鏡
初投稿です
普段は読むの専門です
拙い文ですがお許しください
娘の澪が帰って来なくなったのは10年前
当時、澪は中学二年生で十四歳。
私達夫婦は共働きで、 娘は鍵っ子であった。
忘れもしない10月25日
先に仕事を終えて帰った妻から、【娘が帰っていない】と私に連絡が入ったのが午後7時。
大急ぎで帰宅した私の目に入ったのは、泣きそうになりながら、娘の友人宅に電話を掛ける妻の姿だった。
聞けば、妻は6時に家に帰り着き、いつもならば食事の仕度を始めている娘を手伝おうと、台所に向かった。
その時、明かりが点いていないのを不思議に思ったという。
「澪、帰ってないの?」
台所に娘の姿はない。
澪は真面目な娘で、中学生になって自ら夕食の仕度をすると宣言して以来、サボる事も無断で遅くなる事はなかった。
この時点で妻は不安に駆られる。
急いで澪の携帯に連絡を入れるが、電話の先では電源が入っていないと繰り返すだけ。
それでもヤキモキしながら7時までは待ったのだという。
もしかしたら友達とどこかでおしゃべりしているのかも。
携帯は普段使わないから充電が切れてるだけかも。
少ししたら玄関に駆け込む様に帰るかも。
だが、暮れるのも早い秋、周囲はドンドン暗くなって行く。
澪の性格を考えると明らかにおかしな話。
耐えきれなくなった妻は私に連絡を入れると、その後澪のクラスメートに片端から電話をかけていたのだった。
「4時にマンションの前で別れた」
澪の親しい友達、亜香里ちゃんから連絡が来た時、私達は目の前が暗くなるのを感じた。
亜香里ちゃんと連絡が着いたのは、彼女が塾から帰った9時過ぎ。
「いつもと同じに4時頃に」
澪は明るく手を振ってマンションに入っていったと彼女は言う。
その言葉を聞いて私達は最寄りの警察署に駆け込んだ。
そして私達の世界は崩れ出した。
警察は速やかに動いてくれた。
家出の可能性もあるとする一方で、巡回中の警察官が各々に澪を探す様にしてくれた。
私も妻を家に待機させ、懐中電灯片手に澪を探し回った。
しかし、朝になっても澪の行方はわからない。
携帯の電波を最後に拾ったのはマンション近く基地局。
マンション入り口の防犯カメラにはスーパーの袋を下げた澪が確かに映っていた。
なのにエレベーターホールの防犯カメラには澪の姿はなかったと言う。
その距離僅か8メートル。
入り口カメラには入る姿しか写っていない。
途中にある小さな管理人室には、9時から17時はパートタイムの倉嶋さんという女性が詰めていた。
倉嶋さんは澪が挨拶して通り過ぎたと証言
警察は管理人室に鑑識を入れるが、澪につながるものは見付からなかった。
裏の非常階段につながる扉は管理人室横の奥にあり、そこに入ろうとすれば管理人室脇の防犯カメラに映り込む。
次に鑑識が入ったのは我が家であった。
暗幕を立て何かを其処らに吹き掛けて行く。
「奥さんと娘さんの関係は良好でしたか?」
眼光鋭い刑事に聞かれた時、私はショックでその場に座り込んだ。
「良好です」
言い知れぬ口惜しさを感じながら断言する。
妻と澪は仲の良い母子で、澪は仕事を続ける妻を尊敬していたと思う。
少なくとも不満を募らせてなどいなかった。
妻を疑っているのかと詰め寄る私に刑事は「可能性を潰す為にも必要な質問なんです。」と宥める様に言った。
結局、我が家からは犯罪を疑わせる様な物は出なかった。
ビラも配った、学校の友達にも聞き歩いた、どんなに手を尽くしても澪の行方はようとして知れない。
悪夢は続き、現実はどんどん辛くなって行く。
「晶紀さんか仕事を辞めないから」
貴女が家にいたら澪はちゃんと帰れた筈よ
田舎から出て来た私の母が妻を罵る。
「ちがうだろ」
母を怒鳴り付ける私を尻目に、妻の母が冷たく言った。
「尚樹さんのお給料が安いから」
辞められなかったんですよ。うちの娘ばかり責められる謂れはないでしょう。
頭から血の気が引いて行くのを感じ、呆然と妻の母の顔をみる。
両家との関係は今まで良好であった筈だった。
私の母が妻の仕事に批判めいた事を言ったのを聞いたことはなかったし、妻の母から我が家の家計について苦言を呈された事もない。
