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ソフィエ・ブルイング最初の事件

この本はぼく、ソフィエ・ブルイングの出会った事件を書いたものだ。

ぼく自身は至って謙虚な人間なのだが、なぜこんなものを出すことになったかといえば、いよいよ財布の底が見え、下宿先兼事務所である部屋を借り続けるのが難しくなってきたからだ。

そんな折、ぼくに長く仕えてくれているサントリ嬢が、これまでに解決した事件の真相を本として出版すれば印税が入ってくる上に依頼も増えて一挙両得だ、と提案してきた。人気が出るとは思えないが、まあ他にやることも特に無いので彼女にほぼ全文を任せることにした。

ずっと目にかけてきたし読み書きだって教えたのもぼくだから、そろそろ彼女にぼくを養って貰おうと思う。毎月給金を払っているし、彼女も快諾してくれた。

よって次の章からは彼女が筆を執る。よろしく。


--------------------------------------------------------------------------------


その日の目覚めは今でもよく覚えております。


私が2階にある私室のベッドで目を覚まし窓を開けると、朝露を滴らせた草木がさざめき、薄く煙った霧がそれらの青臭い香りを運んでおりました。さあこれは気分のいい午前中になるぞと意気込み、衣装棚からいつものワンピースを出して着替えました。その上から簡素なエプロンを付けると仕事着とします。


それらを身に着けて事務所の有る1階へ降りようと階段へ足をかけると、1階から愉快な朝を台無しにするようなヒドい金切り音が聞こえてきました。

しかも少しずつその音程は変わっていき、その時は朝から家畜を絞めているのかと思いました。


どうしたかと急いで階段を降りると、そこでは普段からボサボサの灰色がかった茶髪を更に寝癖で飛び散らせ、意識して瞼を開かなければ常に睨んでいるように見える酷い吊り目をした長身の男性がおりました。私の身長では大体の男性は長身になってしまうのですが。


そしてその男は紛れもなく私の雇主であるソフィエ様であり、その人は事務所兼応接室のど真ん中で妙に横に長いラッパを吹いていました。


ソフィエ様は変人の代名詞たりえると思っている私でしたが、良い目覚めを台無しにされた今度という今度には流石に我慢なりません。誰であれ起床するというのは辛いものです。そのため快く起床できた日は大切にしたいと私は信じているのです。


「おはようございます。今日はお早いお目覚めですね。しかしまだ5時だというのに、こんなヒドい音を出したらご近所様から文句を言われますが。なぜラッパを吹いているのですか?どこでそんなものを手に入れました?」

私はそう苦言を呈しました。


「おはようサントリ。質問は1つずつにしてほしいな。あとこれはラッパではない。見たまえ、横に構えてるじゃないか。ラッパというのは前方に向かって構えるんだ。これは昨日、質屋で流れになったものを買ったんだ。たしかいくつか隣の国の伝統的管楽器でアトリオというものだ。胴部が入れ子になっていてね、3層重なっているんだな。そして各層をヒネると表層についた穴が内部で塞がり音が変わるんだ。そして何故僕が笛を吹いているかというと、誰だって新しく手に入れたものは試したくなるだろう?これでも夜の間はピーヒャラ吹くのを堪えたんだぜ。確かに心地いい音ではないが、まあこの国の人々はこういう音楽が好きなんだろう」


彼はそう言うやいなや、また笛を吹き始めました。


ソフィエ様は夜間の笛を我慢したという理由で朝の騒音を正当化した上に、自身の演奏技術を他国の文化に責任転嫁してしまったのです。私は呆れてしまって、それ以上何か言うのをやめました。


私たちが共同生活を始めてから、つまり彼に買われてから8年ほどになりますが、ここ2年ほどはもう彼の奇行を押さえ込もうとするのを諦めました。はじめのうちはどうにかソフィエ様の突飛な行動を諌めようとしていたのですが、彼は相当ひねくれていると見えて、そのたびに一層酷くなるのでした。

私が13歳の時に、街の人々を捕まえては質問を繰り返すのを止めさせたら、翌日には市場で貴族批判を始めたこともあります。あの時ほど肝が冷えた時はありません。監督官の方々の目に入らぬよう、私が迷子のふりをして彼らの気を引かねばなりませんでした。


更に彼は酔うと「自分には前世の記憶がある。自分は生まれ変わりだ」などと即興で歌い出すので、それを聞いたご近所の方々からは益々白い目を向けられるのです。これで現在27歳だというのですから今後更に変人ぶりに磨きがかかるのかと思うと夜も眠れません。


「あまりお金が無いのですから、無駄遣いは程々にしてください」と忠言すると、私は日課である表の掃除に移りました。箒で石畳を叩き終え、事務所に掲げている看板を見上げます。表の看板には霧によってしっとりとした木の葉が張り付いたので、それを取り除きました。その看板にはブルイング相談事務所と書いてあります。


ソフィエ様は《相談屋》なる商いをしていまして、私はその助手を勤めています。ですが何をされているのかはよくわかりません。お客様が来られた時に私がすることは、ソフィエ様とお客様にお茶を出すだけだからです。もちろんこんな怪しげな場所にやってくる人など殆どおらず、常に閑古鳥が鳴いています。なんとか二人で食べて、たまに遊ぶだけの蓄えはありましたが、いつまで保つか分かったものではありません。

何度も足を運んでくれるごく一部のお得意様によって私たちの生活は成り立っているのです。


掃除を終え事務所に戻るとソフィエ様はもう笛に飽きたと見え、椅子に座って考え事をしておられました。私はそのまま右奥にある小さな台所に向かいました。主の朝食を用意するのも私の仕事です。この人の生活能力は決定的に欠如しているのです。私室の掃除をした痕跡すら見たことがありません。


この家の台所は常にきれいです。私がそう保っているからだという自賛したい気持ちもありますが、実際は流しがあるので掃除が簡単だからというのが主な理由です。私たちの市は下水が存在するので台所にも流しが備わっています。


ソフィエ様は朝食は簡素なものを好みますので、その日はパンと煮たタマゴとちぎった野菜、お客様がお土産として置いていったハムをひときれ用意しました。私は彼の食後に私室で同じものを頂きます。

ここまではいつも通りの一日だったのです。


その夫人が駆け込んできたのは、あと1時間で正午になろうという九時でした。

彼女は見た目から判断すると年齢は50前後、背は私より少し高いくらいで約160ソート程度(補注:1ソート=約1センチメートル)、お腹は小太り程度でしたが顔は頬が広くてむくれている用に見え、まるで道化師さんが作る風船の人形のようでした。髪は後頭部で丸く結ってあります。

その夫人は以前何度か来たことがあり、見覚えがありました。いつも違うドレスを着て、立派な馬車に乗っていらっしゃるのです。なので私はどこかの貴族の夫人だろうと見当をつけておりました。それは間違っていたことが後にわかるのですが。


