5話 暗い瞳
『惹かれ合う人』
主人公は田舎の実家を離れて東京で暮らす高校生。しかし、彼が東京に出てきたのは夢があるからではない。ただ両親から離れたかっただけだった。その確執から逃げるように東京に出てきた主人公は、夜の下校時、一人の少女と出会う。少女は両親を交通事故で亡くした子で、保育所に預けられていた。嫌いな親といない親。二人が抱える両親像から、次第に繋がりを見せていく。
☆
私は今日も心を躍らせながら公園へやってきた。いつしか美奈子と会う時間は私にとって最大の楽しみになっていた。私が初めて意見交換をした相手。それが自分でも可笑しいくらいに嬉しいものだった。
ベンチに腰掛けていると、白いワンピースを着た細身の少女がゆっくりとこちらにやってくる。私は立ち上がり、車いすの後ろに回り込んで押した。
「こんにちは、凛さん」
「こんにちは」
美奈子も可愛らしい笑顔を浮かべながら振り返った。相変わらず細い体をしていて、今にも折れてしまいそうだった。
ベンチの隣に車いすを止め、ストッパーをかけた。美奈子が小声で「ありがとうございます」とお辞儀する。
「今日は『惹かれ合う人』の約束だったね」
「そうでしたね。……あれ? 今日は本は持って来ていないんですか?」
「あ~、うん。大学の友達が読みたいって言ったから貸したんだ」
「そうでしたか。そのお友達さんからも、貴重な感想が聞けるといいですね」
「まあ、一回途中で諦めた経験のある奴だから、あんまり期待はしていないけどね」
自嘲気味に笑い、私は視線を落とした。そして今日話すと約束していた『惹かれ合う人』のストーリーを脳内で展開していく。
「凛さんはこの話、好きって言ってくれていましたけど、どの辺が好きなんですか?」
そう、私はこの話が大好きだ。尊敬する井沢聖子先生の作品の中でも一番と言っていいくらい。以前、その話を美奈子にすると、彼女もまた同じだった。運命的な出会いから始まる人生の転機。現実離れしていると言えばそれまでだが、その現実から離れた理想が私の心を動かした作品だ。
「最後の一文かな」
「最後の一文というと……ニュートンの下りですか?」
「そうそう。あれ。私の思考もああいう風にならないかな~って、ちょっと羨ましかった」
『惹かれ合う人』の作中にはニュートンが出てくる。万有引力の法則を発見した言わずと知れた物理学者だ。あくまで説だが、彼は木から落ちる林檎を目にして、万有引力の法則を見つけ出したという。
「何かさあ、木から林檎が落ちたら『落ちた』としか思わないじゃん。引き寄せるとか、押されているとか全く考えない」
「確かにそうですね。色んな物理学の発見がニュートンの発見以前にあったとはいえ、なかなか考え付かないことです」
「その一見、落ちたっていうマイナスイメージを発見に繋げる。それが主人公たちの関係とマッチしていて私は凄く好きなんだ」
主人公と少女の関係性は本当に些細なことから始まる。主人公が学校の帰り道を歩いていると、前から来た小学生の少女が主人公の目の前で転倒する。さすがに放っておけなかった主人公は、持っていた絆創膏を貼ってあげて別れる。それから、帰り道ではよく会うようになって仲良くなる。
主人公の親と仲が悪いという複雑な事情を、小学生の少女が単純な思考で解決する。その大人の考えすぎる部分と子どもの考えない素直な部分が絶妙な作品だ。
そして私は、この作品を読み終えたとき、面白かったとか感動したという感想よりも真っ先に浮かんできたものがある。『羨ましい』だ。
私は落としていた視線を美奈子に向けた。
「私もさ、あんまり親と仲良くないんだ」
東京に出てきて大学に通う理由。学歴が欲しいから。学びたいことがあるから。周囲にはそう言ってきたが、実際は親から逃げたかったからだ。その点が主人公と被ってしまい、最終的に新たな道を見つけ出した主人公がとんでもなく羨ましかった。
「逃げるように東京に出てきて、一度も実家には帰っていない。連絡もあんまりない。あるとしたら、実家から送られてくる林檎に一言メッセージが添えられているくらいかな」
いつも『帰って来ていいんだよ』とワンパターンではあるけど、母親は懲りずに入れてくる。どう転んだって帰るつもりなどないのだけど。
「あの、差支えなければ、お話を聞くことってできますか?」
遠慮がちに身を縮ませながら美奈子が顔を覗き込んで来た。普通なら拒否しているところだ。出会って間もない高校生くらいの少女に家庭の事情など話すはずがない。それでも、気づけば美奈子には親と仲良くないことを喋ってしまったし、詳細を話そうとする自分に対しても何一つ嫌な感情が湧いてこない。一体彼女の何に惹かれているのだろうか。
