弥生
三月一日、十四時四十分。
大学が春休みなら暇だろう、と父さんに節句用の人形作りを押し付けられた。
白木の板を千代紙で包んで、少しだけ板の上部分からずらして貼りつける。さらにその上から千代紙を数枚貼り合わせて、着物を重ね着している人の姿に似せた。
毎年父さんが作った物を見ていたはずなのに、細かいところが思い出せない。出来上がった物はどこか不恰好で、覚えているものとは少し違っている。
面倒だからもういいか。……けど、歳神様関連だから、また父さんにゴチャゴチャ言われるかもしれない。
「尚樹までそんなことやってるの?」
母さんの食べている煎餅がバリバリと美味しそうな音をたてた。
「そりゃあまあ古い祠だし、神様もいるのかもしれないけど。流れ雛なんて、近所の人からゴミの不法投棄だと思われるわ」
何回言っても聞いてくれないんだから、とブツブツ不満を零している。
「母さんは歳神様が見えないんだよね?」
「見えるわけないでしょ。おじいさんやお父さんの真似しないでちょうだい」
これ以上は藪蛇だ。とりあえず机の上を片付けて、人形を一つだけ掴みそのまま縁側から庭に降りた。歳神様に見てもらって、これで良いって言われれば父さんにも言い訳が立つだろう。
春の陽気を含んだ強い一陣の風が庭木を大きく揺らした。オレの髪も一瞬でボサボサになる。よく晴れて、気温が高く過ごしやすい。案外、春はすぐ近くまで来ているのかもしれない。
三重になっている蔵扉のうち、二つ目を開けたところで何か物音がすることに気付いた。歳神様が何かやっているんだろうか?
節分の日以来、歳神様は沈みがちで、祠の中に引き籠っていることが多くなった。春雷の君とかいう疫病神が原因だろう。彼に何があったのかとか、歳神様とどういう関係なのかとか、聞きたいことは山ほどある。
蔵の入り口で人形をジーンズのポケットに入れ、ロウソクに火をつけて燭台に載せた。
ほとんど物置と化している蔵の中は、積み上がった物で薄暗い。一番奥にある祠の辺りがぼんやりと橙色に明るくなっているのが物陰から見えた。微かに話し声も聞こえる。
物と物との間に出来た通路を通り、祠が見えるところまで来てギョッとした。男が祠の中に手を突っ込んでいた。
「あんた、何やってるんだ!」
男は一瞬きょとんとしたが、細かいこたぁ気にすんな、とヘラヘラ笑いながら突っ込んでいた手を顔の前に上げた。手の上には歳神様の姿。
「ちょっ、あんた……!」
「尚樹殿、この方は怪しい方ではありません」
歳神様はオレに向かって両手を大きく左右に振った。ここ最近すっかり潜んでしまっていた晴れやかな笑顔を男に見せている。
「太郎君、こちらが次期当主の尚樹殿です」
「へーえ? なんか思ってたのと違うなぁ……」
なんだか親しげに、クスクスと笑いを交えながら話している。タロウギミと呼ばれた男の背丈はオレより高く、伸びた髪を無造作に束ねている。顔は程よく整っていて異性にモテそうな優男。黄色い着物の前を少しはだけて着こなしているのが様になっている。袖や裾には、淡い緑色の竜巻のような模様。
男はオレを値踏みするかのように、頭の上から足先までじろじろ見ている。
「尚樹殿、こちらは春風の太郎君です」
「ハルカゼ……?」
「春一番を吹かせる神、と言えばわかりやすいですか?」
「一番だけじゃなく、二番も三番も俺っちだけどな」
さっき通り過ぎてきた庭の様子が頭の隅に浮かんだ。
「じゃあ、さっき庭で吹いていた風は……」
「俺っちだな」
男は歳神様を祠の扉前に降ろし、供えていた酒を勝手に飲み始めた。ゴクッと喉を鳴らすと同時に、瞳をキラキラと輝かせる。
「うめえな、これ!」
「そうでしょう? 私もついつい飲みすぎてしまいます」
