第一話 挙動不審なデブ 2
「・・・所長、そろそろ会議の時間です」
「ああ・・・あぁ、分かっているよ。そうしよう・・・うん、会議だ・・・くく」
どこまででも笑えてしまう。
そんな僕を無視して、彼女は既に会議モードだった。
「おい片方坊主!」
本条君がまた彼にヘンな名前を付けた。
「・・・ぅう」
片方坊主が恨めしそうな瞳を向ける。
その迷子の子犬みたいな瞳が、またミスマッチ。
余計に不憫で気持ち悪いよ。
「・・・何だその目は」
この人は何故かステルスにだけ厳しいんだよな。
何でだろう?
「・・・い、いえ・・・何でもありません」
よろよろと生まれたての小鹿のような足取りでステルスが立ち上がる。
その手には、大量の毛髪が握られていた。
「昨日言った例の報告は出来ているんだろうな?」
「・・・はい。こちらです」
少し上ずった声色だが、ステルスは何とか自分の仕事を全うしようとしていた。
偉い。
そんな姿になってまで、命令はきちんと遂行するのだから。
「・・・・・・く」
でも、やっぱりダメだ。
シリアスに調査報告している姿が余計に怪しい。
今までの挙動とアンバランスな髪形が相まって、彼の不審者レベルが一気に跳ね上がったぞ。
もう、何て言うかカッコいいよ。
その髪型もカッコいいよ。片方坊主・・・
「えー・・・昨日、被害に遭われた木下絵空さんの周辺を調査していました所、不審な人間が一人・・・というか」
ステルスが恐る恐る本条君の顔色を窺っていた。
「・・・?」
その様子だと、あまり芳しい成果が上げられなかったようだ。
と、僕は推察していたのだけれどね。
「・・・何だ?」
ステルスのその弱気な姿勢に、本条君の眼が光る。
「い、いえ・・・、私としては被疑者を数人上げてくるつもりだったのですが・・・思いのほか調査が手間取ったというか、手間が省けてしまったというか・・・」
語尾を濁しながらステルス君はモジモジしだした。
自分の報告に自信が無いのだろうか?
「だから何だ?はっきり言え!」
本条君が相当イライラしていた。
「そ、それでは・・・」
ステルスが顔を引き締めた。
「その被疑者が周りの人間の証言などから判ってきたんですが・・・それがどうも、皆同じ人物を犯人だと思っているらしく・・・」
そこまで聞いて、本条君は彼の言葉を止めた。
「・・・そいつの名前は?」
本条君はステルスの報告を聞きながら、何やら分厚い本を取り出していた。
厚さ五センチ程の縦に長い辞書のような本だ。
「・・・天道正春。被害者の少女と同じクラスに通う家政科の男子生徒です」
「・・・・・・・・・」
本条君が無言で分厚い本を捲っている。
その様子を、
「・・・ぁ・・・・・・」
ステルスがとても不安そうに眺めていた。
ハラハラ、ドキドキ。
それがこちらにまで伝わってくるようだった。
そうしている内に、その何百ページあるかも分からない、どころか何千ページもありそうな分厚い本を捲る彼女の指が・・・
ピタ。
止まった。
「ふむ・・・こいつか」
彼女がその開かれたページを覗き込んでいる。
「・・・見知った顔か?」
彼女に問いかける。
「ええ、顔くらいは」
視線を本の中に落としたまま、声だけで返事をした。
彼女はそこに書かれた何かを読み取るように、じっくりと眺めていた。
そんな僕と本条君の静かな会話を、
「・・・しゅ、周囲の人間の話ではッ・・・その男が犯人で間違いない!との事です」
妙なテンションの男が邪魔をしてくる。
「・・・・・・」
その時だけ、本条君が視線を本の外に向けた。
死の視線。
「・・・あ、ごめんなさい」
素直に謝るしかない。
平に。ただひたすらに謝り通す。
謝らざるを得ない、彼女の眼光。例え悪い事をしたのが彼女自身であっても、そんな眼で睨まれたら、誰だって謝罪し許しを請うに違いない。
「悪ぃな・・・ステルス。今、僕と本条君が話しているんだ。ちょっとの間だけ口を閉じてろ」
所長命令。
これに逆らう奴はこの部屋から一発退場だ。
そして彼は従順だった。
それがステルス君のウリだから。
「・・・・・・・・・」
ピシッと口を閉じて、一切の言葉を封じた。
それどころか、口の端から漏れる息までも我慢しているらしく、次第にその顔が青白く変色していく。
「・・・ゥ・・・・・・ぅぅ」
低い声で呻きながらも、何とかこの場を乗り切ろうと精一杯努力していた。
その姿に、僕は少なからず心を打たれてしまった。
まぁ、もって後一分くらいの努力なのだろうけど。
それ以上やると彼が自殺してしまう。彼にその意思が無くとも、結果的に彼は死亡してしまうだろう。
・・・つーか口を閉じて自殺って、どれだけ過酷な死に方だろうね。
「おい、ステルス・・・呼吸ぐらいは自由にしてくれ。お前の・・・その必死な顔が、余計に気になって仕方が無い」
慈悲とかそんなんでは無く、単に奴の顔が怖かったからだ。
「・・・!」
ぶはぁッ!
