1-8 誰のもの
「アレク……」
思わず呟いた声が、静まったホールに響く。
声の主は私を抱き寄せたまま、美しい碧眼を私の方へ向けた。その愛しい目が、優しく細められる。
「……俺の女に何をしたって良いだろう」
不機嫌そうな声が聞こえてハッとしてザイアス殿下の方へ視線を戻した。苛ついた様子のザイアス殿下が、アレクを睨みつけていた。
ぐ、と私を抱く手に力が入ったのが分かる。何故かひやりとした空気を感じ取って、思わず身を固くした。
「『俺の女』だって?」
いつも柔らかなその声は、今は隠しきれない怒気を含んでいた。聞いたことのないアレクの冷たい声に、何が起こっているのかと、思わず息を止める。
そのアレクの冷たい視線と声を受けたザイアス殿下は、一瞬ひるんだように身を引いたが、次いで見下すように勝ち気な笑みを浮かべた。
「そうだ。知らないのか?エレナーレ姫は我が側妃としてもうすぐ輿入れする予定だ」
「そう、じゃあ『まだ』君の女じゃないね」
「なに?」
「君たちは婚約式もしていないだろう?なら、口約束の輿入れ予定があるだけで、別に今は婚約者でも何でもないよね」
さっと私を後ろへ隠したアレクは、にこやかな、でも冷たさのある笑みを浮かべてザイアス殿下と対峙した。他国の王子が対立するこの構図に、あたりがしんと静まり返る。
その冷えた空気を無視するように、アレクはにこりと――でも冷たく微笑みながら口を開いた。
「ドメルティス帝国は、強硬だが最低限の礼儀ぐらいは気を遣える国だと思っていたのだけど。それは僕の勘違いだったかな」
「礼儀?完璧だったろう。俺の女になるなら、躾は必要だからな」
「へぇ、それがドメルティス帝国の女性の扱い方なんだね。可愛そうだね、国の女性たち」
「そうか?俺に抱かれるならと、女達は嬉しそうにしているが」
ニヤリと笑ったザイアス殿下が舐めるような視線をこちらに向けた。ぞわりとして思わず一歩後退りする。それを見て、ザイアス殿下は余計に嬉しそうに笑った。
「まぁ、大丈夫だ。ちゃんと教育してやるよ。王太子の側妃になれるんだ。光栄だろう?十分可愛がってやるからな」
「……反吐が出るよ」
「何言ってる、これが当たり前の姿だろう?」
悪びれずザイアス殿下は手を広げ、豪華な装飾が施された軍服のような衣装を見せびらかすように胸を広げた。
「富と権力がある。それは絶対強者の証だ。だから、人がついてくる。そうだろう?――だからただの第二王子の君には女は手に入らず、王太子である俺のものになる」
勝ち誇ったようなザイアス殿下が、アレクにそう言い放った。そう、ザイアス殿下は王太子。アレクは、第二王子だ。格が違う。確かに、その通りだけど。
――そんな富や権力に付いてくるような者は、それか失われればすぐに離れていく。そんなのは真の強さじゃない。アレクは、そんなあんたみたいな安っちい男じゃない。そう言い返しそうになってぐっと言葉を飲み込んだ。
人質の花嫁。その私が反抗したら、ペリスの人々やお兄様の命は、無いかもしれない。
悔しさにうつむきかけた時。アレクがククク、と笑いだした。ぎょっとして顔を上げる。
アレクは何故かにこやかに笑っていた。
「あぁ、ごめんね。別に期待していたわけじゃないんだ――元から富と権力『だけ』の統治国家だったね。だからその価値観なんだ」
「……何が言いたい」
「何って。『そんなもの』に縋らないと女性が寄ってこないんだなぁって」
そう言うと、アレクは壮絶に美しい表情で微笑んだ。
「でも、羨ましいよ。――女性を遠ざけるのも大変だからね」
ニコリと微笑み、首を傾げたアレクの金糸のような髪が、さらりと流れる。会場の女性たちが、頬を染めたのが分かった。
ザイアス殿下が、その様子を眺めて苛ついたように目を細めた。
「まぁ、皆様お揃いで。ザイアス殿下、どうしてそんなに怖い顔をなさっているのです?」
さっとロメリアが間に入ってきた。ロメリアも、なぜここに。そのロメリアと、静かにロメリアに目配せをするザイアス殿下の様子を盗み見て、確信した。
ザイアス殿下がここにいる理由。それはおそらく、ロメリアの仕業だろう。
ザイアス殿下を私に引き合わせるため。それが、ロメリアの目的だ。――だから、今日、私はこの夜会への参加を許されたのか。
隣で青ざめるキャレルに申し訳なく思いながら、微笑むロメリアに視線を向ける。
