18.たったひとり
カーテンに染みていた茜色はすっかり消え失せていた。窓の外を満たすのは、恐らく、昏々とした濃い闇。
あらゆるものを呑み込んで染め上げるそれは、私の視界にまで浸食しはじめていた。明るさは充分あるはずの食堂内、ものの影ばかりが目につく。
ユーヤさんは椅子からそろりと降り、志津木さんを押しやるようにして壁際に後退する。邪魔にした、というより年配者の安全を優先し、気遣っている様子でもあった。
翠川先生は廊下側に数歩ずれながら、同時に草木さんをさりげなくその背に隠す。シュウは伊倉さんとの間合いを保ちつつじりじりと右に移動し、私と栞さんを庇うように立ってくれた。
「何が望みだ、伊倉」
探るように問うシュウの声は、低く掠れている。聞いてますます緊張感が高まってしまう。
「話がわかるね、シザー」
伊倉さんは口元だけで笑う。しかし目はぎょろぎょろと落ち着きなく転がり、絶えずあたりを伺っている。油断する様子はない。
彼の左腕の中、首を羽交い締めにされた加賀見さんは小刻みに息を吐く。苦しそうだ。
何度も唾を飲み込むシュウは、それでどうにか平静さを保とうとしているように見えた。
「何度も君の弱みを握ろうと試みたけど、うまくいかなかった。散々考えたけど、シザーと直接会う機会なんてもう巡って来ないかもしれないからね。こうするしかないんだ。悪く思わないでほしい」
すると、視界の隅で音もなく動いた人物がいた。ユーヤさんだ。
私はそちらに少しだけ首を動かしたものの、すぐに元の位置へ戻した。伊倉さんに勘付かれてはまずい。
ユーヤさんは唇だけを動かし、行け、と言う。シュウは目線の位置も顔の角度も変えぬまま、視線の隅でそれを読み取ったようだった。
直後、二人が伊倉さんに掴み掛かったのはほとんど同時で、それはまるで以前から示し合わせてあったかのようなタイミングだった。
「うわあああっ!」
威嚇をするように声を張り上げたユーヤさんに、驚いて振り返る伊倉さん。その首筋に、シュウが背後から飛びかかる。
ばたばたっ、と激しい足踏みの音がして私は思わず肩をすくめた。人と人がぶつかり合うとこれほど強い衝撃がおこるものなのか。
「放、せ!」
力は拮抗していた。
特に誰が主導権を握るでもなく、三人は腕を立体に交差させたまま、もつれるようにもみ合っている。
しかしそれも、長くは続けていられないだろう。伊倉さんが躍起になって抵抗するたびに、彼らの間で、ぐうっ、と加賀見さんが息苦しそうにうなるのだ。
耐えかねた様子で、栞さんが勢い良く立ち上がった。ひどく青ざめている。
このままでは加賀見さんの命が危ない。
すると次の瞬間、絡み合った状態のままシュウが壁に勢い良く背を打ち付けた。壁に穴があいても不思議ではないような、すさまじい音がして部屋全体が大きく揺れる。
それでも三人は互いに体の一部をつかみ合ったまま、離れようとはしない。数秒の膠着に、誰のものともわからない歯ぎしりが聞こえた。
と、シュウが顔を歪めてうっと短くうめいた。伊倉さんの肘が脇腹に直撃している。反射的に半歩ほど後退した彼を見つめ、私は息を呑んだ。
シュウの腕から解放された伊倉さんは、ユーヤさんに向かってカッターを振り上げる。
―――― 危ない!
目を逸らした私の耳に、折り重なるような怒声が飛び込んでくる。
「僕の邪魔をするな!」「やめろ伊倉っ」 続けてガッ、どすん、と重い衝撃音。
それきり、しばしの沈黙が訪れる―――― まさか。
最悪の事態を想像しそろりと顔を上げると、体制を立て直したシュウが彼らの間に入り込み、攻撃を阻止していた。
ユーヤさんは尻餅をついた状態で、驚愕のためか恐怖のためか、両目を大きく見開いている。刺された、ということはないようだ。
良かった。ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、シュウは長身を生かし、掴んだ伊倉さんの腕を一気にひねり上げた。
「いい、かげんに、しろ……!」
く、と短く声を漏らした伊倉さんは体を震わせ、悔しそうな表情で人質と凶器をほぼ同時に手放したのだった。
ようやく苦痛から解放された人質は、がくりと膝を折ってその場に崩れ落ちる。
「編集長っ!」
呼びながら駆け寄る栞さんの足音を最後に、食堂はようやく静けさを取り戻したのだった。
「大丈夫かい」
ユーヤさんにそう尋ねる志津木さんのシャツは、びっしょりと汗に濡れている。
私はそれを見、自分の背中も同じように湿っていることに気付いた。暑さだけではない、冷や汗だけとも言えない、嫌な汗だ。
「俺は大丈夫だけど、あいつが」
視線の先には、二の腕から鮮血を滴らせるシュウ。争っている間に刃先がかすめたのだろう。
しかしそんなことには気も留めず、シュウは伊倉さんを後ろ手に縛り上げ言う。
「理由はどうあれ、日本支部の会長を人質に取ったんだ。裁かれることになる。最悪の場合、おまえのひもを全部切断することになるからな。覚悟しておけよ」
その言葉を、ほっとした様子で聞いている伊倉さんに違和感を覚えてしまった。まるで裁かれることを望んでいるかのように思えて。何故……?
