12.切断者
―――― 私が、殺した……?
「おまえな、可視なら見りゃ分かるだろ。彼女と被害者の間にはひもがない」
「だからって犯行に関わっていないと判断するのは尚早なんじゃないのかな」
伊倉さんは逃すものかといった体でこちらを睨んでくる。レンズ越しの視線鋭く、私をますます縮み上がらせる。
知的で穏やかそうな人だと思っていたのに、その印象はもう微塵も感じられない。疑心暗鬼に陥ると人はこうも変わってしまうものなのだろうか。置かれている状況の異常さに改めて気付かされたようだった。
にもかかわらずこの場を動かなかったのは、シュウがさりげなく庇ってくれているからではなくて、単純に私が逃げ出すだけの勇気を持ち合わせていないから、だった。
私は臆病者だ。
自分という存在にも、自分の考えにも発言にも行動にも、全くと言っていいほど自信がない。自信を持って主張する気が起きない。どうせなくしてしまうのだからと、最初から諦めてしまう。
死を告げられたあのとき―――― お兄ちゃんの体から数々のものが取り出されたとき、本当に喪失したものは私の中身だったのかもしれないと思う。
「どこかで聞いたことがあると思ったんだ。小泉厨って名前」
「だろうな。オレ、結構有名人だし。でもサインはやらないぜ」
いたずらっぽく前歯をのぞかせたシュウは、彼の怒りをうまくかわそうとしているようにも見えた。そっちじゃないよ、と即座に言い返す伊倉さんの口調には厭味がこめられていた。
「僕が知っている小泉厨は、日本支部唯一の‘シザー’だ。そうだろう?」
瞬間、シザーと言う単語に反応するように、目前の肩がぴくりと動いた。
「どうしてはっきり言わなかった? シザーの役割は協会員なら誰もが知っている」
「……言いたくなかっただけだ」
「明かしておいたほうが捜査しやすいだろうに、言いたくなかったんじゃなくて、言えなかったんじゃないのか」
シュウはぐっと押し黙る。つい数分前まで好戦的だった態度があからさまに萎むのを見て不安になった。
「ねえ、シュウ、シザーって……?」
制服の裾をひっぱり、ひかえめに問う。協会の用語だろうとは思うけれど、初めて耳にする単語だ。
「ひもを切断し回収するもののことさ。へえ、君は知らなかったの?」
答えたのは伊倉さんだった。
そうだ、リール協会の説明のなかでも聞いた気がする。協会にはひもを知覚し、繋ぎ―――― そして切断する者達がいる、と。あのときは自分の能力を理解することで精一杯だったけれど、まさか、シュウが?
「シザーは協会内における犯罪者を見つけ出し、裁き、世間から抹殺する役割を担っているんだ」
「世間から抹殺……」
「そう。しっかり覚えておいたほうがいいよ。リーラーと比べて彼らは希少だし、死神とか死刑執行人なんて呼ばれることもあるからね」
死神、死刑執行人―――― 顔をしかめたくなるような酷い単語に返す言葉はなかった。途端にシュウの顔が見られなくなる。もちろん怖いと思ったからではない。聞かなければよかった。
伊倉さんのその先の言葉を遮るように、シュウは低く問う。
「香月が犯人で、オレがその証拠隠滅に手を貸したとでも言いたいのか」
「ああ、秘密裏に処理をして庇っているのかな。もしかして死神だってこと、彼女には隠しておきたかったとか? なんにせよ、僕は君たちが一番怪しいと思ってるけどね」
「てめえ、ナメたことをぬかしてんじゃねえぞ」
「しゅ、シュウ!」
顔面間近まで迫るという威圧的な態度に出たシュウは、今にも右腕を振り上げてしまいそうに見えた。慌ててその体を引き戻す。沈黙されるのも不安だけれど、突然飛びかかられるのは尚更心臓に悪い。
「悪いけど、僕だって何の証拠も無く言ってるわけじゃないから」
部屋の横にはめ込まれた紫色のタイルをノックする、伊倉さんの右手は細身で骨張っている。お兄ちゃんの手もあんなだったな、と思った。
「これだよ。香月さんの部屋はたしか、白だったよね」
「……はい」
「それを利用して、誘い込んで殺したんじゃないの」
「誘い込んだ? 私が、ですか」
