11話 明るい女の子
数日後、先生に呼び出されたのは大学に通う途中で寄るターミナル駅付近にある居酒屋だった。学生が手を出すにはちょっと高そうな完全個室の店だ。
店の前で待っているとスーツ姿の立石先生が小さく手を振ってやってきた。
「待たせてごめんね。久しぶり、元気だったかい?」
「はい、元気にしていました」
「そうか、それは良いことだ。じゃあ、早速入ろうか」
先生に促されて私たちは入店した。趣のある暖かい色の照明が木を優しく照らす静かな雰囲気の店だ。私はあまり居酒屋に行かないから新鮮に感じた。それに居酒屋のイメージといえば賑やかなところで、少し苦手意識があった。居酒屋にも色んな種類の店があるんだと少し賢くなった気分だ。
予約されていた部屋に入り、ひとまず飲み物を注文した。「さて……」と立石先生がジャケットを脱いでから座り、テーブルに手をついた。
「じゃあ、早速答え合わせする?」
「はい、お願いします」
私が見つけた答え。それは何度も自分の頭の中で考え直したものだ。今でもにわかに信じがたいけど、考えれば考えるほど矛盾が無くなっていく。まあ、仮に間違っていたとしても、制限時間はないのだから一からのスタートになるだけだと気楽に取り組もうと言い聞かせた。
私は一拍置いてから口を開いた。
「美奈子の正体は、井沢聖子なんじゃないかな……と思いまして」
その言葉に立石先生は一瞬、驚いたように目を見開いた。図星なんだろうか?
しかし、次にはぷっと笑い出した。どちらかというと面白いというよりかは、失笑に近いものだ。
「あはははは。何を言い出すかと思えば。井沢聖子さんはあのおばちゃんじゃないか。それはファンである凛さんが一番よく知っているはずだよ」
「確かにそうです。私もまだ確実な自信があるわけでもないです。今までもあの人がずっと井沢聖子だと思って生きてきましたし。でも、そんなのどうやったって作れますよね?」
「と、言うと?」
「裏や影ならいくらでも変えられる。例えば、ライターとか……」
私が至った考え。美奈子の正体は井沢聖子だということ。しかし、それだけでは少し不十分だ。表向きの井沢聖子は間違いなく既出であるおばさんだ。だから真実は、美奈子は井沢聖子のゴーストライターなんじゃないか。美奈子が書くことが不可能となったから新作も落ち込んだんじゃないか。美奈子があの時言ったオバケみたいっていうのは自虐的な表現ではなく、真実を言っていたんだ。
立石先生はもう一度ふっと笑って脱力した。今度は諦めたような顔だ。
「さすがは、井沢聖子ファン……いや、凛さんの場合は美奈子ちゃんファンかな?」
「じゃあ……!」
先生はカバンの内ポケットから一通の手紙を取り出し、丁寧に私の前に置いた。
「大正解だよ。よく分かったね」
「あはは……直観的に物事を語る友人からヒントを貰いました」
もうしばらく穂乃香のことはバカにできない。馬鹿と天才は紙一重ってことか……。
今回貰った手紙は前回のものよりもかなり分厚かった。それだけ文量も増えて、美奈子が全てを語ってくれているのだろう。
しかし、それを見ると少し申し訳なくなってきた。美奈子は過労で倒れた。それは学生と小説家を兼任していたという環境のせいだからだ。小説もかなりハイペースで出版されていたため、相当な時間、小説に割いていたのだろう。
そんな状態の彼女を、私は何も知らずに公園に連れ回していたのか。
「やっぱり、無理させていましたかね……」
そんなの、私がトドメを刺したようなものじゃないか。明らかに必要のない時間を美奈子に作らせてしまった。自分が楽しいからって彼女の事情も一切考えず、毎回公園まで来させて……最悪な人間だ。
すると先生はまた笑った。でも今度はあからさまな失笑だ。
「そこは違うって分からないんだね」
「……なんか馬鹿にしてます?」
「いーや、不器用で可愛らしいじゃないか」
「出ましたね、プレイボーイドクター立石」
「凛さんは褒めると貶してくるよね」
先生は運ばれてきたお酒を一口含んだ。それから細く息を吐いて、思い返すように天井を見上げた。
「美奈子ちゃんはね、入院してきたときは凄く暗い子だったよ」
「美奈子が……暗い?」
「ははは、凛さんには信じられないかもしれないけどね。でも、大人しいとかじゃなくて本当に暗かったよ。何を経験すれば高校生くらいの女の子がこんなに暗くなるんだろうって。まあ、その背景には過酷な出版スケジュールがあったわけだけど」
やっぱり当時は凄い量の小説を書いていたんだ。一時からペースが落ちたのは美奈子の身体が悪くなったからか。
「さすがにこれはいかん! と勝手に思ってね。心理的なセラピーだとか適当なこと言って、せめて場所だけでも明るいところにってことで、一回僕が美奈子ちゃんを公園に連れ出したんだ」
