1-9 怖れ
「……返し、そびれちゃった」
アレクに送ってもらった後。私は呆然としながら自室に帰った。
さっきは、一体、何が起こったのだろうか。
まるで夢の中にいるように頭が働かない。
自室の閉めた扉の前で、ネックレスを握りしめて立ち尽くす。
そんな私を見て、マリアはキョトンとした後、可笑しそうに笑った。
「まぁ、本当に返すおつもりだったのですか?仮にそんな提案をしても、追い詰められるだけでお返しするのは無理だと思いますが……」
「だ、だって……」
「勝手な予想ですが、このままずっと身につけていて欲しいと言われたのではないですか?」
そのマリアの言葉に、甘やかなアレクの態度を思い出してしまった。体が余計熱くなるのを感じながら、躊躇しつつもコクリと頷く。マリアは、満足そうに微笑んだ。
「やはり、そうだと思いました。さぁ、本日はもうお疲れでしょうし、余計なことは悩まず湯浴みをして休みましょう」
最近マリアは妙に押しが強い気がする。そう不思議に思いつつも、あたたかい湯に浸かる。とたんに、ずっしりと疲れが身を襲ってきた。
それはそうだ。今日は、あんなにいろんな事があったのだから。
――ドメルティス帝国王太子、ザイアス殿下。帝国の次期王となるザイアス殿下は、彼の国の気質通り、苛烈な性格のようだった。
欲と嗜虐に歪んだその顔に、近づいてはならないと本能が訴えるけれど。
彼は、私の夫になる予定の人。その事実は結局のところ、何も変わっていなかった。
――『まだ』君の女じゃない
不意に、アレクの声が蘇ってきて、どくんと胸が跳ねる。そう、花嫁として差し出される期限までは、私はザイアス殿下のものではない。それまでは、差し出されるという予定があるだけで、立場としては確かに婚約者でもなんでもなかった。
ほんの少しの安堵と共に、チャリ、と胸元のペンダントトップを握りしめる。
結局、エランティーヌ王国の紋章がついたこのネックレスは、アレクにずっとつけていてと言われ、まだこの手の中にある。
アレクとの、幻のような、婚約の証。
アレクは、ザイアス殿下から私を引き剥がし、ロメリアを退け、夜会を私と一緒に退出した。それは、明らかに私を手の内に入れているような、そんな行動だった。
今まで、そんな極端な行動を取ったアレクは見たことがなかった。
――まさか、アレクは本当に、私を妻にしようとしているのだろうか。
どくん、と胸が跳ねる。
アレクの妻に。その夢のような響きは、どうしても私を惹きつけるけれど。
だけど。
――そんな事をして、アレクの身の安全は、大丈夫なのだろうか。
その心配が、先に立った。
残虐な行いの多いドメルティス帝国。何か手を出せばやり返されるだろう。そして、アレクはエランティーヌ王国の王子。国を滅ぼすなど非現実的な試みはしないだろうけど、それでも、国同士の問題に発展すれば、戦だって起こりかねない。
あの時の、私の正しい行動は――何もかも諦めて、ザイアス殿下にこの身を捧げることだったんじゃないだろうか。
掴まれた顎。受け入れ難い辱め。
あれを受け入れることに、強い拒否感を感じるけれど。それをかなぐり捨てるように首を振り、ぐっと手を握る。
ザイアス殿下から離れ、アレクの側に。それは、夢のような響きで。私にとって、とても幸せなことだけれど。
選択を、間違うな。私は、この国の――アルメテス帝国の、皇女なのだ。
捉えられた民と王子の処刑。多くの民が命を失う戦。己の身の可愛さに、それらを起こしたらいけない。
囚われたペリスの人々と、お兄様を助け出せないのなら。そして、アレクが傷つくのなら。どんなにアレクが私に手を伸ばしてくれたとしても、私はドメルティス帝国へ嫁ぐことを選ぶだろう。
ちゃぷんとと湯を揺らして湯船の縁に頭を預けた。そう、皇女としての責務を忘れるな。私の肩にはたくさんの人の命がかかっているのだから。
湯船から立ち上っていく湯気を見上げる。
――アレクは、本当に大丈夫だろうか。たかが友達の、こんな私のために、何か酷い無茶をしていないだろうか。
じわじわと、不安な気持ちが胸に広がる。
アレクの身に、なにか起こったら。
それでこそ、耐えられない気がした。
今度きちんと話そう。やっぱり、こんなのはアレクにとっても良くない。いくら友人だとしても、危険を犯しすぎている。
そう、いくら大切な友達だからって、わざわざリスクを犯して鉄の皇女を守る必要はないのだ。
