庫内の灯りが消える夜に
冷たい。
それが、死んだ後の最初の感覚だった。
目を開けると、視界の先には見知らぬキッチンの風景が広がっていた。
いや、そもそも「目」があるのかどうかも分からない。
ただ、自分が四角くて白い、巨大な箱になっていることだけは理解できた。
僕は、冷蔵庫に転生していた。
享年二十歳。
親が鬱陶しくて、実家を飛び出して一人暮らしを始めた矢先の、あっけない突然死だった。
一人っ子だった僕は、親の過干渉がとにかく嫌いで、「せいせいした」と思いながら死んでいったはずだった。
それなのに、今の僕はどうだ。
身動き一つとれず、ただ他人の生活を傍観するだけの箱。
この家には、若い新婚夫婦が住んでいた。
僕の「中」には、几帳面にラベルが貼られた作り置きのタッパーや、お洒落な海外のビールが整然と並んでいる。
冬の夜には、明太子もつ鍋の材料がぎっしりと詰め込まれ、週末にはマスタードを少し効かせたこだわりのビーフストロガノフが鍋ごと冷やされた。
夜になると、二人は僕の前で笑い合いながら酒を飲み交わす。
『美味しいね』
『来週は庭にキウイの棚でも作ろうか』
僕は腹の底から——いや、コンプレッサーの底から、冷たい嫉妬を吐き出していた。
どうして僕は二十歳で死んで、こいつらはこんなに幸せそうなんだ。いっそ、冷却機能を止めて中の食材を全部腐らせてやろうか。
そんな黒い感情を抱きながら、数年が過ぎた。
完璧だった僕の「中身」は、みるみるうちに無秩序になっていった。
彼らに、男の子が生まれたのだ。
僕の真っ白だった扉には、マグネットで小児科の診察券や、離乳食のスケジュール表が無造作に貼り付けられた。
庫内は、小さな容器や飲みかけのリンゴジュースでひしめき合い、常にドタバタしていた。
そして、初めての大きな夫婦喧嘩が起きたのもこの頃だった。
『どうして私ばっかり起きなきゃいけないの!? あなたも少しは抱っこしてよ!』
『俺だって明日も朝早いんだぞ!』
深夜のキッチンに、妻の金切声と夫の怒鳴り声が響く。赤ん坊の泣き声がそれに重なる。
妻は泣き崩れ、夫は舌打ちをして寝室へ消えた。
ざまあみろ、と思った。家族なんて、結局はこんなふうに壊れていく面倒なものじゃないか。
しかし数時間後、夫がそっとキッチンに戻ってきた。
彼は僕の扉を開け、タッパーに入っていた作り置きのカレー餃子を無言で温め始めた。匂いにつられたのか、目を腫らした妻もやってくる。
二人は無言のまま、小さなテーブルでカレー餃子をつついた。
『……ごめん。言い過ぎた』
『ううん、私も……余裕がなくて、ごめんなさい』
温かい餃子を頬張りながら、二人はまた笑い合った。
家族というのは、壊れないから美しいのではない。ヒビが入るたびに、こうして不器用に修復していくからこそ、強くなるのだと僕は知った。
それからさらに数年。
男の子は幼稚園に入り、僕の扉のマグネットの下には、クレヨンで描かれたぐちゃぐちゃの家族の絵が追加された。
『ほら、冷たいよー!』
庭のプランターでジニアの花に水をやった後、泥だらけの小さな手で僕の扉にペタペタと触れる男の子。
そのたび、鬱陶しいと思っていた僕のモーター音は、不思議と穏やかに響くようになっていた。
いつの間にか嫉妬は消え、ただ定点カメラのように、この小さな命の成長を見守る自分がいた。
彼が中学生になり、高校生になる頃には、僕はかつてないほどの過酷な労働を強いられていた。
なんせ、彼が高校でラグビーを始めたのだ。
僕の扉は、日に何度も乱暴に開け閉めされるようになった。
中身はもう、新婚時代のお洒落なビールや繊細な料理が入る隙間などない。
体を大きくするための高タンパクな鶏肉料理が巨大なタッパーにいくつも詰め込まれ、2リットルの牛乳パックが常に4、5本並んでいる。
扉のマグネットには、泥臭い字で書かれた「試合日程」と「部員名簿」が貼られていた。
そして、彼には激しい反抗期が訪れた。
『だから、うるせえって言ってんだろ! 俺の勝手だろ!』
『お母さんはあなたの将来を心配して……!』
『放っといてくれよ!』
ドガン!!
