6話 悪気の雨
少し薄暗い雲が掛かった昼下がり。授業を早く終えた私は、いつもの公園へとやってきた。予報では午後から雨が降ると言われていたが、一応約束はしていたから来てみた。いつもは家族連れで賑わっている公園も、暗い草原が風に揺れる音だけが微かに鳴っているだけだ。
いつものベンチに腰掛けて、私は美奈子が入院している病院を見上げた。そう言えば、美奈子が入院している原因を知らなかった。昨日の悲しそうな目をふと思い出すと、余計に気になり始めた。
鞄に入っていたお茶を一口含む。ペットボトルの中身が波打って軽い音を弾ませると共に、あることが頭を駆け回った。
「意を決して聞いてみようかな……」
「何をだい?」
ポツリと呟いた独り言に返答が来て驚いてしまった私は体を跳ねあがらせた。顔を上げると、そこには白衣を身に纏った長身の男性がいた。柔和な笑顔で私を見下ろし、掛けていた黒縁メガネの位置を直した。
「ふんふん。あなたが凛さんですか?」
「何で私の名前を……」
「ああ、そんなに怯えないでください。私はそこの病院の医師の立石遥己と申します」
医者だということを聞いて、私は美奈子から私のことを聞いているのだと理解した。それ以外に私のことを知る術がないはずだ。それ以外で知ったなら……お巡りさんを呼ぼう。
「美奈子ちゃんの言う通り、やはり公園にいらっしゃっていました」
「美奈子の?」
「ええ。実は美奈子ちゃんは今日、急遽身体検査を行わなければならなくなりまして」
「急な身体検査……?」
酷く急なタイミングだったし、予想外のことだった。来れなくなるとしたら、理由は雨だと思っていた。病人を雨の中外出させるなんて病院側が許すはずもない。わざわざ言いに来てくれたのかと思っていた。
「美奈子、そんなに状態が悪いんですか?」
「ん~、いや。ただの身体検査さ。何かあってからでは遅いでしょう?」
「まあ、それはそうですけど……」
「ただ、美奈子ちゃんは約束があるってずっと言っていてね。でも外せない検査だから代わりに僕がやってきたってこと」
少し腑に落ちなかったが、立石先生はやや強引に話のペースを自分のものにした。でも先生がそう言う以上は信じるしかない。美奈子は病気の予防や早期対策のための検査を受けているのだと。
おそらく先生は私の渋面を見て信じ切っていないことを悟っていただろう。それでも表情は一切変えず、私の隣に腰掛けた。
「美奈子ちゃんが心配していたよ」
「心配?」
「うん。何でも凛さん、一人暮らしなのに生活費とか全部自分で稼いでいるんだって?」
「はい。親とはそういう約束で東京に来ましたから」
「学生なのに凄いね。ましてや東京の家賃なんて高いだろうに」
先生はふっと空を見上げた。公園に来たときよりも雲が分厚く、世の中を更に暗くしていた。
「それでね、無理して公園に来させて相手してくれているんじゃないかってね」
「そんなことないです!」
私が全力で否定すると、勢い余ってベンチから立ち上がってしまった。先生はしばらく目を丸くしていたが、その後に小さく笑ってゆっくり立ち上がった。
「美奈子ちゃんにはそう伝えておくよ。大人しそうな女子大学生が声を張り上げちゃうくらいに否定していたってね」
「……先生って大学時代、結構遊んでいたでしょう?」
「あらら、バレた?」
「はい。何か手慣れた揶揄い方です」
半目で先生の方を見ていると、先生はとぼけて舌を出して右手を頭にやった。大学病院の医師であることすら疑わしくなってくる。
「まあ、とにかく伝えたかったことは美奈子ちゃんは今日は来れないからごめんねってこと。凛さんも雨が降らないうちに帰ってね」
「分かりました。わざわざありがとうございます」
「いえいえ。じゃあ、僕は仕事に戻るよ」
先生は私に背を向けて右手をひらひらと振った。その姿が公園の出口に差し掛かったところで、私も鞄にペットボトルを入れた。美奈子が来れないと分かった以上、ここには用はない。鞄を肩から掛け、私は帰路についた。
大丈夫。先生もああ言っていたから、きっと明日にでも会える。明日は天気予報も晴れだから。
☆ ☆ ☆
