表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/24

17.Break through・後

 

 午後六時三十分、周辺の森は日が傾きはじめていよいよ昏く、濃い影に呑み込まれそうになっている。対し茜色の空は、他から色素を吸い上げてしまったかのように鮮やかだ。

 それらは互いに対比されることで、より深く、より明るく、その性質を際立たせている。

 眩しくて目を細めていると、気付いた草木さんが薄地の白いカーテンを引いてくれた。それでも尚、夕日は繊維の隙間から染み込んで来ようとする。


「頭の中に仕掛け、だと?」


 どういうことだ、と伊倉さんは静かに問う。

 仕掛け、とはいえシュウが言いたいのは手術を施したとかいう非現実的なことではないだろうと思う。伊倉さんもそのことには気付いたようで、直後に質問を言い直した。


「何かを聞いた……のか? まさか部屋の色を間違えて教えられたとか」

「そんな。ありえません」


 反発するように口を挟んだのは草木さんだ。


「鍵をお渡しするとき、片言ですけどちゃんと伝えました。紫だからヴァイオレット、フランス語でヴィオレって、栞さんにそううかがって」


 それは私の記憶にも残っている。情報収集の段階でシュウにも伝えてある。

 ああ、と加賀見さんも頷いた。


「紫はフランス語でヴィオレ、滝口くんに尋ねられてそう教えたのは私だ」


 色彩に詳しい加賀見さんがそう言うのだから間違いないだろう。幸か不幸か彼はまだ恐らく、栞さんが犯人として疑われていることを知らない。


「ソフィさま本人もきちんと理解なさってました。念のために、皆様全員のお部屋もお知らせしておきましたから、それこそ取り違えるなんてこと、ないはずなんです」

「……その時伝えた色、詳しく話せるか」

「はい。もちろんです」


 シュウに促され話し出した草木さんを、翠川先生がそっと見守っている。年齢的に見て、ふたりは父親と娘のような関係性なのかもしれない。


「白はブラン、これは元から知っていました。刺繍糸などにもそう書かれていますし」

「ああ、間違いない」


 加賀見さんが腕組みをして大きく頷く。


「赤はルージュ、黒はノワール、桃色はローズ、これも聞いたことがあったので栞さんと相談し合いながら伝えて……ええと、他の色はわからなかったので、お尋ねしようと、したのですが、」


 そこで草木さんが言いにくそうに加賀見さんを見たので、瞬間、私もそのことを思い出した。

 あのとき、茶色は、と尋ねられて、発音は難しいが白と同じくブランなのだ、とか答えた彼はそこから調子に乗って長い演説をはじめてしまったのだ。本人もそれを思い出したらしく、居心地悪そうに座り直している。


「ええと、あの、つまり、その他の色については聞きそびれてしまって」

「他の色―――― 残りは橙と黄と緑と青だな」

「はい。となると、きちんとお伝えしきれていなかった、のですね、私」


 申し訳なさそうにうなだれた草木さんは、直後にあ、と短く言って思い出したように顔を上げた。


「そういえば青は……ええ、部屋に行かれる直前に、栞さんが自分の部屋だとはっきりおっしゃっていました」


 志津木さんとユーヤさんが怪訝そうに顔を見合わせる。


「それは事実かい? じゃあ青の部屋については伝えてあったんだね」

「ええ、間違いないです。青の―― いえ、『青い』と言った後に栞さんはご自分を示して―― 『青い部屋』と。それを見たソフィさまは笑顔で‘ジェ コンプリ’と」

「‘ジェ コンプリ’……わかった、って言ったんだな」

「はい。ええと、笑顔でしたのでそうだと思います」

「それなら、青い部屋に入っちまう可能性なんて無いんじゃねえのか」


 もっともだ。

 ソフィは自分にあてがわれた部屋がヴィオレ―― 紫の部屋であることをきちんと理解していた。さらに青の部屋は栞さんのものだということも分かっていたのだ。これでは間違いようがない。