臨界点ギリギリだったのだろうか、彼の口から大量の二酸化炭素が吐き出された。
「・・・はっ・・・はっ、はぁあ・・・」
彼がゆっくりと深呼吸をし始めた。よほど苦しかったのか、何とも美味しそうに酸素を飲みこんでいる。
こんなに美味しそうに呼吸をする奴を僕は初めて見たよ。
「・・・で、その、えっと・・・なんだったっけ?」
話を戻す。
「天道正春です」
「あぁ、それ。そいつが犯人だってステルスは言ったが・・・何か根拠でもあるのか?それとも目撃証言とか・・・」
ステルスに発言許可を下す。
「さぁ・・・詳しい事はまだはっきりとは分かっていません。しかし、クラスメートのほぼ全員が、彼に違いない、と断言していまして・・・」
「・・・ふむ」
腕を組み少しだけ思案する。
(・・・天道正春。・・・こいつが犯人で間違いない、と言うクラスメートの言葉を、果たして鵜呑みにしていいものか・・・)
情況的にはまだ被疑者が一人浮かび上がってきただけだ。
捜査はまだ始まってすらいない。そんな中で、そいつが犯人だという仮定を基に捜査をしたとして、果たしてそれで真に正しい判断が出来るかどうか。
先入観という物は、とかく判断を誤らせてしまう物だからね。
気を付けないと。
「おい片方坊主」
本条君が声を上げる。
「お前は昨日その木下絵空のクラスに出向いていたよな?その時、その・・・天道正春とは接触しなかったのか?」
もっともな意見。
確かに、そのクラスに容疑者が居れば話を聞かない訳にはいかないだろう。
しかし、ステルスの様子から察するに、被疑者の聴取は叶わなかったようだ。
・・・つーか、僕らが彼女の教室に出向いた時もそれらしい人物はいなかったしね。女の子が数人居ただけだ。
「あぁ、それが・・・彼は昨日、六限目の体育の授業を早退しておりまして、私がクラスに出向いた時点では、彼は既に寮に帰宅していました。・・・加えて、今日の授業も欠席しています。あ、それとですね・・・」
と、ステルスが胸ポケットから出した紙切れを読み上げた。
「昨日の午後八時頃に、校内で不審者の目撃談がありまして・・・」
「・・・不審者?」
眉を顰める。
そのタイミングで不審者の出現なんて、何とも都合の良い話だ。
この話の流れからすると、もう十中八九その盗んだ犯人だとしか思えないよ。その不審者。
「ええ。中等部の女子生徒が寮に帰宅する途中で、何者かに声を掛けられたそうで・・・意味不明な言葉を言いながら彼女達に近寄ってきたそうです」
「その子達は?」
ちょっと心配。
何かヘンな事させられたりしていないだろうか?
「いえ、これといった被害は報告されていません。ただその意味不明な言葉を言うだけ言って・・・あ、あーそう言えば」
と、ステルスは何かを思い出したようだ。
「犯人・・・というか、その不審者、かなり奇抜な格好をしていたらしく、それが被害と言えば被害ですかね・・・彼女達、何か非常に嫌な思いをしたそうで・・・」
そこでステルスの報告は終わりだった。
彼はその報告を終えると、
「・・・・・・ふぅ」
満足そうな表情を浮かべていた。
何か、やり遂げた男の貌だった。
そんな男の事などほっといて・・・
「・・・うん、そうなって来ると確かに怪しいな」
僕はまた思考する。
情報を組み立て直す為に。
・・・・・・・・・
被害者が体操着を盗まれていた事に気付いたのは、ホームルームの後。
そして、彼女のクラスはその日の六限目に体育の授業があった。
絵空ちゃんはその時、自分の体操着を着用していた筈だ。
つまり、その時間までは彼女の体操服はあった訳だ。
そして彼のその日の行動。
例の容疑者。
天道正春は、理由は定かではないが体育の授業を早退している。
そして、クラスに顔も出さないまま寮へと帰宅しているのだ。
・・・・・・・・・
おまけにその日の夜、校内で不審者の目撃情報まで上がってきている。
これが例の盗難事件と無関係だと、一概には言い切れない。
・・・と言うか、この学園、外の環境に向けてかなり閉鎖的な造りと校則になっているので、昨日の不審者が外部からの侵入者だとは考えにくい。
ほぼ間違いなく学園の生徒だ。
・・・
あ、いや・・・
この際、昨日の不審者の目撃情報は置いておこう。
必要なのは容疑者である天道正春君の情報だ。
彼と、その不審者の関連性は追々考えれば良い。
・・・・・・・・・
情況的に見れば、確かに彼の行動は怪しい。
しかし、それだけで彼を犯人だと決めつけるには、証拠が無さ過ぎる。
だって絵空ちゃんが体操服を着用している体育の時間にその体操服を盗むなんて有り得ないし、犯行時刻がそれ以降だったとしても、彼女の体操服はおおよそ彼女の近辺にあったんじゃないかな。
例えば机の周りとか、教室のロッカーとかにさ。
そうだとしたら、彼女の体操服を盗むなんてほぼ不可能だ。
それこそ、目撃証言があっても良いようなものだ。
つまり彼女の体操服は、体育の時間が終わってから帰りのホームルームまでの間に、何らかの方法を使って彼女の教室内で盗まれた、という仮説が成り立つ。
まぁ、この仮説にはまだ多くの矛盾もあるけどね。
例えば、彼女が体操服を更衣室に置きっ放しにしていたとか。
それだったら、彼にだって盗む事が可能になって来る。
人の目も気にせずね。
時間だって、それなりに余裕がある筈だ。体育の後、七限目の授業だってあった筈だから、おおよそ一時間くらいは余裕をもって犯行に及べるだろう。
