プロローグ
空は清澄――。
毎日のように頭上を覆っていた積乱雲は今日に限って姿を消し、盛夏の太陽のみが我が物顔で輝いていた。空を覆うのは、ただ一面のブルー。瑠璃か群青か、それは深く濃く、そして泣き出したくなるほど鮮やかだった。
日本においてこの色が象徴するのは、希望であったり永遠であったり、平和、安息であったりするらしい。それはつい最近、彼に借りた本の中で知ったこと。
香月 捺南、当時の私は十四歳。
高校受験を控えた夏休みの、真っ直中にいた。
初夏の爽やかな空気は薄れ、屋外は踏み出すことを躊躇わせるほどの熱気に包まれている。太陽暦に照らし合わせれば立秋はほど近いのに、暑さの限りは未だ見えない。
じっとりと肌にまとわりつく汗を拭いもせず、爪先上がりのゆるい坂道を進む。降り注ぐ悲鳴のような蝉時雨のなか、なだらかな右カーブに差し掛かると、前方で白い建物がゆらゆらと陽炎に揺れていた。
ああ、着いてしまった。心臓が、内側から大きく胸を叩く。
自宅を飛び出してからここに至るまでの道筋は、思い出そうとしても難しい。それほど急いで駆けつけてきたくせに、目的地を前にすると不安が膨れ上がって潰されそうで、すぐにでも逃げ出したい気分になる。
予定が変わった、すぐに病院へ来てほしい――そう電話越しに告げられたのはほんの数十分前のこと。私は全てを聞き終える前に終話ボタンを押し、財布と携帯電話だけを手に自宅を飛び出した。予定、それは前日に家族四人で話し合って決めたもので、向かいの家に住む幼なじみのお兄ちゃんの入院先へ、お見舞いに行く時間帯をさす。つまり彼に何かあったのだと、直感的に思ったからだ。
ようやくロビーに辿り着くと、人混みの向こうで父が手を振っていた。そうして、私はおよそ十二時間ぶりに彼らとの再会を果たしたのだった。
「捺南ちゃん、もう佑の思い通りにさせてやろうと思う」
別世界のように白い病室。その空間は私の目に、酷くくすんだ状態で映し出されていた。まるで空気全体が薄墨を含んでいるかのように。
立ち尽くす私の肩にそっと触れる、沖永のおじさまの無骨な手。それがじっとりと湿っているのは暑さによるものではなく、直前に拭った涙のせいなのだと――悲しいことに私はきちんとわかっていた。
「最期のお別れをしてやってほしい」
近所で挨拶を交わすときとは違い、明らかに沈みきった声音。普段のおじさまとはまるで別人のようだ。
おじさまだけではない。居合わせたものはひとり残らずそろって別人の顔をしていた。おばさまも、父も母も弟も……私だってきっとそうだ。
しかし最も変わり果ててしまったのは誰の目から見ても佑お兄ちゃんその人で、幾本もの管で四角い機械と繋がれている様は、別人というより別物といったほうがしっくりくる。そしてそれは末端までを含め、全てが彼の命そのものなのだった。
「このまま治療を続けても、佑は回復しない。脳死状態なんだよ」
脳死――まさか。
彼の寝顔は五日前からなにひとつ変わっていない。少し幅の広い唇も、鋭角に伸びる近代的な輪郭も、長さのあるまつ毛も、全て。
もう目を覚まさないと言われても、事実として認められるはずはなかった。
「嘘だ」
その時まで私はずっと、『死』は目に見えて『生』と一線を画したものだと思っていた。
がっくりと息絶え、心臓が止まり血液の循環が止まり、体が冷たくなる。まるきり生者とは別物になる。
少なくともメディアで見かける『死』はそんなふうに『生』の領域から明らかに逸脱し、壁を越えたあちら側にあるものだった。まさか、生と死の境界線がこれほど太く曖昧なものだったなんて思いもしなかった。ましてや、こうして誰かの手によって線引きされるようなものだとは。
「捺南ちゃん、もう佑は」
「いや!」
彼の掌に頬を押し付けると、自分と同じ規則的な脈を感じた。心臓はちゃんと動いている。生きているのだ。なのにどうして皆、死と決めつけるのだろう。
「おにいちゃん、目を覚ましてよ、お願い」
