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 俺は昨夜あまり眠れなかった。今日のことを考えている間に朝となったからだ。

 現在は昼食を済ませた後で、ふと時計を確認すると、もう午後二時を過ぎていた。腹が膨れて、瞼の重さが徐々に増している。

 椀子の訪問は、まだ無い。また起こしてもらうことになりそうな時だった。

「匠ッ! 椀子ちゃん来たわよ!」

 突如響いてきたのは、母さんの大声だ。

 俺は意識を現実世界に引き止めつつ返事をした。

「聞こえ、たっ……!」

 しかし、下の階まで声が及ばなかったのか、似たような掛け合いを三度繰り広げた。無駄に声を張り上げたおかげで、丁度良い具合に目が覚めたな。

 俺は一応口許を腕で拭っておいた。危うく、見っとも無い姿を晒さないためだ。もしも涎をだらしなく垂らした跡なんか残っていれば、締まりが無い。

 俺は二階の自室を出て、一階の玄関先に移動していく。

 階段を下りる途中、訪問相手の姿を確認した。茶色い毛並の小柄な柴犬が玄関先で、上がらずにお座りしている。

 柴犬が俺の姿を視界に捉えると立ち上がって、徐に口パクしてきた。まるで俺の名前を呼ぼうとしたかのような口の動きだ。というか、パピヨンぬいぐるみを背中に乗っけている。ぬいぐるみの組み付いている様子は、亀ならぬ犬の親子みたいだな。

「今行く」

 確かに、来たのは椀子らしいな。椀子以外の何者でもない。

 柴犬椀子は尻尾を昨日と同じように元気良く揺らしていた。一昨日からの出来事や母さんの一言が無ければ、ただの犬にしか見えなかっただろう。

 そんな犬らしくなって……。

 俺は何となく悲しさを感じながらも階段を下りていく。

 そういえば、母さんも当たり前のように順応していたな。少しは自分の常識と戦わないのか? いや、月見一族と俺より長く交流していれば、慣れもするんだろうな。俺も母さんくらいの年になれば、ここ数日の体験を懐かしめるレベルにまで――。

 ――と考え事をしている最中に、俺はいつの間にか玄関先に着いていた。

 柴犬椀子が足に擦り寄ってくる。土足で上がるのを躊躇うように首だけ伸ばしていた。足の裏に付いた土を気にしているようだ。

「ああ、犬になってから来たんだよな」

 俺はリビングに足を運んで、柴犬椀子を迎えようと声を掛けた。

「隣から来ただけなら、大して汚れてはいないだろ? 一応拭いてやるから、ついてこい」

 しかし、母さんが無茶振りを言ってくる。

「何言ってるの。そこで拭かないなら、ちゃんと抱き抱えて連れてきなさい」

 母さん。犬に変化しているとはいえ、俺と同い年である女子高生を抱えろと? 

 俺は強制されても、断固としてやるつもりは無い。椀子には、玄関で待ってもらうか。順番に拭いた足から上がらせれば、文句は無いらしいからな。

「やっぱり、ちょっとそこで待ってろ。ティッシュを濡らしてくる」

 雑巾はどことなく扱いが悪い気がした。だから、有り触れた拭く物を――。

 ん……………………………………………………………………ふく?

 俺は柴犬椀子の所に、ナマケモノみたいにゆっくりと歩み寄った。そして脂汗を流しつつも、屈んで顔を寄せて、小声で訊いてみた。

「椀子、着替え用の服はどうしたんだ?」

 柴犬椀子は首を傾げた。

 まさか、知能まで犬化しているんじゃないだろうな。

 確かに、昨日は大概のことでは動じないと決意した。だがこればっかりは、「ハイソウデスカ」などとスルーできるかよ。……落ち着け、俺。

 万が一の事を踏まえて、想定しよう。椀子の家はすぐ隣にある。だがそんな近場ですら、急に戻りでもすれば大変だ。椀子が自宅に運良く無事行けたとしても、課題は残っている。今、家にいるのがおばさんだけならまだいい。そこに、在宅中かもしれないおじさんが年頃の娘と鉢合せでもすれば、文字通り目も当てられない。……本人同士が互いに平気だと言い出しそうではある。だが一連の流れを知ることになる方の身になってもらいたい。このまま一度帰す案は避けたいところだ。俺の精神が持たない危険性があるぞ。

 俺はリビングに居る母さんを見遣った。

 母さんに任せるという選択肢……いやいや、それもないか。むしろ間違いなく、更に引っ掻き回されてややこしくなる。駄目だ、勘弁してくれ。期待しない方が賢明だ。

 そうとなれば、俺ができることは、ただ一つ。

「――悪いな」

 パピヨンぬいぐるみの足を間に挟むように、俺は柴犬椀子を抱え上げた。アメフト選手がボールを脇に持つような構えと同じだ。極力、柴犬の毛並に触れないようにしている。多少は触れていても目を瞑ってほしい。

