挿話:半夏生《はんげしょうず》
其れは、ただ楽になりたかった。
何もかもが苦痛だった。
解放されたかった。
痛みから。恨みから。嘆きから。混乱から。
今、此処に存在するということから。
時折、頭の奥をよぎる美しい顔。
怯え、今にも泣きそうになりながら、ただ一言「シュンライノキミ」と呟く。
その度に胸がじんわりと熱を帯び、肌が粟立つ。
喉の奥から息の塊が勢いよく飛び出しそうになる。
しかし、声にはならない。言葉に出来ない。
美しい者の、凛とした清々しい声。その一声が響き渡る度、つかの間、濁った意識の片隅に何かが浮かび上がる。しかし其れが声にしようとする刹那に消え失せてしまう。
何度も何度も浮かび上がっては消えていく、とても大切な何か。
頭の奥がガンガンと痛む。目の前がぐるぐると回る。鳩尾から酸い物が迫り上がってきそうになる。
失ってはならない何か。心がそう叫ぶのに。
体はずるずると引きずり込まれ、落ちていく。
奈落の底へ。
闇の中へと落ちて。
其れは、また繰り返す。
ただ一滴の水を海から掬い上げるように、記憶の狭間を彷徨う。
どれ程の時間をそうして過ごしたのか。
目の前に、あの美しい姫神が立っていた。
姫神が呟く。「春雷の君」と。
幻か。
ーー否。
瞬間、青味を帯びた光が其れに向かって走った。
目の奥で光が炸裂する。甘い痺れ。鈍い痛みに全身が歓喜の声を上げる。
それは、我だ。
我の名だ。
そう感じると同時に、記憶の波が激しく押し寄せた。
失ったはずの優しい記憶。
愛しいものと過ごした日々。
其れは叫ぶ。心の奥底で、ひっそりと。
我を呼べ。我の名を、と。




