表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/24

19.世界の解釈

 

「スプリンクラーはどうした!」


 青の部屋の前、尋ねる加賀見さんは酷く歯痒そうで、焦りきっている様子がありありと見て取れた。


「それが、作動している様子がなくて……もしかしたら壊されているのかも」

「鍵は」

「翠川先生が解除にあたっています、ですが、最低でもあと十五分は」


 まごつく草木さんの目の前で、くそっ、と彼は力任せに壁面を殴りつける。重い衝撃が壁面に響き渡った。

 栞さんが部屋に消え場を閉ざしてから、経過した時間はせいぜい二~三分。しかし私は施設を訪れてからの最も長い時間を、今、過ごしているような気がしてならなかった。

 ここまで例のごとくシュウとユーヤさんが扉に体当たりを試みている。しかし内側に障壁を築いているのか、突破することはかなわなかった。これ以上、何ができるとも思えない。

 扉の四辺にあるわずかな隙間からは、もうもうと白煙がわき出しはじめた。

 栞さんは無事だろうか。こうしている間にも、一秒ごとに望みが薄くなっていく気がして、それでも成す術はなくて、……たまらない。


「どうしろって言うんだよ……」


 シュウがそう漏らしたと同時に、室内からはパチッという弾けるような音が続けざまにあがった。混じって栞さんのものと思しき咳き込む声が数度聞こえ、私はぱっと顔を上げた。

 煙を吸い込んだのかもしれない。となれば事態は一刻を争う。もう、少しの猶予すらない。


「栞さん、栞さんっ、開けて!」


 最初にここで朝食をとったとき、栞さんが私の分を取り分けて別にしておいてくれたことを思い出す。

 あれは例の会話のあとだったけれど、彼女はとても親切だった。少なくともまだあのときは凶行に及ぼうだなんて思っていなかったに違いない。

 血だらけの寝間着のことだってそうだ。考えてみればあの直前、私と加賀見さんは二人きりで部屋にいた。誤解を招くような状況だったと思う。

 だからといって、彼女のしたことが正しかったとは到底言えないけれど。―― けれど。


「く……」


 苦しそうに唸ると、シュウは傷口を素手で押さえて壁にもたれた。血の気がすっかり失せている。

 心配になって声を掛けようとすると、志津木さんに先を越されてしまった。彼はよたよたと体を左右に揺らして歩み寄り、シュウに肩を貸した。

 肌にまとわりつくような、これまで以上の暑さ。皆、滴るほどの大汗をかいている。噴き出す煙は勢いを増し、回廊は淡く霧がかったように見えはじめた。

 もはや、栞さんだけでなく自分たちの命までもが危ぶまれる事態にさしかかっていた。


「阿呆めが……!」


 驚いて振り向くと、加賀見さんは肩を震わせうつむいていた。泣いているのかもしれない。かける言葉など、みつかるはずもなかった。自分の過去と重ね合わせれば尚のこと。

 彼は無念そうに切歯したあと、決心したように顔を上げた。感情を押し殺したような無表情は、責任感が纏わせたものだろうか。


「……草木くん、皆の避難誘導を。私は翠川と共に近隣支部と日本国への救助要請を行う。庭で落ち合おう」

「は、はい」


 反対意見を言える人間がいるわけもなかった。今の私たちにはやむをえない選択だと、誰もがわかっていたのだと思う。

 もう、他に道はない。


「こちらです!」


 こうして私たちは、草木さんの誘導で屋敷の表にある庭へと避難を開始した。志津木さんがシュウを抱え、ユーヤさんが私と畠さんを庇ってくれたので、見通しの悪い建物内もスムーズに抜け出すことが出来た。

 数分後、加賀見さんは一階でコンピューターに向かっていた翠川先生を連れ、携帯電話で通話をしつつ裏口から姿を現したのだった。


「大丈夫かい、みんな。すぐに協会のヘリが迎えにくるからね。順番に、まずは女性と怪我人から救助してもらうってことでいいかな」

「……やけに早いな」

「いや。逆だよ、逆。救助はソフィが亡くなった時点ですでに要請していたんだから。せめて疑いのない人たちだけでも他に移そうと思ってたんだけど」


 屋敷の隅に設置されたナトリウムランプと、足下には一定間隔を置いて小さな照明が灯っている。どうやらヘリの夜間着陸用の設備らしい。闇を照らす橙色は、景色を異様な色合いに染め上げている。

