完全なる理数系だった。本を読むのも好きだったみたいだけれど、たいてい物理関係の難しいタイトルのものだったように思う。
「なら多分、4875、もしくはその四つの数字の組み合わせかもな」
シュウの口角を持ち上げているのは確信の二文字だろうか。
「え、どうして」
不思議がって尋ねた私とは裏腹に、加賀見さんはワークチェアをくるりと半回転させ、無言のままキーボードを叩く。余計な質問を必要としないのは、それだけシュウを信頼しているから、に他ならない。
その指が最終的にリターンキーへ辿り着くと、ディスプレイの切り替わる様子が私の位置からも確認できた。正解だったのだ。
「よし、ビンゴだ」
言って、指を鳴らすシュウ。やはり凄い。ここぞというときの鋭さは並外れたものがある。
「あの、今の数字、どうして?」
尋ね直すと、敵将の首を取ったかのごとく得意げな顔で答えてくれた。
「48と75は―――― 最小婚約数なんだ」
「さいしょう、こんやくすう?」
「ああ。異なる自然数の組み合わせで、その数自身と1を除いた約数の和が、お互いの数になる、それの最小だな」
と、さらりと言われたところで即納得できるはずがない。聞き返そうとしたところで、伊倉さんがなるほどねと納得した様子で言った。
「48の、1を除いた約数は2、3、4、6、8、12、16、24で……ああ、足すと確かに75になる。この逆で、75の場合には和が48になるってことだね」
なるほど、そういう意味か。お互いがお互いを示す、最小の婚約数……いかにもお兄ちゃんが考えそうなことだ。
「想像でしかねえけど、沖永はその日、やっとデータを仕上げたんじゃねえかな。で、喜び勇んで香月にパスワードのヒントを教えに行った、と」
「あれってヒントだったの?」
「いや、ヒントがメインだかプロポーズがメインだかは、本人に聞かなきゃわからねえけどさ」
「うん……、そう、だよね」
それは、永久に失われた答えなのだろう。当然、さしものシュウにも判断できないことで――。
どちらにせよ彼は私にきちんと鍵を残しておいてくれた。そのことに気付けただけで充分成果はあったと思う。
「ありがとう、シュウ」
「……いや。ほら、ファイル開くぞ」
すると、何かを読み込んでいる様子だったパソコンの画面が一瞬闇になり、次に予想外のものが大映しになった。
自分たちの姿だ。それも、食い入るようにやや下方を覗き込んでいる画。
「成る程、カメラか。考えたな、沖永佑」
愉快げに加賀見さんが示した先、ディスプレイ上方に設置された丸いレンズのすぐ脇には青いランプが点灯している。作動している、ということなのだろう。
しかし、一体なぜこんな映像を映し出す必要が? 自分自身を見つめ直せとでも言いたいのだろうか。いや、まさか。
それならわざわざパスワードを入力させるはずがないし、鏡でも使ったほうがよほど手軽だ。
お兄ちゃんは長い時間をかけて、必死で何かを作っていた。表現しようとしていた。単なる備え付けのカメラ映像を見せて終わりだとは、到底思えない。
「香月くん、ここに座りたまえ」
すると、そう言った加賀見さんの顔の前に、画面の中でぱぱっと連鎖的に橙色が発生した。インク染みのようなそれはまばたきをする間に消えてしまい、見間違いではなかろうかと私は思わず右目をこすった。
「何か喋ってみたまえ」
「え、私が、ですか」
喋るって、まさか画面に向かって?
