1-24 衝突(side皇帝トラディス)
「今夜は月が綺麗ですね」
エリザベスが静かにそう言った。
風が強い夜。雲が早く流れる空には、大きな月が架かっていた。
それを、やるせない気持ちで見上げる。
「……エレナーレのことで、気を病まれているのですか」
「…………」
「陛下は、エレナーレを十分愛して下さいました」
エリザベスを振り返る。柔らかな夜着に、全身を覆うように纏った大判のストールが、季節の移り変わりを示しているようだった。
「大丈夫です。エレナーレのことですもの。きっと、ドメルティス帝国でも上手くやってくれますわ」
「……そうだな」
その絞り出すように放った己の声が、想像よりもしわがれた年寄りの声で。今のこの状況と合わさって、より寂しい気持ちになった。
あれから、随分と時が経ったように感じる。
「色々と……お疲れさまでした、陛下」
そう優しく微笑んだエリザベスが、琥珀の酒をそっと差し出すようにテーブルに置いた。
いつもの寝室の、いつもの流れ。
でもそれも、今夜で終わりなのだろう。
「――エリザベス」
「はい?」
「今夜は、いつもより饒舌だな」
そう言うと、エリザベスは少し息を呑むように目をパチパチとさせると、再び柔らかく微笑んだ。
「……私も、寂しいのかもしれません」
「そうか」
月を眺めていた窓際からエリザベスの斜め向かいの一人がけのソファーへ移る。
目の前には、今日もいつもどおり、美しいグラスに入った琥珀の酒が置かれていた。
しばらく、静かな時が流れる。
「……お飲みにならないのですか?」
「あぁ……そうだな」
そうして、そっとグラスを手に取った。
ランプの光を反射しながら揺れる、琥珀の酒。
それを、ゆらりと揺らしてから、静かにエリザベスへと差し出した。
「先に君が飲むか?」
「え……?」
「いつも私だけでは物足りないだろう?」
そう言うと、エリザベスはじっと琥珀の酒を見つめてから、困ったように微笑んだ。
「わたくしはお酒は飲めないでしょう、陛下」
「あぁ、そうだったか」
にこやかに笑って、長年連れ添った側妃の――もう一人の妻の表情を観察した。
悲しみ、絶望。そんなものがあればいいと思った。
だが、その困ったような、作られた美しい表情の裏にあったのは、ほんの少しの焦りと、冷たさだけだった。
「――残念だよ、エリザベス」
「陛下?」
「私には、この酒は飲めない」
そう静かに答える。
エリザベスは、困惑したように眉をひそめた。その表情は、殆どいつもと変わらなかったが――次の瞬間、私の方に向けて、大判のストールの下から思いっきりナイフを突き刺してきた。それをさっと避けてエリザベスのナイフを握った手を掴む。
琥珀の酒が入ったグラスが床に落ち、ガシャンという儚い音と共に砕け散った。
私が月を見ている間。エリザベスは、琥珀の酒に何かを入れていた。暗い窓ガラスに映されたそれが、やはり毒だということが分かって。頭の中で、バラバラに存在していた物事が、すべて一つに繋がっていく。
「……君が、レミエーナを殺したのか?」
「…………えぇ」
間近で聞こえた肯定の声。願わくば、空耳であって欲しいと願うけれど。
もう、現実と向き合う時だった。
今まで全く何もなかった証拠が、エリザベスが今私を殺そうとしたことで、確定に変わったのだから。
「なぜ、分かったのです?」
エリザベスは、いつもと同じ、静かな顔をしていた。
「あの子が――エレナーレが、何かを知っていたのですか?」
「いや、エレナは何も知らないよ」
ぎり、とその手を掴む。痛みに顔を歪めたエリザベスが、ぐぅ、とナイフを床に落とした。
「私とレミエーナの可愛い子だ。そのような、知っているだけで命が狙われるような危ない事を知らせるわけが無いだろう」
「……これだから、貴方はいけないのです」
諭すようなエリザベスの声を、静かに聞く。
「私も、レミエーナも、あなたを愛していましたから。きっと貴方を守るために、エレナーレにもなにか伝えていたはずです」
「……愛していた、か」
虚しい声が響く。そう、それは、過去のことで。レミエーナはもう、ここにはいなかった。
