13.神はサイコロ遊びをしない
あれは、まだ肌寒さの残る春の朝のこと。
初めて袖を通した真新しいブレザーは肩にずしりと重くて、私にふと、引力の存在を思い出させた。普段はすっかり忘れているくせにその時ばかりは妙に納得して、ニュートンは凄いなと独り言ちたくらいだ。そして私は初登校の忙しい朝にもかかわらず、佑お兄ちゃんの話を芋づる式に思い出したのだった。
アイザック・ニュートン、その名から思い浮かぶのは通常力学で、りんごがぽとりと地に落ちる瞬間を想像する人間が大半だと思う。実際私もお兄ちゃんに教えてもらう前からそのくらいは知っていた。
しかし、佑お兄ちゃんのニュートンに対する興味はそういう一般的なことから少しずれていたように思う。いや、どんな分野においてもコンパスの針を見当違いな場所に置いて円を描くような人だった、というのが正しいかもしれない。
「僕はニュートン派かな」
その日色彩のことに話が及ぶと、彼はすがすがしい顔でそう言った。別に何派でもかまわなかった。
「派閥があるの? 政治家みたい」
「どの世界にもあるよ。もちろん色の分野にも、歴史上いろいろとね。光の本質は波動か粒子かとか、色覚は三原色か反対色かとか。でも僕は、ニュートンに対するゲーテの反発が最も興味深いと思う」
「ゲーテって小説家じゃないの?」
先日『ファウスト』を読もうとして、あまりの難しさに二十ページ目で放り投げたばかりだ。今もきっとベッドと勉強机の間に落っこちていると思う。なぜそんなものに手を出したのかと言うと、……彼の部屋にゲーテの本があったから、なのだけれど。
「うん、一番有名なのは文豪としてだよね。ゲーテは『色彩論』という著書の中で‘色彩は人間の想像力に左右されない’としたニュートンの考えに真っ向から反論したんだ」
「ふうん。それだけ聞くと、ゲーテのほうが正しいような気がするけど」
色と心理は密接に結びついている―― しょっちゅうそんなことを言っているのはお兄ちゃんなのに。
「どちらが著しく間違えているとか、ダメだとかいうことじゃないよ。僕はニュートンの、色彩と音楽を関連づけた考え方が好きなんだ」
「音と色?」
「そう。音の調和が空気の振動の比から生まれるように、色の調和も視神経を通って脳髄に伝達される震動の比から生まれるんじゃないか、って」
恒例の難しすぎる演説が始まってしまった。ファウストと同様に投げ出してしまいたくなる。
彼の話は、大概が進むに従って難易度を増していく。とはいえ最初の一言めには意味不明の単語を発するから、解説を求めずにはいられない。他には対処のしようがないのだ。
……こんな話がしたいわけじゃないのに。
おばさまのレモンティーをひとくち飲んで、ソーサーにカップを戻す。
そろそろ自分のことをどう思っているのか、はっきり聞いてみたい気持ちはある。抱き締められたのだから嫌われてはいないと思うけれど―――― けれど、女の子として好かれているかどうかは怪しい。どちらかというと、妹として可愛がられているような気がする。
「あ、あの、お兄ちゃん、あのね」
「わかりにくかった? オクターブで循環するところから話そうか」
「……ううん」
「どうしたの、言ってごらん。お腹空いた? ケーキ、食べたいなら買って来ようか」
「ちがうよ、そうじゃなくて……」
そうじゃ、なくて。だけど。
「あの、ね」
「うん?」
「あのね、お、お兄ちゃんはその、もっと……未来のこととか、どう思ってるの?」
遠回しにしか聞けない。遠回しすぎて尋ねている本人にもよくわからない。だから彼が独自の解釈をしてくれるのは当然のことかもしれなかった。
「古典論じゃないとしたら……、神はサイコロ遊びをしない、って僕も思うけど」
「は……?」
「アインシュタインの言葉だよ、コペンハーゲン解釈に対する。僕もあれは好きじゃない。量子論の中では、ひもと多世界解釈が好きだな」
「たせ……?」
「うん、パラレルワールドみたいなものだよ。世界は分岐しているんだ」
どうしてこう、毎回ややこしいほうに話が転んでしまうのか。
こんなことが何度かあって、結局、私は彼が亡くなる直前まで気持ちを打ち明けることが出来なかった。
環境にも恵まれすぎていたのだと思う。お兄ちゃんが親しくしている異性は見たところ私だけだったし、部屋にあげてもらえるのも私だけだったし、他の誰よりも近い関係にいるのだと自信を持って言えたから。
だから逆に、もし告白をして玉砕してしまったら……ぎくしゃくしてしまったら、嫌われてしまったら、優しくしてもらえなくなったら、と思うと怖くて―――― このままで充分幸せだからいいや、と簡単に諦めてしまえたのだろう。
私は幼なじみの沖永佑を両手でしっかりと掴んでいた。片手ですら離す気はなかった。だから恋人としての沖永佑を新たに掴むことは出来なかったのだ。そのことに、もっと早く気付くべきだった。
もしあのとき素直に気持ちを伝えていたら未来はどうなっていただろう。いや、彼が言うように世界が分岐しているのなら、パラレルワールドには幸せに笑い合う私達がいるのだろうか。
それなら私は何故、この世界で生き続けなければならないの?
