11.状況把握
「ジジイ、遅えな……。大方演説の真っ最中なんだろうけど」
壮大なスケールの回廊を正面に眺めながら、私はシュウと共に窓辺に背をもたれる。
現在時刻は午後四時。ふたつの長い影がタイル上に、やや右へ向かって伸びていた。
ここへ来たのは一昨日、私の記憶に至っては昨日からしかないのに、何ヶ月も前からこの場所で過ごしていたような気分になってしまう。
衝撃的な出来事がありすぎてうまく頭の中で処理しきれていない。現段階で物事を冷静に把握し始めているシュウは、どれだけ強靭な精神の持ち主だろう。
「―― ソフィは最初に部屋に入る以前に捕われた。これはほぼ確実だ」
同感だ。しかし、それが一番のネックでもある。彼女が部屋へ向かったあのとき、畠さんを除く全員が庭にいたからだ。
つまりソフィが姿を消したと予想出来る時刻、全員にアリバイがあったということになる。となるとやはりユーヤさんの言うように彼女はどこかに誘い込まれたとするのが妥当だろう。
「なあ、何か覚えてないか? 例えば、ソフィの部屋に行く約束をしたヤツがいたとか」
「うぅん……ユーヤさんがナンパしてたのは覚えてるけど」
「ナンパ?」
「そう。でも、言葉が通じなくて撃沈」
庭へ出たあのとき、私は皆の会話には加わらず、テラスに腰掛けて様子を伺っていた。まだ警戒していたからだ。誰かが不審な行動をしていたのなら、微かにでも覚えていると思う。
「だろうな。ソフィとはうまく意思疎通が出来なかったんだから、誘う、呼び出す、の類いは難しいか」
ファックス用紙を捲りながら、シュウは呆れ気味に笑う。
「あとは? ソフィの様子とか」
「ソフィさん……は」
彼女は。
「ニコニコしてた……『コレナニ?』って片言で色々と尋ねてて」
思い返すと胸が詰まった。彼女は大人びた面立ちをしていたけれど、無邪気で可愛い、少女のような人だった。人当たりも良かったし、素直で、ひねくれたところなんてひとつも見受けられなかった。殺されるほどの恨みをかうような人間ではなかったと思う。
なのに―――― 何故。
災難だった、不幸だった、というだけでは済まされない。……許せない。
死から数十時間を経て、ようやくそんな感情が湧いた。それは私が事態を現実として受け止めはじめた証拠なのかもしれなかった。
「それに、志津木さんと加賀見さんがジェスチャーを交えながら答えてたの。それで徐々に気分が盛上がって来たのか、加賀見さんが色について語り出しちゃって」
「あいつ、またやりやがったのか」
シュウは苦々しい顔で笑う。
「うん。確か―― マラリアの特効薬であるキニーネを合成中に、人類初の合成染料であるモーブが偶然発見された話とか」
「はあ」
「あとは、インディゴブルーの合成法を完成させた人はノーベル化学賞を受賞したとか。色素の化学構造式を、酸素と窒素と水素と、って地面に書きながら演説」
「あー……、もうその話はいいや」
蠅でも振り払うような動作をして、話を遮る。
「よく覚えてるよな、おまえ。オレ、何回聞いても覚えられねえ」
「だって初めて聞いたわけじゃないから。お兄ちゃんが」
「お兄ちゃん? 香月、兄貴がいるのか」
「……ううん。佑お兄ちゃんのこと」
そうか、とシュウは声のトーンを落とした。ああ、墓穴を掘ってしまった。このままではまた暗い雰囲気になってしまうと思い、私は慌てて口を開いた。
「あ、あとは、混色の話とかしてたかな」
「だからもういいって、ジジイに関することは。次はあれだ、部屋に引き返す時」
シュウは人差し指でくるりと宙を混ぜる。深爪になりかねないほど短く切りそろえられた爪は、清潔感があるというより若干痛々しい。
「まず、ソフィが一番先で、ユーヤと伊倉が次だったんだよな」
「うん。彼女はひとりだったから、誰かが部屋に一緒に付いて行ったわけじゃないの」
「案外不親切だな、草木さん」
「ううん、だって加賀見さんの演説真っ最中だったもの。あれを途中で抜け出せるのは、言葉が分からないソフィだけだったと思う」
「ああ……、確かに。フランス本部のお偉いさんの娘だしな。ジジイも文句は言えねえだろ」
「演説が終わるとユーヤさんたちが室内へ向かって、それを追い掛けるようにして、残りのメンバーもほとんど同時に部屋へ戻ったの。草木さんはランチの準備をするために食堂へ行ったけど」
「わかった。で、夕飯までに部屋を出入りしたメンバーは」
「そこまではわからないよ。ずっと廊下にいたわけじゃないし」
「だよな」
「だから、ソフィを見たのはあれが最後だったよ」
殺されるまでの間、縛られてでもいたのかもしれない。
