梅鬼空を飛び九重に仇をなす
花を愛し、空を愛し、風を読み、天地を満たす精霊に、心を通わせ『歌』を生み出す、一人の殿上人がいた。
女童の様な、繊細な内情を持つ彼は、書も上手くまた、持ち得る知識も高く、時の帝と天上に住む、やんごとない方々に愛されていた。
時は平安、夜になれば真の闇が訪れる時代、そこ、ここにうごめくモノの存在が、大きかったセカイの話である。
★
人気の無くなった『花屋敷』と呼ばれるその庭で、闇の時刻、淡く燐光をまとう三人の女房が密かに話をしている。
「主様が太宰へと、濡れ衣を着せられ追いやられてしもうた、我らを慈しんでくれていた主様」
「お優しいお方様で有りました故に、衝撃が強すぎて、せっかくの帝釈天様のお言葉もお耳に入る事無く、旅立たれてしまいました」
「その事は我々が、主様にお伝えするよう、帝釈天様から命を承っておる、主様の敵は我らの敵!」
白い水干を着こなし、丈なす黒髪を一つに束ねた白梅が、最後に毅然と言う。
「そうであります、行かねばならぬ」
最初に口火を切った、白の小袖に濃い緑の袴をつけた青松が重々しく頷いた。
「ならば私はここに残り、屋敷を手にいれたあの憎き者を、取り殺しましょう!」
そう話したのは、白に赤の桜重ねの小袖を着た紅桜、彼女は言葉を重ねる。
……私は帝釈天様の後光を、主様と皆さんと共に浴びましたが、歳神様のお使いである、あなた様達より、幾分弱うございます。とても風に乗り飛ぶことは出来ませぬ。
「ですから、ここに残り、憎き者を取り殺そうと思います、あの者が無くなればこの屋敷は、親族に渡るでしょう。ならば次々と、血族を……」
御姉様方は、お飛びあそばせ。私はここに残ります故に……と白い面に、鬼を含んだ妖艶な笑みを浮かべると、金泥に八重桜が描かれた扇を広げ、口元を隠す。
「わかった、あなたがそうするのなら、我らはそれを任した。主様の無念を、思い知らせてくれるよう頼みました」
ごぅごぅと風が吹きはじめた。空を見上げる白梅と青松、
彼女達は、残る紅桜の白い手を取り、永久の別れを告げる。
そして、帝釈天様、お力をお貸しくだされ!と空へと叫ぶと、白と青の光の珠となり都の空を太宰に向けて駆けて行った。
★★
先の帝に寵愛を受けてきた者を、帝崩御の後まんまと策に乗せ宮中から追い出すことに成功した、藤原の某は、
その男が住んでいた屋敷を、彼が都落ちするやいなや、即座に手にいれた。美しい庭木があるそこは身分ある者達の間では、評判の屋敷だったのである。
「何だろう……幾本か足りぬような、以前見たときと違う気がするぞよ……」
下人達に早速荷物を運ばせ、住まうように片付けさせると、その庭に出て首を傾げた某。
しかし彼が一目惚れしていた『八重桜』はゆったりと、枝を広げ立っていたので、それほど気にもせず、庭に降り立つとそれに近づく。
そして、苔むした幹に手を当てると、美しく咲く八重桜の姿を思い浮かべ、花の季節に歌会を催す事を思うと胸が弾む彼。
……穢らわしい。主様を追い出し、全てを奪い、その上私までも……そうはさせてはやりませぬ。
紅桜は忌々しく思う。そして心に決めた通りに事を起こす。
――その夜の事。庭に面する縁側に、使用人に命じて、薄敷を敷かせ、酒器を用意させ、屋敷を手に入れた祝いを一人で掲げていた某、冷たい夜風がまだ冬だと語ってくる。
おや?あのような者はいつからいたのか……
お気に入りの八重桜に目をやり、手酌で飲んでいると、樹のたもとに、美しい黒髪を背に流した、桜重ねの十二単を重ねている女が立っていた。
桜の精霊とはかのような者か……と遠目にも思わせる、息を飲む艶やかで、妖艶な美しい姫の後ろ姿。
「そなたは」
かすれた様な声で、その女に声をかける。それに気が付くと女は振り向き、意味ありげな視線を流してくる。
金泥に八重桜が描かれた扇で、口元を隠しながら、しゅ、しゅと、衣擦れの音を立てつつ、しずしずと彼の元へと近づいてくる。