疑問を短く発したそのときだった。私は大映しになった自分の映像に、オーロラのような煌めきを見た。声と同時に、顔の前。厳密に言えば唇の前に――――。
真珠を細かく砕いて、銀粉と同時に散らしたような。
「なに、これ」
思わず画面に食い入る。
それはオパールの輝きにも似て神秘的で、時々淡い青緑を含む白い光だった。これは一体。
「これが沖永佑の見ていた世界だ」
これが……? ということは、今のがひもなのだろうか。でもシュウは無色透明だと言っていたし、ひも、と言うからには当然細長い形状であるはずだ。
呆然としていた私の両肩を、加賀見さんが掴む。
「……落ち着いて聞きたまえ。彼は、可視ではない」
耳元で教え諭すように伝えられた言葉は、到底信じ難いものだった。
「そ、そんなことありえないです。だってお兄ちゃんにはこれが―― ひもが見えていたんですよね」
画面を指差し訴える。それならこれを何と説明するのか。
「これはひもではない。変わった物が見える、という事象は協会でも審査させてもらったのだが……まるきり別物だったのだよ」
「別物」
「そうだ。彼自身は、君と同じだと―― これはリールの力なのだと言って譲らなかったがね」
加賀見さんは大きく頷く。
そして、たったひとつの答えは、告げられるに至ったのだった。
「沖永佑は―――― 共感覚者、だったのだよ」
キョウカンカク……?
そうだな、と同意を求める彼に、おばさまは今度こそしっかりと頷く。
「はい。あの子には幼い頃から、音や文字や数字に、私たちにはわからない色のようなものが感じられていたんです。それで、研究施設からも何度か呼ばれて。でも他人と相容れないものだってことは早いうちから悟っていたんでしょう、近所や学校では徹底して伏せていました」
ああ……!
――捺南を表現するのは世界一難しいよ――何故ヒトにとって、この領域が可視なんだろう。捺南はそれを疑問に思わない?――僕はニュートンの、色彩と音楽を関連づけた考え方が好きなんだ――音の調和が空気の振動の比から生まれるように、色の調和も視神経を通って脳髄に伝達される震動の比から生まれるんじゃないか、って――――。
彼の言葉が雪崩を起こして、その向こうの真実がようやく姿を現したようだった。
共感覚、音や色や数字に色を感じる。それであんなことばかり調べていたのか。もしや、計算が速かったことも音に敏感だったのも、そこから?
半信半疑ながらも、得心がいった思いだった。
ということは、お兄ちゃんの死はやはりリール協会とは無関係……。
「……知らなかった……」
漏れた声に、青みがかった白色が重なる。これが、私の声の色。お兄ちゃんの目に映っていた私。
息を呑んで画面を見つめると、おばさまが歩み寄って来て私の手を取った。泣き出しそうな笑顔だった。
「……驚いたでしょう。気持ち悪いと、思う?」
おばさまの声は、加賀見さんの声に淡い桃色を混ぜ込んだような、柔らかなサーモンピンクだ。
「いえ。驚きは、しましたけど、こんな、こんな綺麗な景色、みたことない」
まるで色彩の洪水だ。絵の具では到底、表現しきれないほど綺麗な世界だと思った。
「そう、ありがとう。私ね、あの子は……佑はずっと孤独なんだって思ってたの。本当の自分をひた隠しにして……だけどこんなものを用意してたってことは、捺南ちゃんにだけは出来るだけ正確に理解してもらうつもりだったんでしょうね」
いつかの記憶を呼び覚ます、湿り気を帯びた声。余計に顔を直視できなくなって、画面越しに盗み見るしかなくなる。
「あの子、捺南ちゃんを前にすると、難しいことばかり話していたでしょう。あれね、全部照れ隠しだったのよ。おかしいわよね」
けれどそれも、数秒のうちにぼやけて見えなくなった。
つまり私は物心さえ朧げな頃からずっと、彼に思われ続けていたということなのだろう。
知らなかった、こんな。
自分の柵さえ飛び越えられれば、見える世界もあるのだということ。
「……おばさま、私、私も、お兄ちゃんのこと、ずっと」