 芝生の上にあぐらをかいたシュウが怪訝そうな顔をして翠川先生を見上げたので、私も一緒になって彼を見つめた。


「なんだそれ。連絡してから一日以上経過してるってことじゃねえか」

「そうなるね」

「移動用と防災用、両方が全機出払ってるなんてことはありえないだろ」

「うん、まあ、もちろん」


 どういうことだ、と噛み締めるように小さく言って、シュウは親指の腹で下唇をひとなでする。


「まさか、故意に救助を遅らせた……? 協会が? 支部が? 何が起こってる」


 それもまた、誰に問いかけるでもない言葉。

 ユーヤさんがすっと、黒目を翠川先生へと移動させたのが視界の隅で確認できた。


「そういえばジジイ、事件が発覚したときどこにいた? あんなに騒いでも起きて来なかったし、庭の捜索にも加わらなかったよな。もしかして、部屋にいなかったんじゃねえのか」

「……鋭い奴だ。ますます惚れ直した」

「誤摩化すな。だらしのないアンタが早朝から起き出すなんて天変地異の前触れみたいだ」

「老熟してくると眠りが浅くなるとか言うぞ」

「誤摩化すなって言ってるだろ。いい加減にしろよ」


 荒げた語尾におびえたのは草木さんで、当の加賀見さんは至って飄々と、不遜な態度を崩そうとはしない。


「部屋を空けて何が悪い。ああそうだ。あのとき私は翠川と話し合っていたのだ。ソフィが―――― あのように病弱な箱入り娘が何故、単身日本へなど渡ってきたのかと」


 言っちゃった、というふうに翠川先生が額に手を当て苦い顔になる。

 自分が聞いてしまっても良いものか、迷いながら私はふらりと視線を泳がせた。


「留学の下見じゃなかったのかよ」

「本人の意思まではわからんがね。滝口くんの言うことが本当なら、彼女は部屋で気を失うほど状態が良くなかったんだぞ。同行者のひとりでもつけて然るべきだろう」


 ああ、と頷いたシュウを見て、かすかに首をひねる。確かにそれはおかしい。

 すると翠川先生は観念したように息をひとつ吐いてから喋り出した。


「つまりね、嵌められたんじゃないかって僕らは思っているわけだよ」

「嵌められた? 誰にだ」

「断定はできないけれど……、我々日本支部はフランス本部のお偉方のお嬢さんを預かったわけで、もし彼女の身に何かあれば非難を浴びる……最悪責任を取らされるのは誰かってことを考えれば」

「日本支部のトップに恨みを持つ人間、ってことか。ソフィの親とか?」

「いや、それは流石にないんじゃないかな。だって箱入り娘だよ、大事なひとり娘だよ?」

「確かにな。となると、別に裏で手引きをした奴がいたってことだな。救助を遅らせたのもそいつか。加賀見の足を引っ張るために」

「穿った見方をすれば、だがね。こればかりは推測の域を出んよ」


 雷鳴のように轟めく音が降ってきて、私は南の空を見上げた。赤と青の、小さな光が木々の間からちらちらと垣間見える。

 同時に地面へと押さえこまれるような、しかし足下から舞い上げられるような突風を全身で感じた。

 ヘリだ。

 片手でスカートを押さえ木陰へ逃げ込む。ユーヤさんが庇うように私の前に立ってくれた。

 しかし荒れ狂う風の所為で呼吸が上手くできない。足下の葵も、なんだか息苦しそうになぎ倒されているように見えた。

 やや大型の白い機体を左右に少し揺らしながら、救助のヘリは庭の中心に降り立つ。


 ……凄い。

 こんなの、目の前で見たのは初めてだ。


 プロペラを回転させたまま、救助隊員がふたり、ストレッチャーとともに姿を現す様子はまるでテレビドラマのワンシーンといったところ。

 リール協会に属する者なのだろうか、彼らは加賀見さんの姿を認めるとわずかに会釈をしたように思えた。

 するとユーヤさんが私の背を押し、機体の側まで連れて行ってくれた。彼はことごとく初対面の印象を覆すように親切だ。


「気をつけて!」

「ありがとうございます、ユーヤさんも!」


 耳をつんざくようなプロペラ音の中、大声で言って機内に乗り込む。

 草木さんとともに内部の椅子に腰掛けた所で、シュウがストレッチャーの上に横たわった状態で運び込まれた。シャツは半分が真っ赤に染まっていて、出血の酷さがうかがえる。

 ふと扉の外へ視線をやると、ちょうど、屋敷の二階部分の窓を割って勢い良く噴き出すあかあかとした炎が見えた。瞬間、加賀見さん、志津木さん、ユーヤさん、翠川先生、畠さんが揃って体を屈める。それだけ大きな音が響いたのだろう。そのときだった。とんでもないことに気付いたのは。

