4(完)
椀子の犬化騒動から今日も含めて四日間、実に平和だった。
その間に進めていたのは、夏休みの宿題だ。先日は椀子のことで忙しかったけどな。焦らずとも、まだ十分に間に合う。だが念には念を入れて、予め済ませておきたいという魂胆だ。
少し集中力が切れて、ふと時計を確認してみる。
そろそろ、夕飯の時間か。
俺は数学の宿題に手をつけていた。計算以外の問題はよく分からなくても、生活していく分には無問題だろう。
……まあ、明日でもいいよな。
「ん?」
携帯が着メロを奏でてきた。そのメロディは、椀子からの電話を示していた。
「もしもし。椀子、どうした?」
『急だけれど、明日遊びに行ってもいいかな?』
椀子の声に雑じって、犬の鳴き声も聞こえてきた。耳障りになる程じゃない。
滞在している椀子の親戚が変化中か? 随分と賑やかそうだな。
『匠くん?』
「ん、ああ。明日か? 予定は特に無いな。さっきまで数学の宿題を、あー……」
『あ、宿題してたんだね。数学、大丈夫?』
俺の苦手科目が数学であることを、椀子はご存知だ。……心配されているんだな。
「正直教えてくれると、助かる」
つい弱気な声で、俺は頼んだ。
『うん。いいよ』
受話器から、声の調子を上げた椀子の声が響いてきた。
「ありがとな」
『ありがとう、って言うのはまだ早いよ?』
「気にするな」
『うん。それじゃあ、また明日ね』
椀子の言葉が耳に届くと同時に、電話は切られた。携帯を閉じて、物思いにふける。
椀子が変化できるようになったのは……この目で見届けた。あの事で、椀子が何かやらかすことはもう無いよな。たぶん。
そんな確信めいたものが、何故かあった。
次の日、昼過ぎ。
俺は玄関先で椀子を待っていた。椀子に、「今から行くよ」という連絡を受けていたからだ。鍵をかけていないことは伝えてある。
しかし、椀子はこの前俺の部屋から顔を覗かせて、それから入ってきた。
「お邪魔します」
「何だ、余所余所しいな」
正面を俺の方に向けて、椀子はあのパピヨンぬいぐるみを抱いていた。それを持って、その反応は……こっちまで照れ臭さが移る。
ああ、また記憶が鮮明になってきた。
パピヨンぬいぐるみを買った店の女性店員の顔が――以下略。
「ぬいぐるみと一緒だからか? 今日初めて持ってきたわけじゃないだろ」
俺はパピヨンぬいぐるみの頭に手を乗せてみた。
……人肌のような温もりを感じるのは気のせいか?
「わんわん」
パピヨンぬいぐるみ(?)は、いきなり吠えてきた。ついでに、尻尾を振りたいのか、椀子の服に触れている尻尾を少し動かしていた。
小心者のように大袈裟な動作で、俺は後退する。
「ほうぇた!?」
驚きのあまり、叫びと合わさって……噛んだ。
「…………」
「やっぱり、匠くんも驚いちゃうよね」
スルーされた、噛み。状況が状況ならオッケーなんだけどな。
こんな時は、ツッコミ無い方が辛いぞ……? い、居た堪れない。
「ほ、本物だったんだな。ぬいぐるみの方が留守番か?」
「うん。この子は、親戚の月森志朗くんだよ」
「本当に、あのぬいぐるみとそっくりだ」
「うん。四日前に再会して、あたしもびっくりしたよ。ぬいぐるみのタブに書いてあった製造会社の名前、覚えてる?」
「いや」
頭の単語が『MOON』だったくらいしか覚えていない。
椀子は自分の親を称える子供のような明るさで言ってきた。
「えっとね。『MOON LIGHT』っていう、志朗くんのお父さんの会社なんだよ。志朗くんがモデルなんだって」
「世の中意外と狭いな」
そういえば、この志朗って親戚なんだよな。
名前からして、男子のはずだ。十六歳で子供っぽくあるのは、この手の一族における標準なのかもしれない。だがそれでも微妙な心境に陥りそうだった。
「……まあ、入れ」
俺はとりあえず二階に上がってもらった。
椀子が抱えてきたから、足は汚れてないらしい。志朗は床に下ろされて、俺の部屋を見渡していた。
「興味津々なんだね。でも、勝手に弄ったらダメだよ?」
「わん」
志朗が椀子に躾られているような光景だ。
人として、それでいいのか。
「お手」
椀子が左手を差し出す。
って、おいおい。丸っきり犬扱いかよ。