体育をサボって身を潜め、早退を装いつつ、彼女が更衣室に置き忘れた体操服を盗んで・・・そのまま帰宅。
うん、それなら辻褄が合う。
合うけど・・・それだとかなり強引な犯行計画になってしまう。
しかもそこには、彼女が更衣室に体操服を置き忘れるという、何とも望みの薄い可能性が実現して初めて成り立つ計画だ。
こちらの線も、ほぼ可能性ゼロだ。
無論、天道正春本人が偶然にも体操服を入手した、という線も考えられるのだが・・・
「・・・そんな奇跡があるのであれば、僕だって彼女の下着が・・・」
「・・・何か?」
本条君は本当に目ざとい。
僕の小さな呟きすらも見逃してくれない。
「い、いや・・・何でも無い」
ともかく彼の事だ。
天道正春。
ステルスの話では、こいつが犯人で間違いないらしい。
それはクラスメートの証言も含めてだ。
クラスメートは口を揃えて、あいつが犯人に違いない、と言ったらしい。
加えて、その日の彼の行動。
僕の推察では確信を得る事は出来なかったけど、それでも怪しいと言えば怪しい。理由の分からない昨日の早退に、今日の欠席。
うん、こういう風に考えていると、確かに彼が一番怪しくて、それらしい人物に思えてくる。
「・・・・・・・・・」
しかし、と僕は考える。
それで本当に正しいのか?とね。
だって僕は、彼の事を何も知らないのだ。
顔も、名前も。
どんな感じの奴で、どんな喋り方なのかも。
全然知らない。
そんな見ず知らずの人間を、ただ一番怪しいというだけで、犯人に違いないと決めつけて捜査を始めても良いのだろうか?
些か性急過ぎやしないだろうか?
「・・・なぁ、君はどう思う?」
本条君に意見を仰いだ。
僕だけの意見で進めると、どうも真実とは違う所に行き着きそうだったから。
しかし彼女もまた、真実とは無縁の場所にいた。
「異論はありません。所長が、彼が犯人だと申すのであれば、事実をそう捻じ曲げるだけの事です」
本条君が分厚い本を、パタン・・・と閉じた。
「・・・そうか」
お前、案外怖い奴なんだな。
「・・・うん、とにかく」
僕は椅子から立ち上がった。
「そいつに話を聞きに行こう。それが一番手っ取り早い」
これ以上、ここであれこれ考えても仕方が無い。
それに奴の部屋に行けば、もしかしたら証拠となりそうな物とかも見つかるかもしれないし。そしたらそれを没収して、一件落着だ。
うん、そうしよう。
動こうぜ。
「本条君、彼の寮の部屋番は分かるな?」
と僕が言うのと同時に、
「Eの204号室です。・・・男子寮の五階ですね」
「そうか、なら・・・おい、ステルス」
「・・・はい」
彼は既に索敵モードだった。
床に跪き僕の指令を待っている。
その異様なまでに鋭い眼光と、片方だけ削ぎ落とされた髪形が、僕を心の底から恐怖させた。
「お前は独断専行で奴の部屋に侵入し部屋中を捜索しろ。目標物を発見次第僕に連絡を入れろ。・・・以上だ」
「御意」
ステルスがおもむろに立ち上がる。
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・」
僕と本条君の間を通り抜けて、
「では、行って参ります」
シュバッ!
元気良く、窓の外に飛び出した。
「・・・・・・・・・?」
部屋の入り口では無く、反対側の窓の方へ。
あれ?ここ四階じゃなかったっけ?
まぁどうでも良いか。
「あいつ・・・意外と突発的な行動が多いよな」
「ええ、少し気を付けましょう」
僕らは頷き合い、話をまとめる。
「それじゃ、奴の寮に・・・と、その前に」
僕は歩き出した足を止めた。
突然立ち止まった僕に、
「・・・?」
本条君が不思議そうな顔をしている。
少しだけゆっくりと図書室の床を見まわした後、
「・・・これ、綺麗に片付けといてよね。汚したの君なんだから」
彼女にそう言いつけた。
「・・・あ」
彼女もそれに気付いたようだ。
床に大量に散らばっていたそれに。
「・・・申し訳ありません」
本当に済まなそうに、本条君はそれを拾い上げていた。
大量の毛髪。
ステルス君の片方の友達。
「さ、それを捨てたら捜査開始だよ。気を引き締めていこう」
僕は意気揚々としていた。
何となく楽しくなってきたしね。
一方の彼女は、ゴミ箱へ大量の髪の毛を投げ捨てた後、
「・・・え、ええ」
しきりに手をハンカチで拭いていた。
凄く嫌そうな顔だった。
ブーブブブ・・・ブーブブブ・・・
「・・・ん?」
階段を下っている途中携帯が鳴った。
「誰だ?こんな時に・・・」
ポケットから携帯を取り出し画面を見る。
「・・・非通知?」
首を捻る。
僕はこの表示を見るのが初めてだったので少しドキドキしていた。
何か、どっかのエロサイトからの架空請求がついに僕の所にも来てしまったのかな・・・と、嫌な想像をしてしまう。
つーか僕の場合、普通にエロサイトとか携帯で見まくっていたから、請求があればそれは架空なんて物ではなく、普通の料金請求だ。
エロ動画もタダじゃ見れない世の中だしね。
それで、僕は少しだけ不安になっていた。
携帯を握る手も微かに震えていたよ。
そんな僕の様子を見て、
「どうかなさいましたか?」
隣を歩く本条君が心配そうに声を上げた。
「いや、ただの電話だ・・・」
そう言って、僕は恐る恐る通話ボタンを押した。
携帯を耳に近付ける。
「もしも・・・」
震える声を押さえつけながら、電話の向こうの人物に声をかけようとした瞬間だった。