自分に残されたのは、ただ静かに愛憎を向けてくる、エリザベスだけだった。
「……だから、私に月を見させている間に、酒に毒を入れ……私を殺そうとしたのか」
「えぇ……ひと思いに、幸せに死ねるでしょう?」
「君らしいね」
「ありがとうございます」
微笑むエリザベスをそっと見下ろす。
いつもと変わらぬその表情に、少しの悲しみを覚えた。
「陛下、これまでありがとうございました。この御恩は忘れませんわ。……いつまでも墓前に花を捧げると誓いましょう」
ハッとしてエリザベスを突き飛ばし、剣を抜く。ギィン、という剣のぶつかる音。
その剣を向けてきたのは、部屋の護衛の一人だった。
紛れ込む、沢山の間者。それがこんなにも身近にいたなんて。むしろ今まで無事に生きながらえて来たことが幸運だったと言わざるを得ない。
その厳しさに顔を歪めた私に、エリザベスは美しい表情で微笑んだ。
「護衛に、少しずつ我が国のものを増やしてきたのです。この寝室の周りの者たちは、既に我が国の配下の者たちです」
「……君にとって、我が国とはアルメテスではなくドメルティスなんだね」
「はい、もちろんです――わたくしは生まれた時から崇高なるドメルの民」
バラバラと抜剣した者たちが自分を取り囲む。中には、もう随分前から自分を護衛している者もいた。
「用意周到だね、エリザベス」
「えぇ、全ては、この日のために」
エリザベスも、手渡された新しい短剣を、シャン、と抜いた。
「愛しています、陛下。――一思いに、死んでください」
「……なら、君も道連れだ」
「まぁ、喜んで」
微笑むエリザベスに剣を向ける。
流石に、これは生き延びるのは難しいかもしれない。だが。
ちらりと、月が輝く夜空を見上げる。
未来を担う、若者達がいる。もう、この国は、私がいなくなっても大丈夫だろう。妙に穏やかな気持ちで、エリザベスを見つめる。
「私の命はくれてやろう。だが、この国はまだ君たちにはやれんな」
「……死んだ者には、何もできませんわ」
「あぁ、そうだな。だから、この国を担うのは、新しい者たちだ」
「えぇ……ザイアス殿下が、きっと」
「そう上手くは行かないよ、エリザベス」
刃を向ける妻に、静かに微笑む。
大丈夫、自分がここで死んでも、この国は継ぐものがちゃんといる。だから、心配はしていない。
だが。
すっと、剣先をしっかりとエリザベスへ向けた。
全てを、国に捧げてきた。だが、私にも、譲れないものがある。
「君を、許しはしない」
静かにそう告げる。
「――私のレミエーナに手をかけた罪は、私と地獄に堕ちてでも償ってもらおう」
絶対に、許すわけがない。
そう、例え差し違えてでも。
あの太陽のような女性の命を、奪ったのだから。
「共に地獄に堕ちるのなら、ついて参りますわ」
「あぁ、悪いが君だけは――っ!?」
突然、ガシャーンと窓の割れる音がした。月を見上げていた窓ガラスが粉々に割れている。呆気にとられながら、そのガラスの無くなった高い窓を見上げた。
「お父様!!!」
「――っ、な……!?」
輝く月を背景に、美しい群青の髪がなびく。
レミエーナが着ていた優しげなドレス。それをまとったエレナーレが、まるで夜の天女のように、この部屋に降り立った。
歯向かう者たちは少し狼狽えたが、すぐさまエレナーレにも刃を向けた。
それをさっと遮るように、エレナーレの前に進み出た。
「エレナ、なぜ来た!」
「お父様の命が危ないからでしょう!」
「っ、お前の命も、」
「当たり前です!我々はこの国のトップなのですよ?両方とも守らねばなりません。さぁ、影の者たち、この者たちを取り押さえて!」
その姿とはつらつとした声に、亡きレミエーナの姿が被って見え、思わず目を見開いた。
シャンシャン、と金属音を立てて剣が抜かれる。
エランティーヌ王国の、影の者。いつの間にかやってきていたそのもの達が、すぐに連携して我々の守りに入った。
「……まさか、ここまで手を回しているとは」
一転して無表情になったエリザベスが、冷たい声でつぶやく。私を守る小柄な影のものが、妙ににこやかな声で返答した。
「あなた方はアレクシス殿下とエレナーレ様をを舐め過ぎです。この方々は――誰よりも無鉄砲で、何をしでかすか分からないんですよ?」