でも―― だとしたら痕が残っていそうなものだと思う。翠川先生によれば抵抗のあとはほとんど見られなかった、とのことだけれど何故だろう。逆に、翠川先生が嘘をついている、という可能性はないのだろうか。
「草木さんか翠川先生が犯人ってことは考えられない?」
「あ?」
「だって鍵がなくても解錠が出来るでしょ」
それはそうだけど、と彼は回廊を歩き出した。
「確かに草木さんと翠川先生はホストのコンピューターを弄ることが出来た。だからこそ可能性は薄いと思うぜ」
「どうして」
「現場を密室にしちまったら、自分達が真っ先に疑われることになるだろ。それなら鍵は開けっ放しにして、全員を容疑者に仕立て上げたほうが彼らにとっては都合がいいんだ」
「あ、そっか」
流石に鋭い。同意の言葉しか出て来なかった。
「おし、紫の部屋をもう一度見ておこうぜ。ちょっと確認したいことがあるんだ」
「う、うん」
「心配すんな。遺体なら処置室に移動済みだから」
その背を追いながら、私が調査に加わる意味なんてないのではと思ってしまった。きっとシュウはひとりでも充分役割をこなせるに違いない。
「そういえばシュウ、私、ここには治療だか修理だかの名目で入院したんだよね。その割に診察とか受けてないんだけど、いいのかな」
「いいんだよ。こっちについた直後にある程度の処置は済ませた。それに、翠川は可視だから顔をあわせるだけでその後の経過を診察してるようなものだし」
そういえば加賀見さんにも「倒れるぞ」と言われた覚えがある。
「便利だね、可視って。ねえ、ひもって一体どんなふうに見えるの?」
「ああ、ううん、……、透明で、そこだけ景色が少し歪むっつうか、うまく表現出来ねえけど」
「ガラス管みたいなイメージ?」
「そんなところだ」
頷いたシュウの斜め後ろで、私は回廊の左右を眺める。部屋を示すタイルの表面は光沢を帯びていて、それぞれ鮮やかな色彩を放っていた。
どれもがはっきりとした、わかりやすい色だ。やや朱に近い赤、黄みの強い橙、艶のある漆黒、淡い紫、紫みを帯びながらも濃い青……。
決して、紛らわしいとか区別がつかないということはない。
「リール―――― ひもを繋ぎ合わせたりたぐり寄せたりする機能はさ、人間誰しもが持ってるんだ。でもそれは通常、目には見えないし意思に従って使うことも出来ない。オレ達は多分、通常よりもひもに敏感な人間なんだよ」
「だから見えたり繋ぐことができたりするってこと?」
「そう。でも敏感ゆえに、たまに休ませることが必要になる。ジジイも言ってたけど、この施設は外界からある程度遮断されてるからな。滞在するだけでも充分症状の改善にはなる」
淡い紫色のタイルを前に立ち止まった彼は、ポケットから鍵を取り出した。はじめからこの部屋を観察するつもりで持っていたのだろう。
「あと数日休めば回復すると思うぜ。そうしたら、翠川に最終チェックをしてもらって退院になる」
「……入院しないとどうなるの?」
「体調を崩すくらいならまだいいけど、バックラッシュを起こせば命に関わる」
「バックラッシュ?」
「そう。ひもがメチャクチャに絡まる現象のことだ。絡まった糸は切断するしかないし。基本的に一度切れたひもは再生しないからさ、事態は最悪なんだよ」
想像すると胃の当たりがむかむかして、気持ちが悪くなった。やはりひもに対して敏感だからなのかもしれない。
「‘リーラー’ってのは釣り竿のリール……糸を巻き取るアレにひっかけた単語なんだ。それと同じで、バックラッシュも釣り用語」
「へえ。じゃあ、最近になって出来た言葉なんだね」
「ああ。うまく言い当ててるだろ」
シュウは覗き込むようにしてドアを開いた。籠っていた生臭い匂いが、どろりと流れ出てくる。
「う……」
同時に顔をしかめた。
室内には遺体発見当時と同じく、おびただしい量の血痕が床や壁一面に残されている。デスク、ベッド、さらにいえば扇風機の羽根にまでべっとりと。それは発見当初と比べて、どす黒さが増したような印象だった。
壁に歩み寄ったシュウは右手だけにビニール手袋をはめ、指先で飛沫のひとつに触れる。そこで何かを確信したようだった。
「……ソフィが殺害後ここに運び込まれたってのはほぼ確定だな」
「どういうこと?」
手の甲で鼻を押さえながら問う。
「あのとき遺体の頭部で血液は凝固していた。にもかかわらず、壁の飛沫は固まっていなかった」
確かに、彼女の頭にはザクロ状のかたまりがあったと記憶している。対し、壁の血痕はてらてらと光を反射していた。そうか、あれはまだ液状、だったのかもしれない。
思い出すと、喉の奥にせり上がってくるものがある。思わず俯いて室内から目を逸らした。これ以上留まったら、今度こそ嘔吐してしまうかもしれない。
