卯月
四月十四日、十時二十分。
桜は花弁を散らし始め、濃い緑の葉が顔を出しつつある。
季節はすっかり春だ。日は長くなり、分厚いコートやマフラーはそろそろお役御免。母さんはウキウキと春物のジャケットを羽織り、映画を見に行くと出掛けていった。
縁側に酒を注いだ杯を置く。春風の太郎君という風の神様への供え物だ。そのまま少し待っていると、爽やかな風が吹き通っていった。いつもなら、風が吹き抜けたら酒は無くなっているのに、今日は少しも減っていない。代わりに薄いピンクの花びらが一枚、ゆらゆらと浮かんでいる。
とても気に入っていたのに、今日はどうしたんだろう。
「父さん、太郎君が飲まずに通り過ぎて行ったよ」
花びら入りの杯を見せると、父さんは怪訝そうに顔を顰めた。
「神様も休肝日とかあるのかな?」
オレが軽口を叩いても無反応。難しい顔でしばらく何かを考え込み、ついてこい、とだけ言って、杯を片手に蔵の方へ早足で行ってしまった。
蔵の奥、祠の扉前に歳神様がいつもと同じように座っていた。年始に十四、五歳だった彼女は、今や三十歳近く。元々キレイで清楚な感じの神様だったけど、見た目がやっと彼女の穏やかな言動に合ってきたように思う。
「先程、太郎君がこれを置いて行かれました」
父さんが杯を歳神様の前に置くと、彼女は口元を綻ばせた。
「まあ。太郎君がお連れくださったのですね」
左手で袂を押さえながら、右手をすっと花びらの上へ伸ばす。
「宮様。どうぞおいでください」
花びらから小さなシワシワの手が伸びてきて、彼女の手を取った。歳神様がゆっくりと手を引くと、花びらから女がスッと立ち現れた。その様子はまるで高貴な女性が立ち上がる時のように優美で気品があった。同時に辺りに漂うのは、穏やかな甘い香り。
髪は長いストレートの白髪。薄墨の麻呂眉、紅色に塗られた頬。顔にいくつも刻まれた深いシワや茶色いシミが、枯れ枝を思い起こさせた。十二単を着ていて、一番外側に重ねている薄紅色の衣には、濃い紅色で桜の花が描かれている。とても美しいけれどどう見ても若い女性向けの衣で、年不相応な印象。背丈は歳神様よりひとまわり小さい。
「お久しぶりでございます」
歳神様が三つ指をついて頭を下げた。
「ほんに久しいの。そちに会えて、妾も嬉しいぞ」
ばあさんは、キンキンと甲高い声でゆっくり喋った。年寄りだからなのかやたら声が大きく、甲高い声とのコンボで煩いくらいだ。
「宮様、こちらは高橋家当主の浩介殿と、次期当主の尚樹殿です」
「うむ。よう知っておるぞ」
ホホホ、とばあさんは扇子を開いて取り出し、口元を隠した。
「浩介殿、尚樹殿。こちらは桜花の宮様。山の神です」
「オウカ、と仰いますと……察しますに、桜の姫神様でしょうか?」
左様じゃ、と言って、またばあさんはホホホと笑う。
「今日はの、太郎君から花鎮めをやって欲しいと頼まれて参った」
花鎮め? なんだそれ?
父さんの方を見るとこちらも困惑顔。オレと目が合うと、軽く首を傾げた。どうやら父さんも知らないらしい。
「花鎮めって何すか?」
オレが恐る恐る尋ねると、歳神様がにこやかに答えてくれた。
「桜の花が散る頃に行う祀り事です。疫病神を抑えるために行います」
「疫病神が周囲から家の中を伺っておるのでな。太郎君がこちらに来られる度に遠くへ運んでおられるが、翌日になるとまた来ておるそうな」
疫病神の姿なんて、全然見かけなかったけどなぁ……。病気になるとか死人が出るとか言ってたはずだけど、太郎君が来る度って、毎日じゃないか。大丈夫なのか、この家。
「切りがないゆえ、ひとまず祀り事を行って、祓えをした方が良かろうということになった。先ほど太郎君が疫病神を運んで行かれたゆえ、今なら疫病神達もおらぬ。直ちに支度せよ」
閉じた扇子の先をビシッとオレ達に向けたばあさんに、父さんが困り果てた様子で応じる。
「恐れながら、当家は花鎮めの祀り事についてよく存じておりません。どのように致せば宜しいでしょうか?」
「まずは祭壇じゃな。それから、家中の出入口を全て開け放て。さあ、早う」
急かされるまま、祠の隣に白木の台を組んだ。それから父さんはそのまま祭壇作りを続け、オレは家中の扉や窓を開けて回る。開き戸は勝手に閉じてしまわないよう、ストッパー代わりに適当なものを置いた。
祠の前に戻ると、見覚えのある黄色い着物が目に入った。太郎君が杯を片手に満面の笑みで歳神様と話し込んでいる。飲んでいるのは、どうやら歳神様に供えていた酒らしい。
祭壇には供え物が並べられている。あと一つ並べたら祭壇作りは完了のようだ。最上段の中央には、あの花びらが入った杯が置かれていた。その前に桜花の宮が立っている。