「そう」
血の気が引いていくようだった。
さっきも同じようなことで、ユーヤさんが志津木さんを犯人だと決めつけていたけれど、今度は―― 私。
「ソフィははじめて病室に向かったとき、白いタイルを紫と見間違えたんだ。そしてそれこそが、君の仕組んだ罠だった。そうだろう」
斜に見下ろされ、否定する言葉も思い付かないまま、ただ恐ろしい気持ちだけが膨らんでいく。
「タイルを塗り替えたりする話なら、不可能だと思うぜ。証拠隠滅の時間がない」
「塗り替える必要はない」
彼は再び白いタイルを指先でこつこつと叩き、続けざまに窓の上部へと人差し指を向けた。
示した先はステンドグラスだ。
「あそこを透過した光が白いタイルに当たって、紫色に見えたんじゃないのか?」
「あ……!」
確かに、ガラスの色は赤紫から青へのグラデーションだ。その色付きの光が白いタイルに当たれば、時間によっては紫色になるかもしれない。
でも、誘い込んだりはしていない。覚えがない。私はソフィと会話すらしなかったし、ましてや、殺人だなんて。
「……いや、それはありえん」
声がした方向を全員で振り返ると、そこには呆れ顔をしたフリルシャツの男が立っていた。
「加賀見さん!」
「確かに夏の日差しは冬と比べて角度が急だからな。より窓に近い部屋に差し込むという発想までは良いだろう。だがあの時間、光は床へ差し込んでいたはずだ」
その言葉に、私は眉をひそめた。
シュウに連れられてこの回廊を初めて目にしたのは、昨日の朝九時ころだ。そのときすでに光は足元に落ちていた。そして現在午後四時過ぎ、まだ足元にある。
ということはその間、光はずっと床の上にあったということになる。
ソフィが部屋に入ったのは朝食後に散歩をしてからのこと、昼食まではまだ間があった。両方を照らし合わせて考えてみると、タイルに色光が当たっていた可能性はないも同然だ。
「……か、鏡で反射させるとか、トリックを使えば」
「そんなものが廊下に置いてあれば、誰だって怪しいと思うだろう」
「ですが」
「君は相当な頑固者だな。まあ、私も人のことは言えないが」
フリルを弄る指先は、男性とは思えないほど細くて綺麗だ。加賀見さんはふんと短く鼻を鳴らす。
「では聞こう。螺旋階段から見て、白の部屋は一番奥に位置している。あちらから歩いて来た人間が本物の紫色のタイルを通り過ぎてまで、ここに到達すると思うか」
たたみかける口調は演説をしている時より若干丁寧で、聞き分けのない子供に教え諭しているようでもあった。
「残念ながら、人の目というのはそれほど単純なものではないのだよ。時には網膜に依存せずに色を知覚したりもする。例えばタイルから少しでも色光がずれていたなら―――― たちまち見えは変わるだろう。わかるか?」
「……」
「この極限状態では焦るのも無理はない。だが少し落ち着きたまえ。君の意見は恣意的に陥っている。なぜシュウの関与にそれほど固執するのだ」
「ぼ、僕は」
「恨みでもあるというのか。そうではなかろう」
「僕は、ただ――――」
冷静になれ、とたしなめる加賀見さんに、伊倉さんは奥歯を噛みしめながら背を向ける。すごすごと部屋へ戻っていく様は、敗北者のようだった。
誰もが誰かを疑っている。エアコンが効ききれない回廊は汗が滲むほど暑いのに、とても寒い場所に来てしまった気になる。
自分だってそんな目で彼らを見ていたのだから、仕方のないことなのかもしれないけれど。
「よし、では情報の整理をしようではないか」
揚々と私の部屋のドアノブを掴む加賀見さんの右手が憎い。どうして他の部屋を使おうとはしないのだろう。がっかりしながらそのあとに続くと、背後でドンという激しい衝突音が響いた。
驚いて振り返ると、壁に打ち付けられているのはシュウの右手だった。殴った、のだろうか。
うつむきがちで表情まではうかがえない。しかしその肩は、わずかに震えているように見えた。
いつも飄々として、気怠そうなシュウ。
そんな彼の内側に人知れずくすぶる感情があったことに、私はようやく気付こうとしていた。