すると壁際にいた翠川先生はシュウのほうへと体を返したものの、ぎくりとして立ち止まった。視線はじっと足下に注がれている。
疑問に思ってテーブルのあちら側を覗き込んだ瞬間、はっとした。
すっかり意識の外にあったそれは、凶器―― カッターナイフ。床の上に放置されたままのそれに、向かってのびる腕があった。色白の、細い指が迷うことなくその柄を掴む。まずい。
「シュウ!」
けれどそのときすでに彼女―――― 栞さんはナイフを手に立ち上がったところだった。
「し、栞さん」
縛り上げたばかりの伊倉さんを庇いながら、シュウはわずかに後退する。しかし予想に反して彼女が切っ先を向けたのは、他ならぬ私、だったのだ。
「あなたさえいなければ」
いまいましげな表情。
私は腰を浮かせた格好で椅子ごとずるずると後ずさった。どうしよう。どうして。とっさにソフィの姿が浮かぶ。単なるモノと化した、無惨な姿が。
「待て、やめろ」
果敢にもその進路を阻んだのはシュウだった。
「もういいかげんにしろよ。なんでだよ、なんで栞さんがこんなこと。平気で人を殺せるような人間じゃなかっただろ!」
「平気なんかじゃなかったわ!」
悲鳴に近い叫び。それはようやく彼女が罪を認めた瞬間でもあった。
「何度も迷った。最初はそんなつもりじゃなかった。でも、目が、目が欲しくて、わたし」
「目玉……最初からそれが目的だったんだな。どうして」
尋ねられて、悲しげに笑う。
「あなたにはわからないでしょうね。周りの人間が見えるというものが、たったひとり、見えない孤独」
ふと疑問が浮かび上がる。
そういえば栞さんは可視でもリーラーでもシザーでもない。あのファックスを見る限りごく普通の一般人なのだ。なのに何故、協会に属しているのだろう。
「……ソフィを部屋に誘い込むことに成功したとき、嬉しかったわ。だって殺そうと思って仕組んだわけじゃないんだもの。色彩について、たくさん調べて覚えたってこと、編集長に褒めてもらいたかった。私にもこんなことができるんだって、知ってほしかっただけなんだもの」
「じゃあどうして殺人なんて」
あなたにはわからないわよ、と彼女は再び似たような言葉を発する。
「編集長のこと、入社以来ずっと想い続けてきたわ。報われないってわかっていたけど、それでも一番近くにいたかった」
「栞さん……」
「歴史を暴いたことで、彼の助手としてリール協会にも出入りできるようになったし、秘密も共有することができた。だけど、どんどん遠くなっていったのが実際のところ」
訴える声は徐々に細く、掠れていく。
「ここへ来ると、あるはずのないものをみんなが見えるって言う。最初は、特殊なのは編集長やシュウくんのほうなんだって思ってたけど……もしかしたら、自分だけが違う世界を見ていて、これからもずっと、本当の意味で理解し合うことなんてできないんじゃないかって思い始めて」
なぜだか、そこにお兄ちゃんの声が重なって響いてくるようだった。“僕達に違いなんてない。離れる必要なんてない。ないんだ……”
「同じ不可視の捺南ちゃんが来てくれて、私、本当は嬉しかったのよ。気持ちをわかってもらえるかもしれないって思ったから」
肩が震えている。そこは悲しみも怒りも、両方が滲み出ているかのようだった。
「でも、違った。編集長、言ったのよ。その子に、『君はなかなか話が分かるな』って、うれしそうに言ったのよ! 私にはそんなこと、一度だって言ってくれなかったのに」
体中の血液がさあっと引く。
加賀見さんが私にそう言ったのは、ここへ来てすぐのこと。残像について尋ねられ、うっかり『はい』と言ってしまった直後だった。まさかあのことがきっかけで栞さんは犯行を?
もし『いいえ』と答えていたら―― ソフィは今もここで、笑って……?