それから私は美奈子に家族との話をした。
私の実家は長野県にある農家だ。両親が共に働いている。このご時世、林檎だけではなかなか食べることも大変なため、様々なものを作ってはいるが、メインはやはり林檎だった。地元近辺では塚田家の林檎と言えばそれなりに通じるくらいに知名度はある。
だが、私はこの環境が好きじゃなかった。田舎だから何もない。両親は経営のことばかりが頭にある。それに加えて、父親は厳しい人だった。いつも放っておくくせに、見てほしくない時だけしつこく突っかかってくる。
そんな日常が、どんどん「出て行きたい」という気持ちを作って行った。
更に、昔から本を読むことが好きだった私は、都会というものに憧れがあった。漫画でしか見たことのない近未来の都市。聞けば村の小さな書店とは比べ物にならない大きな本屋がある。最近ではカフェまで併設している。
それからと言うものの、私は精一杯の嘘を作った。興味のある分野が東京に行かないと学べないという嘘を作り、本気で目指していることだと思わせるために勉強を精一杯やる。
もちろん、父は反対してきた。先祖から引き継がれてきた農家を途切れさせたくない気持ちは誰よりも強かったからだ。
それでも私は止まらなかった。今度はもっと本気だとアピールするためにアルバイトを始めた。学費は自分で払う。下宿先の家賃や電気、水道代も全部自分で払う。そこまでしてでも行きたいと思わせる。
気がつけば、私の高校時代の日常は、朝早く起きて、電車に乗って学校に行き、勉強だけをして、夜遅くまでアルバイトをして、終電で帰って来て、寝て、また起きて……の繰り返しだった。
私と父親の戦いは、母親が折れたところで決着した。「もういいじゃない」と涙目で父親に言った。「凛はそれほど学びたいことがあるんだから」と。
父親は不機嫌そうにリビングから出て行って、その日は眠ってしまった。
そして、私は東京に出てきた。大学でも高校時代と同じような生活だった。講義に出席して、アルバイトをして眠りにつく。ただ、両親がいない。それだけで高校時代とは全く違った。精神的な軽さが段違いだ。
それから月日は流れて、今に至る。大学四年生になった私は、アルバイトと埋め合わせ程度の単位を取るために大学に通っている。もちろん、就職先は都内にある会社で、実家に帰るつもりなど全くない。
一通り話したところで私はチラッと美奈子の方を見た。何か悩まし気に手を口に当てて聞いていた。
「なるほど。なかなか難しい問題ですね。お父さんと仲が良くないというのは」
「まあね。でも今でも腹立つときがあるんだ。やりたくないことを押し付けるな! って。私だって東京のオシャレな家庭に産まれて、あっさりやりたい道を進ませてくれるような両親が良かった! って」
「あはは……これは相当深刻ですね……」
苦笑いしながら美奈子は頬を掻いた。すると少し伏し目がちになり、指遊びをし始めた。
「でも、その気持ち、少し分かります」
「え?」
「私も時々思います。私が両親を選べたなら、どんな人生だっただろうって」
生暖かい風が美奈子の髪を揺らした。遠くを虚ろな目で眺めるその姿が、ひどく悲しかった。そして私は、本能で判断した。彼女にある何か複雑な事情は、重いのだと。
そんなことを考えていると、美奈子はハッと私の方を見て、さっきの寂しそうな顔が嘘かのように笑顔に戻った。
「あ、すみません。ちょっと文学少女感を出してみたかったんです!」
「え?」
「あはは、私、普通に両親がいますし、今も普通に会話していますから」
「な、何だよもう……。焦ったじゃん」
身体が悪いから色々考えてしまったけど、何もないなら少し安心だ。というか、さっきまでの私の悟りがすごく恥ずかしい。
そうこう話しているうちに、日は沈みかけていた。オレンジ色の光が公園を包み込む。美奈子の方を見ると、また悲しい目に戻っていた。光のなくなった目を、何とか太陽で補おうとしているように、静かに沈みゆく過程を眺めていた。
「今日はこの辺でお開きにしようか」
落ち着いた声音で美奈子の肩にそっと手を置く。美奈子は太陽を眺めたまま、小さく頷いた。
やっぱり、彼女には何かあるようだ。それを私に気を使って誤魔化そうと笑った。それでも隠し切れなかった。一体、何が起きれば、高校生がこんなに寂しい目をするのだろう。聞いてみたかったけど、私は口を噤んだ。
やがて夕日は無機質なビルに隠れていって、薄暗い夜がやってきた。