『た、大変ですッ!』
突然、電話の向こうから男の大きな叫び声が上がる。
「・・・ッ!」
そのあまりに突然で大きな声量に、僕は思わず携帯を耳から離してしまった。
携帯のスピーカーが割れそうなほどの大声。
その声を聞いた瞬間、耳がキーンとなった。
「ッつつ・・・・・・」
耳を抑える。
まだキーン、と鳴っている。
「ビックリしたー・・・何だよ突然・・・」
僕は携帯を恨めしそうに見つめながら悪態を吐いていた。
「どうしました?」
「いや、電話の向こうでさ・・・誰かが叫んでんだよ」
全く・・・とぼやきながらも、携帯を耳に戻す。
「・・・何だよ?お前誰なんだよ?」
『しょ、所長ですか?・・・お願いです、聞いてくださいッ』
電話の向こうの男はまだ取り乱したように叫んでいた。
しかし、この声・・・何となく聞き覚えが・・・
「・・・ん?その声はまさか」
『私ですッ!ステルスです・・・』
電話の主はステルスだった。
「何だお前か・・・ったく大声出しやがって・・・」
言いながら、目だけで本条君に、奴だ心配無い・・・と伝える。
「・・・・・・」
はぁ。
本条君が忌々しそうに溜息を吐いていた。
「・・・で何だ?わざわざ僕の携帯に連絡してきたからには、それなりの成果が上がったという事か・・・?」
それにしても早いな・・・まだ奴が部屋を出て5分も経っていない筈だけど。
まぁ奴なりに頑張った成果かもしれないな、と少しだけ期待していた。
『そ、それがですね・・・』
ステルスが何故か声のトーンを下げた。
『件の容疑者の部屋に向かっていた所・・・ぅ・・・その・・・』
ゴホッ。
ステルスが突然咳をした。
ゴホッゴホッ・・・その後も、断続的に彼の咳が聞こえた。
何かあったのだろうか・・・
「どうした?」
『・・・ごほッごほ・・・え、ええ・・・問題ありません。しかし・・・ご報告しなければならない事が一つ・・・』
「さっさと言え」
彼を促す。
何かヤバそうな雰囲気を電話の向こうから感じ始めていた。
その雰囲気は彼女にも伝わり、
「・・・・・・・・・」
本条君の目もいつしか真剣な眼差しへと変わっていた。
『そ、その・・・彼の寮へは辿り着いたのですが・・・ぅ・・・彼の部屋の窓を開けた途端・・・・・・』
「・・・・・・・・・」
息を飲む。
と、そこで。
「・・・しょ、所長」
くいくい。
ステルスの報告の一番大事な所で、本条君が僕の制服の袖を引っ張った。
「・・・何だよ、今一番良い所だったのに・・・」
電話から顔を離し本条君の顔を睨みつける。
・・・が、彼女は何故か僕の方を見てはいなかった。
僕の顔を見ず、袖だけ引っ張って僕に知らせていた。
見れば彼女の横顔は、これでもかという程引き攣っていた。
そんな彼女の表情、僕は今まで見た事が無かった。
「・・・・・・」
彼女の視線は階段の下の方に向いている。
「・・・・・・・・・」
僕も自然と、その視線を追ってしまった。
そして・・・
階段を降りてすぐ手前の廊下の隅に、
「・・・・・・うわ」
「・・・・・・フヒヒィ」
見付けてしまった。
い、いや・・・見間違いだろう。
「・・・ふぅ」
目を閉じる。
そして心を落ち着け、さっき見た光景は夢だったと確信し、再度目を開ける。
「・・・フヒ?」
「・・・あぁ」
目が合ってしまった。
今度は誤魔化せない。夢で処理出来なくなってしまった。
つーかそこに、何か居る。
・・・・・・・・・
『しょ、所長ぉ!聞いていますかっ!・・・ですから・・・ッ!』
手に持った携帯からくぐもった音声が流れていた。
しかし僕の耳にはその半分も届いていない。
「・・・・・・・・・」
耳から少し話しているせいか、ステルスの声がよく聞こえない。
というか僕は、目の前の光景から目が離せないでいた。
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・」
僕と本条君はただ呆然と、階段の途中で立ち尽くしてしまう。
「フヒッ・・・ヒヒ・・・」
廊下の隅で小刻みに動く、それ。
見た物を戦慄とドン引きの渦に飲み込んでしまう、その存在。
『・・・彼の部屋がッ・・・』
携帯のスピーカーから、まだ彼の声が響いていた。
小さく意識の外から聞こえて来るようなその声だったが、彼が最大限の大声で叫んでいるお陰で、話の内容くらいは把握できた。
『・・・爆発したんですッ!彼の部屋の窓を開けようとしたら・・・突然、窓ガラスが吹き飛んだんですッ!』
ポチ。
電源オフ。
もう聞かなくて良い。
これ以上は、もう良い。
こっから先は、こいつに話を伺おう。
だってこいつは・・・
「フヒョッ!?・・・き、君らも僕と同じかい?」
気付かれた。
僕ら二人に見られている事に、そいつが完全に気付いてしまった。
廊下の隅で蠢いていたそいつが、何やら卑猥な笑い声を上げながら僕らに向かって歩き出した。
「・・・ぅ」
「・・・な、何ですか」
僕らは同時に身構えた。
何か本能的に危機感を覚えてしまう。
「ヒヒ・・・ね、ねぇ・・・」
クネ・・・クネ・・・
なんか妙に腰から上をくねくね揺らしながら、彼が近づいてくる。
「・・・君も同じかい?」
その言葉をきっかけに、彼と僕らの・・・
天道正春君と、僕らの壮絶な戦闘の幕が切って落とされた。
・・・・・・・・・
何故僕に、目の前の彼が天童君だって分かったと思う?