 軽いな。これなら身体を圧迫し過ぎる心配もいらないか。

 とにかく、一分一秒でも早く俺の部屋に突撃する。階段を一段飛ばしで駆け上がって、部屋の前に滑り込んだ。

 ドアを開ける時間すら惜しいが……。

 アメフト選手張りの飛び込みで、トライできれば良かった。だが生憎、部屋のドアはこっちから手前に引くタイプだ。乱暴に投げ込んで、柴犬椀子が怪我すれば元も子も無い。そうなれば、本末転倒だからな。

 俺はドアを一気に開けて、柴犬椀子を部屋の床に下ろした。そしてぬいぐるみの背中越しに手を添える。部屋に押し込んだ後、閉じる最中のドアにぶつかってこないようにするためだ。足を変に引き摺らせないように手加減して、ぬいぐるみの背中を押す。

 押した勢いで、椀子を前方に歩かせることができた。

 よし、上手くいったようだな。別に、見られてヤバイ物は部屋に無い。

「ドアに気をつけろよ!」

 部屋に入れた柴犬椀子が案の定身を翻してきた。

 それに構わず、俺はドアを思い切り閉める。杭打ち工事における一発分の騒音に相当しそうな大音が、家中に響き渡った。近所迷惑になるような行動は慎むべきだったな。

 とにかく、直後に聞こえてきたのは、ドアを硬い爪ありの前足で叩くような音だ。

 大きく息を吐いて、俺はドアに凭れ掛かる。そして、ずり落ちるように座り込んだ。

「匠、うるさいよ!」

 母さんが怒鳴ってきた。今は返事をするのも億劫なんだけどな。

「……もう、終わった!」

 急に体を動かした後で、俺の心臓は破裂するかと思えるくらいに鼓動を速めていた。

 こんな調子がずっと続けば、身体がいくつ有ったとしても身が持たない。

 しかし、そんな危惧はもう無用か。椀子が柴犬になってやってきた。騒ぎも今日で終わりのはずだ。

 俺は深く息を吐くように溜息をついた。少し息が荒い時に何度もそうすれば、余計に息苦しくなるか。ちょっとだけ、咳き込んだ。



 最初の内だけ、柴犬椀子は前足でドアを叩いてきた。だが音はすぐに止んだ。代わりに切ないような鳴き声を上げてくるとかも一切なかった。

「……ん?」

 暫くして、部屋からドア越しに物音が聞こえてきた。

 俺は立ち上がってドアから離れる。声を掛けてくるか、ドアを開閉してくるか。人間の姿に戻った椀子ができそうなアクションがあるまで待機だ。

 仮に、椀子が服を着てなかったとしても、素っ裸で出てはこないと信じている。服が要ると話しかけてこれば、俺の服を使えと言う。

 俺の服が必要か必要じゃないのか、どっちなんだ。

 また汗が滲み出てきて、額から頬を伝っていく。

「…………」

 数秒後、ドアノブが回された。

 ドアが徐々に開かれて露になったのは、椀子の顔半分だ。ジト目で睨んでくる。そして続けて見えてきたのは……素肌の肩先だった。

 マジか!?

 俺は一回、反射的に目を逸らした。だがすぐに向き直す。それから首をあえて固定し、どう足掻いても釘付けになるようにした。

 俺は信じたんだ。……男に二言はなくても済むように頼むからな、椀子。

 そんな念を椀子に送る。

「匠くん……」

 完全にドアが開かれて、俺の目に飛び込んできたのは――。

「いくらあたしでも、服を着てこないわけないよ」

 白いノースリーブワンピースが良く似合う、ちょっと拗ねたような表情の椀子だった。

 椀子はご立腹だ。今まで声を発しなかったのは、それが原因らしい。だがドアを開放したまま立ち止まっている。閉め出さないではくれるようだ。立場が部屋主であるはずの俺と逆転しているな。