「おい、追加で酒持って来い!」
そうするのが当然だと言わんばかりの様子にムッとしたが、歳神様まで飲み始めたので仕方がない。オレは母屋まで戻って一升瓶を運んだ。
「なんだ、一本だけか」
「はい?」
「歳神の分が足らねえぞ」
どれだけ飲む気なんだ、と心の中で文句を言いつつ、また母屋に戻った。母さんが何か言いたげに視線を投げかけてきたけど、気付かなかったフリをする。
再び祠の前に戻ってきた時には、先に運んだ酒瓶の中身は早くも半分以下になっていた。
オレは新しく持ってきた酒を近くの白木の台に置いて、燭台の火を三脚燭台に移してから男に話しかけた。先月、父さんに言葉遣いを注意されたことを少し意識する。
「それで、春風の太郎君、様? は、今日はどういったご用件で……?」
「太郎君で良いぜ。小さいヤツは皆そう呼んでる」
近くまで来たんでな、と言って太郎君はオレをチラッと見た。
「春雷のこともあるし、な」
歳神様の顔が少し強張った。瞳は不安げに揺れている。
「何かおわかりになりましたか?」
まあなぁ……と語尾を濁し、太郎君はオレに目を遣りながらポリポリと首の付け根を掻いた。
「……人間に聞かせても良いって許しはもらってねえけど、めんどくせえから良いか。
昨年の立春前、それらしい疫病神に祠を乗っ取られた歳神が見つかったぜ」
「それらしいと仰いますと……?」
「数は六、色が同じで、白い疫病神を『太郎兄者』って呼んでたらしい。結局その家は全滅、歳神は貧乏神になっちまった」
太郎君はぐいっと酒を呷り、ふぅー、と満足そうに一息ついた。歳神様は何かを考え込む様子で重ね合わせた手の指をトントンと軽く上下に動かしている。
「今んところはそれだけだ。疫病神になったヤツは見た目がすっかり変わっちまうから、その白い疫病神が春雷だったかどうかはわからねえ。けど、他の疫病神と違って、白いヤツは滅多にいねえしなぁ」
太郎君はよほど気に入ったのか、旨そうにぐびぐびと酒を飲んでいる。鼻歌でも歌い出しそうな勢いだ。
オレもちょっといろいろ聞いてみようかな。
「えーと……すいません、質問、良いっすか?」
あぁん? と太郎君が面倒臭そうに応じた。
「春雷の君って雷の神様なんですよね? どうして歳神になったんですか?」
ある事情があって、とは前に聞いたけど。
「歳神ってのは、春神や山の神、田の神が一年だけ本来の役目から外れて、家の守り神になるってことだ。その間の本来の役目は他の神がやることになってる。
ただし、俺っちや春雷みたいな春告神は基本的にはやらねえ」
「ハルツゲガミ?」
「春の訪れを告げる神だな。春神達に『とっとと仕事しろ』って発破をかけて回るんだ。俺っちは風を吹かす。春雷なら雷を呼ぶ」
「それなのに、どうして歳神に?」
うるせえな、黙って酒を飲ませろと少し絡み気味になってきたヨッパライの代わりに歳神様が答えてくれた。
「ある家で、歳神が天に帰らず貧乏神になることが何年も続きました。住み着いた貧乏神の数が多過ぎて、その家はいつ倒れてもおかしくありませんでした。
家が滅んだら、その家の歳神は貧乏神になってしまいますので、誰も次の歳神を引き受けません。それでなんとかして貧乏神達を天に帰そうということになりました」
なるほど、とオレは相槌を打った。
「そんな時、春雷の君が自ら歳神になると仰られました。雷は、天と地上を結びます。ご自分の神力を使うだけですので祀り事をしたり、人間の手を借りたりする必要もありません」
「それで……上手くいったんですか?」
歳神様は下を向き、弱々しく頭を左右に振った。悲しみに表情が曇る。
「春雷の君にすべてを一任することになっていましたので、あの方が地上に降りてからのことはほとんどわからないのです。
