9話 変わった世界
木に葉はなく、時折吹く風に枝が少しばかり揺れる。寒いせいか、昼間なのに公園には誰一人いなかった。
美奈子がいなくなってから季節は廻り、世間は冬を迎えた。都会の冬はあまり雪がなく、個人的には過ごしやすいと思うが、何もないが故に寂しさも加速させられる気分だ。
美奈子の手紙を読んで真実を探し出そうと意気込んでからというものの、これといった手がかりは得られないまま時間だけが過ぎていた。
大学生だった私も、この冬を超えれば社会人となる。就職先の内定を貰い、長くお世話になったアルバイトも冬を迎える時期に辞めた。必要な単位も全部取得し終わって、授業にも出なくてよくなった。節約しながらの束の間の休息のような日々を私は送っていた。
だからこそ、その時間を美奈子のことに使っていたのだが難航するばかりだ。
立石先生に連絡をして降参しようかとも思ったが、その度に美奈子の手紙にあった『凛さんなら絶対分かる』という言葉が過る。そして諦めという行為を諦めて携帯電話の電源を切る。これを繰り返す毎日だ。
私が気づける範囲で変わったことはほとんどない。あるとしても、自分の環境が少し変わったくらいだ。明らかな変化は一つもない。
私はいつも話していたベンチに腰掛けた。美奈子がいなくなってからというものの、一気に日々がつまらなくなってしまった。美奈子がいる前の私ってこんなにつまらない日々を送っていたのかと新たな驚きがあった。
私はこうして今でもたまに公園に足を運んでいる。もしかしたら、死んでしまったなんて嘘で、からかうために手紙なんか書いて、ごめんなさいって悪戯っぽく笑って、隣でまた本の話をしに現れるんじゃないかって。もちろんそんなはずはないのだけれど、習慣となっていたことをやめるほどには体もまだ忘れられていないらしい。
大好きな本で気を紛らわせようとしても全く頭に入ってこなかった。尊敬している井沢先生の話でさえつまらなく感じてしまう。それくらいに私は美奈子のことで頭がいっぱいだった。
☆
結局、今日も手がかりはなく、いい考えが思い浮かぶわけでもなく、心が沈んだまま家に帰ってきた。そんなに急ではない傾斜の階段がひどく億劫に感じた。
重い足を引き摺るように自宅の前に辿り着くと、何やら見覚えのある三角座り少女が目に入った。私の存在に気づくと、目には薄ら涙を浮かべて立ち上がった。
「何でいつも来るときに家にいないの!?」
「そっちが勝手に来るからだよ……」
そう、雨の日に井沢先生の本を返しに来たときと全く同じポーズで座っていたのは穂乃香だった。来るなら連絡くらいしてほしいものだけど……。
「……まあ、とりあえず入って」
「はーい! お邪魔しまーす!」
物凄いスピードで機嫌を直した穂乃香は、陽気に鼻歌を歌いながら部屋に入った。友達とはいえ、一応他人の家だという自覚はあるんだろうか。慣れてるからいいけど。
いつものようにテーブルにお茶と林檎を出して、私たちは向かい合って座った。
「で、今日はどうしたの?」
アルバイトを辞めて本も貸していない今、穂乃香がここに来る理由はあまりないはずだった。
穂乃香は待ちすぎて要件をすっかり忘れていたのか、テーブルをバンッと叩いて鬼気迫る表情で私をじっと見つめてきた。
「井沢先生の最新作って読んだ?」
「ん? ああ、あの老夫婦のやつ?」
今回出された井沢先生の新作は老人がメインの話だった。主人公となるお爺さんが初恋をした相手と何年も時が経ってから結ばれるという恋愛小説だ。
穂乃香はうんと頷くと、険しい顔のまま低い声で言った。
「私的に微妙だったんだよ」
「ほう」
「何かねー。キュンとしないんだよね」
「またそういう感じの感想なんだね」
「何か面白くないの! 凛ちゃんはどうだった? 面白かった?」
自分だけが面白くないと思っていると不安なのか、穂乃香は少し眉根が下がって私の表情を伺っていた。
結論から言えば、私も面白くないと感じた。しかし、それは本当に私の意見なのか少し疑問が残る。ここしばらくは美奈子のことを引き摺っていて、過去に面白いと感じた本も面白くないと思ってしまう状態だったからだ。もしかしたら本来の私なら面白いと思っていたかもしれない。
少しこの質問の答えには迷ったけど、一応感じたままに面白くないと伝えた。すると少しホッとしたのか一息ついてから、再び激論モードの穂乃香に入った。
「やっぱりそうなんだよ! 絶対にキュンが足りてないんだよ!」
「穂乃香にとってキュンって大事だよね」
「大事! 凄く大事! あの若者の心をグッと掴むキュンがないの! 老けちゃったのかな?」
「まあ、元々おばさんだし不思議ではないけどね」
といっても、こんなに穂乃香が熱く語るのも珍しい。いつも元気な子ではあるけれど、否定的なことを直球で言うことはほとんどない一面がある。それが今回の井沢先生の作品に関してはこの状態だ。そんなに酷かったんだろうか。少し気になる。
「よし! 言いたいことは言った!」
そう言って穂乃香は鞄を手に取って帰る支度をし始めた。
「って、もう帰るの!?」
「え~、何~? 凛ちゃんもっと私といたいの~? やだ、可愛い~!」
「いや、そうじゃなくて、それ言うためだけに来たの?」
「そうだよ?」
何ということか。てっきり私は長居するものだと思っていた。というかこんな短い会話、電話で済みそうなものだ。どうも穂乃香は携帯電話の便利さを理解していない。
「……あの、一人じゃ林檎を食べ切れないから、一緒に食べてからお帰りください」
「ふふーん。仕方ないなー!」
未だに私が一緒にいて欲しいと思っていそうな穂乃香は、ひどく上機嫌で無邪気に林檎を頬張った。軽快な咀嚼音が心地いい。本当に穂乃香は美味しそうに林檎を食べる。
その楽しそうな穂乃香とは対照的に、私の頭はあることが原因でスッキリせず、少し冷めた状態で穂乃香と林檎を食べていた。
☆
穂乃香が帰った後、すぐさまそのモヤモヤを晴らすべく、パソコンの電源をつけた。インターネットを開き、よく使うネットショッピングのページを開く。そのまま操作を進め、井沢聖子の最新作である老夫婦の話の本のページに辿り着いた。
そこで私は信じられないものを目にした。
商品の評価が著しく低かった。もちろん、どんな大ベストセラー作家にだって不発なときはある。でも、今回のものはそんなレベルではなかった。
星一つすら付けたくないというような怒りの感想が連なっている。それこそ、穂乃香のように否定的な意見がそのままに書き出されていた。統計を目にしても、ほとんどが星一つ。あまり……いや、今まで目にしたことがないような光景だった。
「これは……」
随分と不思議な状況だった。