「やめて、なんてこと言うのよ」
次の瞬間、妻が自分の母親に武者振りつく。
澪が居なくなった事で、皆が抱えていた小さな不満や不審がどうしようもない形で暴かれて行く。
「よさんか、こんな時に」
両家の父達が止めに入ると妻は泣き崩れた。
そこに居る誰もが遣りきれない気持ちを抱えたまま俯くしかない。
そっと妻の肩を抱けば彼女は呟いた。
「無事でいてくれさえしたら」
妻の口から絞り出された言葉は私の心を揺さぶる。
それは私の心を言い表した言葉。
その時、不意に悟った。
悲しみと澪の無事を祈る気持ちだけが本物で発露された怒りや不満も不安を誤魔化しているに過ぎないと。
もう祈るしかなかった。
妻はこの後、鬱を発症して長く勤めた職場を辞めた。
あれほど情熱を傾けていた仕事を諦めた。
「澪が帰るといけないから」
そう言って家から出たがらなくなった。
二人きりの家は静かで、まるで水の底に沈んでいく様だ。
警察の専従捜査班が解散になる事が決まった時、澪が居なくなって4年が過ぎようとしていた。
「本当はいけないんですが」
来年定年だという刑事は私達夫婦にエレベーター前の防犯カメラ映像を見せてくれた。
澪が写っていない。と聞いていた映像には澪が写っていた。
スーパーの袋を下げて歩いてくる澪。
その姿は不意に溶ける様に消えた。
喉の奥に何が詰まって言葉が出ない。
刑事は俯き加減のまま呟いた。
「時々、わからんモノが防犯カメラに写る事があるんですよ」
私の先輩が10年程前に、やっぱりこういう風に消えた男の子が出たそうです。
刑事は言い難そうに続けた。
「...そのお子さんは?」
意を決して私は刑事に聞く。例え恐ろしい結末でも聞かずには居られなかった。
刑事は隠しから白いハンカチを出すと額を拭って話し出した。
その男の子は戻らず、何が起きたか結局分かりませんでした。
私は真っ青になって震える妻の手を握る。
刑事は続けた。
只、その先輩に専従捜査班が解散になる時、ある同僚が言ったそうです。
「前の時は無事に戻ったのにな」
私と妻は思わず刑事の顔を見た。
その同僚が言うには、その男の子が居なくなる5年程前に同じ様に消えた女の子がいて、その子は4年後、居なくなったままの姿で戻ったのだと言う。
「戻るか戻らないかは判らんです」
こんな事を言って良いかは判らないんですが、と刑事は続けた。
親は自暴自棄になっちゃアカンのです。
帰る場所を守り続けなきゃアカンのです。
お辛いでしょうが堪えて下さい。
顔を真っ赤にして絞り出されたその言葉は長く私と妻を支えた。
それから8年
私と妻はなんとか生活を立て直し、今でも同じマンションで澪を待っている。
一時期は家から出れなくなった妻も、近所に買い物位なら出掛けられる様になった。
正直、澪くらいの娘さんを見掛けると、胸が締め付けられる様な心持ちになる日もある。
だが、私達は澪の帰る場所を守りたい一心で乗り越えてきた。
ゴトンと何が落ちる音が玄関の方から聞こえた。
妻がそっちに居たなと思った私はスマートフォン片手に声を掛けた。
「大丈夫かい?」
返事がないのを不審に思い、私は玄関に続く扉を開けた。
我が家の玄関には大きな姿見が一つ設置されている。澪が小学校に上がる時、身嗜みを意識して欲しいと妻が置いたのだ。
その前で妻が固まっていた。
足元にはさっきまで持っていた大きめのマグが転がっている。
「晶紀、大丈夫か」
そう言って彼女に近付いて異常に気付く。
姿見は姿見ではなくなっていた。
姿見の前に立つの我々を写す事なく、まるで嵌め込み式の窓にでもなった様に違う景色を映し出している。
漆喰作りの壁に等間隔に並んだ石の柱、そこに立つ小さな幼子の後ろ姿。
「澪」思わず呟く。それほどその子は娘の幼い頃に似ていた。
妻の手がすがる様に私の腕を掴む。
頼りなげな細い首に少し茶見掛かった黒髪。
ゆっくりと幼女はこちらを振り向いた。
幼い子特有の林檎の頬。
額に掛かる細い髪、まだ幼い小さな口。
つぶらな瞳の色は碧。
鏡がまったく違う像を映す。そんな異常な状況においてもその子が娘でない事に私は落胆を感じる。
三歳位だろうか、幼い女の子は私達の顔を見ると、ニコリと可愛らしい笑顔を見せた。