 タイル自体の色の差も歴然としているから、見間違えるなんてことはありえないし、ましてや青の部屋と紫の部屋は隣同士なのだ。見比べればどちらが紫なのかということは、誰にだってわかる。


「どういうことだよ、小泉」


 自分が話題にあがっているのに、栞さんはじっと黙していた。その静かな表情からは感情を読み取ることが出来ない。けれど何故だか少し、不気味な気がした。

 もし本当に栞さんが犯人なら、あの寝間着を私の部屋に置き、罪を被せようとしたのも彼女、ということになる。どうして……。


「おかしいと思わないか」


 静かに言ったシュウへと、視線を戻す。反論されても尚、彼は冷静さを保っていた。


「ソフィは日本語がほとんど分からなかった。にもかかわらず、『青い部屋』の意味を‘わかった’だと?」


 視界の隅で栞さんの肩がぴくりと動いた。気付いたのは恐らく私だけだろう。


「そう、ですよね」


 唇を指先で覆うようにして呟きながら、草木さんが首を傾げる。


「変ですよね。あのときは分かってくれたんだと思ってましたけど」

「直前に何があったのか、考えてみてくれ」


 直前―――― 私の脳裏には、ソフィが『コレナニ?』とさかんに尋ねている光景が蘇った。まさかあのときに何かを吹き込まれた?

 いや、質問に答えていたのは志津木さんと加賀見さんだ。栞さんはそこには関わっていない。考えれば考えるほど、彼女が犯人だという可能性が薄くなっていく気がする。

 シュウはおいジジイ、と加賀見さんを肘で軽くつついた。


「庭で演説、しただろ」

「ああ。貴重な時間を裂いて語ってやったのだ」

「ノリノリではじめたくせに」


 白けた目でぼそりと言う。


「な、あれは尋ねられたから、仕方なくだな」

「尋ねられた? 誰に」

「滝口くんだ。彼女がこの花を示して」


 加賀見さんがテーブル上の花を一輪つまみあげたので、全員の視線がそこに集まった。

 ハート形の花びらは赤紫色で、中央からすじ状の濃い模様が入っている。


「葵、と言うから、正式名称はゼニアオイだと教えてやったんだ」


 あおい……そうか、この花は葵だったのか。


「尋ねられてねえじゃん。どうしてそのあとも長々と喋ったんだよ」

「何度かおまえにも教えてやっただろう。なぜ覚えておらんのだ。ゼニアオイはフランス語でモーブ、モーブと言えば世界初の合成染料ではないか」

「それ、全部語ったんだな?」

「あたりまえだッ、こんなロマン満ちあふれた話、せずに終われるかッ」


 卓上に唾を飛ばし、加賀見さんは息巻く。まさか。私は眉をひそめた。

 草木さんの証言が確かならば、栞さんは『青の部屋』のことを『青い部屋』、いや、『青い』と言った。


 青い―――― あおい、……葵。


 もしかして、と志津木さんが丸い顎をなぞる。



「ソフィは『青い』イコール『モーブ』だと思って、『わかった』のか?」



 そうだ。栞さんが‘あおい’と言ったものを、加賀見さんが‘モーブ’と言った。それをソフィは脇で聞いていた。

 彼女の頭の中ではそのとき、葵―― アオイ―― 青い―― モーブ、これらが一直線に繋がったのだろう。モーブは色の名前としても用いられる単語だ。聞き覚えがある。私の記憶が確かなら、それは紫色を指す。

 志津木さんは続けてぶつぶつと独語をもらす。


「青い部屋を『モーブ』、紫の部屋を『ヴィオレ』と理解したとしたら……いや、でも、それが直接的に部屋を取り違える原因になるとは」


 何だよ、と横からユーヤさんが尋ねる。


「それが原因で彼女が青の部屋を選んだ、とは思えないんだ。『モーブ』の別名は‘つよい青みの紫’。そして『ヴィオレ』……つまりヴァイオレットの別名は‘あざやかな青紫’だ。つまり両方とも同じような『青紫』のことをさすんだよ」