「ちょっと待って下さい……貴方は確か、アカクキ夫人ですね?今日あなたがいらっしゃるというお話は伺っておりませんが……。まあぼくは幸運なことに毎日暇なので、いくらでもお付き合いしますよ」


「急な訪問だったことはお詫びするわ。言いにくいんだけど、ちょっと私の家でね。おかしな事件があったの。話を聞いてくれません?」


興奮しているのでしょう。彼女は大きな頬をブルブルと震わせながら立ったまま話し出そうとしました。


「立ったままもお疲れになるでしょうから」


と私は彼女に椅子を勧め、二人のために紅茶を入れるべく台所に向かい、彼女は軽く礼を言うとドスと音を立てて来客用の椅子に座って、机を挟んで向かい合っているソフィエ様に話しかけはじめました


「それでね、大変なのよ。私の家で、まあ夫が建てた家なんだけど。そこで変死体が出たのよ」


「変死体ですって?」

ソフィエ様は前のめりの姿勢をとり、いかにも興味津々といったふうでした。


この人は機嫌が良かったり何かに興味が湧くと猫背になる癖があります。変死事件の話に興が乗ったのでしょう。この街で起こる凄惨な事件は大抵すぐに衛兵が解決してしまいます。この人はそんな現状に不満を持っているような様子をたまに垣間見せます。


こんな態度を見せてはアカクキ夫人が気分を害すかもと心配しましたが、その心配は杞憂に終わりました。


「そうなのよ、我が家が完成してまだ一月なのに、酷いわ。それでね、衛兵が何人も来たんだけど、まったくわからない。お手上げだって言うのね。

挙句に事情を聴くだかで一日まるまる拘束されて頭にきちゃったわよ。しかも殺しじゃないかって言うの。犯人が私の家の関係者じゃないかって疑ってるふうだったわ。あんまり腹が立つから、私が知ってる中で一番こういう事件に詳しそうな貴方の処に来たってわけ」


私は淹れた紅茶を二人の前に並べるとソフィエ様の隣に腰を下ろしました。


「殺人!ふぅん……面白い、いや実に興味深いお話ですね。それでぼくのところに来たのはその麗しい新居の地価を上げたいってことですか」


「そうとも言えるわね。せっかくの家が突然不吉な家に変わってしまったんだもの。もしあなたの知恵を貸してもらえるなら嬉しいですわ」


「ええ、ぼくは今の仕事が駄目になったら不動産屋になろうと思っていますから、その仕事を任せるにはぴったりでしょう。ただ貴女に助言をしようにも、ぼくが知っている手がかりが少なすぎる。できればもう少し深くお聞きしたいな……」


彼は揉み手をしながら問いました。私は、今の仕事は既に相当駄目な部類に入らないのだろうか、と思いながらも口にしませんでした。


「そのつもりで来ましたの。もし貴方が解決できるならそれでもいいわ。解決できたなら報酬だってお支払いします。もうあの衛兵達が家をうろついてるのが我慢できません」

ソフィエ様はにこにこしながら事件の詳細を話すよう促しました。


「ええと、事件が発覚したのが昨日の朝ね。死体を見つけたのよ」


「貴方が?」


「私だけじゃないけどね。事件が起きたのは来客用の離れ。お客が来てたんだけど、その人に朝食の準備ができたことを伝えるために人をやったの。そうしたらその子が帰ってきて、声をかけても返事がないし鍵がかかってて扉があかないって言うのよ。よっぽど熟睡してるのかとも思って放っておいたんだけど、昼近くになっても起きてこなかった。そこで心配になって私と夫と使用人の三人で離れに行きました。そして外から声をかけても返事が無くて、いよいよこれはおかしいってことで夫と使用人、ああ、その時家にいた使用人は男女一人ずつだったんだけど、この時連れて行ったのは男の使用人ね。そして夫と使用人がドアに何度も何度も体当りして鍵を壊したのよ」


夫人は紅茶を見つめて私に訪ねました。


「このお茶、甘いのかしら?私ももう歳でしょ?体型を維持するのも大変だから甘味は控えているのよ」


お茶が甘いことを伝えると彼女は紅茶から目を離してまた話の続きに戻りました。


「そしてね、部屋に入ったらもう滅茶苦茶なのよ。まるで洪水の後みたいに家具が何から何まで部屋の奥に集まってて、バラバラに壊れてたわ。そしてお客の姿が見えないから探してみたら、ぐちゃぐちゃになった家具の一番奥からペシャンコになった死体が出てきたのよ。おかしいわ。ただの暴漢や強盗だったらこんなに部屋を壊せないでしょう?そんなことする必要もないし」


顔の前でずっと揉み手をしてお話を聞いていたソフィエ様は一層喜んで、その背は前後に揺れていました。


「よろしい!僕なら解決できるかもしれません。まだ断定はできませんがね。しかし、お話を聞いただけではまだ皆目検討つきませんので、すみませんが現場にご招待願えませんか?」


「来ていただけるの?ありがたいわ、お忙しい中本当にごめんなさいね」


「いえどうせ暇ですから。ところで衛兵はまだ現場にいるんでしょうね。今も捜査をしていますか?」


「ええ、私が家を出る時はまだ沢山いましたわ」彼女は答えました。


「このまま彼らだけで解決していたら、おそらく導かれる結論は自殺、または獣人の犯行ってところでしょう。彼らにかかったら蝶結びをほどくのだってバラバラに刻まなきゃなりませんからね」


ソフィエ様はそう言って跳ね起きると、今までずっと口を閉ざしていた私にニタニタと笑いながら命じました。


「出かける支度だよ。今からすぐ出るんだ。数日分が必要だな。一日では解決できない可能性が高い」



朝は涼しかったのですが、お昼から雲が減って太陽が覗いていました。


私たちはアカクキ夫人の乗ってきた馬車にそのまま乗せてもらって、彼女の家に向かうことになりました。外から見たときも高級そうな造りでしたが、中も外に負けず劣らずきらびやかでした。


座席はふかふかとしていて一面真っ白です。おそらく馬毛を使った高級品でしょう。

左右についた大きな窓には立派な彫刻が施された肘置きがありました。肘置きは私の腕三本分はあろうかというほど幅広く、上に大きなブドウが乗せられたバスケットが置かれています。


私が二人分の着替えを詰め込んだ旅行かばん二つを積み込んだところで、茶色のコートをしっかり着込んだソフィエ様が姿を見せました。この人はどんなに暑い日でも外出する時は必ず茶色のコートを着る拘りがあります。夫人、ソフィエ様、私の順で乗車しまして、夫人が御者に命じると馬車が石畳の上を走り出し、がたがたと揺れました。