それ所か、彼がこの盗難事件の犯人だって事も、もうこの時点で判ってしまったよ。残念なことにね。
だってさ。
彼の着ている服がさ・・・
「・・・ね、ねぇ・・・ブ、フヒィ・・・」
極小サイズの体操服だったんだ。
・・・・・・・・・
彼の姿は至って変態。
上半身にパツンパツンの体操服を纏って、何かハーフパンツ的な紺色のネックウォーマーをお洒落に着飾り、そして・・・何故か下半身をさらけ出したままで、僕らの前に立ちはだかっていた。
いや、立ち裸になっていた。
加えて、その体に巻きつけた体操服は間違いなくこの男の物ではなかった。
恐らくは絵空ちゃんの物だ。
僕の視点から、それが男の体操服か女の体操服かどうかなんて区別は出来ないけれど(・・・というか、この学園指定の体操服に男女の差なんてどこにも見当たらないのだけれど、強いて言えば男は白の短パンで、女は紺色のハーフパンツという所くらいか・・・)、それが間違いなくこいつの物では無いという事は断言できた。
つーか、サイズが全然合っていない。
何て言うか、限界ギリギリのラインだ。
天道君はかなりの肥満体らしくというか見たまんまの極上デブなので、その豊かな上半身に圧迫された彼女の小さな体操服が今にも張り裂けてしまいそうでハラハラするよ。
それに彼はかなりの汗っかきの様で、その首元や脇の下の部分には大量の汗染みが既に完成していて、非常に汚い。
そう、汚いよ。何かもう全部が汚いよ。
ていうか、その首に巻いたハーフパンツ、下に履けなかったのかよ・・・
下半身は隠そうよ。例えどんな状況になっても・・・というか、どうしてこいつは今こんな状況に置かれているのかも分からないけど、それでも下半身くらいは隠そうよ。
陰部丸見え。
何か、もう・・・
ほら、お前が動く度にフラフラするだろ・・・
「・・・・・・貴様」
本条君の声に怒気が混ざる。
「お?オヒョ?・・・君は・・・オヒョヒョッ!・・・君は違うねぇ~・・・」
天道君が何やら怪しい手の動きで本条君を誘っている。
「きき、君は僕とは違う、ぅ・・・ぼぼぼ、僕ッは・・・選ばれし、勇者なん・・・だ」
彼の口調はかなり危うい。
薄らと笑みを浮かべた口元に、時折どこか違う所を見ている彼の視線。
「ウヒッ・・・」
そして、
「・・・き、君は愚にもつかない、凡人さ。そ・・・そのままではただ生きて、死ぬだけだ・・・よ?け、けどッ・・・ね、フヒッ・・・一つだけ・・・きき、君がね、助かる方法があるんだよ?」
彼が本条君の目の前まで近づいてくる。
「・・・・・・・・・」
僕はその様子を彼女の隣で、じっと見ていた。
どうやら、天道君は僕の事は見ていないらしい。
「フヒャッ!・・・ヒヒ」
何やら楽しそうに本条君に近寄る彼。
手をワキワキさせている姿が、非常に危険だ。
「・・・・・・・・・」
一方彼女は、ひたすらに彼を睨みつけその場から一歩も退こうとしない。
万人が万人、悲鳴を上げて逃げだしそうな怪しさ満点の天道君の姿に、彼女は真っ向から立ち向かっていた。
・・・・・・・・・
正直、もの凄く勇気のある事だと思う。
僕だったら、一目散に失禁してびしょ濡れになる。
ビショビショさ。
だってそのくらい怖いもん、彼。
次に何をしでかすのか、それすら予想もつかない彼の挙動。
それに常軌を逸した彼のファッションセンス。というか、マジでズボン履け。
しかし一番怖かったのは、
「ね、ねぇ・・・だか、らさ・・・ぼぼ、僕のっぺぺ・・・ペットにね・・・・・・ね?な・・・らないか、ニャ?・・・あぁ、あ!ヒヒッ・・・う、うん!ペット。ペットだよ?僕、のッ!類稀なる遺伝子を残すため、のッ・・・繁殖用のペペペッ、ペットにさ?」
彼の危険思想だった。
「黙れ外道」
一喝。
「・・・ッ?」
天道君がビクッと肩を戦慄かせた。
てか、いちいちそうやってピクピク動かないで欲しいな。
本当に気持ち悪い。
ステルスとは違う、マジで笑えないレベルのキモさだった。
彼はまだ笑えたよ。
僕は意を決した。
「・・・天道正春」
そこで初めて、口を開く。
「お前に一つだけ聞こう」
「・・・フ、フヒャ?」
天道君が僕の方に顔を向けた。
その時初めて、僕の存在に気付いたような顔だった。
「・・・お前が着ている、その・・・体操服」
指をさす。
「それは、お前の・・・」
とそこまで言って、
「・・・ッ!」
彼の驚愕の表情に、僕の言葉が飲み込まれた。
「プヒャッ!きっ、君も分かるんだねッ?こ、これが・・・何なのか」
これまでに無い、嬉々とした表情。
何がそのスイッチだったのか分からないが、ともかく、その僕の一言で彼のテンションが一気に絶頂まで昇りつめていた。
「フヒャヒャッ!」
