16.Break through・前
それは世間一般で言うところの『審判』とは少々異なる意味に感じられた。協会内には専門用語が多いから、今回も同様なのだと思う。
何がはじまるのだろう。誰がどんなふうに裁かれるのだろう。予想もつかない。
「いくつか下準備が必要だ」
シュウの声は張り上げているわけではないのによく響く。それがまた、厳粛なムードをよりいっそう盛り上げているようだった。
私はひそかに唾を飲み下す。酷く喉が渇く。翠川先生の手の中にある白いコーヒーカップがうらやましく思えた。
「草木さん、花を摘んできてくれないか」
はあ、と困惑気味の声で彼女は答える。この状況で花を、などと言われたのだから当然の反応だ。
しかしシュウは言い直して具体的に指示を出した。花弁が五つの、赤紫の花だとか。
「たぶん入り口の正面に咲いていたと思う」
「小泉くん、何を突然――」
不思議そうに尋ねた翠川先生は、振り返ったシュウに睨まれて途中で口を閉じた。
「今はオレの言葉を遮るな。草木さん、頼む。早く」
「は、はい」
そんな前置きがあったせいか、慌ただしく出て行った草木さんが花を手に戻ってくるまで、食堂内の沈黙は保たれていた。庇われているはずの私でさえ、シュウに声をかけるのがためらわれたほどだ。
審判―――― もう、始まっているのだろうか。開始を宣告されたのだから始まっていないわけはないのだけれど、どうにも現実感が湧かない。
「……自首をするなら今しかない。名乗り出てくれ」
色とりどりの花を手にしたシュウは、そう言って壁伝いに部屋を周回しはじめる。一周、二周、ゆっくりと確かめるような足音が響いた。
自分ではないとわかっていても、彼が真後ろを過ぎるたび動悸がしてしまう。パトカーとすれ違ったときもこんな気分になるな、と頭の片隅で思った。以前は当然だったそんな日常が、徐々に遠ざかっていくような気になる。
誰も名乗り出ないまま三周目を回り終えると、シュウは手に持っていた草花を無造作に放った。ばさり、色とりどりのそれがテーブルの上に散らばる。まるで、ソフィへのはなむけのようだった。
「本当にいいのか。ジジイ、戻ってきちまうぞ」
気遣うような口調。
私は思わず顔を上げて、シュウの視線の先にいる人物を確認し、目を疑った。まさか。
「いいのかよ、なあ」
遅れてユーヤさんと志津木さんもそちらに目を遣り、信じられない、といった顔をする。当然だ。私だってこの中で最も可能性が低いと思っていた、思いたかった人物だったからだ。
何かの間違いだろう。しかしそんな望みを打ち砕くように、シュウは悲しげな声を絞り出す。
「……、どうしてだよ。どうしてソフィを殺したんだ、栞さん」
隅の席で驚いたように目を丸くした彼女は、え?と言ってわずかに口角を上げた。
「わ、私? やだシュウくん、何言ってるの。嘘でしょ」
動揺する様子を見ていると、ますます信じられなくなってくる。
栞さんには何度も親切にしてもらったし、平気で人が殺せる性格とは思えない。事件が起きた時だってあんなに怯えて泣いていたではないか。そうだ、きっと作戦なのだ。真犯人をあぶり出すための演技に違いない。
そう思おうとしたけれど、苦しそうに歪んだシュウの表情を見るに、疑う余地はないようだった。
「嘘だったらよかったのにな」
大きく息を吐いた彼は、脱力した様子で部屋の隅で壁にもたれる。
「犯人は栞さん以外、ありえない。それがオレの結論だ」
ちょっと待てよ、とユーヤさんが腰を浮かせた。
「結論から言うなよ。単なる推測とかじゃあねえだろうな。俺達にもわかるようにちゃんと説明しろよ」
志津木さんと翠川先生も同意するように大きく頷く。私はとっさにシュウから視線を逸らせてしまった。
言ってみれば栞さんは私達の仲間なのだし、彼にとっては馴染み深い人物なのだ。疑うなんて、罪を暴くなんて、辛いに決まっている。
しかしそんな心配をよそに、彼はああ、と低く答えて壁から背を剥がした。
「……オレは香月を連れて畠と会った。そのとき畠は言ったんだ。殺人事件があったことを女の人が知らせにきた、だから庭を捜索している様子も窓から見ていた、知らせにきたのはおまえか、と香月に尋ねてもいた」
その通りだ。あのとき畠さんはシュウに『夕べ、紫の部屋で殺人事件が起きた』と告げられ、平然と『女の人に聞いたよ。だから外で捜索してる様子も、窓から見てた。……知らせに来たの、アンタじゃなかったの?』と答えたのだ。しかしそのやりとりのどこに犯人との繋がりがあるというのだろう。
「それでどうして栞さんが犯人ってことになるんだよ」
「オレの言葉を遮るな。ちゃんと順を追って話してる」
シュウはぴしゃりと言い放つ。
「畠の証言はおかしいんだ。オレ達が庭を捜索していたのは何故だ? 行方不明のソフィを捜すためだろう。部屋のドアを破ったのは全員が回廊に戻ったあとだったし、その時点で‘紫の部屋で殺人事件が起きた’ことを知っている人間はいなかったはずなんだ―― 犯人以外はな」
ああ、確かに。どうして言われるまで気付かなかったのだろう。あんなに不自然な証言はない。
ハッとしたような表情で、ユーヤさんが背すじを伸ばす。
「畠が犯人ってことか」
「いや。畠にはソフィとのひもがない」
「じゃあ―― 畠にそれを知らせたのが犯人……?」
