辞典をのせて
朝は寒く、けれど日向に出ればすぐに体が温まる。
吹き抜ける春一番に弄ばれる髪を押さえながら、早くも青々とした葉を広げるソメイヨシノを眺める。
瞬きの瞬間、脳裏をよぎったのはやっぱりというか、静璃の姿。
花吹雪の中、両手を目いっぱいに広げてくるくると回るその姿は、まるで天使が踊っているよう。或いは妖精、と表現してもいいかもしれない。
満面の笑み。全身から迸る元気。
生きることを謳歌するとはこういうことだと、そう突きつけてくるような在り方。
それはひどく眩しくて、とはいえ目をそらすほど心に刺さるわけじゃない。
だから、その愛おしい瞬間を、私は確かに網膜に焼き付けたのだ――
「おはよー」
「おはよう静璃――って何やってるの?」
気分は乱高下、というか完全に素が出た。現実に引き戻された。
そこにいるのは、ともすれば絵本の中から現れたような、現実感の無い美少女。
中学二年生という、大人とも子どもとも言い難い年ごろであっても、彼女ほど美「少女」という言葉がふさわしい人物はいないだろう、愛くるしい天使。
もちろん私は百合のケは無いし、ただ客観的に静璃を評価してのこと。
ただまあ、今日の静璃は、もはやその唯一のとりえと言えなくもない外面すらもかなぐり捨てていた。
ふわふわの髪。くせっ毛を少し本人は気にしているけれど、春の日差しを透かして黄金色を帯びているその髪は綺麗で。
そんな髪の上、というか頭の上に、分厚い辞典がのっていた。
「静璃?」
「一石三鳥だよ」
「……何一つ分からないというかどこに鳥を得られるような利益があるのか意味不明なんだけど」
朝っぱらからツッコミをさせないでほしい。低血圧な自分が憎いというか、朝からハイテンションな静璃の声が頭に響くと言うか……うん、つまり静璃のせいだ。
当の本人はといえば、自分の大発見を主張したいのか、無いとまではいかなくとも控えめな胸を反らして「むふふん」なんて声に出している。
いつもであれば腰に当てられているであろう手は、今日は体操服袋と習字道具でそれぞれふさがれていた。
「そのいち! かさばる国語辞典がカバンに入りそうになかったし、頭にのせれば肩紐が食い込んで痛くならない!」
「むしろ頭が重いし歩きにくいしマイナス要素しかないと思うんだけど!?」
私の言葉が聞こえていないのか、あるいはそれを上回るプラスの要素があるからか、静璃は強気な笑みを浮かべる。
「そのに! ストレートネック対策!」
「昨日も夜遅くまでメッセージ送ってきたもんね。……その割には全く眠くなさそうだけど」
「今日の国語の授業は寝るって決めてるから!」
何の理由にもなっていないし寝る宣言なんてどうかしてるしって言うか寝るなだし、あと付き合わされた私も眠いんだけどどうしてくれるんだか。
「ストレートネックねぇ……あんまり意識したことないかな」
「水奈もそこそこスマホ中毒でしょ?」
「いや、別にそこまでじゃないし女子中学生としてはむしろSNSとかほとんど使ってない方だと思うだけどね」
アカウントこそ持っているけれど、あまりSNSでやり取りをするのに積極的ではないタイプなのだ、私は。
顔が見えない相手とのやりとりっていうのは、なんというかこう、一番大事なところを欠いた空っぽのコミュニケーションに感じる。
人が求めているのは他人との交流で、それはやっぱり、血の通った生身の人との肌で感じる交流が……ってなんか意味深に聞こえる。
まあ多分? 生まれてこのかた、静璃と一緒に過ごしてきたから、直接会話をする方が普通だと刷り込まれているんだと思う。
静璃が私のお母さん的なポジションにあるというのは少し違う気もするけれど、それはさておき。
「ストレートネックと言うか、そこそこスマホを見ていても首のつらさを感じないのは、寝転がってスマホを触ってるからかも」
自分の普段を思い返してみると、ベッドにうつぶせになって腕を前に投げ出すような姿勢でスマホを触ることが多いように思う。うつむきがちな姿勢でスマホを触っているわけじゃないから、むしろ首に負担はかかりにくいと言うか、逆に変な方向に反らしすぎて負荷がかかってるかもしれないし顔が近くて目が悪くなるかもしれないけど、少なくともストレートネックにはならないんじゃないかと思う。
