水無月
六月二十八日、十九時〇五分。
朝から降り続ける雨が庭を濡らしている。ここのところ、ほぼ毎日鼠色の雲がどんよりと広がっていて、空気中の湿気がオレの心の中までじめじめと重くする。
蔵の中に足を踏み入れると、ぼそぼそと誰かが話している声が聞こえた。またか、と思いながら、神饌を載せた台を頭上に掲げ、しずしずと祠の前まで足を運ぶ。そこには歳神様と深刻そうな顔で話している女の人の姿。
彼女はオレに気が付くと、そそくさと歳神様に礼をして忽然と姿を消してしまった。後には水溜りが残っている。
「……また、話の邪魔しちゃいました?」
「いいえ、ちょうど終わったところです」
歳神様は少し疲れた様子で答えた。
五月の節分以来、頻繁に歳神様を訪ねて神様がやって来るようになった。さっきの女の人は雨の神様だと歳神様から聞いている。ただ、春風の太郎君と違って、オレや父さんを避けているらしく、姿を見ることはあっても会話をしたことはない。
「春雷の君のこと?」
それしかないよな、と思いながら、手に持っていた物を供えた。彼女はその問いには応じず、俯きがちに考え込んでいる。
歳神様が祠にやって来て、もうすぐ半年。ここへ来た時は少女の姿だったが、今では四十代というところだろうか。白髪が少し髪に混ざり、目尻や口元の皺が目立つようになってきたが、元の美しさが失われることはなく、むしろ内面の穏やかさが滲み出て、以前より親しみやすい感じがする。
少しは気分転換になるかもしれないと、気怠い様子の歳神様に酒を注いだ杯を差し出した。それから、最近持ち込んだ折りたたみ式の椅子を引っ張り出して、祠の前に座った。
彼女は受け取った杯をしばらくの間ゆらゆらと揺らし、その水面を眺めている。
「……尚樹殿。右腕の調子はいかがですか?」
「もうなんともないですよ」
手のひらをぎゅっと閉じたり、ぱっと開いたり、肩から大きくグルグル回してみせる。
春雷の君の雷が当たった右腕。しばらくは痺れが残っていたが、特に後遺症もなく、きれいに治った。
歳神様はその様子を見て、安堵したように顔に笑みを浮かべる。
「そうですか、良かった……。あの時は本当に申し訳ありませんでした」
「あれはオレが自分から飛び出したんすよ。歳神様は何も悪くないです」
それに春雷の君も、途中から様子がおかしかったし、と言いかけてやめた。彼女はまだどこか申し訳なさそうに眉尻を下げている。
「それより、聞いても良いですか? 例えば、天にいた時の春雷の君の話とか」
言いながら、しまった、と後悔。彼女にとって、彼の話は良い話ばかりじゃない。
けれど、そうですねぇ、と歳神様は物柔らかな話しぶりで言って、再び杯に目線を落とした。懐かしそうに目を細め、ポツポツと話し始める。
「あの方は頑固で、真面目で、曲がったことがお嫌いで……太郎君とはよく口喧嘩しておられました」
「口喧嘩?」
「太郎君は適当な物言いをされるところがありますから、そういうところをご不満に感じておられたようです。でも仲は良かったんですよ。互いに足りないところを補い合っておられました」
「そうなんだ……。歳神様とは? どんな風だったんですか?」
「私は……いつも、春雷の君を追いかけていました。あの方が行かれるところなら、どこへでも」
飲み干された彼女の杯に、相槌を打ちながら酒を満たす。
「じゃあ、ほとんどいつも一緒にいる感じだったんですか?」
「一緒にというより……後をついて行っていただけです」
「兄妹、ではないですよね? 友人? 恋人? それとも夫婦?」
前からお知りになりたかったのはそのことでしょう? と彼女はクスクス笑う。
「家族よりも長い時間を共に過ごし、友人というほどくだけた関係ではなく、恋人というには……互いの気持ちを確かめることは、私には難しいことでした」
穏やかな笑顔の下から顔を覗かせる切なさが、オレの心を締めつけてくる。
「春雷の君が歳神として地上に降りると仰ったとき、私は反対しました。ですが太郎君は理由も聞かず、任せる、とだけ仰って……。あの方の行方がわからなくなった時、私は太郎君に、どうして反対してくれなかったのかと責めました」
「太郎君は、何て……?」
「すまん、と、ただ一言だけ。あちらこちら駆けずり回って捜し続けましたが、やはり行方はわからず、今度は私が地上へ降りることに……」
話しながら彼女は、俺の後ろに視線を投げかける。何か気付いたような様子で、手に持っていた杯を正座している足下にゆっくりと置いた。
息を凝らすようにじっと静かに睨みつけている。彼女の緊張が伝わって、辺りの空気が急速に冷えていく。後ろで何かが動く微かな気配。何だろう、と振り返ろうとした時、鋭い声が飛んできた。
「浩介殿を呼んできてください」