その先は、唇を渡る前に昇華した。もうわかったから、とでも言いたげに掌を翳し、おばさまが笑ったから。
「ありがとう。佑はしあわせだった。ひとりじゃなかった。今、やっと、そう思えた気がする……」
はたはたと、儚い音を立てて水滴がカーペット上に散った。涙というより、感情の飛沫だった。
喉の奥が焼け付くように痛い。それでも止めることなど出来なかった。
「う、う……っ」
しあわせだった―― わたしこそ。
「ありがとう、捺南ちゃん……」
「……ふえ、ぇえ………っ」
「ありがとう。佑を、好きになってくれてありがとう」
おばさまの目に溜められた涙には、淡く白い光が映り込み、乳のように優しい。
その腕に抱かれ、私は慟哭した。
―― ああ、本当に死んでしまったんだ。
ソフィの死に遭遇してからというもの、これまで見ないふりをしてやり過ごして来た、彼の死に関する疑問を根こそぎ掘り起こしてきた。どうにかして真実を手に入れたかった。
そうして私は認めたかったのだろう。彼がもう二度と、ここに戻っては来ないということを。
彼の完全なる死を。
私の体を胸元に押しつけ撫でてくれる、おばさまの腕はひたすら柔らかい。ここにはかつてお兄ちゃんも抱かれていたのだと思うと、切るような悲しみに襲われた。
同時に、自らの母を思った。父を思った。弟を思った。そうして、私には帰る場所があるのだと知った。
そこで、しばし傍観者と化していたシュウがおばさまに向かって口を開いた。
「下の階にいる長谷を呼んでもらえたら助かる」
随分不躾な申し出だ。
私が行きます、と言いたいのはやまやまだったけれど、しゃくり上げつつ涙を拭くのが精一杯だった。
快く引き受けてくれたおばさまが部屋を出て行くと、見計らっていたかのように加賀見さんが喋りだした。
「沖永佑……彼は唯一、香月くんの声が特殊だということを最初から見抜いていた人間なのだろう」
「え……それは、リールの力を宿している、という意味で、ですか」
自分で同情したくなるほど酷い鼻声だ。
「いや、本質まで見抜いていたかどうかはわからん。だがここに映る君の声は誰よりも美しく他とは明らかに別格だ。ほのかに発光し、時に煌めく」
確かに、画面に表示される私の声は、加賀見さんのものともおばさまのものとも違う。色というには眩しくて、光に近い性質がある。
「皮肉なものだ。まさか彼のほうが亡くなるとは。あのとき、私が『死ぬ』と脅しかけたのは君の命のほうだったのだがね」
傍らの加賀見さんを、ゆるり見上げる。私が、死ぬ。どうして。疑問のまなざしに答えて、その唇は再び開かれた。
「あの頃の君はバックラッシュを起こしかけていてね」
「バック、ラッシュ……」
ああ、そういえばリールがひもに絡まる現象だとシュウに教えてもらった。最悪の場合、ひもを全て切断しなければならなくなる、と。
「そうだ。あのとき佑くんには、このまま協会の偵察を妨害し続けるなら最終的には君達を引き離さなければならなくなるぞ、と忠告したのだよ」
そうか、だから『離れる』って。
「しかし彼は反発し続けた。そこで我々は最終手段として、協会関係者と君の間のひもを断つことで、君の延命を図ったのだ」
そんなケースもあるのか、と感心したように零して、シュウは長く息を吐く。
「とはいえ、そんな応急処置も長くは続かん。ひもは絡まり続けていた。君はいつ倒れてもおかしくない状態だったのだ、が、偶然の事故でその原因は消滅した……」
視線を落とし、加賀見さんが濁した語尾。私はそこに続くべき言葉を、無言の空気で受け取った。
自分がこうして今もまだこの世で生きながらえている理由、それは。
「お兄ちゃんが亡くなったから。お兄ちゃんとのひもが、切れたから……?」
「ああ」
「そんな、嘘だ」
つまりそれは、彼が生きていたら、私は死んでいたかもしれないということ。
こんな。こんなことがあるなんて――――。
「嘘だ……」
そこでふいに予想外の謝罪が聞こえ、私は顔を上げた。
「……すみません、でした」