「馬車が到着するまでにもう少し事件のあらましをお聞きしたい」

ソフィエ様がそう切り出され、夫人はうなずきました。


「まず殺されたのは誰ですか?」


「主人の弟です。商いをしていて、それなりに儲かっていたようです。ただそれなりに恨みも買っていたようです」


「それはどのような?」


「身内の恥を晒すようでちょっとお話しづらいですが……子供を低賃金で長時間働かせたり、給料の中抜きをしていたそうです」


「恨みがある人の犯行かもしれないってことでしょうか」私が雑感を言うと、


「それが一番納得がいく筋書きですね」と夫人は言われました。


「次の質問です。その被害者さんが死んだと思われる時間はわかりますか?」


「さあ……衛兵なら知っているかもしれませんけど、ちょっと私にはわかりかねます」


「事件現場は完全に密室でしたか?」


「ええ、その部屋は窓もないし出入り口はドア一つだけ。そのドアは確かに中から鍵がかかっていました」


密室も不思議ですが窓がない部屋というのも珍妙です。監獄だって小さな窓が有るものではないでしょうか。私は質問しました。


「窓がないなんて、その部屋は地下にあるんですか」


「いいえ、でも殆ど地下と言っても良いかもしれないわね。外観は大きいのに、その中にそれほど大きくない部屋が一つ有るだけなんだから」


「ええ!そこは客室なんでしょう。なぜそんな構造になっているんですか」

私は驚きました。お客をもてなす部屋にはとても思えなかったからです。


「それを知るには、この方のご主人について理解する必要がある」

ソフィエ様が私の顔を見ながら口を開きました。


「君は世間に疎いから知らなくても仕方あるまい。彼女の夫はオーガシ・アカクキと言って、既に齢五十後半なんだが、この近辺の市街では著名な建築家なんだよ。単純な形の巨大な外観と、その中にアリの巣みたいに部屋を配置する手法が貴族に大ウケしたのさ。そして貴族社会における流行の最先端になったおかげで今の地位を手にした」


「アリの巣と言うのは言い得て妙ですわね」夫人は微笑みながら相槌を打ちます。夫の建てる家に好意を持っていないのでしょうか。


「向こうに着いたら君もわかるよ、まるで古代の洞窟人間かモグラになったような気分になれるはずさ」ソフィエ様は私から視線を切り、次の質問に移りました。


「ドアについている鍵はどのようなものですか。何かの仕掛けで外からかけることはできませんか?」


「内側から鍵穴に鍵を入れてかけるようになっています。外には鍵穴がないので、基本内側からしか操作できません。ドアと壁の間に何かを通せるような隙間は無かったと思います。それと部屋の鍵は、壊れた家具の下じきになって落ちていたそうです」

ソフィエ様はうやうやしく頭を下げると、感謝の言葉を述べました。


「ありがとうございます。今のところはこれで結構。これ以上は実際に自分の目で確かめましょう」


そうして二人の話題は世間話に移りました。やがて夫人は話疲れたらしく、私達に断りを入れて寝てしまいました。


窓から後ろに過ぎ去っていく風景を見ていると、「たまにはこういう小旅行もいいだろう?」とソフィエ様は私にだけ聞こえるよう耳元でささやきました。


「行き先が殺人現場でなければ最高でした」私もささやき返すとまた首を窓の外に戻しました。


既に街からは少し離れて周囲には畑が見られるようになってきました。まだお昼ですのでじりじりと照りつける太陽の下で農家の方々が働いておられます。小高い丘の斜面に拓かれた果物畑で、顔に布を巻いた老人が木から小さな実をもいでいます。


「もう摘果の時期なのか」


「なんですか、その摘果というのは」


「木から不要な実を間引いてるんだよ」


「へえ、どうしてですか。成ったら成っただけ収穫したほうがお得な気がします」


「育ちが悪そうな実を摘んで、残した実がよく育つようにするんだ。そのほうが高く売れるんだよ。お腹が空いたな、ブドウを食べないか?ちょうどここにあるし」


「夫人に断らないと良くないですよ」この人といると私は、腕白な子供を躾ける教育係になったような気分になることがよくあります。


「いや、彼女はブドウを食べないよ。さっき甘味は食べないようにしてるって言ってたろ?それなのに馬車にこいつがあるということは、彼女は初めからぼくたちを連れて行く腹づもりだったのさ。少なくともこのブドウに関してはぼく達のために用意されたものだ。食べないと逆に失礼だ」


そういうことなら、と私も同意し、二人でブドウを食べながら外の風景に感想を言い合いました。


日が傾き初めた頃でしょうか。大分郊外に来たところで、私たちはとうとうアカクキさんの邸宅にの正門前に着きました。広い庭をお持ちのようで左右どちらを向いてもずっと遠くまで植え込みが続いて見えます。


南に面した正門をくぐると、左右に広がる庭の全容がわかってきました。


馬車が2台は通れるほどの大路が真っすぐ伸びていて、そこから木の枝のように両側へ小さな道がいくつも伸びています。小道に沿っていくつも小さな噴水が設置され、見ているだけで胸がすくような美景です。


そしてその大路の先にはこの童話に出てきそうな庭に似合わない、明らかにおかしなものがありました。


外見は長屋ほどの大きさで、壁面は白磁で出来ているように、一面真っ白でした。それはまるで巨大な鶏卵を縦に二つに割って、断面を下にして地面に貼り付けたようでした。

その殻には豪華な装飾がされた両開きの扉が付いています。


「なんでしょう、これは」私は馬車の中からそれを見上げました。


「さっき話したろう?これが巨匠オーガシ氏の得意とする建築様式だよ」


「はあ…」と私は気が抜けたような返事しか口から出ませんでした。


馬車が停まり、夫人が最初に降りると、私たちも連れ立って降車しました。


「いらっしゃい。まず部屋を用意させるわ。流石に事件のあった離れに泊めさせるわけにもいかないから」


夫人がそう言うと、いつの間にか馬車の前に立っていた、やや年配の男女二人組といくつか言葉を交わし始めました。白いシャツに黒いベスト、黒いズボンという服装とその態度から、この二人が話に出てきた使用人であることが見て取れました。


「この男は使用人のハストゥよ。何かあったらこの人に言えば用意させるわ」

と夫人は言い残すと、女性の方を連れてさっと庭のどこかへいってしまい、私たちは感謝の言葉を述べる暇もありませんでした。


残された使用人の男性が私たちに話しかけました。


「ようこそいらっしゃいました。私はここで雑務を担当しているハストゥと申します。先程いたのが妻のヨスキです。夫婦でアカクキ家に仕えております」


「仕えて長いんですか」私はそう尋ねました。

同じ使用人という立場からつい共感していたのでしょうか。


「いえ、この家の雑務をこなすために雇われたので、まだ初月ですよ」ハストゥ氏は人の良さそうな笑みを浮かべました。しかし歯切れが悪いそうな口ぶりで、


「早速お二人をお部屋にご案内したいのですが、今現在ご用意できそうなお部屋が一つだけしかありません。それは現在物置として使っている部屋なのですが……」

と言いました。


「ご心配には及びません。ぼく達はゴミ溜め同然の場所で身を寄せ合って寝たことがあります。眠ってさえしまえば猛獣だらけの密林でも見るものは同じですよ」


「しかしベッドも一つしかございません。何卒ご容赦願います」


「サントリが気にしないならぼくはその部屋で構いません。サントリ、それでいいかな」


私はソフィエ様と同室ということに異論はありませんでしたが、ベッドまで共にするというのはやや抵抗がありました。ソフィエ様を信用してはいますが、やはり私も一応は嫁入り前なのです。