女の子は奥に向かって何かを言っている様子だったが、私達には音は聞こえなかった。
まるでサイレント映画か防犯カメラの映像。
もう一度女の子は掌を握って奥に向かって何かを言う。
すると奥にある入り口から少年が現れた。
兄妹だろうか、年の頃は十歳位に見える。
黒っぽい褐色の髪に女の子と同じ碧の目。
欧米人とのハーフっぽい顔立ちで体格も中々いい。
妹?がニコニコ私達を見ているのとは対照的に、少年は私達に気が付くと固まった。
少年は懸命に妹を手招きするが、妹は我々に興味津々でそちらに戻ろうとはしない。
すると手余ししたのか、少年は奥に向かって何かを叫んだ。
奥から若い女性が出て来た。
昔のヨーロッパの田舎に居そうな若奥さんに見える。
「二人の母親かな」
私の呟きに腕を掴む妻の手に力が入る。
妻は震えながら鏡に向かって手を伸ばした。
「澪」
妻の口から溢れた娘の名
私は思わずその女性をマジマジと見た。
グレーの長いワンピースに生なりの長いエプロン。
長い髪を後ろに結んで上からスカーフで巻いている。
その生真面目な面持ちは妻の若い頃に似ていた。
「澪」
妻はヨロヨロと鏡に近付く。
鏡の向こうから【澪】が鏡に駆け寄って来る。
「ママ」
澪の口が大きく動く。
聞こえない声がもどかしい。
澪の顔がくしゃくしゃに歪む。手が鏡の表面を打っている。
妻が泣きながら鏡にすがり付くのをみて、自分の手が鏡に付いているに気が付く。
澪は泣きながら鏡を叩き続けていた。
妻は澪の顔の辺りを手でなぞる。
まるで硝子窓越しにしているかに、澪の手が妻の手に合わす様に重ねられた。
妻はもう言葉を発する事すら出来ずに、唯唯涙を流しながら鏡に体を預けている。
その時、鏡の中で澪が身動ぎする。
澪のワンピースの裾を、さっきの少女が泣きながら引いていた。
澪はその子を抱き上げると、私達に示す様に鏡の前に掲げた。
「・・・」
多分名前を教えているのだろう。
指が二本立てられて、その子が二歳だと教えてくれる。
「かわいいなぁ」
私は思わず言った。
澪には聞こえてはいないだろう、しかし澪は少し微笑んでうなづいた。
「お前の小さな頃に似てるよ」
澪が鏡の向こうで涙をぬぐう。
聞こえてはいない、それでも澪とのやり取りを続けたかった。
泣き笑いする澪の裾に後ろから少年が抱き付く。
澪はその子を前に出すと、自分の両親だとでも言ったのだろう。
少年は警戒しつつも小さく笑顔を見せてくれた。
「・・・・・」
澪は少年の頭に手をやって撫でる。
指を五本表した後、さらに二本示す。
片手には女の子が乗ったまましっかり澪の首に抱き付いている。
「七歳か」
予想より年若だった男の子だが、澪の年を考えると随分若くして母になっている。
鏡の向こうの時間の流れは判らないが。
「早くに結婚したのね」
妻は澪の頬の辺りに手をやった。
澪が何かを言おうとした時、すーっと澪達の窓が遠ざかった。
妻が鏡にすがり付く。
だが、無情にも向こう側は遠ざかって行く。
澪が無理やり笑顔を作ると手を振った。
私は焦った。
その時自分の手の中にある物に意識が行く。
「澪」
ゆっくりと鏡の中の澪達が消え、私と妻が呆然と見詰めている姿が鏡に写る。
夢だったのかしら
妻が呟いた。
その呟きには絶望したような暗い響きがあった。
私は手の中のスマートフォンを覗き込み、一つ息を着いて妻に見せた。
そこには澪達が確かに写っていた。
背を丸めて泣き出した妻の背を私は宥める様に撫でた。
「無事に生きてた。」
子供もいて幸せそうだった。
それだけでも
それだけでも
だが、私の痩せ我慢もそこまでだった。
「帰って来てくれ」
妻が一際激しく泣き崩れ、私達は鏡の前で抱き合って泣いた。
私達はこの時とった澪の写真を誰にも見せていない。信じて貰えるか分からないのもあるが、万が一にも
「そんなものは写ってませんよ」と言われるのが怖かったのもある。
これがたとえ夢でも醒めない夢であって欲しい。
妻は時折鏡の前に立っているが、もう一度の奇跡は未だ起きていない。
それでも私達は待っている。
ずっと待っている。
ありがとうございました