皐月
五月四日、二十三時三十分。
朝からずっと待ち続け、かなり時間を持て余している。
疫病神が集団で来るという、立夏前の節分。一日待ったが姿を見せない。せっかくの休みなのに薄暗い蔵に籠りっぱなしで一日終わるとは……。
「今日、本当に来るのか……?」
ついついぼやいてしまう。隣にいる父さんも、顔に疲労の色を浮かばせていた。
「っていうか、今日はもう来ないだろ?」
「まだ立夏になっていない。気を抜くな」
何度繰り返したかわからない質問に、同じ回数だけ返される父さんの全く同じ回答。マジかー……、とオレはがっくり項垂れた。
来るなら来るで、早くして欲しい。いや、来たら来たでそれも困るんだけど、やることもなくぼーっと待ち続けるのも、もう我慢の限界だ。
目の前には、古ぼけて少し灰色がかった木製の祠。両隣に立っている三脚燭台のぼんやりとした灯り。祭壇には神饌の他に、菖蒲の葉が添えられ、凛とした清々しい香りを放っている。
燭台の火が、ゆらり、と風もないのに大きく揺れた。
祠にフワッと橙色の小さな灯りが一つ灯る。灯りの数は増えていき、それに呼応して、被せていた覆いをゆっくり取り払うかのように、古ぼけた祠は真新しい祠へと姿を変えていく。木目は新しくニスを塗ったようにツヤツヤと光り、ところどころに施された金銀細工は本来の輝きをキラキラと取り戻した。
やっと来たか、とゴクリと唾を飲み込む。
父さんとオレの間を生温い風が吹く。ギイギイ、ザワザワという耳障りな音。何かが少しずつ近付いてくる気配。
それらはオレ達の後ろで立ち止まり、何か口々に喚き立てた。何と言っているのか聞き取れないその音は、頭の中でガンガンと鳴り響き、激しい頭痛と耳鳴り、酷い吐き気を呼び寄せる。
思わず口元を押さえ、膝をつきそうになった時、ビィン、という短い音が空気を震わせた。不快な音はピタリと止まり、蔵の中に静謐が戻る。頭痛も耳鳴りも吐き気も治まって、オレは思わず安堵の息を吐いた。
父さんが桃の弓を構えている。弦を引っ張り、再びビィンと弾いた。それを合図にしたかのように祠の扉がゆっくり開き、たすき掛けをした歳神様が姿を現す。手には前の節分と同じように、木製の長い杖と薄桃色の巾着袋を握っている。
「歳神ガイル」
後ろで何かが、ボソリと呟く。妬ましそうに、恨みがましく。
「歳神ガイルゾ」
地の底を這うような陰鬱な声に、ゾワリと悪寒が走り、背筋が凍る。
「アノ時ノ歳神ダ」
それらは更に近付いて来る。ズルズルと何かを引き摺る音。ガラガラのしわがれた声。
「歳神、憎イ」
「歳神、憎イ。赦サナイ」
とうとうその姿をはっきりと現した。赤、青、緑、黄、黒の禍々しい姿。そして、もう一体。
黒い短髪に白い髪が混ざった青年。ところどころ擦り切れた着物には、見覚えのある紋が入っている。金糸の、直線が渦を巻く模様。――春雷の君。
歳神様は口の端をきゅっ、ときつく結んだ。手に持っている杖で二度、床をドンドンと打ちつける。
「高橋家の歳神より、穢らわしく悪しき疫病をもたらす神々に申し上げる。
この祠は既に歳神が住まうところであり、そなた達が住まうべきところではない。直ちに四方の境より外へ立ち去っていただきたくお願い申し上げる」
彼女の凛とした声は力強く、迷いを感じさせない。
「速やかに立ち去れ! さすれば、手荒な真似はせぬと約束しよう」
最後は春雷の君に語りかけるように話し、再び杖で床を叩く。疫病神達は春雷の君を囲み、ギャアギャアと不満げに騒ぎ立てた。釣り上がった目は怒りで大きく見開かれ、血走っている。頭に生えている角が心なし伸びたような気がした。
