挿話:雷乃声発《かみなりすなわちこえをしょうず》
其れは、いつからそこにいるのかわからなかった。
薄汚れた闇の底。ジメジメとして、汚物や腐ったもの、黴や埃に包まれ、悪臭が辺りを覆っている。
かつての記憶はなかった。
己が何であったのか、名さえも失ってしまっていた。
体中に醜い出来物や腫れ物ができていた。身につけている古くなって傷んだ襤褸の繊維が肌に触れる度、痛みが走り、膿が出て、穢れた体をさらに汚らしいものにした。それを嫌悪すればするほど、出来物も腫れ物も大きく醜くなっていく。髪は色艶を失い、水分も油気も枯れてかさつき、ただ白いものが伸びるに任された。
周りにいる者達も、同様に醜い姿をしていた。襤褸を纏い、汚物に塗れ、出来物を潰し、体液を滴らせ、苦痛に呻きながらそれを良しとしていた。
彼らをおぞましいと思いながらも、何故か彼らと行動を別にしようとは思わなかった。その理由もわからなかった。ただ、そうあるべきだと、そうであることが当然であると思っていた。
彼らは其れを「太郎兄者」と呼んだ。彼らより力が強いゆえにそう呼んだに過ぎないことも知っていた。親しみも尊崇もない。むしろ、彼らは其れを恨み、妬み、機会あらば利用するつもりでいた。
しかし、なぜそれほどまでに彼らに忌み嫌われているのか、わからなかった。考えようとすれば頭の中はまるで靄に包まれたようになる。思考は混乱し、渦巻いていく。
渦は強い不安と絶望を呼び、その度に声を出して叫びたくなった。
苛立ちが募り、周りのものをすべて破壊し尽くしたいという激しい感情に飲み込まれる。
ただ一つ、あの美しい者の声を、姿を、思い出す時を除いて。
雪のような白い肌に紅い着物を身につけていた。透き通った瞳をしたその者の声は、鈴の音のように清々しく体中を響き渡り、胸の奥にほんのりとした淡い熱をもたらした。
もう一度聴きたい。あの声を。
そして問いたかった。「シュンライノキミ」とは何であるかを。
それだけが、暗く深い闇の底から其れを掬い上げようとする一筋の光であるとは知らずに。