 ここにいるべき人の数が、たりない。

 すっかり意識から抜け落ちていたけれど、彼とは食堂でわかれたきり。


「い、伊倉さんは」


 唇を大げさに開閉して尋ねると、シュウはやや目を細めて私と屋敷の方角を視線で辿り―― すぐに瞠目して半身を起こし「中か」と言った。続けざまに外へ向かって叫ぶ。


「ジジイ、伊倉がまだ中に!」


 しかし四人は燃え盛る屋敷に気を取られてか、まったくもって気付く様子はない。


「くそっ」


 埒があかないと判断したのか勢いをつけて起き上がろうとしたシュウはしかし、救急隊員の制止により再びストレッチャーに身を沈めた。慌てて立ち上がるそぶりを見せた草木さんも、貧血なのか失神をおこしたのか、膝からその場に崩れ落ちてしまった。


「草木さんっ」

 

 無理もないと思う。彼女はここまでずっと、宿泊者の安全を確保しようとひとり必死で動いてくれていたのだ。抱き起こそうとすると、もうひとりの救急隊員が駆けつけてきて、着席してください、とたしなめられてしまった。

 しかしこうなった以上、私が加賀見さんたちのもとへ行くしかない。

 その場で立ち上がろうとすると、平行感覚が一瞬わずかに狂うような、かすかな浮遊感を覚えた。ヘリが宙に浮いたのだ。


「あの、ちょっと待ってください、降ろして!」


 焦って叫んだけれど、機内の人間は疑問そうに首を傾げたあとシュウを示して、怪我人がいるから、と言いたげに腕を交差させバツ印を作った。

―――― そんな。

 閉まり始めたドアを見つめ、息を呑む。

 様々な考えが浮かんでは消え、保身のような言葉を頭の中で繰り返していると、


「香月ッ」


 微かに呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、すぐ後ろでシュウが私を、いや、私の向こう側を指差している。


「飛べ! 今ならまだいけるだろ」


 無茶な。

 半開きのドアの向こう、遠ざかってゆく地面と自分の足下を見比べて、かぶりを振りながら再び彼をかえりみる。

 もう飛び立ってしまったのだ。無理に決まっている。


「む、無理だよ!」

「はやく、時間がない!」


 それでも急かしてくる声に、泣き出しそうになりながらできないよと小さくつぶやいた。

 飛べるはずがない。運動神経が特にいいわけでも、脚力に自信があるわけでもない、私なんかに。

 すると私たちの会話に気付いたのか、隊員の一人が慌てて扉に手をかけた。


「早く!」

 