「それは褒めているの?レオン」
「もちろんですよ!……いえ、どうでしょう?」
妙な掛け合いをする二人に、エリザベスが苛立ったように短剣を向けた。
「迅速に処理を」
取り囲んでいた者たちが、一斉に襲ってきた。こちら側も一斉に対抗する。
刃のぶつかり合う音。荒々しい息遣い。
ランプの明かりが灯る部屋は、皇帝の居室であるとは思えないほど、猛者のぶつかり合う戦場となっていった。
「レオン、右!」
「っと……」
キィン!と刃がぶつかり合う。
影の者たちはかなりの手練だが、歯向かう者達も腕が立ち、そして人数が多かった。
少し押されつつ、自分も剣を振るい応戦する。
「えいっ!」
エレナが飾っていた国宝の壺で刺客の頭を思いっきり殴った。壺が砕け散り刺客が倒れるが、その隙きをを狙った別の刺客がエレナに襲いかかる。それをまた、レオンという影の者が防いだ。
「ちょっと厳しいな……陛下、エレナーレ様、絶対に死なないでくださいよ!二人に何かあったら、僕達アレクシス殿下に死よりも恐ろしい目に合わされるんで」
「……なら、なぜここに来た」
「なぜって、」
「私の命など、もはやそこまでの価値はない」
ザシュゥ、と音を立てて目の前の刺客を切り捨てる。反動で、肩と腕が軋む。歳は取りたくないなと苦笑いをしながら、再び剣を構えた。
「――もう、時代は次世代に渡す時だ」
「っ、ふざけないで!」
椅子が刺客に向けて飛んでいく。肩で息をしたエレナーレが、自分を涙目で睨みつけていた。
「どんなに世代が変わったって、皇帝が代替わりしたって。私のお父様は、お父様しかいないのよ!」
その言葉に、思わず息を止めた。
皇帝と、皇女。立場のある私達は、普通の親子にはなり得なかったが。
冷たさと厳しさばかりがある関係だったのに。レミエーナが死んでからは、ずっと距離を取っていたのに。
エレナは、まだ、私を父と思ってくれているのか。
「っ、お父様!」
「ぐっ、」
エリザベスが投げたナイフが太ももに深々と突き刺さり、膝をつく。ズ、とそれを引き抜き立ち上がろうと顔を上げた。
その時、レオンの横をすり抜けた刺客が、自分に向けて剣を振りかぶったのが見えた。
これまでか。そう、思った時。
レミエーナと同じ、群青の美しい髪が、目の前に広がった。
「っ、エレナ!」
バン、とエレナが持っていたミニテーブルが床に叩きつけられる。ミニテーブルに頭を殴られた刺客が、頭を振りながら再び鋭い視線で顔を上げた。
――まずい。
「どけ、エレナ!」
「嫌よ!」
丸腰のエレナが、刺客に対峙した。
「我が皇帝陛下は――お父様は、殺させないわ!」
その声と同時に。
目の前の刺客が、剣を振りかぶる。
――間に合わない。
エレナに必死で手を伸ばす。大量に流した血に、目の前が霞む。
だめだ、エレナ。
私の、大切な――愛する娘。
ガキィン、という金属同士の激しい音。
流れの変わった空気に、目をみはる。
夜空のような群青の向こうに、星の川のような、美しい金糸の川が、流れるように揺らめくのが見えた。
「――本当に、お転婆だね、エレナは」
少しからかうような、しかし焦りを多分に含んだ若い声。
娘をかっさらう、娘を下町に入り浸らせた、憎き男。
でも、今日だけは。
娘をさらって行くこの男に、心の底から感謝した。
「アレク……」
「ただいま、エレナ」
ずっと、守ってきた、私の娘。でも、育ってしまった娘にはもう、私の腕の中は狭すぎるのだろう。
苦笑いをしながら、グラリと手を床につく。
レミエーナ。歳を取るのも、悪くはないぞ。
痛みと霞む視界の中、血みどろの足に立ち上がるための力を入れながら、心の中で、そう呟いた。
読んでいただいてありがとうございました!
アレクが帰ってきたあぁぁぁぁ\(^o^)/!!
「っしゃあぁぁぁぶちころせぇぇぇ!」と雄たけびを上げてくださった荒ぶる神読者様も、
「お父様ぁぁぁ(;_;)」と不器用なパパを想って下さった優しいあなたも、
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