プラネタリウムに墓標を立てる
僕の夢・私の夢
四年生に進級して、新しく僕の担任になった桃井先生が、黒板にでかでかと書いた言葉。
「みんなのことを知りたいから、みんなの夢を好きに書いてみてね」
女の先生らしい、明るく高い声が教室に響いた。先生が張り切っているところで悪いけど、今の僕には『夢』なんて漠然としたものは、とても書けそうにない。まだ何年も先のことを、なぜ今この短時間に考えて作文用紙に書かないといけないのか、僕には疑問だった。それなのに、周りのみんなは鉛筆を持った手を戸惑うことなく動かしていく。僕にはとても信じられなかったけど、小学四年生で夢を思い描くことすら出来ない子どものほうが、おとなにとっては信じられないことなのだろう。
サッカー選手や野球選手、アイドルにお花屋さん。子どもなら誰でも抱く夢を見ることによって、おとなはきっと「この子はとても子どもらしい」と安心する。おとなにとって戸惑うことは「子どもらしくない子ども」なのだ。実際に、僕は他の子と違って手のかからない子どもだとよく言われる。欲しいものをねだったりもしないし、言うことは素直に聞いている。それが人との上手い付き合い方だと思って生きてきたのに、どうやらそれはいけないことらしかった。
「良ちゃんは物分りが良いのね」
お母さんにそう言われたのは、たしか僕が小学校に入学してすぐだったと思う。式の帰りに、家の近くにあるファミリーレストランで夕飯を食べていたときだ。
「良太郎、入学祝いに何か買ってあげようか」
向かいの席に座るお父さんに言われて、僕は「ランドセルも机も買ってもらったし、別にいい」と断った。それを聞いてお父さんは少し困ったように笑っていた。子どもながらに、まずいことを言ってしまったかな、と思ったとき、僕の隣に座っていたお母さんは静かに笑って言ったのだ。「物分りが良いのね」、と。
それは僕を責めている言い方だとすぐにわかった。お母さんはそう思わせないように優しく言ったつもりだろうけど、子どもはおとなが思っているよりも、ずっとそういうことに気付くことができる。そのあとは、ただ静かに僕ら家族の食事は進んだ。周りの家族はとても楽しそうに食事をしている。その中に、僕と同じ年くらいの男の子がお母さんとメニューを選んでいた。その子は本当に子どもらしく笑っていて、それを見ている両親もとても幸せそうだった。僕はそのとき、あの子みたいになればいいのか、と思った。
それから僕は、おとなが安心して接することが出来るような「子どもらしい子ども」として振る舞うようになった。食事を終えて家に帰る途中も、頭の中で何度も何度も「あの子のように、あの子のように」と繰り返した。家に帰ってお父さんがソファでくつろいでいるとき、さりげなく隣に座って必死に考えた言葉を伝えた。
「さっきはごめんなさい。本当は欲しいものあるんだ。ただ、あのときはなんだか照れくさくて…」
うつむいて、僕は心の底から反省したような態度でそう言った。すると、お父さんは僕の頭に手を置いて「謝らなくても良いんだよ」と優しく慰めてくれた。そして僕は、お父さんに「仮面ライダーの靴が欲しい」と伝えた。もちろん、別に欲しいわけではなかった。
その靴を履いて小学生らしく、友達と外で遊んで服を汚してお母さんに怒られるような子どもになることで、僕は「子どもらしい子ども」になることが出来た。それはただ周りの子の真似をするだけだった。こんな簡単なことでおとなが安心できるなら、僕はずっとこのままでいようと思っていた。
別になりたくない夢をだらだらと書いた作文用紙を先生の机に置こうとしたとき、僕の前に出してある一枚の作文用紙が目に留まった。そこには「私の夢は星になることです。」と書かれた文字だけ並んでいた。それ以外には何も書かれていない。誰が書いたのか見ようとしたところで後ろから「早く出せよー」という声とともに、名前は別の作文用紙で隠れてしまった。僕は諦めて自分の作文用紙を提出して、いつものようにサッカーをするためにみんなと校庭に向かった。
「星になりたい、か」
僕はそう呟きながら、川沿いの道を一人で帰っていた。子どもらしいといえば子どもらしいかもしれない。だけどそれは先生をひどく困らせるものだ。それなのに、素直にあんなことを書けることなんて。うらやましいと思った。僕は子どもらしくするために、先生や親を困らせないようにするために、未知の世界のような将来の夢を必死に考えて鉛筆を動かしたのに。だけど、作文用紙に一行だけの文章なんて許されるはずはない。書いた本人は今、何を考えているだろう。