親と衝突した彼は、キッチンにやってくると、僕の扉を壊れんばかりの勢いで蹴り飛ばし、中の麦茶をラッパ飲みして自室へ引きこもった。
蹴られた扉がジンジンと痛む。
おい、痛いじゃないか。親に向かってなんだその態度は。
怒りに任せて冷気を弱めてやろうかと思ったが、その直後、母親が静かにキッチンへやってきた。
彼女は泣きはらした目で僕の扉を開け、ため息をつきながら、明日あいつが持っていくための巨大な弁当の仕込みを始めた。
鶏肉を切り、黙々と下味をつける。その背中は、小さく震えていた。
ああ、そうか。
親の愛というのは、言葉が通じなくても、拒絶されても、こうして「生かすため」の食事を作り続けることなんだ。
気付けば僕は、まるで彼らの父親のような気持ちになっていた。
たくさん食え。怪我だけはするな。そして、いつかちゃんと親に謝れよ。
コンプレッサーを必死に回し、彼のための食材をキンキンに冷やしながら、心の中でいつもそう呼びかけていた。
そして、彼が二十歳の誕生日を迎えた日。
僕は、特別な日を迎えていた。
中には、彼が小さな頃から好きだった苺がたっぷり乗った、大きなホールケーキが入っている。
扉には「二十歳おめでとう!」という手作りの飾り付けがマグネットで留められていた。
夫婦は、彼が帰ってくるのをソワソワしながら待っていた。
もう反抗期も抜け、最近では時々父親と酒を飲むようにもなっていた彼との、特別な夜になるはずだった。
しかし、その夜、彼が帰ってくることはなかった。
深夜。
警察からの電話を受け、病院へと飛び出していった夫婦が明け方に帰宅した時の姿を見て、僕はモーターが焼き切れるかと思うほどの衝撃を受けた。
二人は、立っていられないほど泣き崩れていた。
キッチンにへたり込み、獣のような声を上げて泣き叫ぶ母親。それを抱きしめながら、声を殺して号泣する父親。
僕が「親代わり」として見守り続けたあの命は、僕と同じ「二十歳」で、この世界から呆気なく消えてしまったのだ。
翌日から、家の中は地獄だった。
泣き声すら聞こえない。ただ、死んだような静寂だけが続く。
冷蔵庫の開け閉めなど、ほとんどない。
僕の中のケーキは、誰にも触れられないまま、ゆっくりと冷たい箱の中で鮮度を失っていった。
扉に貼られた「二十歳おめでとう!」の飾りが、人が通るわずかな風で残酷に揺れている。
その時、僕は初めて理解した。
子どもを失うということが、これほどまでに狂おしく、胸を引き裂かれるほどの絶望だということを。
あの夫婦が流す涙は、かつて僕が死んだ日、僕の両親が流した涙と全く同じものだったのだ。
『親なんて鬱陶しい』
そう言って実家を飛び出した僕を、あの人たちはどんな思いで見送ったのか。
そして、突然死した二十歳の僕の冷たくなった体に触れ、どれほど泣き叫んだのか。
親が子を思う気持ちは、こんなにも痛くて、深くて、重いものだったのだ。
僕は、自分が死んでから二十年経って、ようやく親の心を知った。
それに気付いた瞬間、僕の奥深くで「ガタン」と鈍い音が鳴った。
長年酷使してきた冷却装置が、ついに限界を迎えた音だった。
冷蔵庫としての寿命。
彼が生まれる前から二十年間、休むことなく働き続けた僕の体は、彼の命に寄り添うように、今、その役割を終えようとしていた。
庫内のライトが、チカチカと点滅し始める。
冷気が少しずつ失われていく。
最後に、薄暗くなる視界の中で、ただうずくまる夫婦に向かって心の中で語りかけた。
泣かないでくれ。
あいつは、あんたたちの子どもに生まれて、本当に幸せだった。
あんたたちの不器用で温かい愛が、あいつの体を作り、あいつの心を育てたんだ。僕がずっと、ここで見てきたから分かる。だから、どうか自分を責めないでくれ。
そして。
遠く離れた世界にいる、僕の本当の両親へ。
ごめんなさい。
何も分かっていなくて、ごめんなさい。
僕があんたたちを鬱陶しいと思ったあの小言も、過干渉も、すべてはただ、僕に生きていてほしかったからなんだね。
たくさんの愛情を注いでくれて。
僕を、二十歳まで育ててくれて。
お父さん、お母さん、本当にありがとう。
フツッ、と庫内の小さな灯りが完全に消えた。
冷たかった僕の体は、ただの温かい箱になり、静かで優しい暗闇の中へと溶けていった。