――貴方は、未来のある、見目麗しい王子なのだから。
甘い表情を思い出しそうになって首を振る。
優秀で美しいアレクには、きっとたくさんの縁談があるはずだ。聖女が婚約者とならないのなら、アレクにはもっと相応しい素敵な女性が現れるはずだ。
ズキリと胸に痛みが走るけれど。それを無視するように、息を吐きだして、アレクが無理をしないように、アレクの身に何も起こらないようにと、祈るように目を瞑る。
――目、閉じて
「っひゃぁぁ!」
バシャンと音を立てて飛び起きた。真っ赤になった顔を覆う。
バクバクと、心臓の音が煩い。
一気に蘇る、アレクの、囁くような甘い声。
私を抱き寄せる、優しい、でもしっかりとした、男らしい腕。
熱さのある眼差しと、頬に伸びた手と、そっと唇に触れた、優しい温もり。
その感覚が、ぶわりと蘇って、体温を上げていく。
と、とんでもないことをしてしまった気がする。まさか、私と、アレクが。いったい、なぜ。アレクは、どんなつもりで――
「エレナ様?大丈夫ですか?」
「あ!はい!うん!大丈夫です!!!」
私の叫び声に驚いたのだろう。浴室を覗き込んできたマリアの顔を見て、ハッと現実に戻って慌てて返事をした。
マリアは不思議そうに首を傾げた。
「そうですか……?のぼせる前に出てきてくださいね?」
「わ、わかり、ました……」
まだそこまで長く湯に浸かっていたわけではないのだけれど。本当にのぼせそうな危険を感じて、私はすぐに湯船から上がった。
どうしても、冷静でいられない。全く思考もまとまらない。もう今日は休んで、明日またちゃんと考えよう。そう諦めてベッドに沈みこみ、シーツに包まる。
深呼吸しながら、目を閉じた。
それでも、どうしても今日の事が頭に浮かぶ。
――先に、誰かに奪われたくない
アレクはそう言った。あれは、どういう意味だったんだろう。
冷静に、冷静になれ。必死で自分に言い聞かせる。
何度も、冷静に、考える。
だけど、やっぱり、アレクが本当に私を妻にするつもりでいる気がしてしまって。
暗闇のシーツの中、丸めた身体の中で、どきどきと胸が跳ねる。
もし、もし、アレクが、私のことを……
そんな甘い気持ちがふっと浮かんで、ブンブンと頭を振った。
いや、落ち着こう。さすがに私のことを好きという事はないはずだ。現実を見なければ。
だって。
――友にそんな気は起きない。そう、あの日飲み屋で確認したではないか。
ズキリと痛み、冷たくなっていく胸を、ぐっと押さえつける。
そう、あれはきっと、ただのアレクの優しさだ。もしかしたら、色恋沙汰どころか、男の人と手を繋いだこともない何も知らない私に、こういうもんだよと情けで教えてくれたのかもしれない。
そう、きっとそうだ。
何度も自分に言い聞かせる。
きっと、期待してしまったら。アレクの気持ちが、本当に私に向いていて、私がそれを知ってしまったら。
――私はきっと、アレクを諦められない。
それが、怖かった。
ギュッと目を瞑る。どちらにしろ、あまり浮かれすぎないほうがいい。国を滅ぼすどころか、この短期間でペリスを奪還する事ですらかなり無理があるのだ。他国の王子のアレクが、本気でそんな事をする訳がない。なんとかすると言っていたけれど、それきっと、私を勇気づけるための言葉の綾だろう。
とにかく。アレクが、どんなつもりなのかは分からないけれど。私は大丈夫だと、ちゃんと話そう。
国の上に立つ私達は、道を誤ってはいけないのだから。
胸の痛みに目を背けながら、しっかりとシーツの中に潜り、アレクが何か無茶をしていませんようにと、祈るように目を閉じる。
暗闇の中、自分を抱きしめると、アレクの腕の中のあたたかい感触が蘇ってきた。
そっと、自分の唇に触れる。
もし、あれが最後でも。思い出としてドメルティス帝国へ持っていこう。
幸せなその記憶をまどろむ中で抱きしめながら、私はそのまま、深い眠りに落ちた。
読んでいただいてありがとうございました!
やんちゃですが、エレナは真面目なんです。
「やっぱり今すぐ滅ぼそう!!」と決意を新たにした王者の素質のあるあなたも、
「早くエレナたんかっさらってアレク(´;ω;`)」と願ってくれた優しいあなたも、
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