急いで、という切羽詰った声。歳神様のただならぬ雰囲気に気圧されて、訳もわからないまま走った。蔵を飛び出したところで、父さんが血相を変えて駆けて来るのが見えて、踵を返す。
祠が見える場所まで戻ったところで、オレの足は固まってしまった。オレを押し退けようとした父さんも、やはり目の前の様子に体を硬くする。
歳神様が仁王像のように祠の前で立ちはだかっていた。その向かい側には、彼女がずっと捜し続けてきた姿。
げっそりと痩けた頬。目の下には黒ずんだ隈。無精髭が不潔さを感じさせる。出来物や白髪は無く、これまででは一番歳神様の姿に近いように見えた。あちこちが破れ、ボロボロになった着物の背には、直線の渦巻き模様が燭台の火で金色に輝いている。
彼の後ろを伺ったが、他の疫病神の姿はない。闇が凝ったような重苦しく湿っぽい空気に息が詰まりそうだ。
歳神様は、オレ達を一瞥してから春雷の君に向き直り、静かに問いかけた。
「……何用でいらっしゃったのですか」
冷たく尖った声で尋ねる彼女の表情には、警戒の色が見て取れる。春雷の君は傷付いたような顔をして一度立ち止まったが、重い足を引き摺る様にしながら再び歳神様に近付いていく。衣擦れの音さえも力が抜けたように弱々しい。
「お答えください。何用でいらっしゃったのですか」
春雷の君はまた立ち止まって、躊躇いがちにゆっくりと、低く小さな声で告げた。
「……そなた、我が名を呼んではくれまいか……?」
まるで祈りのようにも聞こえる切ない響き。歳神様は怪訝そうな顔をした。オレは父さんと顔を見合わせる。
彼の意図はわからないが、少なくとも悪意は感じられず、何かを切実に訴えようとしていた。
父さんが少しずつ祠へと歩み寄っていく。オレもその後に続き、祠の脇まで進む。歳神様は意を決したように彼の名を口にした。
「……春雷の君」
蔵の中に響く、凛とした声。空中から青白い稲光が春雷の君に向かって走った。彼の体に触れた瞬間、バシン、と激しい音が鳴って、グラリと揺れる。なんとか踏み留まり、再び歳神様に向けた彼の顔に浮かぶのは、歓喜とも安堵とも判断のつかない笑み。
「……もう一度だ。もう一度、呼んでくれ」
歳神様は少しの間、眉間に深い皺を寄せて考え込んだ。やがて何かを理解した様子で、ああ、とゆっくり大きく頷いて、大声で彼の名を叫んだ。
幾筋もの稲光が我先にと素早くその腕を伸ばし、春雷の君に触れようとする。彼の体からはそれを迎えるように青白い光が伸びた。空中で激しく散る火花は視界を眩く照らし、思わず腕で目を覆い、まぶたを固く閉じた。
目に飛び込んだ光が眼球に突き刺さり、閉じたはずの視界は残像で白く光る。さらに鼓膜を震わす凄まじい轟音。
恐る恐る目を開くと、彼は今までに見たことのない晴れやかな笑顔を浮かべていた。目の下の隈は薄れ、痩けていた頬は膨らみ、ボロボロだった着物も新品のようにつやつやと美しい。
何だ? 何が起こったんだ?
「……歳神よ、そなたに礼を申す。我はようやく己の名を取り戻した」
肩の荷が下りたような清々しい表情と声。春の日のような温かみさえ感じられる。
「立春の節分の折は、それが何かわからなかった。立夏の節分の折は、そなたと疫病神、双方が呼ぶ名で我は混乱した。されど今は、あれらの呼ぶ名は我には不快でならぬ。おぞましく、耳障りで耐え難い。
歳神よ、そなたが呼ぶ名だけが、体の隅々まで染み透る。その清らかな響きは体の奥底に小さな火を灯し、ほんのりと温めてくれる」
歳神様は、嬉しそうに笑顔を浮かべて、涙で濡れた目元をそっと着物の袖で押さえた。
「……名は体を表す、ですか」
父さんが漏らした呟きに、春雷の君は満足そうに頷いた。
どういうこと? とオレは父さんの服の袖を引っ張る。
「神々にとって、名とは、そのもの自身を表す。春風の太郎君が春一番の神であるように。桜花の宮が桜の姫神であるように。
この方は、地上に降りた当初は歳神様と呼ばれていたはずだ。穢れを受けてからは疫病神と呼ばれ、疫病神からはさらに違う名で呼ばれた。そうして真の名を呼ばれることなく過ごしているうちに、ご自分が何者であったのかわからなくなったのだろう。穢れの影響もあったかもしれない。
真の名を呼ばれ、それが何であるか認識したことで、やっと今、本来の姿を取り戻したんだ」
「じゃぁ、名前を取り戻したから、春雷の君は疫病神ではなくなって、天に帰ることが出来るってこと?」
「我の身はまだ穢れを帯びておる。天には帰れぬ」
そう言って自嘲の笑みを浮かべる春雷の君の表情は、どこか心細く寂しげだった。歳神様の顔も厚い雲に覆われたように翳ってしまった。
「されど名を取り戻すことは、重要なこと。いつも側にいたそなたがこうして地上に遣わされたのは太郎君による働きか、父上による計らいか……。我はそれと知らずに、懐かしいそなたの神気に引き寄せられたのやもしれぬ。