ロメリアは夜会用に華やかに着飾った天女のような姿で、微笑みながらアレクの側へ寄った。
「ごきげんよう、アレクシス殿下。姉の我儘に付き合って頂きありがとうございます。この場はわたくしが収めますので、良かったらあちらの席でわたくしと一息付きませんか?」
そう言って、そっとアレクの腕に白魚のような手を添えた。頬を染めたロメリアが、アレクをすこし恥じらいつつ見上げている。
「アレクシス殿下とは、ずっとゆっくりお話がしたかったんですよ?」
その提案に、胸がズキリと痛んだ。そうか、ロメリアは、きっと本気で、アレクと……
――絶世の美女と言われるロメリアに誘われ、ロメリアの元へ行かなかった男など、この世にいないだろう。少なくとも、私は見たことがない。
美しい二人が並ぶ姿は、絵画のように神々しかった。
その景色にふるりと心が凍るように震える。アレクが私を振り返ることを望んても仕方が無いのに。そんなことは分かっている。
でも、どうしても気になって。思わず、アレクの表情を盗み見た。
ロメリアに向けられたアレクの視線。それは、期待や愛に満ちたものではなく――想像以上に凪いだような、冷たさを孕んだものだった。
ほんの少しの間をおいて、形の良い唇が、時を動かすように滑らかに言葉を紡ぎ出す。
「ごめんね、そういう気分じゃないんだ。別に君と話したいことも無いし」
「――え?」
まさか断られるとは思っていなかったのだろう。ロメリアは、ポカンとした顔でアレクを見つめている。アレクは、外向き上品な雰囲気の顔になんだか面倒そうな表情をほんのり覗かせながら、私の手を取った。
「エレナーレ様、お疲れでしょう。このままお送りします。私も今夜はアルメテスの城にお世話になる予定ですので、行き先は一緒ですから」
「あ……ありがとう、ございます……」
呆気にとられている間に、背を押されてさっと会場から連れ出された。馬車を引く馬がパカパカと歩き出した振動を感じて、はっと我に返る。
「ア、アレク!?」
気づけば、馬車の中でアレクの真横に座っていた。私の焦ったような声にこちらを向いたアレクの素の顔は、先程の王子の作り笑いとは違って――想像よりもずっと、心配や不満が滲んだ顔をしていた。
「ど……どうして、いるの?」
「そんなの、エレナのことが心配だったから来たに決まってるだろ」
「え……でも……」
うまく頭が働かない。心配だから駆けつけるなんて、そんな気軽な動きができる人ではないのに。現実味のない夢見心地のまま、隣に座るアレクを見上げる。アレクは、少し眉をひそめて私の顔や手足に心配そうな視線を走らせた。
「――あいつに、他には何かされてない?」
「え……?」
「さっき、殺してやろうかと思った」
物騒な声が聞こえて、幻聴かと目を丸くする。アレクは、そんな驚く私に動揺することなく、静かに私の顔に視線を戻した。
「あのままザイアスがエレナに何かしたら、剣で突き刺してた」
「な、何言ってる、の……」
「何って。エレナを傷つける奴を許せるわけ無いから。……エレナは俺のにするって言っただろ」
その言葉に、胸がふるりと震えた。
これは、友情だ。期待したらいけない。時間だって無い。後で辛くなるだけだ。
そう、頭ではわかっているのに。
無理やり蓋をしていた気持ちが動き出す。
きっと、どんなに頑張っても、私はドメルティス帝国へ行かねばならない。民のために、皇位を継承するお兄様のために、この身を捧げるのが私の役目だと何度も心の中で繰り返す。
そう、何度も何度も、言い聞かせてきた。
見ないふりをしてきた。
わからないふりをしてきた。
だけど、本当は。
それが、許されるのなら。
私は、アレクの隣に、いたい。
「――エレナ、」
「っ、ご、めん……」
ポロポロと涙が溢れ出す。今まで張り詰めていた緊張と我慢の糸が、ぷつりと切れてしまったようだった。
どうしよう、止まらない。う、と泣き声が漏れる。みっともない、早く泣き止まなきゃ――
そうして、もう一度緊張の糸を張り直そうとした時だった。
そっとアレクの手が私の背中にまわり、ゆっくりと抱き寄せられる。それは、優しいようでいて――しっかりとした力強さのある、男の人の腕だった。
「――嫌じゃない?」
「っへ!?」
「俺に触れられるのは、嫌じゃない?」