しかし、志朗は命令通り右前足を乗せた。
「おかわり」
続けて、椀子は左手を出した。
志朗がやっぱり左前足を乗せる。
「お座り」
――は殆ど始めからしていた。
行儀が良い。さすがは、社長の息子といったところか。
「伏せ」
志朗は伏せをした。俺の部屋に敷いている絨毯の材質が良いのか、微睡んでまったりしている。本当に人間なんだろうか。
ドッグライフを満喫しているようだな。
なんか、胸のつっかえが取れた。志朗がどれだけ椀子とスキンシップしようとも、それに深い意味は無さそうだ。
「うん。これなら、大丈夫だね。シロちゃん」
その時、志朗が起き上がって、光のシルエットに包まれ始めた。
「お、始まったか」
「あ、うん」
変化の段階は、不可抗力で見てしまった椀子の変化と大差無いようだ。光のシルエットがだんだんと、小学一年生くらいの背丈な少年を模っていく――。
「んあ?」
俺は間の抜けた声を漏らした。
「うー♪」
変化を終えた志朗は、万歳して鳴いた。いや、吠えた? じゃなくて、産声を上げたというか。
見事な三歳児スマイル、もとい、三才児すまいるで、俺達の眼前に現れた。
志朗は、白に近くて陰で薄い水色に見える銀髪だ。髪型が椀子に似ている。ポニーテールを後ろに束ねているだけにした感じで、長さもセミロングだった。ぴっちりのサロペットが似合っていて、首輪までしている。
小学生……だよな? あるいは、幼稚園の年長か年中か。下手すれば、年少かもしれないな。
「志朗くん、おめでとう」
小さく拍手して、椀子が祝福する。
「ありがとー」
両腕をメトロノームのように振りながら、志朗は喜んでいた。
「あ、ああ。おめでとう」
俺も遅れて祝う。
志朗は俺を真っ直ぐ見て、笑顔を振り撒いてきた。
「はじめましてー。つきもりしろーだよー。シロで、いーからー♪ よろしくねー」
そして真っ白なパピヨンの犬耳を生やしてお辞儀してきた。犬耳が重力に引かれるように垂れる。
「ふにゃー」
犬耳の手入れをして、志朗はもう一度お辞儀してきた。だが結果は先程と変わらない。
「うー」
「…………」
少しばかり悄気る志朗を、俺は見守るしかなかった。
三度目の正直を期待すべく、志朗が念入りに犬耳を整える。そしてもう一回、お辞儀をチャレンジしてきた。
「お!」
今度は垂れないか?
しかし、踏ん張っているのか、志朗は徐々に身体を震わせ始めた。結局左耳から右耳の順番に、犬耳がへなへなと垂れる。
「うー……」
ふわふわの尻尾まで出現させて、志朗がしょんぼりする。尻尾も地面を見下ろすようにへなへなさせた。
見てられない。
「……シロ、って呼んでいいんだよな?」
「うんー……」
「まあ、何というか。俺は犬飼匠だ。よろしくな」
左手を差し出して、俺は握手を求めた。
シロが右手を出してくる。それは、お手の構図になっていた。何か勘違いしているらしい。だがやっぱり良い子だ。
俺はシロの頭を撫でてみた。
「えへへー……」
シロは尻尾を少し浮き上がらせた。
「…………」
今度は右手を出してみた。
「うー?」
きょとんとした顔で、シロが左手を出してくる。
だから、俺はシロの頭を撫でた。あまり髪が乱れないように手加減して、シロの尻尾の立ち具合を窺ってみる。
「えへへー」
尻尾の元気は半分くらいまで回復した。振り始めて、振り幅も大きくなっていく。頭を上げられないためか、上目遣いをしてきた。次を待っているらしい。
俺はシロの頭を軽く下に押してみた。
シロがゆっくりとしゃがんだ。
「アリの観察しているような姿勢だな」
「アリさん、いるのー?」
床をじっと見つめて、シロはアリを探し始めた。
「いや、悪いな。飼ってない」
飼育していれば、見せてやろうと容器を移動させていた。
そういえば、アリ部屋化した室内を見たことがあったな。アレは悲惨だった。容器でも、足を引っ掛けて倒されると……大惨事か。
「アリはいないけどな。寝転がりたければ、寝転がっていいぞ? 部屋の絨毯、気に入ったんだろ」
俺がそう言うなり、シロは床にうつ伏せとなった。
「わーいー♪」
尻尾を勢い良く振ったり、足を楽しげにバタつかせたり、両手で交互に床を静かに叩いたりしている。