 同じような青紫? 志津木さんの話を聞いて、私は深まる謎に首を捻るばかりだった。

 要するにモーブとヴィオレは紛らわしい、区別の付きにくい色なのだろう。

 そんなことを教えられたら、聞き返して確かめるなり同行を求めるのが普通ではないだろうか。素直に『わかった』などと言うはずがない。それに、万が一タイルを前にして迷ったとしても、手前にある紫の部屋ではなく奥にある青の部屋を選ぶというのは少々おかしな話だ。

 紛らわしいというだけでは、確実に青を選択させることはできない。いまひとつ……決め手に欠ける。

 すると、目の前の加賀見さんは愉快そうに唇の端を持ち上げた。


「……君だったのだな、滝口くん」


 静かに、穏やかな声で言う。それまでのふざけた様子はなりをひそめ、彼は今、年相応の大人の男として私の目に映っていた。


「モーブとヴィオレ……よく考えたものだ。私の指導の賜物、とでも言おうか」


 クッと喉の奥で笑うと、彼は志津木さんに目を遣る。


「君は印刷所勤めだったな。モーブのマンセル値は5P 4.5/9、ヴァイオレットは2.5P 4/11、共に青紫を指す、確かにそれは正しい」

「ええ、ありがとうございます」


 笑顔で答える志津木さんの他、シュウを含め皆が眉根を寄せていた。マンセル値、とは一体何の暗号だろう。とはいえ二つが数値の上でも近い色であることだけは分かった。


「だがそれはJISで定められている数値だ。色彩には言語があり、文化があり、実際の認識と数値にはそれなりの隔たりがあるものなのだよ」


 加賀見さんは自嘲ぎみの表情で言う。そしてテーブルから腕をおろすと、それを胸の前で組み、続けた。


「モーブといえば、フランスでは一般的に『淡い紫』として認識されている色の名なのだ」


 えっ、と草木さんは短く声を上げる。モーブが淡い紫? それでは二色に差が生まれることになる。


「つまり、ソフィは頭の中でそれぞれの色を思い浮かべ、実際のタイルと比較したのだろう」


 加賀見さんは自ら準備したカラーチップを二枚、テーブルの上に並べた。

 やや紫みを帯びた濃い瑠璃色―― 青の部屋のタイルを示すものと、そして淡いトーンの紫―― 紫の部屋のタイルを示すものだ。



「淡いほうがモーブ……あおい、つまり滝口くんの部屋。そして濃いほうがヴィオレ、自分の部屋だと。それは記憶色として、より鮮やかに脳内で対比された」



 ああ。

 私は大きく口を開けて、それを掌でぐっと覆った。驚愕のあまり声が漏れてしまいそうだった。


 紫のタイルを、その淡いトーンから『モーブ』つまりアオイ、と認識してみる。するとそこは『青い部屋』イコール栞さんの部屋、ということになってしまう。


 では紫の部屋はどこか。

 視線を滑らせた先には、青の部屋のタイル。よそにも視線を振ってみる。当然のことながら、紫系統の色は他にない。


 通常なら誰もが青と判断して然るべき色はその瞬間、私の中で『ヴィオレ』となった。



―――― 君は、今認識している世界が、目に飛び込んでくる以前の世界と同じだ、と自信を持って言えるか――――。



 昨日の朝、耳にしたばかりの話がいっぺんに脳裏に蘇った。

 頭の中の仕掛け、それは彼女にだけ色を入れ替えてみせたこと。こんなことが可能なのか。

 ううん、と翠川先生が唸った。考えることに夢中になっていたのか、斜めになったカップからコーヒーが少量滴り落ちる。

 すると、そうか、とひらめいたようにユーヤさんが指を鳴らした。


「あの日、栞さんの部屋にいたのは加賀見さんじゃなくてソフィだったのか!」

「あ?」


 シュウが眉根を寄せる。


「いや、実は事件発覚の前日さ、俺、青の部屋の前を通りかかったらたまたま自分と繋がるひもが見えてさ。中に栞さん以外の誰かがいることはわかってたんだ」

「はあ? おまえまさか、ナンパする気でひもの確認をしたんじゃ」