父さんがいない。
後ろを振り返ると、頭上に神饌を載せた台を掲げて、ソロソロとこちらへ向かってくる姿が目に入った。そのまま祭壇前に進み、ゆっくりと空いているところに並べた。
それから二人で無言のまま、口の中と手をすすぎに行き、再び祠の前に戻る。塩を溶かした湯桶に榊の木を浸し、湯を互いの体に振り撒いた。
「……では、始めようかの」
太郎君が歳神様を手の甲に載せ、父さんの右肩の上に運んだ。
「私が浩介殿の補佐をしますね。まず、二礼、二拍手、一礼です」
歳神様の指示通り、父さんの所作に合わせて動く。黙って眺めている桜花の宮と太郎君。しんと静まり返った様子に、オレはなんだか緊張してきて、呼吸をするのも躊躇われた。
父さんの耳に顔を寄せて、歳神様が何か小さな声で話しかけた。微かに頷く父さん。
「高橋家当主、高橋浩介より山桜の姫神であられます桜花の宮様に申し上げます」
朗々とした低い声が蔵の中を響き渡る。
「当家では歳神様を奉り、そのお導きに従って疫病その他の災禍にあたっておりますが、これに加え、桜花の宮様の御力によって様々な禍事を祓いたまい、清めたまい、御心のままに守りたまい、幸をもたらしてくださいますようにと恐れ多くも慎んでお願い申し上げます」
知らない、と言った割には淀みなくすらすらと述べて、父さんは首を垂れた。
桜花の宮は承知した、とだけ答えて、後ろへと振り返る。扇を広げて右手に掲げ、片足ずつ交互にトン、トン、と白木の台を踏み鳴らした。
そのまま杯の周りを進み、杯の左側まで来たところで扇を左手に持ち替えて、ゆっくり左回転。トン、トン、とまた白木の台を踏み鳴らした。すると、杯の中から何かの植物が芽を出し、ぐんぐんと伸びてきて、桜花の宮の背丈より少し低い高さまで成長した。
さらに杯の周りを進み、後ろまで来たところで扇を右手に持ち替えて、今度はゆっくり右回転。トン、トン、と白木の台を踏み鳴らすと、植物はすくすくと伸びて、大きく枝を広げた木になった。歳神様より少し高いくらいだろうか。
彼女は再び歩を進め、杯の右側へ。左手に扇を持って左へ回る。トン、トン、と踏み鳴らすと、さらに幹が伸び、枝を広げ、盆栽にしては少し大きいくらいにまで育った。枝に蕾がつき、濃いピンクの可憐な花が一つ、また一つと開いていく。
そうして桜花の宮は盃の前へと戻ってきた。また右手に扇を持ち替えて、右へクルリと回り、二度踏み鳴らすと、花は咲き乱れ、甘い中にすっきりと爽やかな香りが仄かに漂った。全ての枝が鮮やかなピンク色に染まる。桜だ。
太郎君が祭壇の前へと進み、枝に手を伸ばす。花びらが一枚、はらはらと落ちるのを見るや否や、彼は、ふうーっと優しく息を吹きかけた。それは風となってどんどん花びらを舞い上がらせる。
ひらひらと運ばれていく桜吹雪。花が散ってしまった枝にはまた新しい蕾が顔を出し、次から次へと花が咲く。そして太郎君が吹き出す柔らかい風に触れ、同化し、吹雪の一部となって空気中を舞う。
辺り一面にピンクの絨毯を敷いた後、風はクルクルと渦を巻き、上からリボンのように解け、蔵の外へと花びらを運んで行った。
やがて渦が収まり、何もかもがピンクの花びらに埋もれたのを見て、桜花の宮は満足気に頷いた。花びらは少しずつ色が薄くなり、向こう側が透け、最後には消えてなくなった。
桜花の宮はおもむろに杯の周囲を進み始める。さっきとは逆回りに、杯の右側、後ろ、左側と歩いていき、それぞれの場所で扇を掲げてゆるりと回った後、トン、トン、と台を踏み鳴らした。全ての花弁が落ちて、濃い緑の葉が茂った後、それも赤く紅葉して落ちた。彼女が杯の正面に戻り、クルリと回って足を二度踏み鳴らすと、木は少しずつ透けていって、すっと消えてなくなった。
「終いじゃ」
桜花の宮の一言に、思わず深い溜息。一気に緊張が解れて気が抜けた。父さんが九十度腰を曲げて礼を述べている。オレは頭がぼんやりとして何も考えられず、ただその様子を眺めていた。匂いに当てられたのか、なんだか気怠い。
「当主殿、この酒を家人全員で分けて飲むが良い。さすればそち達の体内に妾の力が取り込まれ、しばらくは疫病神除けになるであろ」
さっきまで木が生えていた杯を扇子で指し示す。父さんは黙って祭壇まで進み、杯に口を付けた。残りをオレに差し出す。
手に取った杯には、花びらが一枚、祀り事を始める前と同じ状態で浮かんでいる。アルコールの匂いに混じって鼻腔に届いた、濃く甘い香り。