「歳神、憎イ」
「歳神、憎イ。赦サナイ」
「アノ祠、欲シイ」
「アノ祠、住ミタイ」
「歳神ヲ、追イ出セ!」
追イ出シテシマエ! と金棒を振り上げ叫ぶ彼らの中心で、春雷の君は一言も発さず、ただ黙って歳神様を睨みつけた。
彼の姿は、他の疫病神達とは異なっていた。角は無く、落ち窪んだ目は血走ってはいるものの、悲哀をも覗かせている。唇は青黒く乾燥してひび割れているが、口元はだらしなくたるんだりせず、固く結ばれていて、何か意を決しているように見えた。
やがて彼は、腰に下げている剣を鞘から引き抜き、その切っ先を歳神様に向けた。
「……歳神殿に、申し上げる」
腹にビリビリと響く低い声に、歳神様の眉が微かに動く。
「我々にこの祠を明け渡していただきたい。悪いようにはせぬ」
淡々と、感情の篭らない声で春雷の君は言った。疫病神達がソウダソウダと囃し立てる。しかしそれには歳神様がきっぱりと答えた。
「そのような申し入れには応じられぬ。さあ、早う立ち去るが良い」
再度、床を二度打ち鳴らした。もうこれ以上、話すことは無い、と。
「……どうしても、ならぬ、と申すのか?」
「どうしても、なりませぬ。……春雷の君」
彼女が名を呼んだ瞬間、青白い稲妻のような光が空中から春雷の君へと走る。光は春雷の君の体を伝い、腕から指先へ、そして剣へと進んでその切っ先を包んだ。周囲を取り囲んでいた疫病神達は、恐れをなしたように彼の側から後ずさる。
「春雷の君。どうか、思い出してください。貴方は春の訪れを告げる神。地上に留まってはなりませぬ。春雷の君!」
名を呼ぶ度に青白い光が走る。彼の体を伝わった光は、先に伝わった光に触れて激しく火花を散らした。疫病神達は祠の前を逃げ惑い、散った火花がその身に触れた者は、大きな悲鳴を上げてのたうち回っている。
歳神様は何度も春雷の君に呼びかけた。彼の体は次第にブルブルと震えだし、顔には脂汗が浮かび、苦悶に歪む口元から荒い息が漏れる。
蔵の中は、青白い光がもたらす熱で少しずつ温度が上がり、バチッ、バチッ、と火花が散るたびに目が眩んだ。
疫病神のうち一体が金棒を片手によろよろと立ち上がった。春雷の君へと近付いていき、すぐ後ろで金棒を大きく振りかざす。
マズイ、と思った時にはもう遅かった。それは叩きつけるように金棒を振り下ろし、彼の頭を強く打ち付けた。鈍い音と共に、体がぐらりと揺れる。そのまま倒れそうになったが、寸でのところで大きく足を踏み出して堪えた。
続け様に、今度は横方向から殴り付けられ、さらに大きく体が揺れる。彼の手から離れた剣は金属音と共に床を滑っていった。殴り付けた疫病神は金棒を伝わってきた青白い光に両手を焼かれ、断末魔の悲鳴を上げて倒れ込む。
どうなっているんだ。仲間同士のはずなのに、互いに傷付け苦しみあっている。もうオレには訳がわからない。
「太郎兄者」
また別の疫病神が耳を覆いたくなるようなザラザラとした声で呼ぶ。
「太郎兄者!」
声のする方へと春雷の君は振り向いた。殴られた辺りの髪に、さらに白い物が混じり、肌にブツブツと出来物が出来ている。
すごく嫌な予感がする。じとっとした汗が全身に滲む。オレは疫病神達の周囲を回り込み、じりじりと祠の前へ行こうと試みる。
「春雷の君!」
「太郎兄者!」
歳神様と疫病神の呼び声に、彼は泣き出す寸前の赤ん坊のように顔を紅潮させてクシャクシャに歪ませた。耳を強く押さえつけ、体を震わせる。喉から絞り出されたのは長い、雷を思わせる凄まじい唸り声。