彼の体を揺さぶった瞬間、焦った様子で駆け寄って来た父が私を羽交い締めにした。「はなして!」「落ち着くんだ、捺南」落ち着いてなどいられるものか。
「おにいちゃん!」
好きだった。
この先もずっと側にいられるのだと信じていた。
物心がついたときから斜向いの家に住んでいた、三つ年上の彼の名は、沖永佑。
私達は幼い頃から毎日ように家を行き来し傍らで過ごし、実の兄妹のように『お兄ちゃん』『捺南』と呼びあう仲だった。
お兄ちゃんは秀麗な容姿とすらりとした長身のせいか、とても人目をひくタイプだった。バレンタインの日は家の前に女の子がうようよいたし、休日に押し掛けてくる輩も珍しくはなかった。
私はその様子を見るにつけ、自分のほうがずっと彼のことを知っているのに、と誰かに訴えたい衝動に駆られた。いや、恐らく私がそれを本当に訴えたい対象はお兄ちゃん自身だったのだと思う。
毎日接していたから身近すぎて気付けなかったのか、恋心をはっきりと自覚したのは中学に進学してからだったのだけれど。
『捺南、ちょっと今から会えないかな』
突然の誘いを受けたのは、五日前の朝だった。
慌ただしく出勤していく父と母を見送り、弟を叩き起こしてカブトムシの世話をさせた直後のこと。朝食にと用意されていた半熟の目玉焼きを、箸でつかんだときだった。携帯電話からオルゴール音『星に願いを』が聞こえて、私は背筋を伸ばした。お兄ちゃん専用の着信メロディだったからだ。
今からお邪魔してもいいかな、と言う彼に、私から行く、と告げて通話を終える。まだ寝起きのボサボサ頭だし、Tシャツに短パン。こんな姿ではとても対面できない。夏休みに入って約一週間、すっかり油断しきっていた。
慌ててワンピースに着替え転げるようにポーチの階段を下ると、彼はすでに門の外で待ちかまえていた。
「捺南」
淡く穏やかな声。炎天下なのに涼しい顔をして、彼は微笑む。そして、唐突に切り出したのだ。
「将来、僕と一緒になってもらえないかな」
あまりに驚いて、とっさには言葉が出て来なかった。いっしょになる、って……。
すると彼は焦ったように言い直した。
「突然ごめん。でもどうしても、今、言っておきたくて。僕は捺南のことが好きだったよ。小さい頃からずっと」
照れた様子はなく、それはとても潔い告白だった。お兄ちゃんらしいといえば、らしい。彼はいつだって、歳の割に落ち着いていてちょっとやそっとのことでは取り乱したりなどしなかったからだ。
対して私の心臓は、内側から体を突き破ってしまいそうになっていた。
お兄ちゃんが、私を好き。私を。本当に?
「捺南は僕のこと、どう思ってる? 単なる幼なじみ?」
「ううん!」
慌てて否定しながら、
「わ、私も。私も、お兄ちゃんのことが……好き」
やっとのことで答えを絞り出すと、彼は泣き出しそうな顔で笑った。
「良かった」
男性と呼ぶにはまだ細い腕が、私の体を抱き寄せる。予想以上にその胸が温かくて、涙が滲んだ。
「ずっと一緒にいよう、捺南」
「ずっと?」
「そう。死ぬまでずっと」
「うん……」
幸せな、一瞬の、ひとひらの記憶。
直後夏期講習を受けに高校へと向かった彼は、駅前で乗用車と衝突し現在の状態に陥ったのだ。
それから五日、揺るぎなく信じていた彼の生は今、まさに終わりを迎えようとしている。
「佑の願いを叶えてあげよう、捺南ちゃん」
嫌だ。離れたくない。ずっと一緒にいようって誓ったばかりなのに。
まだ、伝えたいことがいっぱいあった。たった一度、抱き締めあっただけでさよならなんて。
「いやだあっ……!」
床の上に伏せて泣きわめく私を、父と母が交互に抱き締めてくれる。いつも頼りないと思っていた弟が、突然ぎゅうっと握ってくれた右手。
やけに数字が大きく表示された時計が、廊下の壁でコチコチと時を刻んでいた。先へ、先へと急ぐ音。決して戻りはしない、まるで死へのカウントダウンのような――。
耳障りなそれをかき消すように、私はますます大声を上げて泣いた。
それからだ。
私の周囲で、異変が起き始めたのは。