「つまり犯人は別の場所で殺害を実行した後、彼女の血液を保管しておいて―― 多分、抗凝固作用のあるものを混ぜておいて―― 遺体を運んだ後、いかにもここで殺人が行われたかのようにそれをぶちまけたんだと思う」
「どうしてそんなこと、わざわざ」
「畠が証言した通り、殺害時刻に廊下を行き来したものはいなかったわけだから、アリバイ工作だったのかもしれない。でも、いつ運んだんだ……?」
ぶつぶつと独り言を呟くシュウの顔は、きっとしかめっ面になっているだろうと思う。
「抗凝固剤は、薬品なら下の処置室にある程度揃ってるから、知識さえあれば誰でも入手可能だったわけだよな。今時ネットで調べりゃすぐ分かるし。ということは、誰かが特別怪しいとも言い難いか。相当狡猾な……いや、それなりに考えて行動しているものの、さほど計画的でもない、か……」
これが以前から綿密に練られた計画だったのかという点については、私も疑問に思う。
ソフィの部屋が綺麗すぎた点は犯人の迂闊さを否めないし、それにこうしてどんどんシュウが糸口を掴んでいるところをみると、どうにも穴だらけといった印象なのだ。
まるで、ここへ来て慌てて準備をして取り掛かったような―――― 若干、衝動的というか。
「やっぱり香月は入らなくていい。そこで資料でも見ててくれ」
「う、うん」
入れと言われても到底無理だ。室内を直視することはおろか、すっかり足がすくんでしまって動けない。対しシュウは慣れた様子で部屋の内部を物色し始めた。
頼もしいけれど、こんな事態に慣れているというのは別の意味で恐ろしい。同じ歳だというのに、彼は普段どんな生活を送っているのだろう。
吐き気に耐えながら、少しでも気を逸らそうと手元の資料に目を滑らせる。そこにはいかにも事務的に、メンバーに関しての情報が記されていた。
―――― 加賀見 白秋/男/四十一歳、独身、リール協会日本支部副会長、可視、リーラー/以下秘匿
補佐:滝口 栞/女/二十五歳、独身、ライター
白秋……加賀見さんの名前としては意外性があるなと思った。随分和風だ。フリルブラウスとつり合いが取れない。いっそ片仮名でエドワードとでも記されていたらしっくり来たと思う。それはそれで似合いすぎておかしい気もするけれど。
ふと、彼と同じ名の北原白秋を思い出して、隣の部屋のタイルに視線を振った。ラピスラズリのようにやや赤みを帯びた深い青、確かこんな色を瑠璃と言うのだ。そして『瑠璃晴天の空の色』と詠ったのは北原白秋ではなかっただろうか。
……いや、今は無駄なことを考えている場合じゃあない。
こうして資料を先へと読み進めたものの、私は再び加賀見さんの行に視線を戻した。そういえば彼は副会長なのだ。やけに尊大にかまえてはいるけれど、副、とつくからにはその上に会長がいるのだ。
一体どんな人物なのだろう。この組織にいれば、いつかは顔を合わせることもあるのだろうか。ぼんやりと厳格な老紳士を思い浮かべ―― もちろん勝手な想像だけれど―― 再び資料を捲った。
―――― 翠川 玄冬/男/四十一歳、配偶者あり、協会認定医師、可視、リーラー。補佐:草木 なつ(くさき なつ)/女/二十一歳、可視、独身。元・看護師。
―――― 志津木 学/男/五十三歳、既婚(妻子あり)、印刷所工員、可視、リーラー。現在離婚調停中。
―――― 伊倉 昌生/男/二十五歳、独身、婚約者あり、商社勤務、可視。
―――― ソフィ・ヴォークラン/女/十六歳/フランス国籍/以下秘匿
―――― 畠 徳仁/男/十五歳、中学生。母子家庭。
―――― 長谷 悠弥/男/十九歳、独身、医学部中退、右目のみ可視。妹:里奈も同様に可視(昨年死亡、享年十歳)
……えっ。短く声が漏れてしまった。
思わず目を疑った。墨色の文字を何度も繰り返し辿って確かめる。間違いない。
妹さんがいることはユーヤさん本人の口から聞いたばかりだ。けれど、まさか亡くなっているなんて。
「何かわかったか?」
一通り内部を調べ終わったのか、シュウが紫の部屋から姿を現した。首を傾げ「どうした?」不思議そうに目を細める。
「……これ」
文字を示した指先が、微かに震えている。
「ユーヤさん、妹さんが亡くなってて、それに、医学部中退ってどういうことだろう」
即座に私の手から資料を奪い、シュウはぐっと眉間に皺を寄せた。そのときだった。
「ふうん。もしかしてふたりで仲良く証拠隠滅?」
そう言って、螺旋階段から姿を現したのは伊倉さん。
「あ? どういう意味だ」
シュウはあからさまに不機嫌な顔をして、私の視界を遮るように立つ。
「どういう、って、そのままの意味だよ。香月さんだろ、ソフィを殺したの」
回廊の空気が、一瞬にして凍り付いたような気がした。