 点滴の管を繋がれたまま、シュウはストレッチャーの上で飛び起きる。

 腕を振り回して行け、と叫ぶ様は若干狂気じみていて、追い立てられるように私は席を立った。

 隊員が総出で―― といっても二人しかいないのだけれど―― 暴れるシュウを押さえつけ、横にさせようとする。まるで取っ組み合いの喧嘩だった。

 外を覗き込むと、地上へはすでに三メートル、いや、尚もぐんぐんと距離は開こうとしていた。踏み出すならもう、今しかない。

 じわりと額に汗が染み出したのは、恐怖と焦りの両方からだった。

 逡巡しながらも、吸い寄せられるようにして一歩、扉へと近づく。飛べるはずがない、怖い、けれど。


「香月、行けえっ」


 後押しをするようにシュウが叫ぶ。

 振り返りはしなかったけれど、彼がまだ体をばたつかせているのは振動でわかった。その、気迫までもが私の背を突く。

 恐怖に耐えて震える手で機体をつかみ、そろりと身を乗り出すと、救急隊員のひとりが私の腰を抱き首を振った。駄目だ、と。

 けれど私は漠然と、行かなければ、と、そこで迷いを断ち切るように息を止めた。

 あとはもう何も考えられなかった。意図して考えなかったのかもしれない。もしも冷静になって状況を見極める余裕があったなら、きっと怖じ気づいてしまっただろうと思う。

 引き止める腕を振りほどき隙間に体をねじ込み、浮きかけた機体から飛び出す。


 空へと。


 しかし引けた腰で踏み切った私は直後から垂直落下をはじめ、鳥のようにひらりと優雅に宙を舞えたわけではなかった。浮遊感ならヘリ内部の方がよほどあった。

 けれど……体中で引力を感じた瞬間、私は何かに触れた。

 ニュートンがどうのと小難しいことを並べ立てているだけでは決してわからない、根幹というか、本質というか、とても深い部分に、かすかに。


 そうして、ここにある『命そのもの』を、強く、強く意識していた。


 これが私の重さ。

 私の存在の重みなのだと。


 開眼したみたいだった。つまり正直、少しだけ気持ちがよかったのだ。また次も飛ぶかと聞かれたら、答えはノーだけれど。

 こうして三メートルほど落下した私は、辛くも両手両足をついての無様な着地を決めたのだった。シュウが、よくやったと褒めてくれたような気がした。


「加賀見さんっ」


 叫んで駆け寄るのと、彼が私の行動を諌めにくるのはほぼ同時の出来事だった。


「な、何をやっているのだ君は!」

「伊倉さんです、伊倉さんがまだ、中に」


 はっとして、やおら振り返り建物へと半歩ほど踏み出した加賀見さんは、拳を握りしめて立ち止まる。不審に思ってその視線の先を辿り、慄然とした。

 正面玄関から溢れ出した白い煙、その所々に炎が垣間見えていたのだ。

 二階部分はすでに窓という窓から炎が噴き出していて、焼け落ちるのも時間の問題、といった様相だ。十メートル以上は距離を置いているのに、顔の表面がちりちりと焦げるように熱い。

 すると私の肩をポンと叩いて前方に駆け出した人物がいた。ユーヤさんだ。


「俺が行く。救助を待つより早いし、ひもを辿りながら進めば、ギリギリ居場所も特定できるはずだ」

「やめろ! 無理だ、これではどのみち助からん」


 加賀見さんがとっさに腕を掴んで引き止めると、彼は憤怒の表情で振り返った。


「無理? 俺はその言葉が大ッ嫌いなんだよ!」


 鬼気迫る態度に、思わずそぞろ引く。


「落ち着け長谷、冷静になれ。おまえまで犠牲になったら」

「そうか、そうやって里奈のことも切り捨てたんだなッ」


 里奈、それは確か彼の、亡くなった妹の名前だ。

 協会のデータには可視と記されていたけれど、どうして今、その名が?


「リナ、……?」

「とぼけるな。可視は協会の財産だとか言っておきながら、アンタは瀕死の里奈を見殺しにした。俺が助けを求めたのに、手を差し伸べてはくれなかった!」


 ほんのり汗ばんだ加賀見さんの眉間に小さなしわが生じる。何かを思い出したのかもしれない。


「里奈は切り捨てられたんだ。アンタに。だからソフィの来日に手を貸した。まさか彼女があんなに病弱だなんて知らなかったし、殺されるとも思ってなかったんだ」

「長谷……」

「人の死なんてもう充分だ。充分なんだよ。だから医者を目指すのもやめたんだ。俺はただ適当に理由をつけて、アンタを引きずり降ろせればそれで良かったのに!」


 到底信じがたい内容の告白をしたユーヤさんは、引き止める手を乱暴に振り払って屋敷の入り口へと一直線に駆けていく。


「長谷くん待って、だめだ!」

「翠川、待てっ」

「入り口付近にいてくれ加賀見、ひもを辿って戻ってくる!」

「玄冬ッ」


 加賀見さんは承知した様子ではなかったけれど、それでも翠川先生は行ってしまった。煙の中に消えていく丈の長い白衣を見つめ、数秒後、私はようやく思い至った。

 協会に恨みを持つ者、というのはユーヤさんのことだったのか。

 考えてみれば彼はソフィと同じ日、同じ朝、一緒にここへ到着している。加賀見さんは同行者がいないのはおかしいと言っていたけれど、もしや、彼がその同行者だったのでは?