ふと、右側を向くと丸い夕日と川を背景にして、誰かが座り込んでいるのが見えた。左側にランドセルを置いている。背中まである茶色がかった髪には見覚えがあった。僕の前に座っている佐藤侑子だ。
休み時間はいつも一人で本を読んでいるだけの、おとなしい女の子。話しかけても無駄だということを知っているのか、誰も佐藤に声をかけることはない。もちろん僕も同じで佐藤に声をかけることはしなかったけど、実は気になる存在ではあった。
おとなの目を気にして子どもらしく振る舞う僕と違って、佐藤は子どもらしさをあまり見せず、クラスでも平気で孤立している。家ではどうなのか知らないけど、少なくとも先生にとっては「困った存在」であることには違いない。
僕は周囲を見て、同じクラスの人がいないことを確認すると佐藤に近付いて声をかけた。
「佐藤さん」
佐藤はビクっとして僕のほうを振り向いた。まるで敵にでも出会ってしまったように眉間にしわを寄せていたけど、どうやら僕が危険な人間じゃないとわかると、無表情になった。その表情を崩さないまま、佐藤は僕に「何か用?中村くん」と言った。どうやら名前は覚えてくれているらしい。だけど、特に用があったわけじゃない。ただ、なんとなく声をかけただけだった。何を言おうかと考えていると、佐藤のひざの上に図鑑のような大きい本が置かれていることに気がついた。そこには『天体観測』と書かれている。そのタイトルを見たとき、今日、先生の机の上で見た作文用紙を思い出した。
「星になりたいって書いたの、佐藤さん?」
思いつきで聞いてみた。佐藤は一瞬びっくりした顔をして、すぐにまた無表情に戻り、そしてうなずいた。僕は佐藤の右側に座った。どうしてそんなことを書いたのか知りたかったから。佐藤は隠すこともせず、ぽつりぽつりと話をしてくれた。
「昔から、嫌なことがあると星を見てたの」
「私が泣くと、お母さんは怒って私をぶつから、上を見てれば涙も止まると思って」
「いつも星を見ているとね、星がうらやましいって思うようになった」
「小さいときはお父さんもいて、三人で楽しく暮らしてて、毎日がキラキラしてた。だけど…」
そこで佐藤は言葉を区切った。僕は何も言わずに黙って、次の言葉を待っていた。いつのまにか、丸かった夕日が半分になっている。
「生きてるうちに、キラキラしてるのは少しの間だけ。だけど、星はずっとキラキラしてるでしょ。だからね、私は…」
佐藤の言葉と、帰りの音楽が鳴ったのは同時だった。僕たちのすぐそばにスピーカーがあったせいで、音がいっそう大きく聞こえて思わず耳をふさぎたくなる。名前も知らない、夕方に似合う寂しい音楽が鳴り終わると、佐藤はひざの上の図鑑をランドセルの中に入れて立ち上がった。僕も一緒に立ち上がる。そして、無言で僕らはそれぞれの家に帰った。あのとき、最後に佐藤は何を言っていたのか聞き取ることができなかったけど、その日の夜、僕はそれをすぐに知ることができた。
佐藤は住んでいるマンションの最上階から飛び降りて、即死だった。部屋にある机に「星になります」と書かれたメモが置かれていたらしい。クラスでは佐藤がなぜ死んだのかという話でざわついていたけど、僕はその中でただ一人、静かに目の前にある机の上の花を見つめていた。
それから僕は、いつのまにかおとなになっていた。だけど、子どもの僕もおとなの僕も、何も変わってはいない。相変わらず周囲に合わせて行動するし、世間一般の人間と同じ生き方をしていた。結局、子どももおとなも変わらない。
仕事の帰り道、なんとなく空を見上げてみた。そこには片手で数えられるくらいの星たちが申し訳なさそうに弱く光っている。その中に佐藤はいるのだろうかと考えてみた。残念なことに、僕には佐藤が言っていた「キラキラした瞬間」というものは訪れなかった。佐藤はいつまでもキラキラした中にいたいと願って、星になりたいと言ったのだろうか。だけど、星だって過ぎていく時間には逆らえない。佐藤の人生のように、星にも光を失うときが来る。小さな爆発を起こして死ぬことだってあるし、人工的な光の強さを前にして勝つこともできず、後ろでひっそりと息を潜めることしかできない。そう思うと、佐藤が死んだことは間違いじゃないのかもしれない。少なくとも、この現実を知らずに済んだのだから。
僕はもと来た道を戻って、再び駅に向かった。通勤とは反対の電車に乗り、二つ目の駅で降りる。今日は佐藤が死んだ日だったことを思い出した。星になった佐藤と消えていく星たちの追悼を込めて、いつまでもキラキラした瞬間を見せてくれるプラネタリウムを見ながら、心の中で佐藤と星たちの墓標を立てた。