どう答えたものか迷っていると私の考えを察したのか

「まあぼくは自分の寝床くらい自分で作れますよ。森で二ヶ月ほど生活してた時期があるんでね。部屋に案内してもらえますか」とハストゥさんに応えました。


主人は「自分で呼んでおいて物置に泊めさせるとは、アカクキ夫人は相当な傑人だね」と小さくぼやきましたが、ハストゥさんが扉を開けるときの音に紛れて聞こえなかったようでした。


ハストゥさんが開いた入り口らしき扉を通る時、私はそのすぐ横に、胸ほどまでの高さしかない小さな扉があることに気が付きましたが、その時は特に気に留めずソフィエ様を追いました。


扉をくぐるとその建物が普通の建築思想とは異なる思想によって設計されたことがはっきりしました。入り口から広さが全く変わること無く通路が奥に延々と続いていたのです。

壁は滑らかな表面で、一切の凹凸がありません。

ソフィエ様が洞窟と表現したのも納得です。窓が無いため壁にかけられたロウソクだけが光源として薄暗い通路を煌々と照らしています。

こんな家に住んでいたら私なら圧迫感ですぐ気がおかしくなってしまうでしょう。


そのまま直進すると左側に道が分岐していました。使用人の方が左折したので私たちもそれに従うと、そこは談話室のようで、カエデで仕立てられた椅子が三つ、それと金色に縁取られたソファが置いてあり、それぞれに人が座っていました。そしてその部屋も光源は部屋の四隅におかれた燭台のみで、太陽光の侵入口など一切ありませんでした。


あとで解ったのですが、この家には窓が一切ありません。緑青色に塗られた壁と、たまに飾られている絵だけがこの家の壁を飾り付けているのでした。


椅子に座っている三人は鉄の兜に革鎧、帯剣をしているため衛兵さんであることはひと目でわかりました。ソファに座り衛兵さんと何事か話している人は、恰幅がよく、赤ら顔に口ひげを生やしていて、柔和な印象を受けました。おそらくこの人がこの家の主にして設計者であるオーガシ・アカクキ氏なのでしょう。衛兵さんが優しげな雰囲気をしていることは無いからです。


四人の会話が途切れた時を見計らい、ハストゥさんがソファに座っていた赤ら顔さんに話しかけましたことで、この人がオーガシ氏である見立てが正しいことがわかりました。


「旦那様、こちら奥様がお連れになられたお客様です。お部屋に案内したいのですが、一番奥の部屋でよろしいでしょうか」


談話室にいた四人の目が一斉に私たちに向けられました。


最初に口を開いたのは、そこにいる衛兵さん達のまとめ役をしている方のようでした。

その顎には無精髭が生えており、頬には刃傷、彫りの深い顔で一度見たら忘れられなそうな人です。こんな人に詰問されたら、私なら恐ろしさで有る事無い事話してしまうでしょう。


「お客さん?困るんだよ人が増えると。あんたら何しに来たの。ここで起きた事件を我々が捜査中なの知ってるか?」


「ええ、そしてあなた方が何もつかめていないのも知っています。ぼくは夫人に、この事件を解決するよう依頼されました。このままだとあなた方は庭で蟻の行列を眺めて事件は終わり、になるでしょうからね」

ソフィエ様は両手を左右に広げ天井を見つめながら言い放ちました。


「何なんだお前は?お前のような素人に何を解決できるものか!こっちは遊びでやってるんじゃないんだ。夫人には助力など不要と言っておくからさっさと帰れ!」


「助力するなど誰も言ってませんよ。でもあなた方の協力があれば解決は早まるかもしれないな。どうです?あなた方はぼくに情報を渡す。ぼくはあなた方に事件の真相を教える。という形で協力し合うというのは……」


「ふざけるな!」衛兵さんのその怒号は部屋中を揺らすようでした。私はすっかり縮み上がってしまって、ソフィエ様の背後に隠れました。


「アカクキさん、忠告します。こんな妙な二人組を家に入れるべきではない。我々衛兵隊はいわば生き物みたいなもんです。そこにこんな異物がいたら全てがおかしくなっちまう」


オーガシ氏は顎に手を当て「まあ、まあ、そう怒らんでください」と言って浮気現場を目撃したかのように怒っている衛兵さんを宥めると私たちに言いました。


「妻のご友人なのかな」


「そのようなところです」


「何をしに来たのかな。今ちょっとこの家は立て込んでてね。あまりお構いもできなそうなんだ」


「お構いなく。ぼくは先程申しました通りこの事件を解決するために来ました。これは冗談ではないですよ。この事件は正直、夫人から伺ったお話だけでは解決できません。そこでこうして招待してもらったわけです。あなたのお屋敷を調べる許可をいただけませんか」


オーガシ氏は吹き出し、「わかった。君の話は夕飯の余興にはなりそうだな。わざわざ来てもらったのを追い返すのも悪い。たまには彼女の顔を立てんとね。好きに調べても私は構わんよ。ただ部屋は一番奥のを使ってもらいたい。人を泊めるための部屋ではないが、いま人を泊められる部屋はあそこだけだ」

と大笑いしながら言ってくれました。おそらく馬鹿にされているのは私にも伝わってきました。


「感謝します」とだけソフィエ様は言うとさっと背を向け、猫背になりながらひょこひょこと廊下に出ていきました。私は改めてオーガシ氏に礼をし、衛兵さんに謝罪をすると、大声で何事か喚き散らしはじめた衛兵さんを横目に退室しました。


廊下にもいた衛兵さんからの冷たい視線を受けながら、私たちはこの洞窟の更に奥へと移動しました。

物置に行くまでに部屋は六つしか無く、それぞれオーガシ氏の部屋、夫人の部屋、使用人室、浴場、食堂、貴重品室ということでした。いずれも廊下から分岐した通路の先にあり、まさにアリの巣を連想させました。

これが貴族に人気だと言っていましたが、こんな内装を好む貴族の気がしれません。


案内された物置は多少埃っぽく、窓もないため空気が淀んでいました。使い古されたベッドが壁際に一つ、あとは布をかけられた木箱や型落ちの家具が転がされている程度であまり散らかっている印象はありません。主人の私室のほうが汚いため感覚が麻痺していたのでしょう。ベッドはあまり大きくなく、寝られるのは一人が限界というところです。


ソフィエ様は持っていた旅行かばんを放り出すと「さっさと現場に行こう」と私の腕を引っ張っていきました。


外へ出る途中ハストゥさんに出会ったので、ソフィエ様は敷地の構造について聞き出しました。

南に正門があり、そこから東西に向かって伸びている庭。その庭の北に母屋が面していて、更にその北側に離れがある、とのことです。私たちは礼を言うと離れに向かいました。


離れは母屋から三分ほど歩くと到着しました。正門からは母屋のかげに隠れて見えなかったのですが、こちらも変な外観で、半球をしていました。ちょうど、料理用のボウルを裏返して地面に乗せたような感じです。そして母屋と同じように、巨人の腰掛けかと思うほどに巨大でした。