こくん、と飲み込むと、喉元を爽やかで清々しいものが駆け抜ける。同時に、ぼんやりと靄がかかっていたような頭も、気怠さを訴えていた体も、まるでぐっすりと寝たあとのように冴え渡っていく。なんだか身も心も軽くなったみたいだ。
改めてまじまじと杯を見る。何も変わらない、ただの酒にしか見えない。不思議だ。
「終わったんなら、もう帰るぞ」
今日はいろいろと忙しいんだ、と言う太郎君に父さんが丁寧に礼を述べた。良いってことよ、と太郎君は爽やかに笑う。彼が祭壇に手を伸ばすと、桜花の宮がしずしずとその上に乗り移った。
「一時しのぎにしかならぬゆえ、よう気を付けよ」
「え? もうこれで疫病神は来なくなるんじゃないんすか?」
「祓えをしただけじゃ。滅ぼしたのではないぞえ」
首を傾げたオレに歳神様が説明してくれた。
「疫病神は、穢れのあるところに集まる習性があります。穢れはホコリや塵のように溜まっていきます。祓えというのは、それを箒できれいに掃き清めるようなもの。疫病神や様々な災いを寄せ付けないようにするのです」
「けど、おめえら人が動けば、また穢れが少しずつ溜まっていく。そうすりゃあ、また疫病神共も集まってくるだろうな」
ふんふんなるほど、とオレは心の中で呟いた。
「穢れを溜めないようにするには、どうすれば良いんすか?」
「まず、身の回りを清潔にすることじゃな。体は無論、家の中も隅々に至るまで汚れを溜めないようにするのじゃ」
「あとは心の持ちようだな。ウジウジと暗いのは良くねえ。イライラするのもダメだ。毎日明るく楽しく過ごせ」
俺っちみたいにな、と太郎君は笑いながらバシバシと肩を叩いてきた。いわゆるポジティブ・シンキングってやつか。
「あと半月で次の節分だ。俺っちみたいな春告神、春神は立夏を過ぎたら地上には降りられねえ。手伝ってやれるのはそれまでだ」
じゃあな、と彼の陽気な声がすると同時に、後ろから吹いてきた突風に強く背中を押された。前のめりに倒れそうになり、大きく片足を一歩踏み出した体勢でなんとか堪える。
太郎君と桜花の宮を中心に空気が渦を巻いた。渦の中で彼らの姿は薄く透明になっていき、やがて見えなくなる。そうして蔵の入口に向かって一陣の風がビュウっと吹き抜けていった。太郎君が立っていたはずの場所には、もう誰もいない。
父さんがやれやれ、と言うかのように溜息をついた。お疲れ様でした、と歳神様の朗らかな労いが後を追いかける。
「ひとまず、これで次の節分まで乗り切るしかありませんね。節分になればまた疫病神が来ますから、鬼やらいをすることになります」
次の節分っていつだっけ? と考えていたら、五月四日だ、という父さんの呟き声が耳に届いた。
「春雷の君も来ると思いますか?」
「……恐らくは」
「春雷の君を追い返す他に、何か良い方法は無いんすか?」
歳神様だって、親しい神様相手に乱暴なことはしたくないだろう。それに、追い返したってまたやって来る。根本的な解決にはならない。
「何か出来ることがあれば、と私も思いますが……」
歳神様は言葉を選ぶかのように、ゆっくりと話し出した。
「私はこの家から離れることが出来ませんし、かと言って、あの方をこの家に迎え入れるわけにはいきません。少なくとも今は、お力になれそうなことが何もありません。
一方で、太郎君のように私を気に掛けてくださる方もおられます。ですから今は、私がすべきことを精一杯やろうと思います」
彼女の視線は真っ直ぐにオレ達を貫いた。その瞳に宿る光は、彼女の強い意思を感じさせる。
「春雷の君をお助けしたいばかりに、他の疫病神を追い返せなかったなどというようなことはあってはなりません。あの方が白い疫病神として来られたならば、私は歳神として全力で事に当たります」
ですからお二人も、そのつもりでお願いします、と彼女は言った。凛とした姿には少しも迷いは見受けられなかった。
二月、歳神様は春雷の君を見て声も出さずに泣いていた。彼女にとって、決して容易い決断ではなかったはずなのに、そういう素振りも見せず気丈に振舞っている。力になってあげたい、と思っていたのに、何も出来ない自分が情けない。
承知致しました、と父さんが進み出た。
「私達も考えうる準備を全て執り行います。何か注意するべきことがございましたら、どうぞ仰ってください」
事務的に淡々とそう言って、父さんはオレに視線を投げ掛ける。余計なことは考えるな、と厳しく責め立てるかのように。
……そうだ。やれることをやるしか、無いんだ。オレには、力も知識もないんだから。
「……オレも、頑張ります」
たいして役には立たないかもしれないけど。そう付け足したら、歳神様は頼りにしています、と言って、いつもの柔らかい笑みを浮かべた。