春の魔物
基本的に、学校での静璃はおとなしい。
といっても通常というか最高にハイテンションな時と比較しての話であって、にぎやかであることに違いは無い。
ただ、私と二人きりの時になると、どうしてかこう、言動がうるさくなるのだ。
くるくるとその場で回ってみたり、無意味に小走りで先を進んでは戻ってきたり、ふらふらと脇道細道回り道に足を向けてみたり、とにかく落ち着きがない。はたまた突然ハイテンションになって、前のめりに話し出す。
それはきっと静璃の好奇心の賜物。あるいは私と一緒であることによる安心感、私に身の安全を預けてくれているのかもしれない。なんて考えれば悪くない気もするのだけれど、それはさておき。
動植物が一斉に動き出す季節。
枯れ木のごとき立ち木は芽を伸ばし、地肌を見せていた街路樹下の小さなスペースに鬱蒼と若葉が生い茂り、民家の庭では花々が目いっぱいに花弁を広げる。
ハクモクレンが香り、ソメイヨシノが続き、庭の片隅で蝋梅がひっそりとつぼみを開き、そうしてツツジの季節を控える中。
早くも生まれたムクドリの若鳥がえさを求めて公園で飛び跳ね、虫たちが一斉に姿を見せ、鴉によるゴミ荒らしが一層盛んになる。
それはきっと、春という、命溢れる季節柄。心地よい気候に解放感あふれるこのころ、虫が湧くように、静璃の頭にも花が咲いているのかもしれない。
「今日もいい天気だねー」
花曇りの空を見上げながら告げる静璃の顔には、曇天の憂鬱さなんてどこにもない。
その体には常日頃と変わらぬ活力が満ち満ちていて、今にも学校まで駆け出していきそうだった。
私と静璃では十センチ近く身長差があるけれど、そんなものはものともしない様子で、静璃は私の歩みについてくる。というか、歩幅が大きいはずの私は、気づくと静璃の背中を眺めている。
先を行く背中。揺れる髪が春風に大きくはためき、天使の羽のようにふわりと虚空を揺蕩う。
くるり。
折り目正しい紺のスカートのすそが大きく揺れる。
振り返った静璃は、特に何というわけでもないのだろうけれど、にっこりと私に笑いかける。
「えへへ」
「もう、危ないから前見て歩きなさいよ」
陽光を透かせば黄金に輝く髪も、この季節ではくすんで見える。黒みがかった翼を頂いた静璃は、小悪魔というか小憎らしいというか、そんな声音で「水奈は今日も眠そうだねぇ」なんて言ってくる。
「低気圧のせいか、朝から頭が痛いの」
「水奈の調子が出ないのはいつものことだけど、今日はすごい顔が白いね」
「白いって……青ざめてるとか、血の気が引いているとか、もう少し適切な表現がある気がするけど」
けど、なんだろうと首をひねる。
頭痛という苦悩のせいか、なんとなく言葉が硬くなる。
とげとげしい響きに、けれど静璃はひるみもしない。
「あれの日?」
「違うから。……自転車来てるよ」
くるり。
踊るように体をひねり、華麗に自転車を避ける。
続けてどや顔。
「どや」
「……なんでわざわざ口に出したの?」
「少しでも水奈を楽しませようと思って。どう、面白かった?」
「なんか、どっと疲れた気がする」
朝からこれで、私は今日一日耐えられるだろうか。
ますます気分は落ち込み、自然と視線がうつむく。
灰色のコンクリート。塗り固められた舗装は砂で薄汚れ、今の私の気分を描き出したよう。
「わっ」
「わ!?」
にゅ、と視界に現れた静璃に驚いて、というかぶつかりそうになって思わず足が止まる。
「足を踏んじゃうかもしれないでしょ」
「水奈は止まってくれるでしょ?」
全幅の信頼。混じりけのない純粋な笑みが、心の澱を洗い流す――ことはなく、ますます頭が重くなった気がする。
「水奈は優しいからね。たまには少し、自分に優しくしてあげるんだよ?」
「私はそんなにストイックじゃないけどね」
「本当にすといっくな人は、息をするように努力するもん」