「先生が美奈子を初めて公園に!?」
「うん。それが気に入ったみたいで、状態が安定すると一人で出かけるようになったんだ。まあ、僕の狙いとしては、学業からも仕事からも離れる時間を作ってもらうってことだったんだけどね」
そうか、じゃあ立石先生が美奈子を連れ出してくれなかったら、私と美奈子は出会うことはなかったんだ。引き合わせる要因がそんなところにあったとは思ってもいなかった。
「でも、ある日、本当に美奈子ちゃんか? って思うくらい嬉しそうに帰ってきたんだ」
「何か良いことあったんですか?」
「私の世界が実現した! って大喜びさ」
「私の世界?」
「何だか惹かれる人と出会いましたって」
私が首を傾げていると、先生は呆れるように大きく息を吐いた。何かまた馬鹿にされている気がする。
「その惹かれる人って、凛さんだよ?」
「……私!?」
「逆に何で分からないのか……」
何でと言われても、体調の優れない中、引き連れ回した私に惹かれる要素なんて見当たらない。私には話が楽しいっていうメリットがあったけど、美奈子にはメリットなんてなかったと思う。
「ネガティブなのか何なのか、凛さんの思考については何も言わないけど、そのままの意味で受け取ってくれ。美奈子ちゃんは本当に毎日、凛さんと会うのを楽しみにしていたよ」
「本当に、ですか?」
「本当にさ。それから精神的に美奈子ちゃんは回復してね。実は美奈子ちゃん、予定より少し長く生きたんだ。その背景には、間違いなく凛さんとの出会いがあるんだろうね」
「そんなこと……」
「ここで否定するのは、毎日行っていた美奈子ちゃんに失礼だよ?」
そう言われて私は言葉を噤んだ。私も逆の立場で美奈子に「凛さんにメリットなんかない」なんて言われたらひどくショックだ。また勝手に頭の中で暴走していた。悪い癖だ。
でも、そうか。美奈子は楽しんでくれていたんだ。緊張の糸が緩い脱力すると、一気に体中から込み上げてくるものがあり、涙となって出てきた。単純に、嬉しかった。あの何故だか分からないけど楽しかった日々が宝物のように輝き始めた。
もっと話したかった。もし美奈子が生きていたら、どんな話ができたんだろう。もっともっと、たくさんのことが聞けたのかな。
すすり泣く私を静かに見守りながら先生はまた口を開いた。
「僕もね、凛さんには感謝しているんだ」
「……え?」
「美奈子ちゃんが嬉しそうに帰ってきたとき、僕も凄く嬉しくなって泣きそうになった。ずっと暗い場所にいた彼女が、やっと明るい場所に出られたんだって」
「そんな大袈裟な……」
「大袈裟なんかじゃないよ。凛さんと出会ってから美奈子ちゃんは変わった。僕が様子を見に行くと、毎回楽しそうに凛さんの話をするんだ。何とも言えない気持ちになったよ。でもその正体は安心なんだろうね。あのまま出版に支配されたまま美奈子ちゃんが去ってしまうなんて、担当医としては耐えられなかったと思うよ」
先生も目を伏せていた。少し悲しそうで、ボーっとお酒の気泡を見ている。
「だから、本当にありがとう。美奈子ちゃんと出会ってくれて」
先生は姿勢を正して、深く頭を下げた。今まで調子の良い人だと思っていたが、その裏では思いやりに溢れた人だった。そうでもなければ、暗いと言われていた美奈子も、わざわざ私との話を先生にしないだろう。
「美奈子ちゃんにとっては、仕事も辛かっただろうけど、もっと辛いことがあったから、本当に癒しの時間だったと思うよ」
「……もっと辛いこと?」
聞き捨てならないことを先生が言った。これ以上に彼女を苦しめるものが他にあるのか。
問い質そうとすると、先生はピッと手紙を指さした。
「これ以降は、その手紙の中でね」
無理やり作ったような笑顔で、先生は私が質問をする前に遮断した。そしてテーブルに備えてあった呼び出しベルを押した。
「よし! 悲しい話はここまで! 今日は凛さん大正解記念だ! なんでも好きなものを頼むといいよ。僕の奢りだ!」
「いいんですか?」
「さすがに学生にお金を払わせるほどケチじゃないよ……!」
「じゃあ、遠慮なく!」
本当は色んなことを思い出して悲しかった。美奈子の壮絶な人生を想像して苦しかった。でも、こんな日こそ明るくならなくちゃいけないんだろう。そうしていたら、天国の美奈子もきっと一緒に笑ってくれるだろう。
だって美奈子は、明るくて可愛い女の子だから。
☆ ☆ ☆
立石先生と別れて家に帰ってくると、既に日付は変わっていた。お酒は二杯くらいにしたため、それほど酔いはなかったが、その代わりにたくさん食べたためお腹ははち切れそうだった。
ベッドにドシリと腰掛けて鞄から手紙を出した。ここに、美奈子の全てが書いてある。
今一度、この手紙を目にすると冷静な気持ちが戻ってきた。綺麗に糊付けされた封筒から手紙を取り出して、私は読み始めた。