じりじりと本条君に近寄っていた時とは違って、今度は嬉しそうに小走りで僕の元へと駆け寄る。小走りで階段を数段駆け上がり、
「き、君には分かるんでしょ?これが、何なのか?」
「・・・う」
キモイ。
彼が急接近してきた。
暑苦しい、というか実際に熱く火照ったその体を僕にすり寄せ、
「ね?ねぇ?これ、これさ!あ、あのッ子の・・・」
グイグイと上半身に着ていた体操服を僕に押し付けてくる。
それとほぼ同時に、
「・・・ッ!」
本条君が彼の横っ腹に、蹴りを入れようとしていた。
回し蹴り。正確には後ろ回し蹴り。
相手に背を向け、身体を捻りながら蹴り出す重い一撃だ。捻った分の回転力も上乗せされ、武の達人が使えば致命傷どころか致死になりかねない、その技。
無論、背脂君・・・おっと失礼、天道君なんかでは一秒も持たずに即死するダメージだ。
当たればね。彼は即死していた筈だ。
うん、当たればの話さ。
「・・・よせッ」
すんでの所で彼女を止める。
「・・・ッ!」
ビタァッ!
と、彼女の長い脚が背脂君・・・あ、あぁもう良いや背脂君で、彼のわき腹付近で止まっていた。
止まってはいたが、寸止めでは無い。
「・・・ひ、ヒィイイイ!」
遅れて、彼が悲鳴を上げた。
見れば少しだけ、彼のわき腹に本条君の足がめり込んでいる。
「・・・・・・」
すぅ・・・と彼女が静かに足を引いた。
「・・・何故です所長」
彼女が少しだけ不満そうだった。
「もう充分でしょう?彼が犯人である事など明白です」
断言し、床に蹲ってしまった彼を叩き起こす。
片手で彼の首に巻いていた・・・多分絵空ちゃんの物であろうハーフパンツを握り、彼を無理やり引きずり起す。
「それに、見て下さい!この格好・・・明らかに犯罪者じゃないですか!」
そしてギリギリと、首根っこを掴んだ手に力を込めていた。
「イ・・・痛い、でフ・・・うぎィ」
背脂君が轢かれたカエルのような声を出した。
「・・・ン、まぁ確かに」
僕は今一度彼の容姿を確認する。
・・・・・・・・・
上は絵空ちゃんから盗んだ体操服、首に彼女の短パン。
下は何も履いていない。
おまけに彼は極度の肥満体。体中がもう、汗やら何やらの液体まみれだ。
うん。
紛う事無き変態だ。しかも真性のね。
その格好だけ見ても、彼が今回の盗難事件の犯人だという事が分かる。
まぁ、救いようが無い。
うん、確かに。
「ふ、ふひゃぁ・・・」
それに、彼は錯乱しているらしく、その言動がいちいち気持ち怖い。
「ね、ねぇ・・・」
「・・・」
キッ。
黙殺。
何かを言おうとした背脂君を、彼女が眼光だけで黙らせた。
しかし、
「・・・ペ、ペット・・・にさ?」
彼は諦めも悪かった。
しつこく何かを呟いている。
「・・・・・・この」
ふるふる・・・
本条君が握った手を震わせている。
相当にお怒りの様だ。
・・・
てか、ペット・・・てねぇ。しかも繁殖用とか言ってたし。
背脂君も相当に世紀末覇者だ。
マジで怖い。
お前みたいな奴の子孫がウジャウジャしだしたら、この世界も終りだな。
いや、逆に世界が変わる、という見方も出来るかもしれない。
新世界にさ。
背脂・・・オブザワールド。
・・・・・・・・・
い、いや・・・無い。それは多分絶対、おおよそ有り得ない。
「・・・所長。私に攻撃の許可を」
彼女が静かに進言する。
その目が、暗く光っていた。
人の目と呼ぶには、余りに残忍な殺意に満ちた彼女の眼光。
それはもはや攻撃許可では無く、殺害許可だ。
僕が本条君に攻撃を命じた瞬間、彼女は迷う事無く背脂君を撲殺するだろう。
いや、もしかしたら隠し持っている暗器でグサッといくのかも知れない。
・・・どちらにせよ、背脂君の死は免れなさそうだった。
「・・・・・・・・・」
背脂君の額に大量の脂汗が流れている。
多分彼も、薄々自分の身の危険に気が付き始めたのだろう。
もう何て言うか・・・色々遅すぎるんだけどね。
死んでもっかい人生やり直せよ、と彼に言いたい気分だった。
「・・・しかしな」
事件解決という点で言えば、それで十分なのだろうが、今回は被害者の意志もあるのだ。
意志・・・と言うか願望がね。
絵空ちゃんの・・・お願いさ。
「・・・いや、ダメだ」
ハッキリと彼女の申し出を却下した。
「こいつの身柄は、責任を持って彼女の元に連れていく。殺すのは・・・その後だ」
「・・・・・・・・・」
彼女の眼光を、僕は精一杯の気迫で押し返す。
「・・・・・・・・・」
無言で睨み合う僕ら、とその間の不審なデブ。
「・・・ひ、ヒヒ」
非常に奇妙なトライアングルが完成していた。
その沈黙がいつまで続いたのだろうか。
その均衡を破ったのは、
「・・・ふぅ」
彼女の溜息だった。
「・・・所長がそう仰るのであれば」
ドサッ!