 それに、ユーヤさんは一応医学部中退の身。素人からみれば、わずかかもしれないけれど医学の知識を持った人間だ。彼が付き添ってくれるなら、とご両親も来日を許可したのかもしれない。しぶしぶ、だとは思うけれど。

 そして、フランス本部のお偉方に通じている彼なら、救助の到着を遅らせるなどの根回しも可能だったに違いない。


 そういえば。

 私はそこで小さなひっかかりを思い出した。


『‘ジェ コンプリ’……わかった、って言ったんだな』とは、ユーヤさんの台詞。

 あのときは会話の先に何があるのかということばかりに気を取られていたけれど、考えてみればおかしい。言葉が通じずにナンパに失敗していたはずの彼がなぜ、フランス語をとっさに訳すことができたのか――――。

 もちろん、その言葉だけを知っていたのかもしれないし、草木さんの前後の台詞から察したという可能性も捨てきれないけれど。


「今の、どういうことですか」


 大汗を拭いながら、志津木さんが加賀見さんを訝しげに見上げる。少しの間目を伏せて、彼は体内の二酸化炭素を全て出し切るように深く息を吐いた。

 同じタイミングでシュウを乗せたヘリが後方に着陸した様子だったけれど、振り返っている余裕はなかった。


「去年のことだった。要望があって、彼の妹が入院する病院に赴いて……しかし私が見舞った時、すでに病状は手の施しのようのない状態まで進行していてね」

「病気だったんですか」

「ああ。癌だったと聞いている」


 噛み締めるように、加賀見さんは言う。

 焦げ臭さが庭に立ちこめていて今にも咽せてしまいそうだった。


「では、彼は逆恨み、ということに」

「私に非がなかったとは言えん」

「ですが医学を志した彼なら、状況はわかっていたはずでしょう」

「亡くなったのは身内だぞ。心情は、……察するに余りある」


 すこし、目を細めて。


「とはいえ、あんなことがあった以上処分せぬわけにはいくまい。彼も、伊倉くんのことも」


 猛火は衰える気配を見せず、闇をいっそう明るく照らし出している。

 屋敷のあちこちから、きしむような音。やがて二階の窓枠が焼け落ち、破片が細かな火の粉をまき散らしながら芝生の上に落下した。ついに崩壊が始まったのだ。


「私も、だな。責任問題は必ず浮上するだろう」


 未だ戻らない人たちの身に迫る危険に気をもみながら、一方で、私は加賀見さんの言葉に耳を傾けていた。


「しかしまだ、退くわけにはいかない……私にはまだ、為すべきことがあるのだ……」


 ここではないどこかを見つめる、子細ありげな瞳。

 するとその直後だった。屋敷の入り口付近に揺れ動く影のようなものがよぎったのは。

 私はそれを確かめようと、右足を一歩前へ踏み出した。


「どうした?」

「いえ、誰かが見えたような」


 四人の顔がいちどきに、重なるようにして浮かんでくる。

 翠川先生、ユーヤさん、伊倉さん、そして―――― 可能性は低いかもしれないけれど、栞さん。


「翠川?」


 眉をひそめて呟く加賀見さんの目は細く凝らされている。ひもを見つめているのだろう。


「わかりますか」

「いや。私の目にシュウほどの精度はないからな」

「ああ……」

「状況的に見分けることなら出来るがね。数人をいっぺんに隠されると、なかなかに難しい」


 確かに、具体的なひもの見極めに関して、シュウはずば抜けた才能を持っている。

 しかし所詮、私には直接うかがい知ることのできない世界だ。想像で補完するしかない、世界なのだ。