「ああ、そうだ。だが残念ながら畠はそいつの顔を見ていない。恐らくドア越しの呼び掛けだったんだろう。女、ということだけわかってる。こうして容疑者は三人に絞られた」
この時点でもやはり、最も視線を集めていたのは私だった。まだ疑いは晴れていないのだろう。
「ここで先程の質問だ。畠は草木さんと面識があった。ドア越しの会話もしたことがある。つまり彼女の声なら聞き分けることができたんじゃないか? でなければ『知らせにきたのは香月かもしれない』という疑いはもてないだろう。まったく別の声だったからこそ、畠は草木さん以外の女を見てそんな問いかけをしたんだ」
「犯人は草木さんではないということだね」
翠川先生の質問に、シュウはああ、と短く答えた。ホッとしたように草木さんが息を吐く。
「だが香月には殺されたソフィとの繋がりがない。犯人ではありえない。すると、もう栞さんしかいないんだ」
「待って、シュウくん。捺南ちゃんのひもなら証拠にならないんじゃなかったの」
慌てた様子で栞さんが口を挟む。シュウは彼女から視線を逸らせた。
「香月が犯人だって言いたいのか」
「そ、そうじゃないけど、私じゃ」
「そうだって言っているようなものだろ」
酷く悲しげだった。
「栞さんは畠と接触したことがないって言ってたよな」
「ええ、ないわ。だから私じゃ」
「なら、どうして―――― ひもが繋がってるんだよ」
志津木さん、そしてユーヤさんの眉間に同時に皺が寄る。揃って目を細めたのだ。もちろん訝しんでいるわけではない。凝視しているのだ。そしてその表情は、畠さんを前にしたときのシュウとよく似ていた。
彼らを真似て空中をじっと見つめてみる。当然だけれど、平凡な私の目では特殊な物体を捉えることはできない。それまでと同じ光景が見えるだけだった。
視線を振ると、草木さんと翠川先生も同様に栞さんを見つめていた。つまり知覚出来ないのは自分と、栞さん本人だけなのだ。言葉の通じない外国に来てしまったみたいで少し、もどかしい。
「……これか。本当だ、繋がってる」
呟いたユーヤさんは、まるで狐につままれたかのようだった。ぽかんと開いた口をそのままに、何度も確かめるように、栞さんの胸元から頭上、天井へと視線を往復させる。
そこにはきっとしなやかな曲線を描くひもがあるのだ。私には知覚することができないけれど。
そしてそれは彼らにとって、れっきとした証拠となりうる『もの』なのだろう。
「接触がなければひもは繋がらない。栞さん、あんたは畠と接触したはずだ。なぜ嘘をつく?」
「う、うそだなんて」
ひどいわ、と栞さんは言う。
「捺南ちゃんのことは無条件に信じられて、私のことは信じられないっていうの」
「そういうことじゃない」
「り、リーラーの人が勝手に繋いだかもしれないじゃない」
「リーラーが繋げば継ぎ目が残る」
「そんなの私には見えないって言ってるでしょ! もっときちんと、証明してみせてよ。私が犯人だ、って」
先程よりすこし、強気の態度だった。私なら例え潔白だとしてもそう即座に言い返すことなどできないだろう。すると見計らったかのように、廊下から胸を張った加賀見さんが誇らしげに姿を現した。
「おまえが所望したものはこれだなッ!」
ズイと右手をシュウの鼻先に突き出してみせる。一辺が一×五センチ程度とごく小さな色紙がそこに握られていた。タイルと比べ矮小ながら、色だけを見たらそっくりそのまま、まるで切り取って来たかのようだった。
「どうだ。私自ら視感測色したものだぞ。完璧だ。褒め讃えよ」
視感側色―――― それで時間がかかったのか、と納得してしまう。
それは字面の通り目視による色の測定なのだけれど、観察の角度や照明の照度が定められていてつまりそれなりに準備が必要なのだ。お兄ちゃんによれば、比較的手軽な測色法であるらしいのだけれど。
「……座れよ」
「なにッ、それではあんまりではないか。冷たいではないか。こんなにも尽くしているのに」
「審判開始したんだよ。空気読め空気。KYG」
Gはジジイの頭文字だろうか。Jではないのか。いや、今はそんなことどうでも良い。
呆れ顔のシュウに諭された加賀見さんは、唇を尖らせながらもしぶしぶ席に着いた。伊倉さんの並び、つまり栞さんの真向かいに。
「続けるが、証拠と言ったな。ならもう、遠慮なく明らかにしてやるよ。ソフィが殺害前、どうやって犯人にかどわかされたのかを含めて、全部」
「かどわかされた?」
尋ねた志津木さんに、シュウはこれまでの調査の結果、得た情報を語った。ソフィが別の場所で殺された可能性や、他の部屋に誘い込まれた可能性など、私と一緒に探し当てた事実を、淡々とした口調で。
「ここで問題になるのは、言葉がほとんど通じないソフィを、どうやって別の場所に誘導したのか、だ」
エアコンが唸る。精一杯稼働していることをアピールしているようだった。屋敷内のほぼ全員が集合しているせいだろう、それでも暑さは上昇するばかりだ。
「状況から見てタイルに細工は施しようがない。だが種も仕掛けもない、なんてことはありえない。じゃあ、証拠が残らないように彼女をおびき出すにはどうすればいいのか」
シュウは袖口で額をぐっと拭う。そしてそのまま、人差し指をこめかみにあてる。
「ここだ」
不可解そうに顔をしかめた伊倉さんを見下ろし、真剣そのものの表情で述べた。
「犯人はソフィの頭の中に仕掛けを施したんだ」