「ううウゥゥぅァァぁぁああアアあアアあ!」
空気を切り裂く轟音と共に、目の前が真っ白に光る。オレは咄嗟に右腕を祠の前へ伸ばした。無数の青白い光が春雷の君から周囲に発せられ、そのうちの一つが蛇のように歳神様へ向かっていく。
蛇は、立ちはだかったオレにその牙を突き刺す。指先から肩にかけてビリビリッと痺れるような強烈な衝撃。バチンッと火花が弾けて、一瞬、体が宙にふわっと浮いた。そのまま土間に叩き付けられ、右腕の激しい痛みと痺れに思わず腕を抱え込んだ。
目の前ではたった一人、春雷の君を除いて、全ての疫病神が土間に倒れこんでいる。彼らの鬼のような形相が、少しずつ疲労困憊しきった老人の顔に変わり始めた。
「鬼はァァァ外ォォォ!」
頭上で響き渡る、歳神様の澄み渡った声。彼女の手からバラバラと桃の種が撒かれ、それは春雷の君の体にぶち当たる。
「ギャアアアアァァァ!」
彼は頭を押さえ、悲鳴を上げながら苦しみもがいて転げ回る。追い討ちを掛けるように歳神様はまじないを唱えながら種を撒き、父さんが弓の弦を弾く。種は倒れ込んでいた疫病神達にも当たり、春雷の君と同じように彼らも痛みに身をくねらせながら泣き叫んだ。
彼女がまじないを繰り返し、種を撒き散らすうちに、彼らは息も絶え絶えになっていく。その凄惨な光景に、オレは腕のことも忘れ、ただ呆然と眺めているしかなかった。
やがて、聞こえてくるのは苦しそうに喘ぐ息のみになった。疫病神達は無残な姿の老人となり、金棒が変化した細い杖を頼りに、崩れ折れそうになりながらもなんとか立ち上がる。
「……歳神、強い」
「歳神、強い、勝てない」
「勝てない、祠、諦めよう」
「諦めよう……」
彼らは杖をつきながらよろよろと、覚束ない足取りで元来た方へ歩き出す。春雷の君を置き去りにして。
春雷の君は、土間を這いずり、離れたところに落ちていた剣をやっとの思いで掴み取ったところだった。白い髪は全て黒髪に変わり、肌の出来物は消えている。痛め付けられ、ボロボロになりながらも、青年は剣に体を預け、ギリギリと歯を食いしばりながら立ち上がろうとしていた。老人の一人がその様子をじっと眺めている。
「……太郎兄者、どうする……?」
ボソリと呟かれたその声に、他の疫病神達が振り向いた。
「……太郎兄者、恐ろしい」
「太郎兄者、恐ろしい。怖い」
「厭じゃ」
「厭じゃ。厭じゃ。……一緒に居りとうない」
老人達は気味が悪そうに青年を一瞥し、囁くようにそう言って踵を返した。来た時よりも重い足取りでゆっくりとその場から去っていく。
春雷の君はただ黙って、彼らの後をフラフラとよろめきながら追いかける。時折大きく体を揺らし、倒れそうになりながら。
「……春雷の君」
歳神様の呼び掛けに、彼はぎこちなく振り向いた。青白い、精根の尽き果てたようなやつれた顔。
「……そなたは誰ぞ……? そなたがそうして我を呼ぶ度、様々なものが頭の中に浮かんでは消える。そうして我は、訳がわからぬようになる……」
「私のことは、貴方が一番良くご存知のはずです。春雷の君」
彼女の優しい、柔らかい声に、彼は再び泣き出しそうに顔を歪めた。
「どうか思い出してください、春雷の君。すべての憎しみ、怒りをお捨てになって……」
しかし彼は弱々しく頭を左右に振って拒否した。再び老人達の後を追い始める。春雷の君の姿が少しずつ薄れていくのを見送って、歳神様は祠へ戻り、扉をカタン、と閉じた。