なるほど、つまりは努力の天才というやつ。
常人の何十倍何百倍も努力し、ほんの少しの運を味方につけるか自分へと引き込むことができた成功者。きっと彼ら彼女らは努力の天才なのだ。
苦しいときがあっても努力し続ける。その忍耐がある。
努力が苦にならなくて、そうあるのが当たり前というように努力し続ける。
そういう人が大成する。
「水奈は天才だもん」
「天才なんかじゃないって。多分――」
だから、努力をしようと意識しないと努力できない私は、天才なんかじゃない。
そして、みんなに愛されるような在り方と生得的に、はたまたきっと意識することなく努力して手に入れた静璃こそ、ことコミュニケーション能力だとか人間性だとかにおける天才だと、私は思うのだ。
「――静璃は、天使だよね」
天才だよね。
その言葉を飲み込んだ意味は特には無い、はず。
果たして、私の言葉がまんざらでもなかったのか、静璃は嬉しそうにくるくるとその場で回って。
「あ」
「わ!?」
側溝に片足がはまり、体勢を崩し、そのまま半身を勢いよく壁にぶつけた。
びたん、という音が聞こえた気がするのは、その一部始終における擬態語を私が脳内に思い描いたからか。
「……」
べったりと頬を壁に貼り付けた静璃は、呆然とした様子で私を見つめている。
「……」
私もまた、返す言葉が見つからなくて、立ち止まったまま、ただただ静璃を見つめ返す。
風が吹く。どこかの民家に咲き誇っているだろう花の香りをかすかに乗せた風。
そよそよ、ざわざわ。塀の上、風に揺られた桜の枝が揺れる。
「…………桜に認めてしまったんだよ?」
「…………とっくに花は散って、葉が茂ってるけど?」
そろって見上げる先、灰色の空等知ったことかとばかりに、若々しい葉が広がり、塀を超えて歩道にまではみ出していた。
視線を戻す。
顔を見合わせる。
ぺり、と塀からはがされた頬に、ざらざらとした表面の後が肌にくっきりとついていた。
ふっ、とニヒルに笑って、静璃ははるか遠く、その灰色の空へと焦点の合わぬ目を向ける。
「……春の魔物に、やられてしまったんだよ」
「じゃあ、仕方ないね」
「うん、仕方ないんだよ」
けろりと調子を戻した静璃は、けれど側溝に落ちた拍子に足首をひねったらしく、ひょこひょことおかしな歩き方をし始める。
「ほら、支えてあげるから」
「自ら立つことができて初めて、人間は正しく他人を支えることができるんだよ」
「……自立できない人は依存しちゃうからって? 少なくとも私も静璃もまだ子どもで自立なんてできないんだから、支えあってでも進めばいいでしょ」
「親友を杖替わりにするほど、わたしはおちぶれちゃいないのさ」
「じゃあせめてカバンを持ってあげるから貸して」
「男の旅路に手を貸そうなんて無粋だよ?」
「静璃は女の子でしょ……ああもう、いいから黙って受け入れて!」
肩を貸そうとしても、ハードボイルドをどこか間違えた様子で断る静璃にしびれを切らして、私は静璃を抱きしめるように捕まえ、その体を持ち上げる。
「おお~! お姫様だっこ!」
「わかったから、急にハイテンションにならないで頭に響くあと暴れないで腕がつかれるし落としそうだから!」
やいのやいのと言い合い、急速に疲労感が増していく腕に鞭を打ちながら思う。
静璃は目が離せないし振り回されている意識もある。けれど、一人うつむきがちに灰色の地面を睨みながら歩くよりはずっと、こうしている方がいい。
果たして、腕の感覚が抜け落ちるまで運んだところで力尽き、私はそこからひいこら言いながら静璃をおぶって学校に向かった。
「いっけぇ、水奈号! ……なんか、ゴロが悪いね?」
「言いたい放題すぎない!?」
遅刻はしなかったけれど、「やっぱり仲がいいなぁ」と門前に立つ生徒指導の先生に生温かい目を向けられて、私の気力は早くも底をつくことになった。