朝からそんなことを考えた高校入学の日。重苦しい門出になりそうだった。
カーテンを中途半端な位置で放置したままリビングへ降りると、朝食だけがテーブル上にぽつんと残されていた。すでに家族は全員が家を出た後らしい。いつものことだけれど。
彼を失い家族との絆が途切れた日から、孤独は砂のようにさらさらと、私の上に積もり続けている。
「すまなかったな、私の大切なシュウが君を驚かせたようだ」
加賀見さんはシュウを黒の部屋に送り届けに行き、しかし数分後には戻ってきて、私の部屋の窓辺に軽くもたれて落ち着いた。つまり現在私と加賀見さんはふたりきりなのだ。
何を話して良いか分からずうろたえていると、彼は協会の話をした時と同じようにぽつりぽつりと、他言しないという条件でシュウのことを語りはじめた。
特にこちらから望んだわけではない。切り出したのは彼のほうだ。こうして私はクラスメイトが誰も知らない、シュウの真実を手にしたのだった。
伊倉さんの言葉通り、やはりシュウは日本支部における数少ない切断者―― つまり‘シザー’であり、協会内でおきた犯罪の捜査と裁きを担当しているらしかった。
「可視やリーラーと同じように、シザーだって協会の立派な財産だ。隠すようなことではないのだが、シュウはあまりおおっぴらにはしたくないみたいでね」
わからないこともない。自分が同じ立場なら、その役割ですら放棄したくなるだろう。
「君はこの建物内にいて、食堂だけが妙に質素だとは思わなかったか」
「……あ、はい」
言われてみれば二階部分や廊下とは違い、あそこだけ造りが粗雑だ。テーブルも椅子もその辺で切り出してきただけの木材だし、ドアはないし、漆喰の壁にも壁紙や曲線の装飾らしきものは一切なかった。
「以前は、それは見事なアールヌーボー様式の室内だったのだがな。シュウが初めてここに訪れた際、豪快に暴れて余すところなく破壊してくれたのだよ」
「ええ?」
破壊って。
「修復しようにも職人が継承者もなく亡くなっていてね。代役が見つかるまではと、ひとまず最低限の修復に留めてあるのだ」
私はせわしなく瞼を開閉させる。
「どうしてシュウがそんなこと」
「あのときの奴といったらもう、誰とも関わりたくないと言った様相でな。自分の能力について理解したとたん、手をつけられないほど暴れてくれたのだよ。受け入れられなかったのだろうな」
「シザーであることを、ですか」
無理もないけれど。死神、だなんて。
「それだけではない。シュウは生まれもっての切断者だ。だがそれを理解するまえに―――― 切ってはならぬものを切っていてね」
「切ってはいけないもの?」
「……奴と家族を繋ぐひもだ。ここに来た日、シュウはすでにひとりだった」
思わず息を止めて口元を覆った。シュウが、ひとり? 予想もしなかった。学校でもそんな噂は聞いたことがない。しかし、もしやお金がないというのはそれが原因だったのだろうか。
「随分地方を転々としたらしい。がりがりに痩せた子供のクセに、腕っ節ばかりは妙に強くてね。問題を起こしてばかりだったから、名字も何度かかわったらしいのだ」
ああ。シュウが名字に無反応なのは、呼ばれ慣れていないからだったのか。
切断したひもは再生しない、と最初に教えてくれたのはシュウだった。家族とのこと、どれだけ絶望しただろう。想像もできない。
「希少な能力を持つ者は通常中枢に処遇を委ねるのだが、本部に連れて行くのにもなかなか骨が折れたな」
「そう、ですか。―― あの」
「なんだ。私がシュウに夢中になった理由を知りたいか」
「いえ、それは別に……」
興味はない。
「ただ、ひものことが少し気になって。どういう基準で繋がったり切れたりするのかなって」
ああ、と気付いたように彼は壁から体をはがす。