その年の四月、春雷の君は突然烈しい雷を呼びました。あまりに烈し過ぎて、家は焼け、家人も犠牲になり、貧乏神達はその強すぎる神力により消滅したようです。あの方も同時に姿を消しましたが、ご自分の雷で消えてなくなってしまうことは考えられません。皆で手分けして探しましたが行方はわかりませんでした」
でも、春雷の君は疫病神だ。家が滅んだら貧乏神になるっていうことと理屈が合わない。
「ここには白い疫病神の姿で来ましたよね?」
「怨みや妬み、憎しみなどの穢れを受けた者、それが疫病神です。あの方がいつ、どこで、どのようにして穢れを受けたのか。それがわからない今の状態では穢れを落とすことは難しいでしょう……」
歳神様は今にも泣き出しそうな顔で黙り込んでしまった。太郎君がとりあえず飲め、と杯を進める。
「この話はもういいだろ。わかんねえことをうだうだ考えたって仕方ねえ。なるようになるさ」
自分も杯をぐいっと空けて、また酒を注ぐ。いつの間にか二本目の酒瓶も封が開けられていた。
「……そういやぁ、尚樹とか言ったか。おめえ、何か用事があったんじゃねえのか?」
突然話を振られて、思わずへ? と間抜けな声を漏らしてしまった。
「ああ、えーと、流し雛を作ったんで、歳神様に見てもらえたらなぁと……」
ポケットから人形を取り出した。千代紙にシワが寄って、前よりさらに見た目が悪くなってしまっている。
歳神様に差し出そうとしたら、横から太郎君が取り上げてポイッと投げ捨てた。
「ちょっ、何するんすか!」
人形を拾って汚れを手で払っていると、彼はさらに容赦ない言葉を投げかけてきた。
「そんなモン、見るまでもねえ。作り直せ」
「出来が悪いのは自分でも思いますけど、投げなくても良いじゃないっすか」
「出来が悪いってわかってんなら持って来んな」
そう言われると、返す言葉もない。
「尚樹殿。それには名前が入っていません」
対象的な落ち着いた優しい声音で歳神様が言う。
「名は体を表す、と言います。人形は人間の代わりに穢れを受ける物です。代わりをさせたい人間の名前を入れなければなりません」
「え? そうなんすか?」
「紙を貼り合わせる前に、板に名前を書くのです」
「紙はいらねえ。名前さえ書いてりゃあ良いんだよ」
後は余分だ、と素っ気ない口調で太郎君が話すのを、まあまあ、と歳神様が取り為す。
「高橋家では紙を貼るのが習わしなのですから、それはそれで良いではありませんか。
尚樹殿、浩介殿に作り方をもう一度確認して下さいね。まだ一日ありますから」
名前のことなんて、父さんからは一言も聞いていなかった。最初からやり直しか、と思うと気が重い。
「さっさと作り直して来い。あと、酒」
空き瓶をオレに押し付けて、太郎君は口の端にニヤッと笑みを浮かべた。
買い置きしてある酒瓶は残り一本。これもあっという間に飲み干してしまいそうな雰囲気だ。どうしたらいいんだろう、と少し考えた末に、とりあえずまた酒瓶を蔵に運び、父さんにメールした。
父さんはそれから一時間もしないうちに仕事から帰ってきた。訝しんでいる母さんには構わず、そのまま蔵へ直行。太郎君に丁重な姿勢で天へお帰りください、と頼み込んだ。悪神かそうでないかに関わらず、用件が済んだら早く家から出て行ってもらうのが正しい応対らしい。
太郎君は、毎日縁側に酒を供えることを条件に、渋々去って行った。歳神様がオレ達に頭を下げる。
「ご面倒をお掛けしてしまって申し訳ありません」
「いえ。積もるお話があったのでしょう?」
父さんの問いかけに彼女はニコニコと頷いた。久しく見られなかった心弾んだ表情を見て、少しは元気が出たのかな、とオレも父さんも顔が綻んだ。