「まあな。それでさ、てっきり加賀見さんだと思ってたんだよ、室内にいるの」


 そういえば、事件の後に私の部屋を訪ねて来たときも、ユーヤさんはそんなことを言っていた気がする。


「俺と繋がってる、ってことは加賀見さん、ソフィ、翠川先生、草木さん、伊倉の中の誰かだろうなって」

「……ああ」


 シュウは自らのメモを引っ張り出し、覗き込んだ。情報を整理したときのものだ。全員の、ひもの繋がりが書かれている。


「でもさ、伊倉はそういうことをしない堅物だし、翠川先生と草木さんは下にいたみたいだし、ソフィとは言葉が通じないし、だから加賀見さんかなって」


 なるほど、そうか。ユーヤさんにはひもを見分けることまでは出来ないため、状況から推し量ってしまったのだろう。シュウがそれを見ていたら……すぐにわかったかもしれないのに。


「あのう」


 おずおずと草木さんが右手を挙げた。「ちょっとよろしいでしょうか」なんだ、とシュウが聞き返す。


「先程から不思議に思っていたんですけど、ソフィさまはどうやって別の部屋に入られたんでしょうか。紫の鍵では、紫の部屋しか開かなかったはずですよね」


 そうだ。鍵のことをシュウに話しそびれていた。彼女と同じように右手を顔の横に挙げると、なんだ、と今度は加賀見さんが問うた。


「そういえば君は、何か分かったと言っていたな」

「はい。そのことなんですけど」


 シュウは黙っている。容認されたのだと思うことにして、私は話を進めた。


「犯人の部屋の鍵は、そのとき、すでに開いていたんじゃないでしょうか」


 鍵はあの通り、どれもが真っ直ぐの棒状だ。複雑な溝が切られていない分、どの鍵穴にも同じように差し込めた筈。あとは開くか開かないか、それだけのこと。

 つまり、元から施錠をしておかなければ、その扉はどの鍵を差し込んだとしても必ず開くのだ。

 おそらく彼女は紫の部屋の鍵を青の部屋の鍵穴に差し込み、解錠が出来たと思い込んだ。

 そうして、全く別の部屋に―― 犯人の部屋に、入り込んでしまったのだ。


「オレもそう思う」


 説明を聞き終えたシュウは、おもむろに私の頭の上へ掌を乗せる。それは少し乱暴に、まるで幼い子供にそうするように、くしゃくしゃと髪を撫でた。よく出来ましたと言わんばかりの笑顔は、答えなんてとうの昔に導き出していたかのようだった。

 にもかかわらず私の口からそれを言わせたのは、謎解きに貢献したらお兄ちゃんの情報をくれるという、あの約束があるからなのだと思う。

 ……買いかぶりすぎだろうか。


「それなら、同時に遺体発見時の密室の謎も解けるよな」

「えっ」


 思わず驚いて背筋を伸ばした。



「単純なことだ。遺体発見時、紫の部屋の鍵は‘開いていた’んだよ」



 しまってただろ、とはユーヤさんの言葉。


「ドアノブが回らなかったじゃねえか」

「ああ、あの時点ではな」


 シュウは前髪をかきあげる。それは金糸のようにきらきらと光を零した。


「栞さんに呼ばれて、オレはそれを確認した。ユーヤと香月も同様にドアノブが動かないことを確かめた。じゃあ、その後のことはちゃんと覚えてるか」


 もちろん覚えている。

 志津木さんの提案で庭を探すことになったのだ。戻った時、扉の前には伊倉さんがいた。そして、草木さんが解錠するまでにはまだ時間がかかるらしいからドアを破ろう、ということになったのだ。

 私がそのことを語ると、そこだ、とシュウは人差し指を立てた。


「蹴破る直前、本当にドアに鍵はかかっていたのか?」


 答えられなかった。そういえば庭から戻ったあと、伊倉さんも私もノブには触れていない。


「じゃあもしかして、あの鍵はすでに開いていた……?」

「ああ。オレの読みが正しければ、犯人は皆が庭に出ていたそのときまさに―――― 紫の部屋を解錠し、遺体を運び入れたんだ。そしてその手に鍵を握らせ、何事もなかったかのように部屋の外に出た」