 俺は苦笑して、後頭部を掻く。肩身が狭く思いながら椀子の前を横切った。

 エアコンの冷気を逃がさないようにするためか、椀子がまだドア前にいる。この場合、家に招いた側が椀子みたいだ。ますます居心地が悪い。

「まあ、そう言うな。俺もお前のことを思ってだな――」

 椀子は不意に顔を綻ばせた。

「うん。匠くんは、あたしのことを心配してくれたんだよね。ありがとう」

 普段と違う大人びた椀子の顔つきは、年相応になっていた。一瞬別人かと錯覚しかけたくらいだ。

 呆然としている俺の表情に気づかないまま、椀子がドアを閉じる。

 俺はといえば、思わず見惚れていた。

「……どういたしましてだ」

 辛うじて、そうは言ってみた。だが俺はきっとまた不器用な態度をとっていたと思う。

 子供っぽくて無防備。それは純真無垢の裏返しで、持ち合わせているのは椀子らしい純粋可愛さなんだよな。

 これだから、俺の幼馴染は反則だ。

 椀子の顔つきは、すでにあどけなさを取り戻していた。

「どうしたの?」

「何でもない」

「そっか」

 椀子は笑顔を浮かべるだけで、それ以上追求してこなかった。

 本当に、ずるい。だからこそ……放っておけないんだけどな。

「あ、そうだ」

 俺がずっと見つめていると、椀子も俺に視線を集中させてきた。

「ん?」

 ノースリーブワンピースの短めな裾をひらつかせて、椀子が踊るように一回転する。

「わんちゃんに変化する時はね」

「おい――」

 制止が成功する前に、椀子は俺の前で変化を始めた。

 危うい奴だと再認識していた傍から……。

 椀子の全身から光が迸った。白光のシルエットに包まれるや否や、音も無く見る見るうちに柴犬の形を成していく。完璧なる変化の前では、物理法則すら空論と化すらしい。

 しかし、それには感謝しておこう。俺は微苦笑した。

 俺も即座に非常識を享受できる体質となってきたのか? それなら、その方が都合良いんだけどな。まあ……今回は単にほっとしただけか。

 俺は椅子に座らず、床に腰を下ろした。柴犬椀子が傍らにやってきて、俺の腕に寄り掛かってくる。

 柴犬椀子は、やっぱり本物の犬みたいだった。整った毛並をなぞらせるように擦り寄ってくる。懐くあまりにペロペロと舐めてくるかもしれない。それはそれで、何だか複雑な思いを募りそうだ。

 だからというわけじゃないが、俺は咄嗟に手を柴犬椀子の頭に乗せた。この前できなかった、撫でをしてみせる。

 柴犬椀子は気持ち良さそうに目を細めていた。

「……もう、くすぐったくはないんだよな?」

 柴犬椀子は撫でられながら尻尾を振っている。離れなかったのが返事だと思っていいんだろうな。

 数分の間、俺と椀子はその状態でいた。

 そして柴犬椀子はその数分間で満足したらしい。

 柴犬椀子が変化を解くためか、俺と距離をとった。離れる際、名残惜しいと訴えるような瞳は向けてこなかった。そんな瞳で見られていれば、俺は手招きしていたかもしれない。

 もう少しなら、あのままでも良かったんだけどな。

 俺は立ち上がって、変化の途中経過を目視しないように目を背けた。二度も凝視するわけにはいかない。

 椀子はさっきと逆のプロセスの変化で、人間に戻ったはずだ。

 人間の椀子が視界の端から顔を覗かせてきてから、俺は向き直った。

「これで、犬耳と尻尾を出すのと変化、全部できるようになったよ」

「無闇矢鱈に変化はするなよ?」

 俺は椀子にそう注意した。

 月見一族と一応俺の家の人間以外には、基本秘匿するべきだと思ったからな。現に、それまでは俺にも秘密だった。

「うん。気をつけるよ」

 椀子は約束してくれた。

 俺が口出しするのはそれくらいでいいだろう。椀子のおじさんとおばさんも大事なことなら、言い聞かせるはずだ。

「今日はどうするんだ?」

「パパとママにお披露目するから、帰るよ」

「そうか。明日はどうなんだ?」

 椀子は疑問符を浮かべてきた。

 俺の方から明日の予定を尋ねたからだろうか。昨日と一昨日は、椀子に訊かれてから言ったんだよな。

「明日は親戚の子が来るから、来られないかも」

「……いや、無理して来なくてもいいぞ?」

 そんな風に返しながらも内心では、結構残念がっていた。例によって例の如し、顔に出ているはずだ。

 気苦労の心配が要らなくなった途端……俺も現金な奴だな。

 椀子は唐突に犬耳を出現させた。そして嬉しさを表すようにリズミカルな動きを魅せてくる。

 尻尾じゃなくて犬耳なのは、今日の服装がワンピースのためかもしれない。

「うん。行けたら、親戚の子を連れて来るね」

「……ああ」

 俺のベッドの上に安置してあったパピヨンぬいぐるみを、椀子が回収する。帰り支度は済んだようだ。忘れ物もしていないだろう。

「それじゃあね」

「ああ――って、耳を戻し忘れているぞ」

「あ、うん」

 言われるがまま、椀子は犬耳を引っ込めた。相変わらずの早業だ。

 椀子はパピヨンぬいぐるみを抱き締めた。そして子供のような振り方で、無邪気に左手を振ってくる。

 俺は口を閉ざしたまま微苦笑して、普通に手を振り返した。

「ばいばい」

 一言を残して退室する椀子を、頬を掻きつつ見送る。

 俺の連日の悪夢は、こうして終わりを告げた……かに思えた。だが悪夢は序章に過ぎなかったようだ。 

 俺はそれを近いうちに、思い知らされることになる。

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