そして扇を静かに畳むと、花の顔が、彼の目の前に露になる。蠱惑的な瞳が彼を捉える。
『御一人でお寂しゅう御座いましょう?』
紅を引いた愛らしい唇で、甘い声で囁き、お酌をいたしましょうと、夜目にも白い小さな柔な手が、なよやかに酒器を取り上げた。
ああ、いけない、アヤカシかも知れぬ……と思いつつも、逆らえぬ男。
澄んだ甘い薫りが、彼の鼻腔に入り込む。それは脳天を痺れさせ、彼から思考の力を奪って行く……
ごくりと息を飲む、艶やかな笑みに誘われる様に、彼は盃を差し出す。
女はそれに静かに注ぐ、飲み干す、差し出す、注ぐ、飲み干す……どれ程繰り返したのか、やがて女に誘われる様に、彼はそのモノの手を取り、寝所へと向う。
一夜を共にした二人。彼が恋していた、八重桜の様に、艶かしく美しい姫。
……アヤカシだと思いつつも、彼はもう彼女無しでは、時を過ごす事が出来なくなっていた。
……他愛もない、我が手に堕ちた。後は『生気』を搾り取る。しかし私は要らぬ、穢れたこの男のモノなど『配流』へと飛べ!……
★★★
――花屋敷から、夜な夜な鬼火が立ち上る、ぼぅと空に昇って行く……人々がそう噂を始めたのは、三度の春を、夏を、秋を、冬を過ぎた頃。
その頃にはこの屋敷に住まう彼は、頭も上がらぬ病に伏せ、一日の殆どを寝床で過ごしていた。
加持祈祷を頼もうと、家族が集まり菩提寺に使いを送ろうとしていた時、事件は起こった。土色の顔色で喘ぐ彼の左右の耳から、蛟程の『青龍』が、ズルリ、ズルリとその姿を表したのだ。
『坊主の祈祷など、何の役にもたたぬぞよ、ククク、こやつは、帝釈天様の怒りを食らっておるからな』
ぐつぐつとそれは嘲笑う。柄に似合わぬ、聞くものをそそける様に畏怖させる神気が宿った声、もうもうと漂い広がる冷たい黒い霧……
それは、日に日に少しづつ、毒を染み込ます様に彼に、紅桜が仕込んだモノ。
慌てた家族は、徳が高い僧侶を呼び、手を尽くしたのだが、まだ年も若いのにも関わらず……
――藤原の某は、この日の夕、痩せ衰え見るも無惨な、枯れ枝の様な骸となり、世を去った。
そしてこの後……庭の美しい八重桜は、男の『生気』等無用とばかりに、復讐の一念のみで、ますます艶やかに、咲き誇ったのである。
★★★★
闇を飛んで行った二つの光の珠。共に進んでいたのだが、青松が、有ることに気がつく。
「白梅、わらわは、都へ、内裏へと向かう。紅桜は心配無いが、我ら二人が共にしていると、坊主やらが嗅ぎ付けたら厄介ゆえに」
そなたは、主様にお言葉をお伝えを、我は先に彼方のあの者の血族を、少しでも手にかけておく。内裏で会おうぞ!と、きびすを返すと、来た方向を戻って行った。
藤原家は、手持ちの姫がいると宮中に差し出し、天皇の外戚になる事で、その権力を維持している。
今の親王、次期の帝候補は二人いた。どちらも、|某の甥となる。
坊主憎けれりゃ、袈裟まで憎し、その言葉通りに事を起こす青松。彼女は広大な内裏の人目に付かぬ裏に、降り立ち根を下ろすと、新参の女房として勤めはじめた。
――「せいしょう、せいしょうはどこにいるの?」
ぱたぱたと九重を走る幼い少年が二人。それに優しく答える彼女。甘える様に抱きつく二人を、それぞれに抱き上げ、柔らかな頬に、顔を寄せる。
帝の寵愛を獲ることに忙しい美貌の母は、我が子の事など二の次。礼儀作法もわきまえ、知識も高い青松に目通りすると、息子の教育を任したのだった。
……どちらも幼い、先ずは兄から貰おうか、それとも同時に、我はここに力を蓄えておかねばいけぬ身、彼女が戻る時に、備えなければならない。
幸い敵の一族は、宮中に多くいた。濡れ羽色の長い髪、他の女房と違い漢文に強い彼女は、殿上人達とも、対等に話が出来た。
凛とした風貌、打てば響く才知、紅桜同様、視線を送り、それに靡かぬ男はいなかった。
――九重で、人が次々死ぬそうな、親王様達が幼いのに憐れにも、次々と……大臣達も、気が触れたり、熱病にかかったり……あわや、あわや『鬼』が取り憑いておるぞよ……