「・・・ふげッ」
彼女が背脂君を解放した。
「・・・・・・従うまでです」
にこ。
ようやく彼女が笑顔になった。
仕方無いですね・・・という、何だか大人な笑い方だった。
ほっ。
何か殺伐とした雰囲気だったから、彼女がその緊張の糸を解いた途端、僕も安堵の息を漏らした。
それに本条君、マジで背脂君を殺しそうな勢いだったし。
本当にハラハラしたよ。
「・・・ま、とにかく」
そんな風に、
「これで犯人が捕まってよかっ・・・」
僕は・・・
「・・・フィ」
気を緩めてしまった。
それが、今回の事件における最初で最後の、最大にして唯一の失敗だった。
「・・・フ、フヒャ・・・テクマクマラコーン」
床に倒れたままの背脂君。
反抗の意志は既に失われていたものと思っていた彼が、何かを唱えた。
ころり。
何かが彼のネックウォーマーの中から転がり出た。
その一瞬後、
カッ・・・!
眩い閃光が階段を含めた廊下全体に広がった。
「・・・ッ」
「・・・・・・何だ!」
そのあまりに唐突な出来事に、僕も本条君も動く事さえ出来なかった。
・・・・・・・・・
その時の目の前の光景と言ったらさ、高校生にもなった僕が言うのも何なんだけど・・・それは一瞬、
「・・・え、魔法ッ?」
そう言ってしまう程、ファンタスティックな光だったんだ。
「・・・ヒヒヒッ・・・い、今のうち、にゃッ・・・」
彼が逃走する。
しかし、
「・・・・・・」
「・・・」
僕らがそれに気付くのは、その数分後。
僕らの視力が回復した、数分後の事。
その間、僕らは互いの顔すら見る事が出来なかったんだ。
それほど強烈な光。
閃光だった。
それは、一般的に言えば閃光弾。
よく警官隊や何かが突入時に犯人に向けて投げる、アレだ。
たかが強い光だろ、て侮っていた僕は、まだまだアマチュアだった。
・・・何にも出来ない。
その一言だった。
動く事はおろか、その場で蹲る事しか出来なかったんだ。
それは本条君も同じようだった。
「何てことを・・・」
苦虫を噛み潰したような顔で、背脂君が窮地に見出した最後の魔法を握りしめていた。
「・・・それが彼の魔法か」
僕もそれを手に取って確かめてみた。
・・・
それはただのボールペンだった。
所々に焼け焦がれた跡があるが、間違いなくボールペン。
ただし、中身の抜けたボールペンだ。
それは単なるプラスチックの筒とも呼べる物だった。
多分、その空のボールペンの中に薬品やら何やらを入れて、即席の閃光弾を作っていたのだろう。いや、容器がボールペンだから閃光ペンかな。
どっちにしたって、その詳しい生成方法など僕には解らないさ。
だって僕、科学は1だから。
不得意分野さ。
だが背脂君は、そういう知識に長けているのだろう。手製の閃光弾を作れてしまうくらいにね。
「・・・こざかしい真似を」
ポイッ。
手に持ったそれを投げ捨てる。
カラカラと乾いた音が廊下に響いた。
「・・・まだそれほど遠くには行っていない筈だ。追うぞ!本条君!」
「勿論です」
僕らはすぐさま、その場から走り出した。
奴を放っては置けない。
奴がこのまま学園に野放しにされてしまったら・・・
そう考えるだけで鳥肌が立つ。
学園に甚大な被害を及ぼす事は明確だ。
主に精神的被害が続出だよ。
加えて、彼は未知の技術も駆使してくるだろうから、その被害も未然に防がねばならない。まったく、とんだキテレツ君だ。
「それと、さっきの事もそうだが・・・奴は武器を所持している可能性が非常に高い・・・よって、君に攻撃の許可をやる・・・ただし」
本条君の目を見る。
彼女の目は先程までとは違って、幾分か冷静に見えた。
「・・・殺さず、ですね?」
彼女が先に答える。
「・・・その通りだ」
何だ、分かっているじゃないか。
「奴は、生かして捕えろ・・・奴を殺していいのは絵空ちゃんだけだ」
ていうか彼女、今の背脂君を見たら地味に泣き出すんじゃないだろうか?
何かちょっと心配になってきた。
だって自分の体操服が、変態肥満デブにもみくちゃにされているんだぜ?