「そんな、まさか」


 どうしてそんなことがわかるのか。


「よく考えてみろよ。『殺人事件がおきた』『皆が外で捜索している』、なぜ犯人はあのとき、そんなことを畠に伝えなければならなかったのか」

 

 言われて初めて気付く違和感。そうだ、畠さんにそれを告げるメリットが犯人にあったとは思えない。先程シュウが指摘したように、自分が犯人だと名乗るような台詞を、わざわざ伝えに行ったのは何故?


「理由は簡単だ。畠の注意を窓の外に引き付けておくため、逆に言えば廊下で遺体を運んでいる音に気付かれないようにするためだ」


 待てよ、とユーヤさんが口を挟む。


「こんなときでさえ呼び出しに応じねえ畠が、親切に窓からソフィ捜しを手伝うとは思えねえけど」

「ソフィ捜し? 誰がそんなことを言った。オレたちは行方不明のソフィを捜してた。でも畠はそう思わなかったはずだ。殺人がおきた、と理解していたんだからな」

「なんなんだよ、なら畠は窓の外に何を見てたんだよ。幽霊か?」

「阿呆。殺人がおきて捜すとしたら犯人だろ。逆に言えば、人殺しが窓の外にいると聞かされたようなものなんだぞ、覗き込まないわけがない」

「……確かに。うっかり侵入されちゃたまらねえと思うしな」


 シュウは視線を鋭くする。その先には栞さんがいた。彼女は深くうつむき、目を合わせようとはしない。

 あのとき屋敷の外を探そうと言い出したのは志津木さんだった。しかしあれは直前に「部屋の中にいるとは限らない」と彼女が発言したことがきっかけになったとは考えられないだろうか。

 屋敷を出たのは私と一緒で最後だったけれど、その先は覚えていない。もしかしたらすぐに引き返したのかもしれない。最後だったのはもしや、全員が外に出たことを確認するため?


「鍵の件に話を戻すが、結局は単純な心理トリックだ。皆で一度確認したドアを、もう一度確認しようという人間はなかなかいない。それに、もし鍵がかかっていないことが分かったとしても、みんな、草木さんが解除してくれたお陰だと思うだろ」


 全員の視線が栞さんのつむじに集まっている。もはや、私に疑念の目を向ける者はいなかった。それだけ、シュウの言葉には説得力があったのだ。

 しかしなぜ、栞さんがソフィを殺さなければならなかったのだろう。佑お兄ちゃんの死との関連性はないのだろうか。

 半ば放心しそんなことを考えていた私は、テーブルの天板がガクリと持ち上がったことではっと我に返った。

 同時に椅子がひとつ倒れる。鈍い音と共に、足の裏に重い衝撃が伝わった。何事だろうと頭を上げた私の目には、信じ難い光景が映し出されたのだった。


「動くな!」


 加賀見さんが背後から羽交い締めにされ、喉元にカッターナイフを突き付けられている。それは窮地に陥ったことで居直った栞さんの仕業、というわけではなかった。


「ジジイ!」


 慌てて掴みかかろうとするシュウに刃物を向け、怒声を張り上げるのは―――― 伊倉さん。


「動くなと言っているだろう!」


 彼は怒声を張り上げ、再び加賀見さんの喉笛に刃先を押しあてると、その体を引きずるようにしてずるずると後退した。背中が壁に行き当たると、追いつめられた手負いの獣のような表情で全員を見渡す。


「黙って僕の言う通りにしろ。いいな」


 混乱せずにはいられなかった。犯人は栞さんでほぼ間違いないはずだ。なぜ今、伊倉さんがこんなことを。

 私は息を呑み、シュウの動向を見守った。そうして、険しい顔で立ち尽くしている彼に全てを委ねるより他、なかったのだ。

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