普通の建物ならドアが有る部分に、四角い通路があり、そこの奥にあるドアが入り口のようです。


入り口の横に衛兵さんが一人立っています。ソフィエ様は私に、衛兵がなにか言っても黙っているように、と命じると堂々とその入口へ向かいました。衛兵さんがこちらに気づき当然呼び止められました。


「ちょっと待て、ここは立ち入れんぞ。どういう理由で来た」


「市から命じられて来た戸籍の管理係でブルイングと言います。提出された死亡届に不備がありましてね。遺体安置所にある死体を見てもどうにもわからない。不明瞭だってんで詳しく聞いてくるよう私が使わされたんです」


そのあまりに堂々とした嘘に私は目が丸くなっていたでしょう。


「役人か。確かに訳のわからん事件だが、報告が上がるまで待てないのかね」


「今回の件は結構な数の貴族が注目していてね、上から突っつかれてるんですよ。なんたってあのアカクキさんの家で起きた案件ですから」


「そっちの子は?」私を顎で指して言いました。


「私の女ですよ。下女と遊んでることが妻に伝わると面倒なんでね。こうして街から離れた機会には、ね、貴女も男だ。わかるでしょう。このことは内緒にしてくださいよ。上に知られたくない」


ソフィエ様は彼の手を取り握手を交わしました。その手の中に銀貨が入っていたのを私は見逃しませんでした。


「まあいいけど、あんまり時間を取らせんでくださいよ」


「ええ、私もあまり時間を取りたくない。せっかく妻の目の届かない所にいるんですからね」


そうして会話を切ると私たちは通路に入りました。ここなら見張りの人からは見えません。


「よくそんな嘘がすらすら出るものですね」


「全くの嘘ってものでもないよ。ぼくがその気になれば公職だって務まるはずだからね」


「貴族の生まれじゃないのですから役人にはなれないでしょう」


私の反論を黙殺した彼は通路の壁に張り付き、入念に調べていました。その様子はまるで店先の玩具を見つめる子供に見えました。


「ここを見てみなよ。壁に細い切り込みがあるぜ。こっちにもある。上下左右に切り込みがある。その上こいつらは繋がってる。これは一本の線なんだ」


「その切り込みを使って密室を作ったということでしょうか」


「そうとはまだ断定できないな。でもこの壁は石で出来てる。決して自然に割れたってことは無いと思う。そうだとしたら割れ目が綺麗すぎる」


私たちは一旦壁の切れ目については保留して、室内を調べることにしました。


その部屋は細長く、入り口から奥までおおよそ二十歩、右の壁から左の壁まで六歩という程度の大きさでした。しかし建物の外観から予想されるほどの長さではなく、巨大ボウルの直径の半分にも届かないのではないかと思われました。


そして母屋と同じく一切の窓がありませんでした。壁には衛兵さんが吊るしたのでしょうカンテラがかけられていました。

部屋の四隅には同じく衛兵さんが立てだだろう燭台が置かれていてロウソクの火が踊っています。

これらがもたらす光量のおかげで部屋は明るいのですが、それによりかえってここで起きた惨状が浮き彫りになっていました。


部屋に設えられていたであろう調度品は部屋の入口付近には全く見当たらず、それらの死体とも言うべき残骸が部屋の奥にだけこんもりと山を作っているのです。まるで洪水か暴風の壁によって部屋を手前から奥に押しつぶしたように見えました。残骸の山が一箇所だけ取り除かれている箇所があり、そこに死体があったのだろうということが察せました。


私はこの部屋から気味の悪いものを感じ、早く出てしまいたいと思いました。


しかしソフィエ様はそんなもの些かも感じていないようで、さきほどと同じように壁と床を調べていました。


一通り壁と床、そしてドアを調べ終わると、次は壊れた家具を観察し始めました。


「ここに置かれていた家具は全て高級品で、かなり大型のものが多かったようだ。強盗だったらこんな荒らし方はしない。家具を壊す必要も残骸を部屋の奥に集める理由もない」


「家具の一部を持ち去ったんでしょうか?それを隠すために全てバラバラにした上で復元し辛いよう一箇所に集めたとか」


私の頭で天啓が閃きました。


「そうです。おそらくそれは被害者の殺害に使われたか、何かしら関与しているに違いありませんよ!その痕跡を消すために犯人は死体を残骸で潰したんです!」


「死体の痕跡を隠したいなら死体を何処かに持ち去ったほうが確実だ。それにどうやってこの部屋は密室になったのか説明できない?さっきドアを調べたが、たしかに鍵は内側からしか操作できない錠だった。鍵を使わなきゃ開閉できないし、その鍵は家具のゴミの奥から出てきているんだぜ。鍵の上に山盛りの木片石片を乗せてから入口のドアを開け、外に出たのち悠々と鍵をかけて行ったってことか?」


私はそれに対する反論が思いつかず、うんうんと唸るばかりでした。


「この部屋で調べられることはだいたい調べた。隠し通路の類は一切なし。あの小さな切り込みが隠し通路にでも通じていないかと思っていたが、そんなことはなかった」


「やはり犯人はドアから堂々と出ていったのでしょうか」


「うん、出入り口は正真正銘そのドアしか無い。家具の残骸は全て部屋の奥にあり、入り口付近には撒き散らされていない。ベッドが置かれていたのも部屋の一番奥だ。そして残骸の量から察すると、部屋の広さには不釣り合いなほどの量の家具が置かれていたようだ。アカクキ家なりのもてなしの心かもね」


私たちはその不気味な部屋を退出すると、先程の衛兵さんに質問をしました。

「ちょっと君、質問に答えてくれませんか?」


「分かる範囲でならいいよ。ただ俺が言ったっていうのは秘密にしてほしいな」


「ええもちろん。被害者がいつ頃に亡くなったかわかりますか?」


「ああそれは知らなくても仕方ないね。分かったのが今朝のことだから。検死担当の医者によると一昨日の夜中ってことらしい。ただ遺体の損傷がひどくて詳しくはわからないらしいね。」