耳を劈くような雨音が世間に響き渡る。車が挙げる水飛沫ですら小さな物音の世界。結局私は雨に降られてしまった。折り畳み傘を持っていたおかげで大惨事ということにはならなかったけど、ところどころ濡れてしまっていた。
傘に付いた水滴を落として部屋の前に向かう。すると私の部屋の前に一人の女性が三角座りをして顔を伏せていた。髪もひどく濡れてしまっている。おそらくこの雨に打たれたのだろう。
もう少し近づいてみると、その人物が誰か分かった。それと同時に女性は私の姿を確認し、目に涙を浮かべながら抱きついてきた。
「うはーん! おかえり凛ちゃーん!」
「はいはい、ただいま」
そこで待っていたのは同じ大学に通い、アルバイト先も一緒の穂乃香だった。頭をぐりぐりと私に押し付けながら泣き続ける。余計に濡れるからやめてほしい。
穂乃香の状態は至って酷いものだった。遠くからでは髪くらいしか見えなかったけど、近づいて見てみると全身がずぶ濡れだ。濡れていないのは抱え込んで守っていたのか、鞄と腹部だけだった。
私から離れない穂乃香を引きずって、私は家の中に入れた。そのまま服を脱がし、風呂場へと放り込む。何とかしないと風邪を引いてしまいそうだったから。
風呂場の前に着替えとして私のジャージを置いて、ベッドに身を投げた。何もしていないけど、ドッと疲れが押し寄せてくる。アルバイトと美奈子との会話が日課だったこの頃だったから、何もない日というのは違和感がある。
いや、それ以上に、疲れる理由を私は知っている。美奈子の身が心配ということだ。明らかに先生の反応は普通ではなかった。普通の検査だと先生は言ったけど、それならなぜあんなに焦りの色を出すのだろう。考え出すと止まらなかった。
「凛ちゃーん! このジャージ着ればいいのー?」
「うん」
風呂場の方から穂乃香が聞いてくる。どうやら体を洗い終わったらしい。
しかしこんな雨の中、穂乃香は何の用事で来たんだろう。そんなに急ぎのものなんだろうか。
頭をバスタオルで拭きながら穂乃香が居間に入ってきた。メイクが落ちてジャージ姿だったけど、可愛らしいので何だか腹が立つ。そして胸の辺りが苦しそうなのも腹が立つ。
「それで、どうしたの?」
「あ! そうそう! 何のために来たのか忘れてた!」
穂乃香は鞄の中をゴソゴソと探り、一冊の本を取り出して私に手渡した。これは先日、私が穂乃香に貸した井沢聖子の小説『惹かれ合う人』だ。そうか、これを濡らさないために鞄を抱え込んでいたのか。
「また挫折?」
「馬鹿にしないで! 全部読んだの!」
「嘘でしょ!?」
「本当だよ! 読み始めたら面白くて、どんどん進んだの!」
これは意外だった。どうせ読めずに泣きながら返してくるものだろうと勝手に思っていた。これは何だか悪い気がする。
急とはいえ、一応お客さんではあるから、冷蔵庫から麦茶と切った林檎をテーブルの上に置いた。
「で、どうだった?」
「凄く面白かった!」
「……」
「……」
これ以上待っても次の感想は来なさそうだった。まあ、これはある程度は予想していたことだ。穂乃香は良く言うと真っ直ぐな人だ。こういう小説や漫画などに関しては面白いか面白くないか、或いは好きか嫌いかくらいの感想しかないだろう。
それでも、私のお気に入りの小説を面白かったと言ってくれたのは嬉しい。広く考えれば私も同じ感想だ。この小説は面白い。
「ラストシーンなんかキュンキュンしちゃった!」
「あれ良いよね」
「うんうん! あれからちょっと気になって井沢聖子先生をネットで調べたんだけど、結構おばちゃんなんだね」
「そうだよ。私も初めて見たときはちょっと驚いたな。もうちょっと若い人かと思ってた」
「は~……少女の心を忘れないなんて素敵~……」
どうやら結構感動してくれているらしい。こういう姿を見ると貸した私も更に嬉しくなる。
井沢聖子先生にすっかりはまった穂乃香は、私の本棚から何冊か井沢聖子先生の本を抜き出した。もちろん、『惹かれ合う人』以外も名作揃いだ。自分が思っているよりも気分が舞い上がっている私は、次々と穂乃香に本を紹介していた。穂乃香も笑顔でうんうんと頷いて聞いてくるものだから、益々私は止まらなくなる。
雨は止むことはなく、結局穂乃香は泊まっていくことになった。一日中、本の話をしていた。
――どうせ読まないだろうなんて思っていてすみませんでした。