高橋家当主殿にも、これまでの非礼を詫び、この度の礼を申す」
腰を深々と折って頭を下げる春雷の君に、父さんも姿勢を正して丁寧にお辞儀をして返した。今までは追い返すことばかりだったから、なんだか変な感じだ。
彼は小さく溜息を吐く。
「……もう行かねば。これ以上そなた達に迷惑を掛けられぬ」
「どこへ行こうと言うのですか? まさか、疫病神の元へ……?」
歳神様の言葉に、彼はゆるゆると首を左右に振った。改めて彼女に向き直り、互いに目線を交わす。
「あれらの元には戻らぬ。戻れば、必ず穢れを受ける」
「宛てがあるのですか? お一人で全ての穢れを落とすのは難しいでしょう」
「己でどうにかせねばならぬことだ」
「ですが、地上にいて穢れを受けずに済ませることはほぼ不可能です」
それ以上言うてくれるな、と彼は呟き、不安げに瞳を伏せた。その様子は今にも消えてしまいそうなほど頼りなく、弱々しくて、彼には行き場がないんだ、とオレでもわかる。
「ならば、当家でお祀りいたしましょう」
素っ気ない声で、父さんが突然割って入った。思わずオレも口を挟んでしまう。
「父さん? 何言って……」
「高橋家として、疫病神ではなく、春の雷の神をお迎えいたします」
「ちょっ、ちょっと待ってくれよ」
一瞬、頭の中が真っ白になる。今まで鬼やらいをしてきたのは一体何のためだったんだよ、と抗議したら、お前は黙っていなさいとひどく低い声でピシャンと返された。
春雷の君の表情が次第に険しくなっていく。
「そなた、自分が何を言っておるかわかっているのか。我は穢れを負っているのだぞ。穢れのあるところには疫病神が寄って来る。そなたはあれらを自ら呼び寄せようと言うのか」
「疫病神は歳神様の桃の種と同じように、貴方様の雷を恐れておりました。それに、ここで祀り事を行うことで、貴方様の穢れを祓うことも出来ましょう。ちょうど月末は水無月の祓えを行いますゆえ、多少はお力になれると存じます」
「我のことは高橋家には本来関係の無いことだ。人間を巻き込むつもりはない」
「既に多くの神々がこの家を訪れています。それも、貴方様に関わることばかり」
「天に知れたら、歳神とてただでは済まぬ。我は歳神でありながら守るべき家を滅ぼしたゆえ、罰されるならば止むを得まい。されど、この歳神は……」
「ならば、歳神様には一言、『認めぬ』と仰っていただきましょう。貴方様は歳神様の神域から追い出されることになりましょうが、急ぎ私が伺い、注連縄を張り、祀り事をいたします」
父さんは意地でも譲らないつもりらしい。歳神様にちらりと目を遣り、さらに言葉を続ける。
「このまま貴方様が当家を去られ、再び行方がわからない状態で年末を迎えたらどうなるとお考えですか? 歳神様は当家に留まり、貴方様をお捜ししようとされるかもしれません。あるいは、私の息子がいらないことを申して、歳神様を当家にお引き止めするかもしれません。しかし私はこの家から貧乏神を出すわけにはいかないのです」
あくまでも当家のために申しているのです、と強い口調で言い切った。
父さんの言う通りかもしれない。もうオレには彼女が抱えている問題を他人事のようには思えなくなっている。やっと見つけた彼を失うことになったら、彼女はどれほど落ち込むだろう。出来ることは手伝ってあげたいし、必要ならこの家にずっと居ればいいとオレは彼女に言ってしまうような気がする。
でも、彼の穢れはまだ全部落ちたわけじゃない。春雷の君を迎えるということは、疫病神を迎え入れるのと同じじゃないのか? 祀り事で穢れを祓うと言ったって、オレにはやり方がわからないし、祓う前に父さんが病気になったりしたらどうにもならなくなるんじゃないか?
「……浩介殿、本気で仰っておられるのですか?」
歳神様は眉根を寄せて困惑した様子で尋ねる。父さんはそれにも迷うことなく応じた。
「決して簡単なことではないことは承知しております。適切に祀り事を行わなければ、最悪の場合、この家も、歳神様も、無事では済まないでしょう。他に良い方法があるならばともかく、無いのであれば、止むを得ないと考えます。あとはお二方次第です」
父さんのまっすぐ射抜くような強い眼差しが決意の固さを物語っていた。しばらくの沈黙の後、歳神様は溜息を一つ吐いた。
「……春雷の君。どうか、この家にお留まりください」
ダメだと弱々しく首を降る春雷の君に、いいえ、と彼女は落ち着いた声で続ける。
「これが最善だと私も思います。この地上には、私達が頼りと出来る方は他にはおりません」
それに、と歳神様は付け足した。
「私が貴方のお側に居たいのです」
春雷の君の顔がくしゃりと歪む。瞳から涙がポロリと零れると、その後は止めどなく溢れた。
歳神様も泣いている。でも、その顔には淡い笑顔が浮かんでいて、なんだか幸せそうに見えた。