 すると煙の向こうから翠川先生とユーヤさんの姿が垣間見えて、私はその場で背伸びをした。


「翠川先生、ユーヤくん!」


 志津木さんが叫んで駆け寄ろうとする。しかし次の瞬間ドンと腹に響くけたたましい音が上がり、同時に地面が大きく揺らいだ。


「きゃあっ」


 何。

 膝をついて体を屈め、後頭部を庇いながらそろりと視軸だけを持ち上げる。と、屋敷の右壁面が内側から破裂したのがわかった。

 キッチンがあった付近だから、ガスにでも引火して爆発したのだろうと思う。

 間を置かずして、木だか紙だかの小片が火の粉とともにばらばらと降ってき、私は再び顔を伏せた。


「香月くん、怪我はないかッ」


 体を引っ張り上げられると同時に、焼け付くような熱風が髪を舞い上げる。熱い、というより痛い。


「屋敷から離れろ!」

「でも、みんなが」


 みんながまだ。

 熱気に耐えながら言いかけて、眼前の光景に言葉を失った。

 キッチン付近ばかりではない。建物はそのものが大きく歪み、景色が豹変していたのだ。

 中でも、特に酷い崩れ方をしているのは玄関部分だ。大きな両開きの扉、そのすぐあちら側に、まるで筋交いを渡すようにして柱が倒れ込んでいる。

 翠川先生達の姿は未だ見えない。庭にいる様子もない。まさか、あれの下敷きに――――。


「はやく、君は安全な場所へ」

「だ、だけど、翠川先生が、ユーヤさんが」

「そんなことは分かっている!」


 差し迫った様子の加賀見さんにずるずると引きずられ、二メートルほど後退したところで再び小さな爆発音が上がった。

 瞬間的に、炎が玉のような形状で空へと吹き上がる。

 前方から背を丸めた志津木さんがシャツを頭から被るようにして駆けてきた。つまずいて転げそうになりながら、必死の形相で。

 畠さんはどこかへ隠れているのだろう、姿が見えない。


「駄目だ、声は聞こえるし、ひもも繋がってはいるけど、完全に退路が塞がってしまった」


 繋がっている、ということは生きているのだ。


「加賀見さんっ」


 無意識のうちに叫びながら彼を見上げた。これ以上、目の前で人が死んでいくのは嫌だ。


「阿呆、この状況で何が出来るというのだ!」


 わかっている。言われなくとも承知している。出来ることなんて何もない。私は無力だ。

 目の前で、失われようとしている命があるのに。命が、そこに在るのに。まだ生きているのに。

 何も出来ない。

 悔しさのあまり、唇を強く噛む。


「早く逃げろ、馬鹿者!」


 しびれを切らして私を抱きかかえようとする加賀見さんの腕を、無我夢中で振り払った。

 いやだ。

 何も出来ない、できないけれど。

 見捨てるのは、もういやだ。


「香月っ」


 見兼ねたのか、青い顔をしたシュウが後方から駆けてきて私の前にしゃがみ込む。腕には軽く包帯が巻かれていた。応急処置だろうか。


「もういい。もう充分、できることはやったんだ」


 私はゆるゆると首を左右に振った。できることはやった? 嘘だ。


「じゅ、充分って、なに」


 まばたきをするたびに歪んでゆく彼の顔に、亡くした面影が重なって蘇る。


「繋がってるんでしょ、ひも。ねえ」

「……ああ」

「じゃあどうして!」


 どうしてそんなふうにあきらめてしまえるの。

 それはいつかと同じ、涙ながらの訴えだった。見開かれたシュウの瞳には、困惑と驚愕の色が入り交じっている。その腕に縋り付くようにして、私はぼろぼろと続けざまに涙をこぼした。


