17話「人生は続きます」
ルーインはとうにこの世を去った。
そしてニーサもまたその命はこの世界から消滅した。
私を悪女だ魔女だと言っていた者はもう誰もいない。
嫌な思いはしたし、不安を抱えて辛い日もあったけれど、それでも何とか耐えて人生という道を歩き続けてきて良かった――今は純粋にそう思うことができている。
でも私一人の力ではない。
私だけではここまで歩けなかった。
どんな時も信じてくれ励まし支えてくれた両親、そして、深刻な話題を振ってしまっても嫌な顔をせず日常ではなんてことのない会話で楽しませてくれたフリッツ。
皆がいたからこそ、嫌なことにも耐えられたのだ。
きっと人間とはそういうものなのだろう。
複数で生きることを想定している生き物だから。
周囲に温かさがあれば、見守ってくれる人がいれば、困難も乗り越える力をそこまでも持ち続けることができるのだろう。
孤独でなければ何とかなるのだ。
寄り添って。
支え合って。
そうやって生きてゆくのが人間という生き物なのだ、きっと。
――その日の晩はよく眠ることができた。
「フリッツ、実はちょっと話があるの」
ある晴れた昼下がり。
笑ってしまうくらい平凡な一日。
「えっ。お話ですか? や、ちょ、待って心の準備が」
「そんなに重苦しい話ではないのだけれど……」
でも私にとってはまた一つの特別な日でもある。
「ど、どうぞ!」
――そう、今日は目的があるのだ。
「これ、フリッツに贈りたいの」
先日隣の街で購入した封筒デザインの腕時計。それを渡したいというのが今日の目的。そのために彼をここへ呼んだのだ。
「え……」
一瞬顔面を硬直させるフリッツ。
「プレゼント……です、か?」
「ええそうなの」
「え、ええええ!?」
「よければ受け取ってほしいのだけれど、駄目かしら」
言えば、彼は何やら迷っているような顔をした。
恐らく嫌がっているのではないと思う。そんな表情。ただ、いきなりのことに戸惑いを抱えているのは事実なのだろう。状況をすぐに呑み込むことができず思考が停止してしまっている、そんな面持ちだ。
「え……あの、それ……自分へ?」
「そうよ」
「ど、どうして」
「フリッツにはいつも色々お世話になっているもの、たまにはお礼がしたいなって。それに、好きだから。大切な人だからこそプレゼントを贈れたらって、そうも思ったのよ」
素直に心を明かせば。
「あ、ありがとうございますっ!!」
フリッツは深く頭を下げて大きな声で礼を述べた。
「嬉しいです!! と、とと、とても!!」
彼は気づいていないかもしれない。けれども私はこれまで何度も彼に救われてきた。思い返せば、こうして深く互いを知り親しくなる前から。郵便を届けてもらってその時に少しだけ会話する、その程度の親しさの時からずっと。辛さや苦しさを消してくれていたのは彼だった。彼の明るさ爽やかさにたびたび助けられていたのだ。
「こちらこそありがとう」
「え、ええ!?」
「思い返せばずっと、本当に、貴方には色々お世話になってきたわ」
「そんなことないですよ!? お世話になっているのはこちらで! オリヴィエさんにはいつも優しくしていただいていているんですよ!?」
フリッツはおろおろしながらも何とか言葉を紡いでいる。
「これからも仲良くしてもらえる?」
「もちろんですっ」
「そう。なら嬉しいわ。いつまでも仲良しでいられるといいわね、私たち」
「当然ですよ! ずっと仲良しです!」
「そう言ってもらえると嬉しく思うわ」
「じ、自分も、オリヴィエさんとずっと仲良しでいたいですっ!」
少し間があって。
「思ってることは同じみたいね」
「はい」
互いに相手へ目をやり、互いに少し恥じらいを含んだ笑みをこぼす。
この先どんなことがあっても仲良しなままでいたい。
異性である以上なかなか難しいことかもしれないけれど。
それでも、今のような私たちでいられたなら、きっと明るい未来はあると思えるのだ。
「あっ、あのっ……じゃあこちらからも、少しいいですかっ」
その時、唐突に、フリッツが口を開いた。
「何か話?」
「このタイミングを逃すのは良くないかなと思って……」
何やら改まった様子だ。
「どういうこと? でもいいわよ、話してちょうだい」
――ああ、聞きたいような聞きたくないような。
どうしてだろう。
不安ばかりが急激に湧き上がってくる。
マイナス思考になることに価値なんて何もないのに。
「結婚とか……しませんか、自分と」
やがて彼が口にしたのはそんな言葉で。
「え」
思わず情けない声がこぼれてしまう。
告げられた言葉を。
理解できるようですぐにはできなくて。
「それは……その、一体、どういうこと……?」
頷けばいいだけなのに遠回りしてしまう、情けなさ。
「結婚って」
チャンスが来たなら、手を差し出して掴むだけ。
そんな簡単なこと。
分かりきったことなのに。
それすらも即座にはできない自分に嫌気がさす部分もあるけれど。
「……本気なの? フリッツ」
問えば、彼はこくこくと頷く。
分かっている。彼はそんなくだらない冗談を言うような人ではないと。他者の心を弄ぶような行為を平然と行う人ではないと。それなのにこんな風に疑うような言葉をかけてしまって申し訳なくて。けれども、分かっているはずなのに、かけられた嬉しい言葉をすぐには頭に落とし込めない。理解しかけていながらも直前で留まって。まるで、都合のいいことを理解するな、と自分が自分に言っているかのよう。あと一歩、そこで理解が止まってしまっている。踏み出して問題ないのだと何となく察してはいるのに。
二人の間を抜ける風はしっとりとして、それでいて、力強く運命を描いているかのようだった。