発したのは伊倉さんだ。思わず表情が凍り付くのを感じた。
お兄ちゃんの死に、彼が関わっているのではととっさに思ってしまったからだ。
シュウと加賀見さんは申し合わせたように、揃ってふんと鼻を鳴らすと、「やっぱりな」短く言う。
「香月の話、少しは薬になったみたいだな」
伊倉さんは重ねて詫びながら頭を垂れている。シュウは目線だけを私に投げてよこして、
「つまりこいつも、沖永佑と似たような境遇にいたってわけだ」
全てを見越していた様子で口角をあげた。
「お兄ちゃんと同じ? どういうこと」
「地元で待ってる『彼女』が、バックラッシュを起こしかけてる。そうだろ、伊倉」
「……ああ」
「オレを脅して、自分とのひもを切ってもらうつもりだったんだろ」
「……そうだ」
「どうして協会に相談しなかった?」
私でさえ思いつくような尤もらしい問いに、伊倉さんは「一般人なんだ」と答える。
「治療を受けるには協会に属しなければならない。迷ったけど、今回はそれを施設まで頼みに行ったんだ。だけど、ソフィの死に顔を見たら、やっぱり、あんなところに所属させるなんて駄目だと」
それで彼は事件を境に人が変わったようになってしまったのか。
「だから君がシザーであることに気づいて、うまく事が運べば、協会に無断でひもを切断してもらえるんじゃないかって都合の良いことを考えてしまった」
「切断って、そんなに軽く言うんじゃねえよ。無断で切りゃ罰則が科せられる。最悪本部に幽閉だぞ」
「でも命がかかってるんだ、僕だって必死だった!」
「それでもだ。とくにひもなんて、一度切れたら終わりなんだ。取り返しがつかねえんだよ」
やるせない声でシュウが呟く。おぼつかなく視線をさまよわせる伊倉さん。
「……わかってる。いや、わかっていなかった、のか」
唇から流れ出るのは、迷いだ。
「僕がしようとしていることは、僕にとって正しいけど、彼女にとっては――」
消え入りそうな響きは、画面上で紫に色づく。
「香月さんの話を聞いていたら、ますますわからなくなった」
「伊倉さん……」
インディゴブルーが瞼の裏に蘇ってくるようだった。この変化もまた私が与えたものなのだろうかと、不思議な気持ちになる。
「すまなかった。君達には詫びる。副会長への無礼も、どうか許して欲しい。だから審判は―――― 僕と彼女のひもは、切らないでもらえないか……」
彼が口に出したことで、私は忘れかけていたそれを一気に思い出した。食堂で伊倉さんが鎮圧された直後、シュウが言っていたことを。
『理由はどうあれ、日本支部の会長を人質に取ったんだ。裁かれることになる。最悪の場合、おまえのひもを全部切断することになるからな。覚悟しておけよ』
土下座をする伊倉さんを見下ろす、シュウの顔は物憂げだ。その視線に温度は感じられない。
「シュウ、あの」
許してあげて、と言うつもりだった。あの場に居合わせていた者が全員口を噤んでさえいれば、見逃すことも可能なのではないかと思ったからだ。
だって、残酷すぎる。
縁……人間関係がそう単純なものでないことは、ここ数週間のあいだに嫌というほど実感した。それは彼が少しずつ積み重ねるように築いてきたはずで、他人が簡単に奪えるものじゃあない。
それに、残酷なのは伊倉さんにとってだけでなくシュウにとっても同じなのだと思う。彼の事情を考えれば、切断だなんて進んでしたいはずがない。
しかしシュウは私を眇め、
「残念だが、今回のことはすでに本部に報告が上がっちまった。切断、しないわけにはいかねえんだよ」
言うと同時に伊倉さんの頭上へ左手を翳し、その腕に交差させるようにして右手をかまえた。
「でも!」
「同情するな香月。もともと、頭を下げた程度で許される罪なんてそうそうないんだよ」
鋭い刃こそ見えずとも、一太刀で部屋中のものを一刀両断しうるほどの威圧感がある。
「協会規定第三条二十九項に基づき、シザーの名を以て汝の罪を裁く。これより、ひもの即時切断を実行する」
「待って!」
だめ!