「これで不備があったとこは大体埋まりましたよ!ありがとう、これはお礼ですよ」

そうしてソフィエ様はまた文字通り硬い握手を交わしていました。


母屋に戻る道中、噴水が有ったので、そこで私たちは作戦を練りました。

「関係者が事件当夜に何をしていたか聞いてみましょうか?」


「徒労になる可能性が高いね。でも何かを見落としている気がするから……聞くだけ聞いてまわろうか。何か取っ掛かりにはなるかもしれない」


ソフィエ様はすっかり日が傾いて赤色になった空を見つめていました。風も出てきて肌寒さを感じます。


「しかし立派な噴水だな、この水源はどこから引っ張っているんだろうね」


彼の横顔は夕暮れで赤くなっていました。


母屋に帰り着き、私たちはアカクキ夫妻と使用人たちに事件当時のことを聞いてみることにしました。


またあの蛇の体みたいな家に入るのか、と玄関先で私が気を重くしていると使用人、それも女性のほうが家から出てきました。


「お探ししましたよ。ちょうど夕食の時間です。旦那様も貴方のお話を聞きたがっていますよ」


「ええと、ヨスキさんでしたよね?ちょうどよかった、ぼくもあなたに用があるんです。時間は取らせないのでスープが冷める前に夕食には顔を出せますよ」


私はすっかりお腹が空いていましたが、主人の不興を買うのも嫌なので何も口出ししませんでした。


「いいえ、旦那様は食事の配膳が遅いと怒るんです。私はもう食堂に行きますから、一緒に行きますよ」


思いの外ヨスキさんは頑固で、私たちは彼女に引きずられるようにして食堂へ向かいました。私は内心喜んでいましたが。周りでは衛兵さん達が慌ただしく調査を続けていました。


食事は大変おいしく、特に香草を添えたマスのソテーが気に入りました。私は後でこれの作り方を聞こう、と決心するほどでした。

食事中、ソフィエ様は過去に経験した探検譚を面白おかしく語り、アカクキ夫妻を大いに笑わせました。

普段の食事は二人だけですから、賑やかな雰囲気に普段より私も口数が増えました。


食後に出されたお茶をのんびり飲んでいると、オーガシ氏が食事に満足したか尋ねてきました。

大変満足した。特にマスのお料理が良かったと伝えるとソフィエ様もそれには素直に同意しました。


オーガシ氏は笑顔を見せると

「この魚はすぐ北にある湖で採れたものなんですよ」

と教えてくれました。


「へえ、湖が有るんですか。もしかして噴水の水もそこから引いてるんですかね」

とソフィエ様が答えます。


「よくおわかりになりましたね!私は地下水道の施工もできるんですよ。自分の家を建てる時は思いっきり贅沢に引かせてもらいました」


「冗談半分だったんですが、そこまでとは。確かにあなたの才能と財力なら可能でしょう。本当に手の込んだ邸宅だ。これを建てるのに何年かけました?」


「ま、構成に二年、実際に立てるのに八年というとこでしょうな。国外から実力のある石工を募りました。国内のやつらよりも更に優秀なのが欲しかったんですよ。なんいっても自分の家ですから。国内のやつらは三年もしたら腑抜けてしまう。十年近くも工事に従事させるわけですから、本当に才能のある連中を集めたかったんです。言葉は伝わりづらくてもね。そうして彼らの頑張りが実って、とうとう先月にこの家が完成したんです」


「次は彫刻家を呼び寄せるのをお勧めしますよ」

ソフィエ様が笑ったような声を出しました。


「ところでお二人に質問があります」

そう唐突にソフィエ様は切り出しました。この人の話題の転換はいつも急なのです。


「一昨日の夜は何をしていましたか」


「私はお客さまと食事の後、部屋に戻りました。その後はずっと寝ていましたわ」

夫人が最初に答えました。


「弟と食事をしたあと離れまで送っていったよ。その後部屋で書き物をしてから寝たな」

とオーガシ氏も答えました。


けっこう、とソフィエ様が頷くと、質問を変えました。


「玄関の隣に小さな扉がありますね。あれはどこに通じているんです」


「地下水道ですよ。何か有った時の整備のために入れるようにしてあるんです。鍵はかけてませんが暗いし水道自体は結構深いのでウッカリ落ちると危ない」とオーガシ氏が教えてくれました。


「出入りは自由なんですね?」と私が聞くと、


「はい、誰でも入れます」と言いました。


「ありがとうございます。質問は以上です。ずっとあの扉のことが気になってたんですよ。これで今夜は眠れそうだ」


「今度はこちらから質問してもいいかな」オーガシ氏は言いました。


「ええどうぞ」


「ソフィエさんはサントリさんに十分な給金を払っていますか?」オーガシ氏は突如生真面目な顔で質問をしました。


「ええ、決して高給取りとはいいませんが、人件費が毎月の悩みのタネになる程度には」


「私は断ったんですが、事務所で働かせる以上は当然だって言われて……」私は気恥ずかしさを感じながら答えました。


「それは良いことです。私の弟なんかは酷かった。だからといって死んでいいとは思いませんがね」オーガシ氏はそう言いました。


「しかしあなたは弟さんが亡くなったのに悲しんでおられないように見えますが」


「三日目にもなるとね、悲しむのにも疲れてくる。そういうことですよ」オーガシ氏は悲しそうな顔をしました。


食事もお開きになり、私が部屋に戻ろうとすると、ソフィエ様に呼び止められました。

「地下水道を見に行く。大至急明かりを持ってきて欲しい」


「ええ?それは危ないと思いますよ」と私は答えました。

するとソフィエ様はムッとした表情で私を見ました。この目で見つめられると、睨まれているようで緊張してしまいます。

怒らせたら面倒なので、私は大慌てで物置に飛び込み、旅行かばんをひっくり返しました。確かランプをかばんに入れておいたはずです。無事、底からランプが出てきたので廊下を照らすロウソクから火をもらい、ソフィエ様に届けました。


「ありがとうサントリ、地下は危ないらしいからぼくだけで見てくる。部屋で待ってると良い」

この人が私を帯同させないのは珍しいことです。


でも私はあの薄暗い部屋で一人待つのを想像すると恐ろしくて、どうしてもついて行かせてほしいと嘆願しました。十分ほど行く行かないの押し問答をしていると、とうとう彼が折れ、渋々と言った感じでしたが私の同行を認めてくれました。


もう夜だというのに、衛兵さん達はまだ慌ただしくしていました。

談話室の前を通りかかったときに、衛兵さんのなかで一番偉いであろう傷跡の人に話しかけられました。

「よう役人さん。今度は野盗に転職か?」


彼はソフィエ様が大嘘で現場に入ったことを聞いたようでした。


「職業というのは人となりを示す一つの面にすぎません。ぼくの仕事が何であろうと、ぼくの本質を映しているとは言えませんね」ソフィエ様はいつもの屁理屈を始めました。


「いい加減にしろ!」ついに衛兵さんは顔を真赤にして激怒しました。


「勝手なことをするなと言ってるんだ。俺はお前らを捕まえて暫く留置場に繋いでおくこともできるんだぞ」


「あなた方はいつもそれですね。いずれ留置場は不幸な市民でいっぱいになるでしょう。暴動に気をつけた方がいい。ぼくたちは寝る前の散歩に行くので今夜はお休みなさい」


一方的に会話を打ち切り私たちはその場を離れました。意外にも衛兵さんは追ってきませんでした。


ソフィエ様は猫背になっていました。この人は他人を怒らせると機嫌が良くなるのでしょうか。


私たちは外に出ると、地下に繋がるという扉を探しました。

暗かったせいで、見つけるのには少しかかりました。


扉を開けるとすぐに階段となっていて、腰をかがめて暗い階段をずっと下りていくと、やがて水平な地面になりました。

カビの匂いがしていてあまり長居したくない場所です。どこからか確かに水が流れている音もしました。上にある家も洞窟と言った感じでしたが、こっちは本当に洞穴でした。左側に石壁があり、それに左手を添えて進むとやがて右手に石で舗装された水路が現れました。