背脂まみれさ。
僕だったら、泣く。
シクシク泣いちゃうね。
だってなんかスゲー悲しくなるもん。絶対に。
「・・・・・・」
まぁ、それは奴を捕まえてから考える事にしよう。
その辺の適当な服を着せるさ。
そうじゃなきゃ彼女の前になんて、とてもじゃ無いが立たせられない。
顔洗って・・・というか全身洗って出直して来い、と言いたいね。
「・・・ところで所長」
廊下を走りながら、隣の本条君が僕に尋ねる。
「彼を探すあては在るんですか?」
「・・・ない」
はっきりと答える。
だって奴が姿を消してからおおよそ三分は経っている。
彼の体力なんてたかがが知れているだろうが、それでも走って逃走されたとなるとその行き先は見当もつかない。
もしかしたら既に、この高等部B棟を抜け出しているかもしれない。
それくらいの時間は在った筈だ。
「・・・が」
しかしそれで彼が逃げ切れるとは、到底思えなかった。
ちらり。
床を見る。
「・・・これを辿れば、奴の居場所に行き着くんじゃないか?」
「・・・?」
本条君が首を傾げた。
そして僕の見つめる先に視線を落とし、
「・・・・・・あぁ」
納得していた。
・・・・・・・・・
彼は相当な汗っかきだった。
僕らとの会話中もそうだったし、本条君に吊るし上げられている時なんか、もう・・・つゆダクだったよ。
どこにそんな水分があるんだってくらいさ。
まぁ彼は、多汗症などでは片付けられないレベルの肥満症だからね。
体内の油分が60%以上は在るんだろう。体脂肪率60%強。
笑。
だから背脂君。
そして、そんな背脂君だからこそ、
「・・・・・・・・・」
廊下の床に点々と、その痕跡を残して行ったんだ。
床に散らばる、大量の汗をね。
「・・・この先は、二年の教室か」
階段を下り、折れ曲がった廊下の先をじっと見据えた。
その長い直線の廊下の上に、点・・・点・・・と、彼の汗が落ちている。
まぁ、それは汗だと言われなければ何なのか分かる筈も無い小さな痕跡だったのだけれども。それでも、今の僕らには十分過ぎるほどの情報だった。
この汗の行く先に、彼が待ち受けている。
まるでヘンゼルとグレーテルだな。
しかし現実はおとぎ話のように綺麗にはいかないのだよ。
綺麗にはね。
・・・
だって、彼を追う為に用意された目印はクッキーの欠片では無いのだ。
まして青年男子の爽やかな汗でも無い。
それは肥満男子の脂肪から滲みだした、体液だ。
背脂君の、背の脂だ。
「・・・・・・・・・」
それが僕の足元にも点在しているんだ。
正直言うよ?
「・・・汚いですね」
これは本条君の感想。
「・・・まったくだ」
至極汚い。
この学園の廊下を汚すなよな、背脂君。
後で罰として、自分の汚した床を舐めて綺麗にしてもらおうか?
・・・い、やぁ、やっぱそれはそれでまた汚いしなァ・・・
まぁいい。
後でステルスにでも拭いてもらうさ。
「・・・ん?これは・・・」
不意に目がとまった。廊下の端に落ちていたそれに。
床に落ちていた彼の痕跡は、どうやら汗だけでは無かったようだ。
ピタリ、と足を止めてしまう。
「・・・どうかなさいましたか?」
本条君も直ぐに足を止めた。
心配そうに僕の後ろから覗きこんでいる。
「いや・・・これ」
指をさす。
僕はそこに落ちていた物体に目を奪われていた。
「・・・むぅ」
それをまじまじと観察する。
ん、まぁ・・・そんなに凝視しなくとも、それが何なのか僕には一目で判ったんだけどね。
でもそうなると、彼もよほど慌てていたと見える。
だってさ、苦労して手に入れた宝物を脱ぎ捨ててまで僕たちから逃げようとしたんだぜ?自分の宝モノを捨ててまでさ。
そこには彼のお気に入りのネックウォーマー(女子高生の短パン)が無残にも投げ捨てられていた。
「・・・一応、回収しとくか」
拾い上げる。
「・・・ッ」
湿・・・
嫌な感触が掌に広がる。
「・・・・・・・・・」
何か妙に湿っていた。
それで一気にテンションが下がってしまった。
「・・・・・・まぁいい。奴は必ず、この先に居る」
それだけ分かれば十分だ。
後は、じわじわ奴を追い詰めるだけ。それで良い。
「それでは、参りましょう」
本条君が歩み出す。
「あぁ・・・」
僕もそれに平行して廊下を進んだ。
「・・・この学園の治安と秩序の為」
「はい」
本条君はいつも僕の半歩後ろだ。
そこが定位置と言わんばかりに、彼女が僕に合わせて歩いてくれる。
僕の小さな歩幅に、だ。
「・・・必ず奴を殲滅する」
「・・・はい」
歩きながら、半歩後ろをついてくる本条君の顔をチラリと見て、
「あのような失態・・・二度目は無いぞ」
そう、強く宣言した。
「無論です所長」
彼女もそれは承知だったようだ。
「・・・次は必ず、当てますから」
にこっ。
めっちゃ笑顔だった。
「・・・・・・」
当てるって・・・何を?
何を当てるの?
ねぇ。
やっぱ、あれかな?攻撃的な何かかな?
う~ん・・・やはり、本条君は背脂君を殺害するつもりなのだろうか?
まぁここまで来たら、もうどうでも良いけどさ。
「そうか、期待しているよ」
そう、言うしかなかった。
「ええ、勿論です所長」
振り向きざまに見た彼女の顔は、そんな僕の気持ちを知ってか知らずか・・・
その笑顔は、まさに年相応の女の子の笑顔だった。
「・・・カワイイじゃないか」
そう、ぼそりと呟いた僕の気持ちも、
「・・・?」
笑顔の彼女は、知らん顔さ。