真新しかった祠が、元の古びた祠へと姿を変えていく。祠に灯っていた灯りも一つずつ消えていった。父さんがオレのところへ駆け寄ってくる。
「尚樹! 大丈夫か!?」
肩を掴まれてがくがくと強く揺すられた。右腕はまだビリビリと痺れていて力が入らない。
「尚樹!」
「……う、うん、大丈夫……」
声が喉の奥に引っかかるような気がした。扉が再び開く音がして、歳神様が心配げにこちらの様子を伺っている。
「尚樹殿、大丈夫ですか?」
見せてください、と言われて、おずおずと右腕を差し出した。歳神様は飾られていた菖蒲の葉を手に取り、オレの指先を葉でなぞった。父さんが後ろからオレの服を捲り上げて、しげしげと観察している。
「……目立った傷は無いようです。病院へ連れて行きます」
「ええ。見えないところに傷を負っているかもしれません。少しぼんやりしておられますし……」
私のせいです、申し訳ありませんと歳神様が頭を下げた。オレは慌てて否定する。
「いや、歳神様のせいなんかじゃないよ。オレが、勝手に……」
「いいえ。このように怪我を負わせてしまって、本当に申し訳ありません」
深々と頭を下げる歳神様に、オレは何と返したら良いのかわからず視線を彷徨わせた。父さんが慌しげに祠を出て行く。
「ちょっと大げさだよ、父さんも……」
「そんなことはありません。稲光は貴方の指先から肩へと抜けたようでしたが……後から体調が悪くなることもあります。穢れは心配するほどではありませんが、今のうちに祓っておきますね」
彼女はオレの指先から肩へと順に菖蒲の葉でなぞっていく。ツンと爽やかな香り。
「……春雷の君を助けられなかった」
「そうですね……でも、仕方ありません」
予想外に明るいトーンの声が返ってきた。
「他にも疫病神がいる以上、難しいだろうと思っておりました」
「そうなんですか……」
「でも、それほど悪い状態ではないと思いますよ」
歳神様は手を止めて、真摯な瞳でオレを見つめる。
「前に来られた時は、見た目が完全に疫病神の姿に変わっていました。でも今回は、元の姿にかなり近い。呼び掛けにも応じてくださった。先の節分で穢れを落とした後、ほんの少し穢れを受けただけで済んだようです。僅かではありますが、本来のご自分を取り戻されたのだと思います」
まだ歳神様や他の神様と同じとまではいかないけれど、疫病神とは明らかに違いを見せていた春雷の君。歳神様に呼び掛けられるといろいろ思い浮かんで混乱する、とも言っていた。
どうすれば彼を助けることが出来るんだろう?
「もう少し穢れを祓うことが出来れば良いのですが、それはまた次の機会を待つしかありません。今までは春神達が手伝ってくれましたが、彼らも天に帰りましたから、改めて方法を考えなければ」
「何か良い方法があれば良いんだけど……」
「そうですね……それに、もう一つ、新たに気掛かりなこともあります。疫病神達が、春雷の君を恐れている。あの方にとって、それが悪く作用しなければ良いのですが……」
蔵の入口から父さんの呼ぶ声がする。マジでこんな夜中に病院行く気なんだ、と面倒臭く感じた。まだ右腕は痺れてはいるけど、他には特に痛いところはない。
「さあ、祓いも終わりましたし、こちらのことはもう後にして、どうぞいってらっしゃいませ」
歳神様が浮かべた穏やかな笑顔は、春の日のような温かみに溢れていた。本当はどこかに辛さや苦しみを隠しているんじゃないか、と思ったけれど、それを見つけることはオレには出来なかった。