「話していなかったな。ひもは接触さえあれば繋がる可能性があるものなのだよ。だが接触にもいろいろと種類があるだろう、対面せずとも電話で話したりはできるし、文書でのやりとりなども当然そのうちに含まれる」
するとリーラーはその、接触の肩代わりをする人間ということになるのだろう。
「だが逆に、接触があったにもかかわらず繋がらないこともある。その場合は近くにいたのに会話すらしなかったとか、小さなズレが見られるケースが多いな」
だから繋がらなかったのか。私は妙に納得してソフィの儚い笑顔を思い浮かべた。
彼女とは同じテーブルで食事をし行動を共にしていたにもかかわらず、会話には及ばなかった。すれ違いと言えなくもない。
ひも―――― 私ははじめ‘縁’と捉えていたけれど、もしかしたらもう少し強い結びつきのことを指すのかもしれない。単なる縁なのだとしたら、接触などなくても繋がるだろうし。
「切れるのは……、一番わかりやすい例としては死に別れたときだな。切れ端は残るが、ぷっつりといく」
「そう、ですか」
私とお兄ちゃんのひもはもう切れてしまっているというわけか。あまり、想像したくない。
「しかしひもは指紋やDNAに似て、それぞれに特徴があり他と一致するものはないからな。死後でも被害者のひもの型さえわかれば、容疑者特定に役立てることが出来る」
「じゃあ、シュウはソフィのひもの切れ端を見分けていたんですね」
「ああ。奴ほど厳密に区別をつけられる可視はそうそういない。いや、シザーの特殊能力とでも言うべきか」
加賀見さんはさらに言葉を繋げる。
「まあ、ひもの繋がりというのは他人と通じ合ったりするための―――― 糸電話の糸みたいなものだと思ってほしい。切れたからと言って二度と巡り合わないわけではないが、繋がりがないのだから通じ合うことは困難になる。曖昧と言えば曖昧なものなのだ」
「わかりました。ありがとうございます」
長引きそうだからそこで締めくくった。実際にはいくつか疑問が残ったけれど。
例えば可視の人達はどんなふうにそれを結びつけているのかとか、私がひもを知覚出来ないのに結べるのはなぜなのかとか。それ以前にひもはどんな物質なのかとか、可視領域にあるものなのかとか、要するに細かい疑問だ。
「ところで君、沖永佑のことだが」
加賀見さんがそう言って腕組みをしたとき、部屋のドアを叩く音が聞こえた。
「私だけど、入っても良いかしら?」
栞さんだ。
開いてますよ、と答えた数秒後、姿を現した彼女は大きな荷物を抱えていた。紙の束がそこからはみ出している。シュウが頼んだ資料の類いだろう。
「あら、ふたりだけ? シュウくんは」
訝しそうに室内を見渡す彼女を見て―― 詳しく言えば、扉を開くところからの一連の動作を見ていて―― 頭の中でスコンと何かの栓が抜けたような気がした。
「―――― ああ!」
声を上げて腰を浮かす。わかった。わかったのだ。
伊倉さんやユーヤさんの言う通り、ソフィが他の部屋に誘い込まれたのだとしたら、それを可能にした方法の一部が。
「どうしたの?」
「私、シュウのところに行ってきます!」
その場を転げるようにして飛び出し、黒の部屋へと一直線に向かう。しかし直後、加賀見さんが「抜け駆けは許さぬ!」と鬼の形相で追い掛けてきた。
そんなつもりは毛頭ない。ないが―― 謎解きの先にはお兄ちゃんの真実が待っているから、シュウに会うことをやめるわけにはいかなかった。
「シュウ、開けて!」
返事はない。ふて寝でもしているのかもしれない。
「開けて、私、わかったの。ソフィが別の部屋に誘い込まれたときのこと!」
叫びながらドンドンと激しく扉を叩く。ひらめいた衝撃と早く伝えなければという焦りで、私はすっかり失念していた。
この言葉を犯人が聞いているかもしれないという、危険極まりない可能性を。