「つまりわたしの方が姿勢がいい!」
「姿勢が良ければストレートネックにはならないだろうし、その心配をする必要もないと思うけどね……って、ふらふらしないの」
通学路脇、早くも窯で焼かれているパンの香ばしい香りが換気扇から外に漏れだしていて、その香りにつられて静璃がふらふらと店の方に近づく。
止まりそうになる足を進めるべく背中を押したところで、くぅ、と自分のお腹から音がして、静璃がにんまりと笑う。
「……で、そのさんは?」
顔が熱い。
ごまかすように頭に辞典をのせている第三の理由を問えば、静璃の意識はそちらへ向かう。
鳥頭で助かった。いや、別に悪口じゃないというかすぐに考えていることを切り替えられて、うだうだ悩んだりしないところは長所であって羨ましいことのような――
だらだらと続く思考を吹き飛ばすように、静璃が満面の笑みで告げる。
「そのさん! 寝癖を直せる!」
「あーなるほど、最後の理由がかなり残念だけど、一応メリットが三つあるのはわかったよ」
歩きにくいという最大のデメリットと、周りから変な目で見られるという欠点に目をつむるのであれば。
というかこれ、隣を歩く私はメリットなんて何もないし、完全に巻き込まれ事故なんだけれどそのあたりどう釈明してくれるの?
くすくすと笑いながら追い抜いていく三年生の先輩たち。これ見よがしに指さして笑う男子。
なんだかむかむかして、けれど静璃を見れば、そんな暗い気持ちは嘆息に転じる。
すごいでしょ誉めて、と言いたげなキラキラとした眼差しがそこにあった。
ごはんを用意する飼い主を目の前に「待て」をしている犬のよう。風に吹かれて揺れる後ろ毛が、犬の尻尾を思わせる。
「あっ」
私の方を向いて歩いていれば、当然のことながら辞典から意識が逸れる。
傾いたそれはあっさりと宙を舞い、どさり、とやや重い音を響かせて地面に落ちる。
「くっ、これも試練……ッ」
立ち止まる。
習字道具を置いて、体操服袋を置いて、頭の上に辞典を乗せて、習字道具と体操具袋を左右の手に装備。
ファッションなのか、肩から提げることのできないかさばる二つは完全に厄介な荷物だった。
そろり、そろり。
頭の上の辞典を落とさないように意識をして歩く静璃は静かで、なんだかすごく変な感じがした。こう、ボタンを掛け違えているような、あるいは、席替えをして同じ教室同じメンバーなのに今までと感じが違って違和感がある、そんな気持ち。
「あっ」
声が漏れたのは、私か静璃、どちらの口か。
再び宙を舞った辞典。立ち止まった静璃は両手の装備を一度地面において――って面倒な。
「ほら」
これ以上の足止めはごめんだと、仕方なく辞典を拾い上げようとかがんだところで、その手を静璃につかまれた。
「駄目。これは試練なの。わたし自らの手でやり遂げないといけないんだよ」
そう告げる静璃の頭のてっぺんで、アホ毛を思わせる盛大な寝癖が揺れる。
「いや、まだ半分以上道のりが残ってるんだけど」
「もう残り半分だね」
「時間はたぶん半分をきってるけどね」
「試練に刻限とのデッドヒートはつきものだもん」
辞書を頭にのせた静璃がしずしずと歩き出す。
お嬢様らしく、お淑やかに。
落とさないように意識をして口を閉ざす静璃は天使のようで、けれど頭の上の辞典がすべてを台無しにしている。
春の風が吹く。
温かくなると馬鹿が増える――なぜかそんな言葉を思い出す。
きっと静璃の頭の中で、冬の間に縮こまっていた好奇心とか少年心とか天然マシーンが性急に動き出したのだろう。
三度辞典が宙を舞う。
これ以上待っていられるかと、落ちた時点をひったくり、わたしは学校までの長い一本道を走り出す。
「みな~~!」
「あははははっ」
背後、静璃の声を聞きながら、一体自分は何をしているのだろうと、冷静な自分を頭の隅に抱えながら笑う。
これが青春か――すくなくとも朝のけだるさがどこかに吹き飛んだという意味では、有意義な時間には違いなかった。
周りの視線を集めるのは水奈も同じ。