ゆるりゆるりと時をかけて、人が亡くなって行きおるぞ……あなおそろしや……
藤原に縁のある者達が……これはやはりあの御方様のお怒りが、ここに届いておるのでは、無かろうか、
穏やかな人だった故に、思い詰めると呪詛等行うかもしれん、なまじ知恵が高い御方様故……
こわや、こわや、あわや、あわや……権力者の家に遠慮をし、都に住む人々は、ヒソヒソ、ヒソヒソと囁きを交わしていた。
★★★★★
――三年経ったら召し上げてやろう、さすればそなたを陥れた、宮中など、どうにでもすればよい。我は帝釈天なり……
……ならば私の寿命は三年か……ひと夜でこの地にたどり着いた白梅から、そう伝えられた彼は、目を閉じ深く己の心に向かい合った。
そして、感じとる。今まで目を背けていた『鬼』巣食う心に……三年、三年経てばこの無念を晴らせると思うと胸の憂さが晴れていく、穏やかと言われている彼。
わかった、と短く答えると、都で紅桜、青松、そして白梅、お前達ばかりに負担をかけ、三年もの時を無駄に過ごすわけには行かない、と話し出す。そして
「白梅、お前は彼方のモノ達と地脈で繋がっている、だから私が、帝釈天様の御加護を、頂いているのが真ならば、龍神様にお頼みし、向こう三年真綿を絞める如く都に、雨を少なくしてくれる様に、頼んでくれないか」
ならば、きっと私が力を持つときに、大上殿で雨降らしの、加持祈祷が執り行われる故……全員揃う時に、この怨みを晴らす事ができる。
★★★★★★
――都へと飛び行く白い光の珠、それを追う、真中に暗黒を宿した、深紅の光る焔。三年の時が過ぎた。
明日は、雨降らしの加持祈祷が、執り行われると宮中につめている青松からの報せを受け、空を駆ける光。
この三年間、白梅は、都から届く『生気』を、夜な夜な眠りに着いた男に、与え続けた。
……ドドドドー!ゴォォォォゥ、ガラガガラ!
内裏に落ちる稲光、怨念が籠ったそれは、天皇の目の前で、次々に集まる貴族達に、襲いかかる。
天皇の目の前で、バタバタと絶命をし倒れ行く……響き渡る轟音に混じり、聞き覚えのある声が混ざる……
――皆息災で何より、と白い水干の彼女が話している。主が己の心に忠実に行動している時、花屋敷に集う三人の女房達。
再びこうして、合間見える事が出来るなんて、と紅桜が目に涙を浮かばべ、喜んでいる。
「白梅、主様の事を一人で任せて……ご苦労様、上手くいってる様ね」
青松が、阿鼻叫喚の世界が広がっているで有ろう方向に、目を向けながらほくそ笑んでいる。
「貴女があそこに留め置いた『気』、それに紅桜が飛ばしてくるそれ、二人共にご苦労様、主様が立派な『怨霊』になるのに役に立った」
白梅が二人を労る。
「大した事はしていないわ、それよりも貴女の方が大変だったでしょう?割りと敵が多かったのね、主様……」
紅桜の応じた声に、全くと笑う白い水干の彼女。
「ホントに、まさかあそこにいるで有ろう、誰かが、配流地の者を雇い、夜討ちを仕掛けてくるとは……返り討ちにしてやり、生気を全て抜き去り、主様の糧にしてやったわ……ククク」
まぁ、と声を揃えた二人の女房。そして彼女達も笑い始める。
フフフフ、ホホホホ、それに合わせて彼女も笑う。
クククク、フフフフ、ホホホホ……
宮中は暗黒の闇が覆っているが、他は晴れている。澄みきった青い空が頭上に広がっている。
三人の女房が、笑っている。
クククク、フフフフ、ホホホホ……
内裏では、怨霊となりし男が、腹のそこから笑っている。
グアッ!カー!ハッハッハッハッア!キー!ヒツッヒッヒッヒッ!ケッケッケッケッエ!
穏やかと生前言われていた、彼の評判を覆す、邪に満ちた、しかし柵から、解放された、朗らかと言えばいいのか……とにかく愉しそうな声色。
キィー!ヒツッヒッヒッヒッ、クァア!ハッハッハッハッ、クククク、カカカカア!
雷を鳴らしつつ、高らかに嗤う声がそこに満ちている。
帝釈天に愛された男の声が、九重を、縦横無尽に支配していた。
『完』