第1章の5 : わたしたちが踏みだせたわけは
それで何が変わるというわけではないのに、私は意識せず部屋の中を見渡してしまう。
そんな私たちを慮ってか、彼は申し訳なさそうに続ける。
「ここから出て行かずに済ます方法も考えはしたんだ。
今言ったようにこの建物はきっと高値で売れる。だから一度権利を売却して、そのまま私たちで借り受けるような契約を結ぶ。そうなれば家賃を払うことにはなるけれど一度はまとまった資金を手にすることができるし、それを元手に商売を復旧さられれば将来的にもう一度権利を買い戻すことだってできるかもしれない」
「そっか。そうすれば私たちもここから出て行かずにすむし、店も続けられるわね」
舞い降りてきた希望に彼女は喜色をあらわすけれど、彼の表情はそれが可能だとは言っていない。私は自分自身に納得させるように続きを促した。
「無理、なんですよね?」
「―――そうだね。ここは立地的に貴族区にも近いし、さっき言ったように新築に近い物件だ。なにより2階建てという贅沢な造りでもある。
そんな高額物件に住むことのできる借り手は、おそらく個人住まいの若手貴族か別宅を欲しがる豪商あたりになると思う。私たちからここを買い上げる相手もそれを前提にするだろう。となると、提示される家賃だってそれ相応のものになってしまうと思うんだ」
「貴族が払うような高額を払い続けるのは、現実的ではない・・・」
「半年。いや、上手く切り詰められれば一年くらいは売却したお金で何とかできると思うんだ。でも、一年後に状況が大きく改善できていなければ根を上げざるを得なくなる。そうなってしまえばその間に払い続けた家賃は丸々失ったことになる。店を売って、その上何も残らないと言う結果になりかねない。
そんな賭けはやりたくないし、やらせたくもない」
深呼吸をして、もう一度部屋の中を見渡した。
彼女と買った絨毯。
気に入っていたソファ。
躓いて頭をぶつけた角の欠けたテーブル。
土足で歩き回ることにどうしても慣れなかったため用意した室内履きと、靴箱。そこに置かれた一輪挿しに飾られた薄紫の花。
どれもこの2年を彩った大切なものだし、一緒に暮らしてきた彼女との思い出でもある。
この空間を手放すなんて考えもしなかった。手放したくなんてない。けれど・・・
「わかりました。この店を手放しましょう」
「っ!」
「七実ちゃん、私はね、この店が大事。というか、この店であなたと作ってきた思い出が大事。それを壊すものが出てきたら、大暴れしてでもそんなことさせないってくらいは大事よ。けどそれ以上に、これから日吉ちゃんと作っていくはずの記憶も大事なの。
さっき伊勢さんが言った大博打をして無理やりこの店に住み続けて、それで何もかもなくしてしまったとしても、もしかしたら今と同じように大事な思い出は抱えていけるかもしれない。
でも、そうなってしまった時にはきっと私たちは離れて生きなきゃならなくなる。下手をすれば、生きていけるかどうかすらわからないわ。
今ここで決めれば、私たちは少なくともこの先を一緒に見ることができる。一緒に頑張れる。ここを手放しても、私たちはバラバラにはならない。むしろこれからも一緒にやっていくために必要なことなんだと思う」
『月子ちゃん・・・』と、彼女は声にならない声で私の名を呼んだ。
「伊勢さん。私たちはここで終わりにしないって決めました。前に進むって決めました。だから、そのために必要なことならば、この店を手放します。
でも、絶対にいつかまた。また必ず私たちのお店を取り戻します。この場所じゃないかもしれないし、この建物も買いなおすのは無理かもしれない。
―――もう一度私たちで一緒に、私たちのお店を手に入れて見せますっ!」
私の誓いともいうべき言葉に、2人とももう一度、自分も一緒にがんばると言ってくれた。
一人は涙を浮かべて。もう一人は優しく頷きながら。
正直なところ、このときの私たちがどうしてこんなにも自分たちの店に固執していたのかわからない。けれど『自分たちの店』と言う言葉には、この世界での居場所とか、拠りどころとか、そういうもっと大きな意味がこもっていたんだろうなって思う。
だから彼女だってここまで抵抗を示したんだろうし、私がいつか一緒にそれを取り戻すんだと言ったことで、一応の気持ちの区切りをつけることができたんだろう。
後に言われたことだが、私たちは考えていた以上に互いに依存しあっていたんだろう。彼と離れていた2年間、私たちはお互いだけを頼りに生きてきたようなものなのだから。
だからたぶん私たちが踏み切れたのは、他でもない彼が一緒に居てくれると言ってくれたから。
この世界で3人で。私たちだけじゃなくて。
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