気を取り直したようだな。良かった。
……人懐っこいシロなら、進んで言ってくれるだろうか。
俺は上機嫌になったシロを見て、ふとそう思った。
「シロ」
「なーにー?」
シロは寝転がったまま俺を見上げてきた。
信用していないわけじゃないけどな。変化できない身で、変化できる椀子と親交を続けていくんだ。犬状態じゃない時の感触が本物かどうか、知っておきたい。そう思っても、バチは当たらないはずだ。
「その耳か尻尾、少し確かめさせてくれないか?」
「いーよー♪」
三才児すまいるで、シロは了承してくれた。
「匠くん」
椀子が詰め寄ろうとしてくる。
しかし、一瞬の間を空けた椀子に、間髪を容れず補足した。
「椀子。この前は断ったが、お前の耳と尻尾が嫌だからじゃないぞ。犬になった時は撫でただろ?」
「あ、うん」
「何だ……その」
俺は目線をあっちこっちに移した。だが挙動不審な目線移動の末、最後に何とか椀子を見る。
「どうせそうするなら、もっと良いムードの時がいい」
「そうなの?」
「だから、いつかな」
「うん。分かったよ」
椀子から先手を取るためとはいえ、戯言をほざいた自分を殴りたい。というか誰か殴ってくれ。いっそ死にたい。……まあ、シロが折角許可してくれたんだ。手っ取り早く、厚意に甘えさせてもらうとするか。
俺は屈んで右足の膝を着けた。
逆に、シロが立ち上がる。
「ああ、寝転がったままで良かったんだけどな」
シロが尻尾を振りながら、俺の右に寄ってきた。そして両手を俺の右肩に乗せてくる。
笑顔は崩してこない。
弟というのは、こんな感じなんだろうか。本当に兄弟がいる奴にとっては、そんな良いものじゃないと聞くことが多いけどな。
兄弟のいない俺には、一生理解できる機会は無いだろう。
「尻尾を一旦止めてくれるか?」
「うんー」
シロは従順に尻尾を止めてくれた。頭を撫でるのは、後だな。
とりあえず、確かめてみる。とても、ふかふかだった。
「やっぱり、本物か……ん?」
尻尾がぷるぷる震え出した。シロも、何だかもじもじしている。
「悪い、痛かったか?」
俺は慌てて尻尾から手を離した。
しかし、シロは笑っている。そしてまた尻尾を激しく振り始めた。うずうずしていただけのようだな。この落ち着きの無さも、子供らしい。
「あ、はなれて、いー?」
「もう終わった。ありがとな」
とてとて、という擬音が聞こえてきそうな足取りで、シロが俺から離れていく。
「戻りそうなんだね」
「うんー」
そう答えた瞬間、シロはパピヨンになった。
「犬になって、どうしたんだ?」
「きゅーんー?」
シロはパピヨン姿のまま首を傾げてくる。
「違うよ。戻ったんだよ? シロちゃん、『人犬』だもん」
椀子があっけらかんと言ってくれた。
「シロは、忍者の犬の末裔なのか?」
「忍犬じゃないよ。『人』と『犬』で、『人犬』だよ。あ、『犬』と『人』って書いて『犬人』とも言うんだって。あたし達は人間以外で呼ぶなら、『人』と『人』で『人人』って呼ぶの」
「……そんな野菜みたいな単語を教えられても、よく解らないぞ」
俺は呟きつつ、後ろ頭を掻いた。
「簡単だよ。どっちも、三歳まではわんちゃんの耳と尻尾があるだけの人間だもん」
「あるだけか。簡単に言うんだな」
「犬人は十六歳まで、人じゃなくて、犬の姿になっているの」
「だから、シロは犬人ってことなのか」
「うん。名称はご先祖が適当に考えたんだって」
おい。
椀子含め、多くの先祖は何とも思わなかったんだろうか。……思いもしなかったに違いない。
「椀子やシロみたいに動物変化できる一族は、他にもいたりするのか?」
「あたしは会ったことないけれど、大勢いるみたいだよ」
猫に変化できる一族がいれば、猫人とか名乗っている可能性もあるわけか……。いや、呼び方について深く考えるのはもう止めよう。
丁度、シロが光りだした。あの変身過程を経て、シロは万歳ポーズを取った。
「うー♪」
「そのポーズが無いと、変化できないのか?」
まだ屈んでいた俺は、シロと大体同じ目線になっている。
束ねている後ろ髪を尻尾みたいに揺らしながら、シロは首を横に振ってきた。ちなみに、万歳ポーズは維持している。