水路は北に続いているようです。そのまま道なりにゆっくりと進むと、やがて行き止まりに突き当たりました。右手を見ると、水路は何故かそこだけ丁字になっておりました。その分岐の先は鉄扉で閉ざされています。


「サントリ、ここまでで他に水路は分かれてたか?」


「いえ、私は水路をしっかり見ていましたけど、ずっと一本道でしたよ」


「そうか。ぼくはここまで歩数を数えてたが、ここは大体離れの下だと思う。整備用通路は母屋と離れの間にしかないんだ」


「なんだか変ですね」


「うん、でも地下から部屋に入れる通路があるとは思えない。部屋にこっそり入る方法がないことは保証できるよ。それこそ穴があくほど調べたからね」


私たちは顔を見合わせ地上へと取って返しました。


地表の空気を吸った時、産まれて初めての呼吸とはこういうものか、と実感しました。あれ以来私は地下が苦手になってしまいました。


ソフィエ様はコートに付いた土埃を手で払うと、「先程見た鉄扉について尋ねるためオーガシ氏の部屋に行く」と言いました。

私は同意し、二人でまた蛇のような廊下を歩いて、氏の部屋前に行くと彼は素早くノッカーを鳴らしました。


部屋の中から、はい、と声がして少しすると戸が開き、些か迷惑そうな彼の顔が姿を見せました。

「こんばんわ。地下を見ました。あの鉄扉は何のためにありますか?」

ソフィエ様は早口で問いました。


「ああ……あれは水量が多いときに開けて水路に流れる水を減らすんだ。そうしないと噴水が壊れてしまう恐れがあるんだよ」オーガシ氏はそう説明しました。


「あれはどこから開閉していますか?」


「そんなことがこの事件に関係あるのかね。」とオーガシ氏はうんざりしたようでしたが、「この部屋で操作できる」と答えてくれました。


ありがとうございます、と謝辞を述べて去ろうとすると彼は頬を吊り上げて「こんな情報で解決できるのかい」と言いました。


「さあ、とにかく考えてみますよ」ソフィエ様は片手を上げてそう答え、私たちの部屋へ引き上げました。


ソフィエ様は私がベッドいくら勧めても、木箱を集めて作ったベッドのなりそこないから頑として動こうとしませんでした。

ベッドもどきの上でずっと「何か間違えてるのか……?奇妙な地下と密室……いやそうじゃないのか?」と独り言を繰り返しているので傍から見たら不気味です。

仕方なくカビ臭いベッドに寝転んだ私の方はというと、もう今回の事件は人の仕業に思えず、超自然的な現象か、大自然の脅威か、と考えておりました。


いよいよ眠気が頂点に達し、私は

「私はもう今日は休ませてもらいます。たくさん歩き回ってすっかり疲れましたわ。今朝みたいに酷いラッパを鳴らさないでくださいね」

というとすっかり眠る体制に入りました。


うとうとし始めた頃、「そうか!ラッパだ!いやラッパじゃない!お手柄だぞサントリ!」という大声が私の目を覚ましました。


隣を見るとベッドもどきの上でソフィエ様が大笑いしながら体を前後に揺すっていました。

「可能なのか……?いや可能にしたんだ!それだけの時間が犯人には有った!なぜ気づかなかったんだ!」


私は困惑して「はあ」と気のない返事をするのが精一杯でした。


「ぼくはこれから自分の考えが正しいかどうか確かめに行く」

そう言い残して部屋をあっという間に出ていってしまいました。

私は寝間着に着替えていましたし、また眠気が襲ってきましたので、主に付いていくことができず、お恥ずかしい話ですがそのまま寝てしまいました。


私が揺り起こされると、そこには全身泥に濡れたソフィエ様がいました。

「ああ!その泥のついた手で私の服触りましたか?!」


「触ったよ。寝起きのところ悪いんだが、僕の着替えを出してくれ。全身びしょびしょでね」


私は起き上がり彼用の旅行かばんを開けると、眠るための服と体を拭くためのタオルケットを並べました。


私の服につけられた泥を拭いていると、ソフィエ様が「明日夫人に事件の真相を伝えるよ」と言いました。


「ええっ!本当に解けたんですか?」


「九割間違いない。動機だけはわからないが」

言って服を着替え始めました。


私はすっかり興奮してしまって

「早く教えて下さいよ!それは泥だらけになったのと関係があるんですか?」

と聞くと


「いや、これは水路が確かに離れの下まで続いていることを確かめていたら、水路に落ちてしまっただけなんだ」と顔をしかめました。


その夜はいくら尋ねても、「今は駄目だ。何度も説明するのは面倒だし」と言って絶対に教えてくれませんでした。


興奮のせいで目が覚めてしまった私は、なかなか寝付けませんでした。


そして翌朝、私が起きるとベッドもどきは既に解体されていて、主人の姿は部屋のどこにもありませんでした。


私が着替えて廊下をずっと歩いていくと、衛兵さんがいて、談話室に皆集まっていると教えられました。

談話室に行くと、関係者全員と衛兵さん達が所狭しと集まっています。

部屋の中心にいるソフィエ様に

「遅いぞ、主人より遅く起きる召使がどこにいる」とたしなめられました。


そうして彼は堂々とした態度で声を上げました。

「皆さんに集まってもらったのは当然、謎が解けたからです。依然謎の部分もありますが、そこは衛兵の皆さんがたっぷり絞って聞き出せばよろしい」


傷跡の衛兵さんは

「本当に解決できたわけがない。事件を解決させるのは経験なんだ!」

と怒り心頭です。

アカクキ夫妻は、不安半分、興味半分といった具合の顔をしていました。


ソフィエ様は部屋を見渡すと、誇らしげに説明をはじめました。

「まずぼくがこの事件の詳細を聞いた時、最初に疑ったことは鍵に仕掛けがあるか、または壁や床に隠し通路があるか、でした。これらがあったら密室は密室たりえませんからね」


「有るわけがないだろう。そんなもの我々も調べている」衛兵さんが言いました。


「ええ、あなた方の調査は賞賛に値します。たしかにそんなものはなかった。つまり犯人は部屋に入らずに殺人を犯したことになる。ここにはちょっとした仕掛け、いやちょっとではない、大仕掛けがあったんです」