しかし止めに入ろうとしたときすでに、シュウの右手は空を裂いていた。抵抗があるのか、わずかに動きを止めたあと力を込めて振り切った腕は、刃というより鎌のようだった。
音はなかった。私には、確かめる術もなかった。
しかし惨い行為を目の当たりにしたように加賀見さんと翠川先生は眉をしかめ、苦々しい顔で背を向けたシュウを見るに、ひもが断たれたことは確実だった。
収まったはずの涙が再び込み上げてくる。
ひととひとの繋がりって、こんなに簡単に切れてしまうものなの? お兄ちゃんと私の繋がりも、こんなに脆いものだったの。そんな疑問が、浮かんでは消えた。
こうして――――
直後、部屋にやってきたユーヤさんのひもも同様に、シュウの手によって一刀両断にされ、一件は一応の決着をみたのだった。
「ひもの断片は報告書とともに本部に保管されるから、そのつもりでいてくれ」
シュウの右手は、私に見えない何かを掬っては白い布切れに乗せる。そうして、それを無造作に折り畳んだあと加賀見さんに放って渡した。
「どうせ見せしめに使うんだろ。趣味悪ィ」
とは、不服そうにしているユーヤさんの文句。伊倉さんは両手で顔を覆う。絶望を負った彼の背の、丸みはひたすら悲しい。
「……否定はしねえよ」
答えたシュウは、どこか悄然としていた。
罰則なくして集団は形を為さない。悲しいけれど、それが現実なのだと思う。
学校なんていい例だ。スカートの丈から靴下の色まで事細かに基準が設けられていて、違反すれば工場の品質管理のごとく弾かれる。
「で、だ。こっから先は俺の独り言」
シュウが気を取り直したように言ったので、私は残っていた涙を指の腹で拭った。
何故だろう、彼はいつの間にか表情を切り替え、場違いなほどいたずらな笑みを浮かべている。
「切断したひもは通常、二度と元に戻らない。だけどもう一度復活させる裏技がないとも限らない」
そうして、人差し指で示したのは――――。
「わ、私っ?」
「そう。出来るだろ、おまえの声なら」
焦って首をぶんぶん振った。唐突すぎる。
「そ、そんなこと突然言われても。規定だってあるんでしょ」
「ああ。協会に無断でひもを結ぶ、切断する、は罰則付きで禁止」
「なら、私の声も駄目なんじゃ」
「ま、そう言いたいところなんだが―― 『生成するな』と明確に制限する規定はないんだよな、これが」
「え」
「香月の力には前例がないからさ、例外だよ例外」
したり顔で笑うシュウは、想像以上に計算高い人間なのかもしれなかった。
「自分を見つめ直して、罪を悔い改めて、もう一度やり直したいと思えたならそのときは、香月に頭を下げて頼むんだな」
犯人扱いしたことも合わせて謝れ、と尊大に言い放つ低い声は、パソコン画面で紺碧を生む。そのせいか、彼はとても気高いひとのように見えた。
満足そうに微笑む加賀見さんを見るに、すべて示し合わせてあったことなのだろう。
人が悪い。先に言ってくれたら良かったのに。
崩れ落ちるように泣きだした伊倉さんの横でユーヤさんは呆れたように笑って、おひとよし、と呟いた。
「知らねえぞ、あとで本部に指摘されても」
「罰せられはしねえだろ。香月の力に合わせて協会の規定が改訂される前なら」
「悔い改めるにもタイムリミットがあるってことか」
「まあな。つうかもともと、タイムリミットのないものなんてねえじゃん」
「……言えてる。おまえ、たまにはいいこと言うな」
「オレもそう思った」
カップに満たされた、冷め切ったレモンティー。表面に移り込む太陽に目を細め、景色がこんなに鮮やかに見えるのは久しぶりだなと思った。
当たり前のことなのに、ときどき忘れてしまう。どんなに濁った色でも、それは光が見せてくれているものなのだということを。
「捺南ちゃん、これ」
ぱたぱたとスリッパを鳴らしながら現れたおばさまが、封筒の束を私に差し出す。
「移植コーディネーターさんから受け取ったの。良かったら見てあげて、佑の命の、その先を」
「……その先?」
「ええ。佑はね、今でもちゃんと生きているのよ」
受け取ると、封筒にはどれも、彼から臓器を受け取った人達からの感謝の手紙が詰まっていた。長年患っていた病が回復した若い女性、社会復帰に向けて資格試験の勉強を始めた男性……、どの手紙も生命力に溢れている。
「よかった」
良かった。そう、心から言えた。
パソコンの電源を落としながら、心の中でごめんなさいと呟いた。
そうして同時に、彼がくれた今をもう二度とおろそかにはしないと誓った。