「私だけ。理解し合えないのは私だけなの。どんなにがんばっても、例えいっとき褒めてもらえても、私は特殊な人間にはなれない。同じ不過視でも、捺南ちゃんは彼と分かり合えて、私は分かり合えないんだわ。そんなこと、考え始めたら止まらなくなって」
そんな。
暑いのか、寒いのか、感じているはずなのに判別がつかない。
「だから目さえあれば。可視の目さえ手に入れれば、移植すれば、きっと越えられると思ったの」
彼女の言葉に、翠川先生が顔を顰める。
「……部屋に行ったら、具合が悪かったのか、彼女、貧血を起こしたみたいに倒れてしまって。その、あまりにも無防備な様子を見ていたら、……わたし、できるかもしれないって」
その目には、涙があふれそうなほど溜められている。しかし実際に彼女は人をひとり殺め、なおかつ偽装工作まで行っているのだ。もう、何をどう考えたら良いのか――――。
すると、次の台詞を遮るように加賀見さんが口を開いた。床の上に座り込んだまま、うなだれた格好で。その手には、栞さんのハンカチが握られている。
「馬鹿者」
馬鹿者が、と連ねていまいましげに吐き捨てる。
「指導の賜物だ、と言ったことは撤回する。君は私の話の、一体何を聞いていたのだ。見えというものは単純ではない。私達は目と脳の合成作用でモノを認識しているのだと何度も話して聞かせただろう」
栞さんの表情が一気に歪む。その台詞は私にも記憶に新しく聞き覚えのあるものだった。
「角膜を移植したところで、ひもが知覚できるとは思えん。いや、ほぼ確実に不可能だ」
「……うそ」
「そもそも移植に必要な眼球を摘出するには専門家でさえそれなりの時間を要する。ずぶの素人がぞんざいに扱ったものなど使えるものか。ましてや他人から無理矢理奪ったものなど」
「む、無理矢理なんかじゃ。あの子、私の前で倒れて――」
「屁理屈をいうな、見苦しい」
私はぼんやりと、お兄ちゃんの処置にも長い時間がかかったことを思い出していた。そういえば取り出した臓器はその後、どうなっただろう。あれ以来初めて、そのことが気になった。
うそ、うそ、と栞さんはか細く繰り返す。その声は切なく、湿り気を帯びていた。
加賀見さんは彼女を思い遣るでもなく、愚か者、と低く罵る。
「見たかった、だと? 阿呆め」
険しい表情だった。
「そんなことのために君は人を殺めたのかッ!」
シュウが右手をぎゅっと握りしめたので、いたたまれない気分になった。
栞さんは認めたくない、といった様子で弱々しくかぶりを振る。
「そんな、こと……?」
うつろな双眸で。
しかし刃先を向けられても、加賀見さんはひるまない。それどころか、殺せるものなら殺してみろといわんばかりに胸を張ってみせたのだ。
二階の回廊で目にしたサロメの挿絵が、ぱっと弾けるように脳裏をよぎる。
いとしい男の生首に口づけをする女の姿が、白黒のイラストが、なぜか生々しく頭の中で色を纏う。
恋に狂った倒錯的な世界は、幾本もの曲線に囲まれていて―― ああ、あれはまるで、ちぎれたひものようにも――。
一旦引いたと思った冷や汗が一筋、胸の間を伝う。
まさかあんなふうになるのではと。
しかし彼女はカッターナイフを投げ捨て、逃げるように食堂から駆け出していったのだった。
「栞さん、待てよ!」
廊下を斜めに横切って螺旋階段を駆け上がる彼女を、誰からともなく追い始める。先頭はシュウだ。
二階の回廊へと躍り出た瞬間、私の目にはばたりと閉じる青の部屋の扉が見え、ほぼ同じタイミングで施錠する音が聞こえた。
まずい。
単なるろう城ならばかまわない。草木さんに解錠をお願いすれば済む話だ。
しかし現在の彼女は精神的に酷いダメージを負っている。ゆえに、何をしでかすかはわからない。例えば、自ら命を絶つとか。
閉ざされた空間を前にして、シュウはノックを躊躇っていた。
確かに、これ以上追いつめたらまずいということはわかる。けれど急がなければならないとも思う。
どうすればいいの。
すると扉の内側から、ごうっと空気をかき混ぜるような音が上がり、私は彼と顔を見合わせた。
……何?
数秒後、あっという間にきな臭さが充満した回廊で、皆揃って青ざめる。まさか、―――― 火。
「栞さん、しおりさん!」
動かないドアノブを両手で掴み、必死でこじあけようと試みるシュウを前に、私はまたも次の行動を定められずにいた。