「どうして、もういいなんて……いうの、ねえ」


 もう、こんなことは二度とするまいと思っていた。


「…………、いきてるんだよ」


 あの日から、ずっと。



「……生きようとしてるんだよおっ!」



 こんなにみっともなくて情けなくて無力を再認識するようなこと、するまいと思っていた。

 抗って無くすのも、抗わずに無くすのも、結果的には同じなのだからと。

 無駄なのだからと。


「香月、落ち着け!」

「はなしてえっ」


 だけど、ほんとうは。


「翠川先生、ユーヤさん、伊倉さん!」


 そんなの、大声を上げて泣きわめくより辛かった。孤独だった。

 何もかもを臆病の所為にして、諦めてしまえる自分のことが……嫌いだった。


―――― 大嫌いだった。


 もういやだ。こんな自分でいるのは嫌だ。

 変えたい。全てを変えたい。自分自身も、こんな現実も、全部。

 変えたい。

 変えるための力が欲しい。


 力が欲しい。

 今、世界が分岐しようとしているのなら。


 それを、選びとる力が欲しい。



「香月!」

「いやあ――――っ!」



 体の奥底から湧き上がってきた叫びだった。喉が染みるように痛かったけれど、かまわなかった。

 今を変えたい。これ以上誰も亡くしたくない。その気持ちをもう、ごまかすことはできない。

 すると突然、びりっ、と体の表面に軽い電流のようなものが走った。


「きゃ」


 驚きと痛みに短い悲鳴を上げると、次にぱっと顔の前で光が散る。

 白く、まばゆく、しかし儚いくらい一瞬の、まるでカメラのフラッシュのように。

 加賀見さんはたまげた様子で私から手を離し、へたりこむように尻餅をつく。


「う、わッ」

「か、加賀見さ」


 しかしその名を呼ぶや否や―――― 世界は突如として『青』に染まった。


 青だ。


 とはいえ、透明感のある青とは少し違う。

 ぼんやりと景色の輪郭が霞んでいる。まるでルノワールの絵の中に入り込んでしまったかのように。

 これは……霧だろうか。多少の濃淡はあれど、闇でさえうっすらと青を含んでいる。

 皆が混乱している様子を見るに、自分だけが幻覚を見ているとか貧血を起こしたというわけではなさそうだった。そもそも貧血のときには目の前が真っ暗になるだけで、こんな青を目にしたのははじめてだけれど。

 シュウはふらふらとおぼつかない動きで右へ左へと進んでは止まる。


「な、なんだよこれ」


 何―― 私にだって分からない。

 セロファンを通して景色を見ている、というより、空気自体から突如じわりと染み出したような、鮮やかで深い、藍に近いこっくりとした青……これは。

 数十時間前、この場所で知った構造式がぱっと脳内に蘇った。そうだ、もしや。


「インディゴ、ブルー……」


 呟いたとたん景色は嘘のように元の色を取り戻し、しかし息をつく暇はなかった。


「ひあっ」


 奇声を発して飛び上がる志津木さん。私はただ言葉を失っていた。

 なんだろう、これは。

 まばたきをする間もなく、あたり一帯に出現した水滴はまるで、景色に添えた細かな水玉模様のよう。

 決して雨が降りだしたわけではない。突如そこに、大粒の水滴が漂っていたのだ。

 そしてその物体は直後、重力に逆らうことなく垂直に落下した。ざあっ、と一斉に草木を叩きながら。


「ジ、ジジイ、なんだよこれ!」

「知るか、私が聞きたいくらいだッ」


 何が起こっているのか、皆目見当がつかない。

 しかしその後も水滴は、まるで結露を繰り返すように次々と現れては落ちる。

 と、何かが蒸発するような音が連続的に上がって、私はとっさに視線を上げた。

 水蒸気? 真っ白な煙が空に。

 どうやら、屋敷を包む炎と謎の水滴が接触しているようだ。


「火の勢いが、引いていく……」


 茫然と呟きながら、加賀見さんはゆっくり私を見下ろす。


「君、いつの間に……いつの間にそれを繋げたのだ。なかったはずだ、その、ひもは」

 

 ひもを繋げた? 私が? 誰との?

 覚えがない。確かめようにも知覚できない。


「まさかこの現象も君の仕業なのか。一体、なにを」

「え、わ、私」


 何もしていない。加賀見さんだってずっと側で見ていたはずだ。

 答えようとすると、またも目の前でぱっと光が弾けた。そこで私はようやく気付いたのだ。

 自分の声に反応して一連の現象が引き起こされている、ということに。


「もしかして―――― 君は声にリールの力があるのか。それで、見えずとも、触れられずとも、ひもを繋げられるというのか」


 加賀見さんも同じことに気付いた様子だった。

 シュウは志津木さんの肩をひとつ叩く。そうして、「火が弱まっているうちにあいつらを!」屋敷内に残された人たちの救出のため、走り出したのだった。


「……ではこれは、水分子を繋げて? 白い光は、単色光を集光させたのか……? いや、それでは説明がしきれない。そもそもミクロの世界に干渉するようなこと」


 そこで、もしや、と彼は呟く。


「振動、弦……ひも。ああ、そう考えれば或いは。いや、君がそう解釈しているから可能だということなのか」


 涙は既に引っ込んでしまっていた。代わりに、冷や汗が滲み出す。すでに全身くまなく濡れそぼっていて、どこまでが汗なのかはわからない。

 しかし焦る一方で私は、加賀見さんが次に口にするであろう言葉を、冷静に予想していた。


 そうだ。

 私は、お兄ちゃんが教えてくれたことを忘れたくはなかった。


 いつまでも彼の価値観の中で生きていたかった。彼とともに、生きていたかったから。



「スーパー・ストリング・セオリー、物質の究極は『ひも』であると」


 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