ソフィエ様は横笛を吹く真似をすると、

「皆さんはアトリオという楽器を知っていますか」

と切り出しました。


どうやら部屋中の誰も知らないようで、ソフィエ様は面倒そうに苦い顔をすると、楽器の解説を始めました。


「アトリオというのは近隣の国の管楽器です。その特徴は胴部が三重になっていて、捻ることで出す音を変えるんです。今回の殺人はこれと同じことが行われたのです。あの半球状の離れは大きな岩をくり抜いて作ったように見えます。しかしあれは大きく分けて二つの部品で出来ているんです。地表を覆う外殻部分、そしてそれに覆われた巨大な球部分です。便宜上内球と呼びましょう。あの部屋は内球に作られているんですよ」


「どういうことなんだ?」

と衛兵さんは首をひねりました。私もよくわかっていません。


ソフィエ様は続けました。

「おそらく球は特別な仕掛けにより回転するはずです。それによって被害者は殺されたのです」


「なんですって?!」

私は大声を上げていました。それは他の人も同様でした。


説明は続きます。

「おそらく、内球は地下に水を溜めておくための空間があるはずです。それは地下水路の鉄扉から通じています。これは衛兵の人たちが後で壁を掘り続けるなり、水路を調べるなりすればよろしい。そして水を溜めると、その重さで球は回転、部屋はすっかり垂直方向に向けて傾きます。すると部屋に設置されていた家具、壊れる前はどれも大きくて重そうな家具でしたね?それが部屋の奥に向かって滑り落ちます。ベッドは部屋の奥に備えてありました。そこで寝ていた被害者は、重力によって勢いを得た家具に潰され死んでしまったのです」


「傾けてる途中に被害者が目覚めたらどうするんだ?」衛兵さんの質問です。私もそこは気になりました。


「ある程度傾いてしまえば、もう問題ありません。気づいても出口はもう遥か上ですから。更にあの部屋は登るための取っ掛かりになりそうなものも無かった。人が足だけで登れる角度というのは案外低いんですよ。こうして被害者を殺害したあとは水を抜いて内球を元通りの角度に戻すだけです。これだけ精密で大掛かりな殺人屋敷だ。設計はさぞ慎重にされたでしょう。実験だってしなきゃならない。時間はとにかく必要です。そしてこの大仕掛けの噂が立ってしまったも台無しだ。だからこの国の職工は使えない。そのために遠くから言葉も違う職人を集めたんですよね。オーガシ・アカクキさん?」


オーガシ氏は何も言いません。

それは私も、夫人も、使用人夫妻も、衛兵さんも同じでした。

その時私は閃きました。


「そうか!離れの入り口にあった線は外殻と内球の境目だったんですね!」


「その通りさ。そしてこの方法なら鍵が家具の下にあった理由も説明できる。外に出ようとなんてしてないんだからね。更にこの家自体が文字通り動かぬ証拠というわけさ。不動産とはよく言ったものだね」


オーガシ氏はうなだれて何も言いませんでした。その沈黙が全てを語っていました。


「ただ、十年以上近い歳月をかけてまで殺人屋敷作った理由、そして弟を殺した理由まではぼくには推測できなかった。できれば連行される前に、本人の口から聞きたいんですがね」


部屋中の目線がオーガシ氏に注がれました。

オーガシ氏が顔をあげると、彼は満足した顔をしていました。

ついに彼は口を開きました。

「いや、妻はとんだ客を連れてきたものですね。こんなことならば逗留を認めなければよかった」


「いい奥さんだ。大切になさったほうが良い」ソフィエ様はいたずらっぽく言いました。


「私にはもったいないほどだ」


「犯行の動機、お聞かせ願えますか?」


「わかりました。お話しましょう。発端は私が若い頃、一旦の大工として働いていた頃です。当時の私は薄給でかなり険しい肉体労働をしていました。しかしある時、その給金が当時の法を犯しているほどの安さであることを知ったのです。私は当然怒りましたし、親方を信じられなくなりました」


「そんな……」私は思わず口に出していました。


「私はその頃から、他の人よりもちょっと仕事ができた。だから良い給料をもらえると思っていたんです。今から見たらとんだ世間知らずです。そして私は不当に労働者から搾取を行っている人が許せなくなった。義憤に駆られたというやつです。こいつらを生かしておくことは社会にとって良いことではない。だからいつか殺してやろう。そう思うようになっていました……。

そんな思いを秘めたまま、いつしか貴族層に取り入り成功を収め、結婚しました。そうして自宅を設計するというときに思いついたんです。今の自分は自宅にどんな人間でも呼べる立場にある、だから来賓を殺せる仕掛けを用意すれば、次々に悪人を消していけるんじゃないかと。

弟が私にとっての悪人であるということを知ったのは建築中でした。弟なら自宅の完成祝いに呼んでも不自然じゃないですから、この仕掛けの最初の対象になってもらおうと思ったんです。私は狂っていたのかもしれませんね」


ソフィア様は頷くと、すっかり黙ってしまいました。

そのとき、私は昨晩の夕食でオーガシ氏が尋ねた質問の本意を知ったのでした。


やがてどこからか拍手の音が聞こえました。驚くことに拍手をしていたのはあの傷のある衛兵さんでした。

彼はすっかり笑顔でソフィエ様に言いました。


「お見事。いや悔しい気持ちもあるのですが、それ以上に今俺は恥ずかしいですよ。ぜひお名前とご職業を教えてもらえませんか。失敬、こちらから名乗りませんとな。俺はアルトビ・ペローニといいます」


「ソフィエ・ブルイング。相談屋をしてますが、街中を散歩してる時間のほうが長いかな。そういう意味では衛兵とそう変わりませんね」ソフィエ様はにやにや笑いを隠さずに答えました。


そしてアルトビさんはソフィエ様と私に軽く会釈するとオーガシ氏の腰に縄を結び連行していきました。


ソフィエ様は夫人の方をちらと見ると、

「どうやら今彼女は傷心の極みのようだし、今日のところは退散したほうがいいな。帰ろうサントリ。せめて馬車は出してもらえるといいんだが」と言い、ハストゥさんに声をかけに行きました。


馬車を貸してもらい、帰路についている途中でソフィエ様が私に言いました。

「今回、君がラッパと言わなければ、ぼくは謎を解けなかったかもしれない。だから今回真に迫ったのは君なんだ。ありがとう」

今回はソフィエ様が本心からの言葉を口にしているのが私にもわかりました。その背筋は曲がっていませんでしたから。


こうしてこの事件は幕を閉じました。

オーガシ・アカクキさんが捕まったという大事件は皆さん新聞や公示人さんから知っているでしょうが、その裏ではこういった事情があったのです。

その後、夫人を直接お見かけする機会はありませんが、市の銀行で現金化できる小切手を持って使用人夫妻が事務所を訪ねて来られたことがありました。私はそのときにソテーの作り方を教わることが出来ました。


この事件以来、私がもしソフィア様に身請けされなかったら、どんな人生だったかを想像する時があります。それは、この歳まで生きていないか、路地裏で盗みを働いているかのどちらかで終わります。だからこれでよかったのでしょう。


そして最近、少しだけお給金が上がりました。お金がない要因の一つだと思います。

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