「ちがうよー」
解ってはいるんだけどな。質問は尽きなかった。
「というか、シロが変化しているところを見ると、変化の年齢は例外もあるんだな」
「シロちゃん、十六歳だよ?」
「……は?」
いや、ガンを飛ばしちゃいないぞ。口を半開きにして、俺が発した声だった。
椀子は先生になったつもりか、得意げに説明を始めた。
「匠くんは七月が誕生日で、あたしは八月が誕生日だよね。それで、シロちゃんの誕生日は六月だから、匠くんより一ヶ月お兄ちゃんだよ」
「うんー♪」
「…………」
俺は思わずシロの頬に指を伸ばしていた。そして、絶妙な弾力の頬をつつく。
「このぷにぷにな餅肌が十六歳? 馬鹿を言うんじゃない」
頬をつつかれても、シロは怒らなかった。むしろマッサージを受けているような表情になっている。心成しか、頬の弾力が増してきた。
「あたしも肌には、自信があるよ」
むっとした顔で、椀子が手を伸ばしてくる。どうせ俺に確かめさせたいんだろうけどな。
俺は腕を掴まれないように格闘しつつ、シロを問い質した。
「ええい、今はそういうことを言ってるんじゃない。シロ、マジで十六なのか?」
「そうだよー」
腕が疲れたらしい椀子は、むすっとした顔で答えを繰り返してきた。
「だから、さっきからそう言ってるよ?」
「…………」
俺は溜息をついた。たぶん、人生で一番長かったんじゃないだろうか。
俺だって、椀子が嘘を吐かないことくらい解っている。シロも、人を騙すような濁った瞳なんてしていない。ちょっと、思考力が一時的に麻痺しただけなんだ。
世の常識が泡沫と消えていった気がする……。
椀子は何かを思い出したように手を打った。
「あ、そうだ。宿題するんだったよね?」
宿題か。そうだな……。宿題に逃げよう。
俺は椀子が隣に居ようと、お互いに真面目に勉強している内は平気だ。神がかりなアクシデントさえ起きなければ、場に流される心配もいらない。
傍から見ればゾンビのような鈍重さで、俺は教科書やらノートを出した。
「しゅくだいー?」
「……ああ、シロがいるからな。宿題は後の方がいいんじゃないか?」
「だいじょーぶー。ボクも、おべんきょーおぼえないと、いけないからー。わんこに、おしえてもらうー」
シロは両手の拳を握り締めて、意気揚々となっている。分けてもらえるものならば、その元気を分けてほしいな。
「うん。もしかしたら、あたしと匠くんと一緒のクラスになれるかもしれないね」
「……ん?」
「シロちゃん、こっちの高校に転校してくるんだって」
「うんー!」
「そうなのか」
もう、それしきのことで騒いだりはしないさ。
――と思ったんだけどな。
「シロちゃん、賢いね」
「えへへー♪」
方程式などを椀子に教え込まれたシロは、俺が難攻していた数学の問題を一発で解いた。勉強できる子だったらしい。
俺はテーブルの上に、顔面から突っ伏していた。
もう嫌。
「匠くん、具合悪いの?」
わざわざ俺の横に移動してきたらしく、シロは背中をぽふぽふ叩いてくる。
「だいじょーぶー……?」
シロの手は小さいながらも心地良い。何気なかったはずのシロ動作が気を軽くしてくれた。
椀子とシロは、「勉強中に寝るな」と怒鳴るよりも、やっぱり人の心配をするんだな。
俺は顔を上げた。不貞腐れていた時のまま、若干死んだような目になっているのは許してほしい。それは見なかったことにしてくれ。
「不甲斐無い自分に、自己嫌悪していたんだ。ありがとな。もう大丈夫だ」
「匠くんは、不甲斐無くなんてないよ?」
「そーだよー。わんことボクとも、なかよくしてくれてるから、ボクはうれしーよー♪」
左に椀子がいて、右にシロがいる。
二人とも、にこにこしていた。天使みたいな悪魔のような、やっぱり天使の笑顔だ。
「そうか」
しかし、まあ、これだけは言っておきたいな。
さよなら平和。こんにちは悪夢。
俺の悪夢は、夏休み終了以降も持ち越されるらしい。椀子とシロが変化関連で何かやかさないか、いつも肝を冷やすことになりそうだからな。俺個人が平和とは言い切れない平和が継続していくんだろう。
やっぱり、少しくらいは……そう思わずにはいられない俺だった。
――続く?