耳元で聞こえたアレクの囁くような声に、どきりと胸が跳ねる。混乱の中、とにかく答えねばと、こくこくと首を縦に振った。
ホッとしたような息遣いが間近で聞こえて。それから、アレクの手が、ポンポンと私の頭を優しく撫でた。
その仕草が、あまりにも優しくて。
私は思わず、アレクにギュッと抱きついた。
ぴくりと、アレクの身体が揺れ、はっと我に返る。
「っ、ごめん!」
もしかして、だめだっただろうか。いや、むしろ私は、私達は、何をしているのだろうか。
慌てて身体を離そうとする。が、想像以上にしっかりと私を抱きしめていた腕に、もう一度抱き寄せられた。
ぽすん、とアレクの胸の中に再び収まる。
「――嫌じゃないんだろ」
「う、ん……」
「なら、こうさせて」
「っ、でも、」
「……泣いてるエレナを、放っておけないから」
アレクの思ったよりも大きな手が、私の髪を優しく、さらさらと撫でる。
「…………俺の前では、弱くていい」
その小さく掠れたように耳元で囁かれた言葉に、すっと強張りの棘が抜けたように感じた。
強くあれ。私は皇女だ。そうして、立ち続けてきたけれど。
アレクに、弱さも全部、受け入れられている感じがして。
許されているように感じて。
優しくて、あったかい。ふわふわと、心が解れていく。
アレクの金糸のような髪が、私の群青の髪に触れて、ゆっくりと混ざる。
流れた涙がアレクの胸に吸い込まれていって。そのまま、アレクの腕の中で、夢見心地で馬車のカタカタという音を聞いた。
どれぐらい経っただろう。少ししてから、アレクの低い、でも心地の良い声が聞こえた。
「――エレナの、貰ってもいい?」
「へ?」
意味が分からず見上げた先。アレクの綺麗な碧眼が、見たことのない熱を持って、真っ直ぐに私を見ていた。
「先に、誰かに奪われたくない」
そっと頬にアレクの手がのびて。吐息がかかる距離で、アレクの美しい碧眼が、私に請うような熱い視線を送った。それを、呆然と見上げる。
アレクは、気遣うように優しく私の頬を撫でた。それが、あまりにも心地よくて、心が満たされて。とろりとした気持ちで、アレクを見上げる。
アレクの窺うような視線が、同じようにとろりとしたものになって。混ざり合うように、距離が近づく。
「――目、閉じて」
その囁くような言葉は、馬車の中で静かに響いた。少しずつ、私の同意を確かめるように近づく距離に、段々と焦点が合わなくなって。そのまま、溶けるように目を閉じる。
次いで、柔らかな何かが、そっと私の唇に重なった。
もう一度、呆然とアレクを見上げる。
「エレナ――、」
コンコン!と馬車の扉がノックされた。はっと我に返り、真っ赤になって慌てて距離を取る。
待って、待って……今、何を――!?
アレクは距離を取った私をぐっと何かを飲み込むように一瞥した後、苦々しく扉を睨みつけた。それから、はぁ、とため息をついて扉の外の従者に声をかけた。
「……ありがとう、今降りる」
「っあ、待って、アレク!」
突然思い出して、胸元にしまっていたネックレスを取り出す。
「アレク、これ、」
「――つけてて、くれたの」
ハッとしたように少し目を丸くしたアレクは、びっくりするほど甘やかに微笑んだ。その見たこともない甘い表情に思わずフリーズする。
「ありがとう……このまま、ずっとつけてて」
アレクは再び呆気にとられていた私の手からネックレスを抜き取ると、美しい所作でペンダントトップに口付けた。
「早く、服の中から外に出せるようになるといいんだけど。……今はまだ、ここで」
そうして優しく服の中にネックレスをしまわせると、ガチャリと馬車の扉を開けた。
「お手をどうぞ、エレナーレ様」
その表情は、さっきまでの気安さのある友人の表情では無かったけれど。外向きの優しげな、でも威厳のある表情のなかに、何か甘いものを感じてしまって。
私はどきどきとしながら、その差し出された手を取って。なんとか背筋を伸ばして、皇女らしく、ゆっくりと馬車を降りた。
読んでいただいてありがとうございました!
作者はニヤニヤが止まりません。
「わかる私も」と一緒にニヤついてくださったお友達になりたい神読者様も、
「いやぁぁぁぁ!」と身悶えて下さった愛らしいあなたも、
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